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農文協トップ主張 1990年04月

日本人の味覚は日本の技術がつくる
「味の時代」の技術改善

目次

◆水を切り細根をふやして味をよくする
◆味重視技術は多収技術のゆがみを修復する
◆味重視技術につきまとう危険
◆土そのものの品質向上の働きに依拠する
◆土の排水機能を生かし、生育管理は大胆に変える
◆日本人の味覚は日本の技術がつくる

 作物は食べものなのだから、味、食味が問題にされるのは至極もっともだといえるかもしれない。このところ消費者が味にうるさくなってきたのは確かだ。

 この味重視の消費動向は、栽培のあり方に大きなインパクトを与えている。このインパクトをどう受けとめるか、味重視の尖端をゆく果樹や野菜(果菜類)を中心に、技術の方向をさぐってみたい。

水を切り細根をふやして味をよくする

 品質・食味を考えるとき、思い浮かぶ象徴的な栽培法がある。緑健農法である。排水のよい土壌で、ハウスやマルチで雨を断ったうえで少チッソと徹底した節水管理を行ない、高糖度、高ミネラル、高ビタミンの完熟トマトや完熟ミカンをつくる緑健農法。その特徴の一つは、根の張り方にある。

 トマトやミカンを少水分でつくると、太い根がでず、細根が多くなり、さらにこまかい根や毛根がびっしりマット状に張る。緑健農法ではこれを“うまい根”とよぶ。この細かく張った根がうまい味をつくるというわけだ。

 地上部も乾燥に耐えるような姿になる。ミカンでは小ぶりでワックス層の厚い葉になり、トマトではうぶ毛のような毛が茎葉を覆う。果実は小さく、その中味は濃縮されたように甘みも濃く、糖度やビタミンなどの含量もきわめて高い。水分とチッソの肥効は大いに関連しており、節水すればチッソの吸収もおさえられ地上部の生育はしまり、果実の中味の成分は濃くなる。

 節水栽培といっても、乾燥させすぎるとダメになるから、そこには微妙なかけひきが必要になる。生育の判断など独自のカンやコツが必要で、ふつうの農家がすぐにやれる栽培法ではないと緑健農法の指導者はいう。

 さて、緑健農法が一般に成り立つやり方かどうかは別として、根まわりの排水・通気をよくし細根をふやすという考え方自体は、味重視をめざす栽培にとって基本的な課題であることは確かだ。

 高級温室メロンは排水のよい隔離ベッドでつくられ、水切りによって甘みをのせるという技術があたり前に行なわれている。ミカンでは高糖度化にむけた技術課題の重大な項目として、いかに土壌水分を減らし、余分なチッソと水分を吸収させないかが課題になっている。ボックス栽培、遮根栽培といった根域制限技術がそれである。

 またミカンでは、大きくなる果実を除き、主枝から離れた、果梗枝が細く、大きくなりにくい果実を残すというように、多収時代とは摘果の常識が変わりつつあるが、これも水分と関係している。勢いのある枝につく大きくなる果実は、水分を多く吸収し、水っぽい果実になるからだ。

 土壌の面でも地上部の管理の面でも、吸収する水分を減らし、味を濃縮することが味重視時代の技術課題だとする声はますます大きくなっている。このことをどう考えたらよいのだろうか。

味重視技術は多収技術のゆがみを修復する

 味を重視する技術には、これまでの多肥多収技術への反省という面がある。多肥で多収をねらう技術では、さまざまに品質低下が問題にされてきた。

 たとえばトマトの空洞果。チッソ過多、光合成不足で育った樹では水っぽいばかりか、空気入りの果実になる。チッソと水分過多でメロンに発酵果ができるようなやり方では、ミネラルが多い品質のよいものはとれにくい。

 果樹でも多肥、密植→強せん定というやり方では、かりに多収(隔年結果しやすいが)になっても、水っぽくてうまい果実にはならない。

 こうした反省のうえに、少水分、少チッソ、そして細根を多く張らすという味重視の栽培法がでてきたのである。

 たしかに細根が多いということと味がよいということは関係がありそうだ。高品質を売りものにするトマトの桃太郎は、従来の耐病性品種と比べて細かな根が多い細根型になっている。高糖度ミカンをとるための根域制限技術は太い根が深く張るのをとめ、細根をふやす技術でもある。省力と高糖度化をめざすリンゴやモモのわい化栽培に使われる台木もやはり細根型である。

 細かい根が多いということは、それだけ根の選択的な吸収力が高いと考えることができ、ミネラルや微量要素がよく吸収されることは充分考えられる。細根が多いことは根の表面積が多いことであるが、そうなると多様な根圏微生物が住みつき、それらが分泌するビタミンや各種の有機物が根から吸収されて品質・味をよくすることもありうる。微生物の分泌物は地上部の生育を大きくするというより、生育を小じんまりとさせ、品質の向上や耐病性の強化の方向に働くといわれている。

 多肥多収の時代には、こうした根の活力や微生物の働きが軽視されてきたのはたしかであり、そうしたこれまでの技術のゆがみを修復する過程として、味重視の技術があるということができよう。

味重視技術につきまとう危険

 だが、味重視の技術イコールチッソや水分の吸収をおさえ、中味を濃縮させる技術、と考えたばあい、新たな問題がでてくる。一つには、チッソや水分の効かせ方、かけひきをめぐるコントロール技術のむずかしさであり、そしてもう一つは樹が衰弱しやすいという問題である。

 細根型の根はそれ自体としては活力は高いものの、環境が悪かったり果実の負担が大きすぎたばあい、早く衰弱する。細根型の桃太郎は、はじめは異常茎が問題になるほど樹が強いが、果実が肥大しだすと樹は急速に成りづかれしやすい。従来の品種なら樹が疲れてもチッソとかん水で追うことで最後までもっていけたが、桃太郎はそう簡単にいかない。といってはじめからチッソや水を与えると異常茎でひどい目にあう。ここをどうするかが、桃太郎つくりの最大の課題になっている。

 ミカンの根域制限技術やリンゴなどのわい化栽培にもそうした問題がつきまとうだろう。太い根を深く張らすこれまでの栽培なら、収量の多少はあっても、樹そのものが急速に衰弱することは考えられないが、根を制限し、しかも高糖度の果実をめざすやり方は、根の消耗を早くする。細根は活力が高いと同時に、衰弱しやすいのである。しかも樹上完熟栽培のように、光合成産物をより多く果実におくり込むやり方では、光合成産物の根への分配が少なくなり、根のゆとり、つまりさまざまな環境変動に対応する力が小さくなる可能性がある。こうして、味重視の技術は、施設化や資材依存、つまり金と手間がかかり、技術がむずかしくなる方向へ進む可能性がある。味重視が栽培、経営を不安定にするおそれがある。それではどうするか。

土そのものの品質向上の働きに依拠する

 細根の活力を長く維持する方向、あるいは細根と太根の両方を張らせ、その共同の力で味と樹の維持の両者を実現する方向での栽培が求められるだろう。そこで再び土の問題がでてくる。

 緑健栽培の例をもちだすまでもなく、土にはもともと細根をふやす働きがある。土には通気性、排水性がともなっているからだ。そのことは土耕とふつうの水耕の根を比べることでわかる。トマトの試験例では、水耕の根は太い根が長く伸びるのに比べて、土耕の根は明らかに細根が多く根毛もよく張る。いつも過剰な水分を与えられている状態にある水耕に対し、土には過剰な水分を排除する力があり、それが細根をふやし、水耕とはちがった根の形態をつくるのである。

 「水を切る」というと、ひどく人為的なことのように思われがちだが、まず土そのものにそうした力があることに注目する必要がある。味重視と樹の維持の両方を満足するには、土の余分な水分を排除する力を強めることが一番の課題だ。

 雨の多い日本の畑作や果樹では、実は、その点が農家の知恵の働かせ方の重要なポイントになっていた。昔から「水田は低くかえ、畑は高くかえ」といわれている。この言葉には、地形的にまわりと比べて高所のところを畑にすることと、畑の中ほどを高くして排水を促すという両方の意味、つまり高所のところを「買え」という意味と、畑を高く「養《か》え」という意味が込められていた。畑では排水性が第一と考えられてきたのである。

 有機物利用の大きな目的の一つも排水能力の向上である。有機物は土の保水力を高めるとともに、余分な水を排除する土の働きを強める。今、根に軽い水ストレスを与え続ける有機物の品質向上効果が改めて注目されている。もっとも、そのばあいの有機物は家畜糞尿のようなチッソが多く、排水性の向上効果が少ないものではなく、植物性のものが基本になる。ナシの二十世紀の産地では、昔から、フンという名のつくものは生育をみだすので使うなといわれている。

 今、この土の排水機能は、大型機械の踏圧による硬盤の形成、あるいは化学肥料の異常蓄積などでかなり低下している。地形や排水条件を無視した作付もみられる。これらは従来の近代的栽培、技術の負の遺産といえるだろう。これの克服が、味重視の時代に改めて問われている。土の排水機能を大事にしてきたかつての技術に学びつつ、それを現代に新たな形で復活させることだ。

土の排水機能を生かし、生育管理は大胆に変える

 愛知県豊橋市の水口文夫さんは、”土中マルチ”という方法で減農薬・高品質(良食味)の野菜つくりを実現している。土中マルチとは、ウネの下の土の中へ松葉やヨシなどをまとめて入れるやり方で、根のまわりの排水をねらったものである。この効果がすばらしい。根は短いが細根が多く張り、その細根には根毛がびっしりつく。土中マルチなしの根は太い根が長く伸びているが、根毛は少なく老化も早いという。葉はカボチャもスイカもトマトも厚みがあり、毛茸が発達し、しっかりしている。病気はでにくくもちろん味もよい。トマトはパレスという品種をつくっているが、このパレスはもともと桃太郎と比べて甘味が少なく、果色もうすい品種である。ところが水口さんの土中マルチ栽培にかかると、近所のトマトベテラン農家が桃太郎とまちがえるほど品質が変身する。一事が万事で、水口さんのつくる野菜はどれもうまい。

 水口さんにいわせると、今の野菜つくりの一番の問題は根まわりの排水不良だ。とくに、機械で土を固めやすい今の農業では排水不良が減農薬と品質向上の最大のネックになっている。

 水口さんの技術は単に、人為的に水を切り味を濃縮しようというやり方ではない。細根をふやし、さらにその活力を維持する土をつくる、それは、雨の多い日本で、雨と上手につき合う伝統的な技術の現代的な復活である。

 水口さんの地域では、昔はどこの家でも麦がつくられ、そのワラは、雨が入らないように積み上げたり、麦ワラ小屋に入れたりして、大切に保管され、腐らせるようなことはなかった。そのワラは、スイカやカボチャの植え床の下に溝施用されたり、敷ワラとして利用された。それは雨の多い時期に、健康に育てる確かな知恵であった。

 水口さんのような、味と樹の維持の両方を実現できるような技術が果樹でも求められる。高糖度の追求は樹や根の衰弱を招きやすい一面があることをふまえ、それを地域の条件を生かす形で補強する技術である。

 たとえばナシでは幸水が高品質時代の主力品種になっているが、糖度の高い幸水の根は秋に多く発生・伸長する。そしてこの秋根を充分張らせ、その根に充分デンプンを貯め込むことが春の展葉を早くし、高品質を保証する。ナシに限らず高糖度果樹つくりにとって、早期展葉は不可欠である。この秋根をこれまでのように冬に深耕して切ってしまうことは、根の貯蔵養分を減らすことになり、マイナスになる。高品質技術では従来の常識が通じないことが多々ある。

 地上部の管理も、これまでの常識と変わってくる。例えば、せん定で樹をいじることより、大胆に間伐することのほうが極めて大切だ。密植=多収時代の発想のままで、糖度だけ上げようとムリをかけるのでは、必ず樹をおかしくする。樹の本数は今の半分でよいぐらいの気持で大胆に間伐を行ない、日当たりをよくすることが根を守り、本当に味のよいミカンにつながる近道である。

 それは雨が多いという気象条件のもとで、日当たりがよく排水のよい傾斜地でつくられてきた日本のミカンを、地域の条件に応じて再現することである。

日本人の味覚は日本の技術がつくる

 たしかに果物には甘味が求められてきた。砂糖のない時代、果物は甘みへの欲求を満たすうれしい食べものであった。干しがきや干しイモという加工技術は一面では、甘味を増す技術でもある。

 一方、ヨーロッパやアメリカの果樹の多くは加工用なのに対し、日本の果樹はほとんど生食用である。アメリカのブドウで生食にされるのは一割弱で半分はワイン用、あとは乾果用である。ヨーロッパでもそうだが、ワインは水が悪い土地柄で水がわりに利用するという面があった。フランスのリンゴの半分は加工用であり、その大部分はサイダーアップルという酸味のある飲みものに利用される。肉食には、酸味が求められるということだろう。

 甘いものを生食するというのは、日本的な果物とのつき合い方である。リンゴのふじやつがるといった高糖度の品種と無袋栽培といったそれをつくりこなす技術は、日本の伝統がつくりだした傑作ともいえよう。果樹ではたえず適地が問題にされるのも、甘味へのこだわりがあるからだろう。

 今日の甘みの追求も、そうした伝統に根ざしている。だがそれと、果物のうまさを高糖度だけにしぼり込むことはイコールだろうか。生食には、生きたものを食べるという含意もある。風味やみずみずしさといった、加工ではあまり問題にされない微妙な味が、生食には求められる。それは、単に水を切って味を濃縮することだけで実現するのではなく、雨との上手なつき合い方の技術をも駆使し、力のある健康な樹づくりによってもたらされる。

 そこから甘味だけではない日本独自の味わいのある果物が生まれる。コメにしてもウドンにしても、淡白な中に、微妙な味や舌ざわりを感じるといった面が日本人の味覚にはある。

 輸入サクランボは糖度は高くても、大味すぎて日本人の口に合わず、消費は伸びていない。

 さらに、日本には日本の季節性がある。冬に食べるミカンには甘みが求められるが、夏に食べるナシでは、同時にみずみずしさとシャリッとした歯ごたえが求められる。ナシでハウス栽培が普及しにくいのは、糖度は上がっても果肉が固くなりやすく、ナシ独自の食感のあるものが得られにくいからである。

 日本人の味覚を満たす果実は、結局のところやはり日本でしかできないだろう。なぜなら、その味覚そのものが、日本的果樹とのつき合いの中で形成されてきたものだから。

(農文協論説委員会)

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