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農文協トップ主張 1990年03月

地域社会に実現させよう循環する民主主義
選挙戦で「コメ自給論」の深まりを

目次

◆通用しなかった日本の「食糧安保」
◆コメ自給と世界の民主化の動き
◆世界は食糧覇権との決別を求めている
◆ガットと闘う草の根運動の正しさ
◆各地に広がる「コメ100%自給の思想」
◆地域情報の交流を

 総選挙が間近かに迫った。参院選に続いて野党が勝つか、それとも自民党が過半数をとるか――与野党とも歴史を大きく変える選挙だととらえているだろう。だが、歴史を変えるのは本来、私たち選挙民なのだ。

通用しなかった日本の「食糧安保」

 政府・自民党にとっては、この正月、のっけから不安材料が加わった。

 さきの日・米・欧・加・豪の五カ国・地域農相会議で、鹿野農相の訴えた、食糧安保論にもとづくコメ輸入制限=一〇〇%自給路線が、各国農相の批判にあい、支持を得られなかったことだ。食糧安保とは、一国の食生活の安全、国際的政治・経済変動に対する食糧の安定確保、を重視する考え方。そのために、農業を守り食糧は国内自給すべきだというのは、ほとんどの自給論者の基本的な論拠である。鹿野農相も、日本はすでに最大の食糧輸入国であり、コメだけは食糧安保の立場から一〇〇%自給を貫きたい、と強調した。

 ところが、五カ国・地域農相会議では、アメリカのヤイター農務長官をはじめ各国・地域の農相から、「食糧安保イコール食糧自給ではない」と論点をずらされてしまったのである。

 ヤイター長官は「輸入国の食糧安保の意味を理解するにしても、それは輸入制限=完全自給を意味しない」といい、ECのマクシャリー農業担当委員は「食糧安保には共感するが、それは開発途上国からの供給も含めて考えるべき」という。

 つまり、食糧安保は結構でしょう。しかし、その実現は、一〇〇%国内自給でなく、むしろ自由貿易をすすめる方向

で考えよ、というのである。

 食糧安保をめぐる、二つの路線のちがい、この落差を埋めるのは難しい。食糧安保論によっていては、コメ一〇〇%自給路線を貫けない。このことが明らかになった。

 これをとらえて日本のマスコミは、コメ自給路線はもはや風前の灯であるかのような宣伝を行なっている。「コメ完全自由化を阻む武器になるはずの食糧安保論が逆手にとられ、部分的な市場開放を促すテコになり変わった」「日本がコメの市場開放を阻む道はますます狭くなった」(「朝日」一月六日)というのが、大方の大新聞の説くところだ。

コメ自給と世界の民主化の動き

 コメ自給は、昭和五十九年に国会決議され、さらに六十三年に再決議されているわが国の基本路線である。それにコメ一〇〇%自給路線の放棄は農村の激しい怒りを呼び起こすものであるだけに、政府・与党にとって、この事態をどう切り抜けるか、どう説明するか、深刻な問題である。

「コメ輸入は絶対しません」といえば、「票集めのための一時的言いのがれ」だと、マスコミに騒ぎたてられることはハッキリしている。農家・農村は、「非現実的なコメ自給で票を売る」と批判されるだろう。

 しかし、このさい、政府・与党は、食糧安保論を離れても、愚直なまでにコメ一〇〇%自給路線に固執し、国内的にも国際的にも、総選挙前も後も、言い続けるべきだ。野党はコメ一〇〇%自給の内実を守り充実される政治運動に、より強力に取り組み、国会決議をゆるぎなきものにしていく努力が必要だ。

 コメ一〇〇%自給に固執する正しさは、世界の歴史が、そしてわが選挙民=地域社会が証明するはずだ、と私たちは思う。この根拠を説明したい。

 まず、世界の歴史が証明する、という点についてである。選挙の票で政治家の公約が動かされることは決して批判・非難されるべきとこではない。選挙民の意向をうかがって公約し、政策を打ち出し、選挙民はその政策に支えられて、自分の意向の内容を豊かなものにしていく――これこそ政治家と市民の望ましい関係=民主的政治循環というものである。

 一九八〇年代からこの九〇年代にかけて、世界はまさに、そうした民主的政治循環づくりに向かって躍動している。東欧・社会主義国の激変は、民主的政治循環を求める動きそのものである。一般にいわれる「統制・計画経済を否定し市場経済を求める」という解釈は、西側の我田引水の解釈であって、本質は、米・ソという二大覇権国家の世界支配から各国が独立し(多元的中心となり)、草の根(民衆)の意向を反映した各国の経済的自立と国内の経済的平等を実現していく動きだし、それを支える民主的政治循環を実現するための動きにほかならない。

世界は食糧覇権との決別を求めている

 そして、この大きな流れの行方を決める中心軸になるのが、ほかでもない軍備と食糧である。戦後、米・ソ二大国が覇権国家の地位を固めるにあたり、食糧と軍備が世界支配の最大の武器だった。軍備については明らかだが、食糧についていえば、アメリカはまず食糧援助という形で、次には輸出拡大=食生活のアメリカ型への転換と輸出操作という形で支配権を確立した。いっぽう、ソ連はアメリカから大量の小麦・トウモロコシを輸入してまでも、それを東欧諸国の支配の道具としてきた。

 ところが、軍備・食糧を武器にしての世界支配が成功すればするほどに、二大国の経済は破たんをきたした。当然のことであるが、その破たん回避策として、やむにやまれずの緊張緩和、マルタ会談なのである。どうしようもなく軍備は縮小せざるを得ない。こうした、二大国からの、つまりは上からの破たんがあって、さらにそれを回避する努力があるこの歴史的瞬間に、草の根(民衆)の力が、世界・各国の歴史をどのように望ましい方向に動かすかが、重大問題である。

 軍備については、大国がなお覇権主義を貫くために、従層国への分散、責任分担を強制するだろう。これをどう回避していくかが、世界史の流れにとって大きな課題となる。

 そして食糧についてはどうか。ガットでのアメリカ政府提案は、覇権国による、乱暴な破たん回避策にほかならない。その内容は、あらゆる農産物の輸入制限をやめて関税におきかえ一〇年後には関税もゼロかごく低いものとする、農産物価格支持などの国内農業政策を一〇年間で廃止する、輸出補助金を五年間で廃止する……など、農産物貿易の完全自由化を目指すものだ。日本へのコメ輸入自由化要求は、その乱暴さの“極めつき”である。

 アメリカは、穀物輸出の拡大で覇権主義を貫いてきたが、七〇年代後半になって、ECの補助金つき小麦輸出にあい、国際価格競争で劣勢に立たされた。なお輸出大国であり続けるには、多額の財政支出が必要である。だから、ECの輸出補助金をやめさせたい。量はわずかとはいえコメについてもタイのコメとの価格競争に勝てないため、世界市場を確保するには、高率の補助金をつけざるを得ない。そこで日本のコメびつをこじあけ、補助金なしでも売れる先をつくろうとのねらいだ。財政負担なき食糧輸出の持続で覇権的立場を守るという政府の意図と、食糧貿易で莫大な利益をあげる穀物メジャーや商社の利害がからんでの、ガット提案だ。

 アメリカの食糧安保論、すなわち自由貿易の拡大によってこそ可能になるという言い分は、ここから出てくる。世界の食糧への「市場原理」の導入こそが、世界の食生活の安定につながるという、この理屈に照準をあてて反対する

ことが、世界の草の根(民衆)に課せられた課題である。どこに糸口があるのだろうか。

ガットと闘う草の根運動の正しさ

 すでに本誌で明らかにしていることだが、世界の多くの農民は、アメリカ政府の動きに反対している。当のアメリカ農民自身が、「アメリカ政府提案は農家にとって“悪”である」といっているのである。最近では、昨年十月二十五日、アメリカの中小の家族農場の団体であるファーマーズ・ユニオンが、右の表題の声明文で、次のように抗議している(全中・今野正弘氏による)。

「アメリカ政府の提案は、アメリカの農家に悲惨な影響をもたらすものだ。農産物の生産と価格を直接結びつけた伝統的な農業価格支持体系を十年間で段階的に廃止しようと、政府は提案している。……この考えは輸出の改善に最大限費用をかける反面、農家の生活水準を引き下げ、土壌保全、水管理の機能に危機をもたらすものだ。この提案によって利益を得るのは穀物貿易でしかなく、……」(『地上』一月号)。

 つまり、食糧の自由貿易の拡大、市場原理の導入は、覇権国家の位置を保ち、穀物商社等の利益になるばかりで、生産者には悲惨な状況をもたらすというのである。そして、重要なのは、生産者の農場経営が立ちゆかなくなることは、土壌保全や水管理などの環境維持が困難になると訴えていることだ。農家がそこに住めなくなれば、自然環境は保全できない。

 また、アメリカの都市には、ニュープアーと呼ばれる衣食にこと欠く人びとがふえているという。農業地域の荒廃は都市の矛盾を激化させるのである。

 世界の食糧への市場原理の導入が、後進国の食糧自給をそこない、あるいは食糧輸出競争にかりたて、結果としてそれらの国の経済をゆがめ、自然環境の荒廃と食糧不安に導くことは、本誌でアメリカ・ミネソタ州の農政分析官マーク・リッチー氏が、くり返し述べてきた。

 以上のように、こと食糧については、自由貿易の拡大、市場原理の導入は、それで食糧安保が可能か否かをこえた、もっと根本的な問題をかかえている。それは、農業地域に人が住めなくなる――自然環境が保全できなくなる――都市と農村の矛盾が激化する――後進国の経済・食糧生産がゆがむ、という悪循環が拡大することである。人口、食糧、地球環境という二一世紀に向けて人類のかかえる基本課題を、暗い方向に導くものである。だからこそ、アメリカで、そして日本で、世界各地で、いまや農家と環境保護などの市民運動が一体となった、ガットへの抵抗運動がすすめられているのである。

 コメ一〇〇%自給路線を貫くことの正しさを歴史が証明すると述べたのは、このことである。食糧安保論を離れて

一〇〇%自給に固執、といったのは、一国の食糧安保などを当然包み込んだ、もっと深い二一世紀人類にとっての課題――人口、食糧、環境問題の解決に固執する、ということなのである。

各地に広がる「コメ一〇〇%自給の思想」

 コメ一〇〇%自給に固執することの正しさは、選挙民=地域社会が証明する、と初めに述べた。二一世紀人類にとっての課題といっても、それを実現し、望ましいあり方を創造していくのは、一人ひとりが生活し、生産する地域社会においてである。地域社会で民主的政治循環が実現することによって、それは初めて可能になる。

 そのカナメになるのが「コメ一〇〇%自給の思想」である。言いかえると、その地域により多くの人が農業に関連した仕事によって住み続けることができる――自然環境が保全される――食生活が充実する――都市が安定する、という連関づくりの思想である。日本を含む多くのアジア諸国は、水田を中心に、畑、山、川といった自然を生産・生活に取り込んで地域の暮らしをつくり、高い人口密度を支えてきた。だから、水田がベースになる。そうだからこその「コメ一〇〇%自給の思想」なのである(コメ輸入のミニマムアクセス論として、最低三%は入れるべきだ、といった議論がなされるが、いったん入ったらミニマムにとどまらないことは、明白だし、そんな量の問題でことを始末してはいけない)。

 いま、このコメ一〇〇%自給の思想が、各地で、選挙民によって着々と実現されつつある。

 例えば、愛媛県今治市。ここでは、一昨年三月に「食糧の安全性と安定供給体勢を確立する都市宣言」を採択し、学校給食を地元の有機・減農薬農産物による給食に変えていくのを皮切りに、市内の食べものを安全な地元産物で満たしていく事業を開始している(今治市市議・西原保房氏による、『あすの農村』一月号)。

 その宣言は、「先進諸国の中でも、我が国の食糧自給力は非常に低く、さらにその上、近時、諸外国からの農産物の市場開放要求はますます強まっている」こと、「(輸入食糧には)残留農薬は国産に比し、数十倍も含まれ、我が国民の健康を著しく害しているのが実情である」ことを深く憂慮し、「今治市は市民に安定して安全な食糧を供給するため、農畜産物の生産技術を再検討し、必要以上の農薬や化学肥料の使用を抑え、有機質による土づくりを基本とした生産技術の普及を図り……広く消費者にも理解を深め、市民の健康を守る食生活の実践を強力に推し進める」とうたいあげている。

 市議会、市役所、農業委員会、農協、医師、農家、消費者が協力しあってこの運動に取り組んでいるという。減農薬・無農薬の稲つくりに始まり、それが野菜にも及び、ま

た市民への農業生産や食生活をめぐる情報や学習活動も合わさって、「食糧の安全性と安定供給体勢の確立」が前進しているという。

 こうした、宣言と実践は、現在多くの市町村に広がろうとしている。それが市町村という基礎的自治体において進められていることがいちばん大事なことである。共通した自然がある。行政・教育が納得できるかできないかが見える。農協という実践団体がある。そして草の根(民衆)による民主的政治環境がもっともつくりやすい範囲、それが市町村。こここそが、地域の自然を生かして、人がより多く住め――環境が保全され――食生活が安定し――都市が安定する「コメ一〇〇%自給の思想」を実現する場である。

 自然も人もそれぞれの市町村で異なる。それぞれの個性にもとづき、個性的な「コメ一〇〇%自給の思想」が全国の市町村にゆきわたるとき、以上に述べたような二一世紀に向っての世界的課題の解決の方向がはっきりと見えてくる。

地域情報の交流を

 宣言を決議した今治市が、事業をすすめるための学習に招いた講師は、本誌読者にはすでにおなじみの、「減農薬の稲つくり」の宇根豊氏であり、「への字稲作で低コスト・おいしく健康なコメつくり」の井原豊氏であり、「横浜港での野積み輸入食品問題」の小川昭夫氏であり、「おコメで健康な食生活」の鈴木雅子氏などだった。いずれも、いわゆるマスコミで“健筆”をふるっている方ではない。つまり、情報について、情報の質について考え直すほかないと、今治市の人たちは感じているのである。地域づくりを支える情報は地域から発信される。

 いま、市町村など地域づくりの中に見られる人々の意向と実践が、どのように世界とつながっているかを見ることこそ、マスコミにとって必要だ。地域の動き、地域の情報で、中央情報を変えていくべき時代なのである。

『現代農業』だけがそういうことをしているというのではない。『地上』も『あすの農村』も「日本農業新聞」も、地方誌紙も、地域のそのような動き、地域情報からとらえているだろう。その地域情報を交流させ、また地域から発信し、「コメ一〇〇%自給の思想」の地域ネットワークをつくり、前進させていこう。

 ◇

 総選挙を機に、与党も野党も、国会決議事項であるコメ自給路線を再確認していただきたい。コメ自給路線の中身の充実に取り組む選挙民=地域社会=市町村の活動をどれだけ支援できるか、そのことで政党の存在意義を競い選挙戦を闘っていただきたい。地域社会には、それに呼応する気運と技術が熟してきている。

(農文協論説委員会)

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