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農文協トップ主張 1996年7月号
米産直を核に 新しい食品流通を創り出そう

 6月1日、米販売業自由化の火ぶたが切って落とされた。新食糧法に基づく米販売業の登録制への移行で量販店やコンビに、酒店などを中心にした新規参入組は店舗数で約16万軒。今までの約9万軒から25万軒前後へと3倍弱の激増だ。同じく登録制となった卸会社も既存の約280社から350社へと急増。折しも自主流通米価格形成センターでの平成7年産自主流通米の最後の入札を今月中・下旬に控え、「その仕入れの成否が自由化後の卸、小売段階の競争を左右する」との思惑も手伝い「取引先の開拓、確保を目指し、卸、小売入り乱れての陣取り合戦が既に始まっ」ており「人気銘柄米は競争率が上がり高値落札となる公算が大きいとの見方が支配的だ」(「日経」5月16日付)。
 実際、旧自由米相場に当たる業者間相対取引価格も4月以降ジリ高を続け3%前後の値上がりを見せており、この種の報道は、本誌が読者のお手もとに届く頃にはもっともっと多くなっているだろう。
 自由化による販売競争の激化がまずは仕入れ競争に現われ、人気銘柄中心とはいえ「相場」が強含んでいることは生産者サイドにとってもひとまず安心といったところだろうか。
 しかし、1寸先は闇というのが相場の世界。とりわけ食料のばあい、ちょっとした天候の変動も敏感に市況に反映し、大きく値振れするのが特徴だ。半年先はおろか、1カ月先だってわかったものではない。
 わが国では既に江戸時代。幕府公認のもと、米の先物市場ができていて、そこは米商人、業者たちのリスクヘッジの場にも投機の場にもなっていた。その中から数々の相場格言も生まれたが、「相場は相場に聞け」という言葉に象徴されるように、明日のことは本当のところ誰もわからないのである。わからないから値がつくという不思議な世界なのだが、しかしというかだからというか、当然そこには少なくない「相場巧者」が輩出し、農民や「市民」の怨念の対象になったりもした。

◆「市場」を動かすもうひとつの市場を
――経営者になった農家農協の腕のみがきどころ――

 新食糧法によって自由化された新しい米市場はどんな姿になるのだろうか。ここでは、先物市場のような投機色の強い相場はまだできてはいない。しかし、「より需給実勢を反映した価格形成の場を」という趣旨のもと、値幅制限の緩和と基準価格の頻繁な改定、取引参加者の拡大、入札回数の増大など、センターでの価格形成のしくみがより〃弾力化〃する方向に改定されたのは周知のとおりだ。そしてここには、商売にかけては海千山千、国際的な穀物先物相場でも十分な鍛練を積んできた相場巧者=巨大商社が卸や小売として取引に参入してくる。まさに半年先はおろか、1カ月先だってわかったものではない鉄火場的自由市場の世界がくり広げられる可能性が確実に強まっていくといえるだろう。そして、冒頭に紹介したような予測や憶測、見通しの報道もより頻繁に出されるようになるにちがいない。
 農家、農協は、食管廃止の時代の到来により正真正銘の「経営者」になった。「つくって出荷するだけの生産者」「集荷するだけの配送業者」から、「つくって売る経営者」に農家、農協はなった。
 この新しい時代の農家、農協は、1カ月先もアテにならない予測や見通しに振り回されるわけにはいかない。明日のことはわからない相場の見通しに一喜一憂して経営戦略を建てるわけにはいかない。食管の時代は米審のゆくえに一喜一憂し、市場流通の今日はセンターが業者間取引相場のゆくえに一喜一憂する。これでは新しい時代の新しい経営者とは言い難い。
 だからといって、相場を見通せる眼を肥やし腕をみがこうというのではない。相場を、市場を、もっと奥深いところからつき動かし、その影響力で逆に市場を規定し取り囲んでいく別の米市場、官制「共販」市場や大手業者主導の鉄火場的自由市場にかる第3の市場=産直的米流通市場を農家、農協の手で都市生活者に働きかけ創り上げていく。それが今日、新しい米流通の時代に新しい経営者となった農家、農協の仕事であり腕をみがくべきことがらなのである。
 なぜか。

◆商業資本主導の米市場のゆきつく先は

 農家、農協の手で創り上げていく産直的米流通市場が遅々として進まず、大手業者主導の新しい自由市場が米の世界を支配したとき、備蓄水準の低さが年々増加するミニマムアクセス米の圧力と相まって米の下落相場が形成される可能性は決して小さくはない。
 自主米センターでの価格形成が、全農や経済連に加え(要件つきながら)単協にも取引参加の道が開かれ、かつ地区別上場が促進されるなど売り手の細分化が進む一方で、営業で全国展開できるようになった量販店・商社系など大手小売が強い買い手として取引に参入してくる。こういう状況のもとでは、その傾向は強まりこそすれ弱まることはないと見るのが自然であろう。
 とくに注意すべきは、許可制から登録制となった卸と小売業において、その営業区域が、前者が都道府県に限られたのに対し後者が全国展開できるようになったことだ。このメリットをストレートに享受できるのは、いうまでもなく全国に張りめぐらされた巨大流通網をもつ量販店・商社系小売資本である。
 一部、自ら卸業者でもあるこれら巨大小売資本は、競合者を価格破壊で駆逐しつつ、その圧縮したマージンを自腹を切って穴埋めするのでなく、生産者や中小卸に転化すべくあらゆる術を打ってくるであろうことは想像にかたくない。そして、関係競合者を整理・駆逐したあとは、生産者には買い手市場の経済主体として、消費者には売り手市場の経済主体として立ちはだかル。そのゆきつく先は、恒常的に入ってくる輸入米をテコにした一層の価格破壊であり、輸入米をつかった国際的格上げ混米かもしれない。そのような気味のわるい、イビツな米市場が出来上がってしまう可能性も決してゼロではないのである。
 かくして農家、農協は、米を単なる商品と見、もうけの手段としかみない大手業者主導の市場とは別の市場をつくらなければならない。別の主戦場をたてて陣を構えなければならない。自らの経営を守るためにも、消費者の米市場、米流通への期待に応えるためにも、何よりも商品としての米ではなく「必要価値のおすそわけ」「都市と農村の関係性としての米需要」(本誌「主張」95・12、96・1・3月号など)を創り出すためにも、農村と都市をつなぐ第3の米市場=産直的米流通市場の創造に尽力しなければならない。

◆産直的米流通市場拡大の条件は整った

 平成6年産の米収穫量は1160万トンであり、うち農家保有米は451万トンであった。これに対し平成7年産では前者が1075万トンに対し後者が465万トンであった。全体の生産量が85万トン減ったのに農家保有米は逆に14万トンふえた勘定だ。農家の飯米・種子用は両年とも変わらず約140万トンと想定されているから、ふえた14万トンは全てその他縁故・贈答米などと産直米を含めた「計画外流通米」(新法になぞらえていえば)であり、その全生産量に占める割合は平成6年の26%から30・2%へと、3割の大台に乗せたのである。そして前述したように、備蓄水準の低さとそれに連動した政府買上量の限定をも考えれば、この「計画外流通米」はふえこそすれ減ることはきわめて考えにくい。だからこそ、自主米センターを「より需給実勢を反映した価格形成の場を」ということで取引の弾力化を打ち出しているのであり、それは、そうしなければセンターが空洞化してしまうという、主として買い手側取引参加者の懸念の現われでもあるのである。
 まさに別の主戦場、別の陣立ては着々準備されているといって過言ではない。
 だから、かんじんなことは、この増大しつつある「計画外流通米」を農家、農協がこれまた相場巧者の「場外」商人にからめとられるのでなく、いかに消費者、良心的な米屋・生協と手を組み、広げ、その量(件数)と関係の質を高めていくかにかかっている。

 およそ4半世紀前の昭和47年、福島のある農協マンは次のように語っていた。
 「農産物の流通機構は怪物ですよ。怪物のためにね、われわれ生産者は損をしている。その、損をしている分をとりもどそうということです。これは運動であり抵抗です。われわれが3000戸やそこらの消費者と直結したところで、大勢に影響なんかない。けれど、相手(流通機構)をぶちこわすのが抵抗とは限らない。相手の影響(支配)から独立する。これも抵抗じゃないですか」。
 「作るのも人間、食べるのも人間だ。食べる人を知ってはじめて、よりよい物を生産できる。食べる人には作る苦労を知ってもらいたい。品物をつなげるだけではだめなんです。人がつながって品物にも血が通う。あくまで、「いなかのおばあさんから東京の娘と孫に送ってきた」という血の通いをつらぬきたい」。(『地上』昭和4十7年4月号「福島から東京へ「ふるさと直送下呼ん――直結がもたらした人的交流』、増刊『現代農業・産直革命』「産直はいのちの自給ラインである」より再引用)。
 4半世紀前の、いささか悲壮感さえただようこの農協マン氏の産直への思いは、今、その気にさえなれば誰でも、どこからでも手がかけられる現実的なものになっている。宅配便が発達し道路網も整備され遠距離輸送や低温輸送も可能になった。農協の保管、精米、発送などの施設能力も当時よりはるかに充実しているだろう。事務や顧客管理の煩雑さもパソコンが解決してくれる。何よりも高齢化や女性化が進み、農家自身の体を健康にやさしい「小力技術」や、「おもしろ防除下呼ん(本誌「主張」の95・96年6月号など)の農法が農家・現場指導者の共同で種々開発され、そこで育まれた安全・高品質な米や野菜が消費者に働きかける強力な武器になっている。これらは、「出荷」では価値が伝わらない「産直」銘柄専売品であり、鉄火場的自由市場では「血の通い」やいのちの発現を拒否する農家と農村の分身であ。

◆農家と協同組合の新しい関係

 食管廃止で得られた売る自由は、反面売らない自由でもある。農協はこれまで、農家に対し「不正規」をタテに「正規」の出荷を呼びかけてきたがこれからはそうはいかない。農協への出荷が有利か不利かによって売る売らないが決められる。売渡し義務の廃止に伴い、農家と農協の関係は、官制共販市場のアプリオリな共同作業者から、真に自由で自発的意思に基づく、参加不参加、売る売らないが実際に自由な本来の協同関係になる。そこでの新たな「系統共販」は、物資の配給にすぎなかった官制共販、食管にあぐらをかいたモノの流れから、農家、農村から都市への「血の通い」、いのちのつらなりを届ける産直的米・農産物流通市場の創造にならなければならないだろう。それが、米を、食料農産物を、単に新たなビジネスチャンスの対象とみる商業資本と農業協同組合を分かつ決定的分水嶺である。

◆「米は産直」の理屈

 産直をことさら強調するのは、何も『現代農業』の思い込みではない。米というものの性格、属性がそうさせるのである。
 まず第1に米は、――米に限らず食料一般がそうであるが――経済学でいうところの「需要の価格弾力性」が小さい。つまり、価格が変動しても需要の増減にストレートには反映しないのである。日々命の糧である食料は、値段が上がったからといって食べないわけにはいかないし、半値になったからといって2倍食えるというものでもない。奢侈品や嗜好品的食料は別として主食たる米はとくにそうだ。トータルの需要は急変動しないのである。
 にもかかわらず他方で米、農産物には必ず農凶がつきまとう。そして農産物の中でもその影響が最も大きいのが年1回しかとれない米、穀物なのである。
 需要が価格に左右されにくく、かつ農凶が避けられない食料は、生まれながらにして価格が暴騰、暴落する条件を兼ね備えており、米はその代表選手なのである。こうした商品の市場では当然ながらリスクのヘッジの機能が求められ、先物市場の誕生につながるのだが、それは、これまた経済の自然の流れとして投機目的の売買参入を招き、価格変動はますます大きくなる。
 国民の日々いのちの糧である食料がこのように不安定では暮らしの安定はない。世界の多くの国々が食料・農業の手放しの自由市場にまかせず、政府がその公共的観点から様々な形で政策介入してきたのは、食料、とりわけ穀物というもののもっている以上の属性によるのである。
 わが日本国の食管もその公共的観点に基づく政策介入の典型例だった。しかしそれは、農家、農協の売る自由、経営の自由を奪い取っての強権的政治介入と裏腹のものとしてのそれだった。
 食管が廃止され、農家、農協への強権的政治介入がなくなった半面、むき出しの、手放しの市場原理主義がバッコする可能性が開かれた現在、食管のもっていた公共的観点を引き継ぎ発展させるのは農家、農協の名誉ある新しい仕事といえないだろうか。国が権力でなしえたことを、農家、農協はいのちのつななりを都市に届ける文化の力でやるのである。それは、大手商業資本主導の新しい自由市場においてではなく、農家、農協が創る、消費者と直結した「産直的米流通市場」において可能である。
 産直的米流通市場のすそ野を広げ定着させることができるならば、さらにそれは野菜や果物、乳肉製品など全農産物、全農産加工品を上乗せした結合的産直に発展する。あるいは前者と後者が相ともなって展開する。それが安全、現農薬、ミネラル豊富などなど地域地域、農家農家の特徴を行かした食料を都市に届ける、食品流通の全体的革新になるのである。それは、ひいては都市民の農家、農村との交流を深め、自然と地域のある暮らしの大切さを大人にも、時代を担う子どもたちにも肌で感じとってもらう貴重な契機にもなる。
 米の特性に基づく米産直は米プラスαの全食料品の流通革命を呼びおこし、農村と都市の新しい結合、農都不二の新しい社会を創り出す。日本の農業と社会は今、そのことを求め、また可能にする地点に到達している。消費者のニーズに合わせるのではない。米を直接とどけることによって、都市民の意識を変えるのである。
(農文協論説委員会)


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