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農文協トップ主張 1985年11月

これでよいのか酒造り
ドブロクつくりの原点に戻れ

目次

◆毒入りワインにみる企業体質◎有毒物の混ぜものは甘味料◎どんでん返しの安全宣言
◆これでいいのか酒造り◎添加物の多い酒(ワイン)ほど高級品◎日本酒は大丈夫か
◆酒飲みの堕落◎ワインブームの背景◎高級、甘口志向の消費者◎甘口志向は日本酒、焼酎にも
◆本来の酒造り、酒飲みに◎酒造りのルール◎地酒は地元でこそ生きる◎本物の酒を味わう◎手造りのドブロクは文化の高さの象徴

 この度の有毒ワイン騒動は、私たちの飲みものや食べものにこんなことがあってよいのかという不信と、これからの食生活は大丈夫かという不安をかきたてた。

 これはワインメーカーだけでなく、酒造り全体、いや食品産業全体のモラルを問われる事件であった。また消費者自身もこれでよいのかという多くの問題点を残した。

 本号のドブロク特集にちなんで、酒と日本人について考えてみたい。

毒入りワインにみる企業体質

●有毒物の混ぜものは甘味料

 有毒ワインが発見されたのは今年の四月、オーストリアであった。ごくふつうのワインにジエチレングリコールという毒物を混ぜると甘味とまろ味を増し、高級ワインに化ける。ジエチレングリコールというのは合成樹脂の原料となるもので、水に数パーセントまぜると不凍液になる。無色無臭で透明だからわかりにくい。これがオーストリアの白ワイン一l中に四八g入っていた。体重一kgに一gで半数の人が死ぬという毒物だから、このワイン一lを飲めば死ぬ可能性がある。二、三杯でも偏頭痛を起こす。

 その後わかったことは、西ドイツ産のものにも有毒ワインがあり、全部で七〇四銘柄が危険だということになった。一部は日本にも輸入されている。デパートや小売店の店頭から西ドイツ産、オーストリア産のワインが姿を消した。

●どんでん返しの安全宣言

 両国産のワインの原液をたるで輸入し、日本産とブレンドしているワイン工場を調査した厚生省は、八月二日「ジエチレングリコールは検出されなかった、国内産へのブレンド用はほぼ安全とみてよいようだ」と発表した。

 そして大手のワインメーカー、マンズワイン、メルシャンワイン、サントリーワインはそれぞれ安全宣言の広告を出した。

 ところが、八月二十九日から三十一日にかけてマンズワインの七銘柄から有毒物ジエチレングリコールが検出された。しかもマンズワイン社はそのまえ七月二十日すぎ、オーストリア産の疑惑のワインを混ぜた製品の回収をはじめ、安全宣言広告を出したときは一万二千七百本余りを回収し終わっていたことが明らかにされた。それも分析もしないで、知らぬ顔。つまり有毒物の混じっている疑いがあると回収しながら検査もしなかったり、逆に消費者をあざむく「安全宣言」広告を出していたわけである。

 さらにおまけがついた。九月十一日わかったことはマンズワイン社が山梨県の立入検査を見越して七月二十六日には有毒輸入バルクワインの中身を国産ワインにすりかえ、また八月二十九日には有毒反応が出た直後に輸入ワインを下水に廃棄したことだった。それも会社の重役自ら証拠隠しに当たったという。

 二重にも三重にも消費者を裏切り、企業モラルが問われる事件であった。そして行政側の監督姿勢にも疑問がもたれた。

これでいいのか酒造り

●添加物の多い酒《ワイン》ほど高級品?

 毒入りワインの元凶はオーストリア、ドイツの大手ワイン業者で、逮捕者の多くがこれに属する。もう十年も前からひそかにジエチレングリコール入りのワインが造られ、輸出されていたという。白ブドウ酒は、とろりとした甘いものが珍重される両国で、低品質のものに甘みをつけて高品質のワインに見せかけるためだ。貴腐ブドウを原料とした高級品のにせものである。だから“にせ高級品”ほど毒物が多く混入されていた。一lに最高四八g入っていたというのはそのためだ。

 日本のマンズワインでも一本三万円という「マンズエステート貴腐白磁」(一九七八)の原料酒は、国産がわずかに四・七パーセントだけで、あとの約九五パーセントはオーストリアとフランスからの輸入原料であった。この中からジエチレングリコール一・〇八〜一・六六g(一l中)が検出されたのである。輸入に頼る体質が問題だ。

 オーストリアではこのほか法律で禁止されている人工飲料や砂糖を混ぜる不正行為が五、六年前からしばしば問題になっている。今後も起こる可能性は残っているわけだ。

●日本酒は大丈夫か

 日本酒でもかつて保存料サリチル酸の毒性が問題になって昭和五十年に禁止になった例がある。その他に添加剤として残っているのは、化学合成の乳酸(発酵による乳酸ではない)、コハク酸、グルタミン酸ソーダ、硝酸カリウム、アルコール、ブドウ糖、水飴などがある。

 また日本酒でよく知られているのは、大量生産・販売している有名メーカーの桶買いである。日本のワインメーカーのブレンドと本質的には変わらない。有名銘柄のメーカーが地方の小さい酒造業者が造った酒を桶のまま買って、混ぜるわけだ。レッテルには有名銘柄しか書かれていない。それを規制する法律もない。ワインのばあいも同じだ。だから国産と輸入原料をどのくらいの率にブレンドしようと法にはふれない。ここが問題だ。

 酒造りの原産地を表示しない。ブレンドしてもかまわない。まえにあげた添加物があってもかまわない。

 それを承認している酒税行政と酒造り業界の“公然の秘密”がまかりとおっている。

 つまり、毒入りワイン事件は、日本酒でも焼酎でも起こりうることである。酒造りのモラルはどこに行ったのか。

酒飲みの堕落

●ワインブームの背景

 昭和四十五年ごろから起こったワインブームは、食生活の洋風化で肉食に合う、女性でも飲める、食卓に豊かなムードが生まれるなどという直接的な理由もあったが、何といっても大きいのは、贈りものとして現代的でしゃれた感じで高級なイメージがあったからである。レストランで洋食を食べるときの豪華な感じ、それが最近ではエスカレートして家庭でもワインを食卓にとなった。さらに高級な甘口の白ワインを贈ったり、飲んだりすることで自己満足する中流意識の女性たちが多くなったからであろう。

 マンズワインの頒布会で、毎月三千円、六カ月で「傑作ワイン十四本プラス貴腐ワイン」というような会員が十万人もいたというのはその証拠である。

 国産メーカーで、貴腐ワインの大量販売を宣伝しているメーカーも大いに責任があるが、これに乗せられた消費者にも責任がある。

●高級・甘口志向の消費者

 そもそも貴腐ワインに代表されるような甘口最高級ワインを売るほうも売るほうだが、それに群がる消費者もどうかしている。

 貴腐ワインはヨーロッパでも限られた地域で少量しかできない。乾燥地域の完熟ブドウにボトリチス・シネリアという菌が繁殖すると干しブドウのようになる。これが貴腐現象だ。この貴腐ブドウを原料とした黄色のワインが糖分の多い、香りの高い甘口ワインとなる。これは毎年できるとは限らない。さらに乾燥した貴腐果を使った最高級ワインのトロッケンは十年に一度くらいしかできないものだ。

 そんなものが日本でそうそう造れるわけがない。マンズワインは一九七一年に初めて国産の貴腐ワインをつくり、七五年にはサントリーも成功して売り出したが、専門家に言わせると、日本で貴腐ワインができるとしても一年に数百本ぐらいにすぎないという。

 それを何十万本もつくり、会員頒布するメーカー、しかもえたいが知れない輸入ワインをブレンドしたものに、麗々《れいれい》しく貴腐とか氷果葡萄吟醸という名称をつけるインチキさはどういう神経か。商業道徳上許されることだろうか。そして生半可な知識で高級志向をする消費者もまたその責任の一半を負わなければなるまい。

●甘口志向は日本酒・焼酎にも

 ワインは女性向きで甘口志向は止むをえないと思えるが、日本酒でも甘口が多くなっている。焼酎でさえ砂糖を入れた甘口がふえている(甘口の酒がなぜふえたのかについては、九八ページを参照いただきたい)。この傾向は戦後昭和二十三年ごろからしだいに強くなり、四十七年ごろまで続いた。最近はその反省もあって少し辛口の酒がふえてきたが大勢は甘口である。甘口ははじめは濃い味だが、二合以上になるとくどくて飲めなくなる。辛口は少し酸度が強い酒だがあっさりしている。これなら三合以上、あるいは二次会に行っても飲める酒だ。

 甘口を求める消費者が日本酒や焼酎に糖類を入れることを許している。ここに添加物の危険をはらむ原因がある。

 今は酒造りにも問題が多いが、飲む側も堕落したといえる。“酒は飲むべし、飲まれるべからず”と昔の人は言った。今の酒飲みの多くは、ワインメーカーや酒造業者のしかも大手メーカーの宣伝に乗せられ、酒を飲まされ、酒に飲まれているといえる。本物の味も知らずに。

本来の酒造り・酒飲みに

●酒造りのルール

 酒の神様坂口謹一郎博士によれば、「世界の歴史をみても、古い文明は必ずうるわしい酒を持つ。すぐれた文化のみが、人間の感覚を洗練し、美化し、豊富にすることができる」だから「すぐれた酒を持つ国民は進んだ文化の持主である」という。

 また、「人間は太古から手元にあるものを手当たり次第に酒にして飲みたがる『くせ』がある。日本のように米の国では米を原料とする清酒を、中国華北では粟の黄酒《ホアンチュウ》や高粱酒となる。麦しかとれない西欧はビールとかウイスキーとなる。その国の主食と酒の原料はほぼ一致するのが一般のルールである」という。

 日本には日本の酒がある。これはブドウを原料とするワインのような果汁の自然発酵とちがって、穀物の澱粉を一度糖化して、それを麹《こうじ》カビでアルコール発酵させるという人間の知恵の働きによって生まれた。「日本人が大昔から育てあげてきた一大芸術的創作であり、またこれを造る伝統的な技術は、数多くの科学上の独創をふくんでいる」。日本酒が民族の酒といわれるゆえんであり、ワインなどのように猿でもつくれる猿酒とは別のものである。

●地酒は地元でこそ生きる

 ところが日本酒も前にあげたように、大手メーカーが桶買いしてブレンドしている。これでは地酒の個性をなくして画一的なものにしてしまう。もともと地酒はその地域の米と水で、その風土の中に培われ、その土地の人が育ててきたものだ。手造りの味といってよい。それを尊重する人間が文化を向上させる。

 そもそも便利な都会にいて地酒を飲もうとすることがぜい沢だ。地酒は地元で飲むもので、それが遠い所に運ばれ、気候もちがうところに行ったら地酒の香りも味もなくなってしまう。今は東京にも各地の地酒が出まわっているが、それは本場の味ではない。東京の地酒は東京の周辺の酒蔵でつくられる酒だけである。

●本物の酒を味わう

 本物の味わいを楽しむには、教養がいる。教養とは単なる知識ではない。甘口も辛口もわからないでは本当の酒飲みではない。坂口博士はこうもいっておられる。「一人びとりの個人の場合でも、或る酒を十分に鑑賞できるということは、めいめいの教養の深さを示していると同時に、それはまた人生の大きな楽しみのひとつでもある。『食らえどもその味わいを知らず』という中国の古い諺がある。未熟ものに対する戒めの言葉であるというが、『その味わいを知る』ことのむつかしさは、わが日本の諺の場合、全く文字通りの意味で受け取らざるをえない。」昔から育まれてきた日本酒だからこそ、完全に鑑賞するには、よほどの教養が必要だというわけである。

 日本人は古くから農耕儀礼の神事の中に酒を用いていたようである。『日本書紀』にカムアダカシツヒメが「其の田(狭名田《さなだ》)の稲を以て、天甜酒《あまのたむざけ》を醸《か》みて嘗《にいなえ》す」とある。うまい濁酒《にごりざけ》をかもして、新穀でつくった酒と飯を神に供えたあとで神と共に食すという神事であった。人びとは次の豊穣と命の健やかならんことを祈るというわけだ。

 また、『魏志』倭人伝にも「喪主《そうしゅ》ハ哭泣《こくきゅう》シ、他人ハ歌舞飲酒ヲ就ス」とあり、葬儀のとき米で酒を醸し、歌舞飲酒をしたという。また「人ノ性、酒ヲ嗜《たしな》ム」と倭人が飲酒を好むことを指摘している。

 米麹は古くはカムダチと呼ばれたという。カムはカビ、ダチは立つ、したがって麹のカビが立っているさまをいう。このカムダチ利用の濁酒つくりが八岐大蛇≪やまたのおろち≫退治の神話にも出てくる。似たような言葉で、アイヌ語では、酒のことはカムイワッカ(神の水)という。神と共に飲み、酔って神に近づく。あらゆる抑制から解き放たれて、理想を求め、神の近くにある。それが酒の効用である。

●手造りのドブロクは文化の高さの象徴

 七世紀に入って、はじめて魚酒禁令が公布されている。民の酒、「濁≪にご≫れる酒」はこのころ手造りでさかんにつくられ飲まれていた証拠である。この後も豊穣を祈る行事に、田植の宴に、庭仕舞いにと、神と酒はつきもので共飲した。そのはれ食、行事食は、農文協が現在発行中の『日本の食生活全集』にくわしく、近くは昭和前期までも続いていたことがわかる。

 そしてこの民の酒づくりは、自分の土地でできた米、アワ、ヒエ、芋類を原料とし、それをかもした手造りであった。自給自足が基本である農業は、自ら計画し、作付けし、栽培し、収穫し、加工して、食べ飲み、そして明日の生産を確保するために生活する。これが人間の命と健康を支える。ドブロクの自給もその大切な一環である。生産と生活の自給は家の自立の基礎である。自ら醸≪かも≫す酒は技術を要し、その成功を通じて自信をたかめ心の自立を促す。農民の主体的行為である。

 一家の主婦が自家生産の豆、麦を使って味噌や醤油つくりをすることによって家族の生命と健康を維持するように、料理や漬物つくりにもドブロクとその粕は上手に利用されてきた。「ドブロク料理」(八六ページ)の記事をお読みいただきたい。ドブロクとその粕、地域の産物を使って、何物にもかえがたい味のある料理の数々が、主婦たちによって生み出されていた。こうしたことが主婦を一家を統≪す≫べる力をもつ刀自≪とじ≫にしてきた。女の自立である。

 まえにあげた『日本の食生活全集』のどの巻をみても、そうした主婦が、手間をかけ手造りの、その土地の味を創りだした例をみることができる。ドブロクつくりも料理つくりも、人びとを高い人格の人間形成に向かわせる。

 自家醸造を許可すれば、酒を飲みすぎる農民がふえるだろうとか、品質が劣り、衛生的にも問題があるという、その筋のご意見がある。しかし、大企業・大規模なら安心かというと、そうではないことは前にも述べたとおりである。“自分がのむ酒は自分でつくろうではないか”という庶民の声は、酒税法にたてつくためではない。本物の酒を手造りで味わうという、基本的幸福追求のためである。

 酒造りの企業モラルが地に落ち、消費者である酒飲みも堕落して、日本の酒が危機にあるからこそ、ドブロク造りをすすめるのである。酒は買わされて飲むばかりでは日本の酒文化は衰退の一途をたどる。進んだ文化の持主として、それを維持発展させるのは国民のつとめだ。そして楽しく鑑賞できる教養を身につけるためにもドブロクつくりの原点に戻ろう。

(農文協論説委員会)

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