主張
子どもたちに伝えたい
「ふるさと」は農と人びとの営みがつくる
目次
◆今年のお盆に子どもたちに伝えたいもの
◆「ふるさと」を原発災害に見舞われた人びとの「現実」と「願い」を伝える写真絵本
◆「ふるさと」から離れて見えた「ふるさと」
◆『それでも「ふるさと」』
「牛が消えた村」で種をまく―「までい」な村の仲間とともに―
「負けてられねぇ」と今日も畑に―家族とともに土と生きる―
「孫たちは帰らない」けれど―家族とともに土と生きる―
今年のお盆に子どもたちに伝えたいもの
今年も立夏をすぎ、日に日に夏の暑さが増していくころとなり、そろそろ今年のお盆のことを考えたり準備をはじめたりしているころではないだろうか。都会に出ている子どもたちや孫たちは、今年のお盆には帰ってくるのだろうか? 将来、子どもたちや孫たちが「ふるさと」に帰ってくるかどうかはわからないとしても、お盆に帰ってきたら伝えておきたいことは、少なくないのではないだろうか。
たとえば、「手が回らなくなった山沿いの畑には、荒れてしまわないように手間のかからないギンナンの木を植えたこと」「近所で耕作されずに休んでいた田んぼを、隣町の新規就農者が借りてつくるようになったこと」「集落のみんなでやっている、草刈りなどの共同作業は今も何とか続けていること」「女性部の集まりで、亡くなったおばあちゃんがよくつくってくれた麦芽あめを久しぶりにつくってみたこと」「お墓のあるお寺のお堂が台風で傷んだので、寄付を募って直したこと」……。
また、「子どもはまだ小中学校などに通っているけれど、そろそろわが家の田畑や先祖のことなど、『ふるさと』のことも少しずつ伝えていきたい」「地域の小学校や図書館などで読み聞かせのボランティアや社会人講師をやっているけど、お盆のころには先人の営みや『ふるさと』もテーマにして取り組んでみたい」という方もいるのではないだろうか。あるいは、いまも農地のなかに残る数少なくなった石の塚、道端のお地蔵さんや石碑などの由来を、この機会に集落の大先輩に聞いて、子どもたちにも伝え継ぎたいと思っている方もいらっしゃるかもしれない。
写真絵本『それでも「ふるさと」 「負けてられねぇ」と今日も畑に』より
「ふるさと」を原発災害に見舞われた人びとの「現実」と「願い」を伝える写真絵本
こうしたお盆のころに、子どもたちと「ふるさと」について話をしたり交流したりするきっかけになり、みんなで「ふるさと」について改めて考える一助となる本を紹介してみたい。発行されて1年余たつが、いま改めて大きな反響をよんでいる。それは、東日本大震災による原発災害に見舞われ、放射能に「ふるさと」を追われた福島・飯舘村(「までい」な村)の人びとの「現実」と「願い」をつぶさに伝え、静かに問いかける写真絵本『それでも「ふるさと」全3巻』である。写真絵本というと、子どもの本と思われるかもしれないが、写真と言葉を組み合わせて物語性も高めた写真絵本は、現実を写し込んだ「写真の力」とわかりやすい「言葉の力」を合わせて表現の幅を広げ、その力を高めた本ともいえ、子どもから大人まで幅広く読まれている。「いのち」や「農」や「食」、「生老病死」「看取り」といった根源的なテーマに向き合った作品も少なくない。
『それでも「ふるさと」全3巻』は典型的な写真絵本で、思いがけず今年の第66回産経児童出版文化賞大賞にも選ばれ、こどもの日に発表があったところだ。この賞は、わが国の児童文学(児童書)を対象とした賞のなかで最も総合的で伝統があり、学校・図書館関係の方々にも広く知られている。その成り立ちをみると、昭和29(1954)年の学校図書館法(戦後の復興期に100万人もの署名を集め世界に先駆けて制定され、学校図書館の設置や司書教諭の配置などが義務づけられた)の施行にあわせて、「次世代をになう子どもたちによい本を」の主旨で創設されたもので、1年間(前年1~12月)に国内で初版として発行されたすべての児童書を対象に審査が行なわれ、受賞作品(近年は8点)が決定される。第66回の今年は、4432点の中から『それでも「ふるさと」全3巻』が大賞に選ばれた。
東日本大震災による原発事故から8年、事故の風化や再稼働の動きなどもみられるなか、今一度、原発災害を記憶にとどめ、「までい」な村の人びとの声に耳を傾けてみたい。
フォトジャーナリストとして世界の紛争地やチェルノブイリ、東日本大震災後は福島・飯舘村を中心に取材を継続してきた著者の豊田直巳さんが、写真絵本に取り組んだのは、福島で、「なぜ甲状腺被ばく検査を受けているかわからない、原発事故を知らないという子どもたちが出始めている」という驚きからだった。豊田さんはこのたびの受賞インタビューで、「意識したのは、次世代にこの未曽有の災害を伝えること」「『忘れないで』という福島の人たちの声に応えることが、大きなモチベーションでした」と語る。
写真絵本『それでも「ふるさと」 「孫たちは帰らない」けれど』より
「ふるさと」から離れて見えた「ふるさと」
放射能に「ふるさと」を追われた飯舘の人びとの「現実」と「願い」を伝える『それでも「ふるさと」全3巻』は、どの巻も土と生きる飯舘の人びとが主人公になっている。
『「牛が消えた村」で種をまく』は、牛の処分を余儀なくされ、仮設住宅(仮設)に避難しながらも、「ふるさと」を守るために仲間と集落の草を刈り、ソバの種をまく酪農家。
『「負けてられねぇ」と今日も畑に』は、丹精こめた収穫直前の行者ニンニクが出荷できなくなり、仮設に暮らしながらも、避難先に畑を借りて栽培を再開する農家。
『「孫たちは帰らない」けれど』は、自然の恵みに生かされた「ふるさと」と6年にもおよぶ避難生活で「第二のふるさと」ともなった仮設との間でゆれるおばあちゃんたち。
そして、それぞれの巻では、避難による今も続く苦悩、避難先での暮らしや思い、自身と「ふるさと」の再生に向けた取り組みなどが、つぶさに淡々と描かれていく。その物語と思いのあらましは、各巻の冒頭に綴られた文(下段に掲載)に集約されているが、写真絵本から見えてくる「ふるさと」について、いくつか紹介してみよう。
■ゆたかな土のありがたさ、人びとの営みを実感
「ふるさと」の田畑にあるゆたかな土は、作物と多様な生きものを育み、水をたくわえ、美しい景観をつくるなど、永続的な暮らしや地域に欠かせないものである。しかし、放射能が降り注いだ村の田畑では、「除染」によって、肥沃な土(表土)が容赦なくはぎ取られていく。その現実に直面したとき、そこにゆたかな土があることのありがたさと、それをつくってくれた人びとの営みが改めて実感される。
村では、「除染」がいたるところで進められ、村の人たちが何代もかけて、ゆたかにしてきた田んぼの土も、はがされていきます。「汚染土」などをつめた黒い袋は、村のなかで二三〇万個にもなりました。(太字は写真絵本からの引用文、以下同)
お墓参りに一時帰宅した菅野榮子さんは、自分の集落の田畑に置かれたおびただしい数の黒い袋を見ながら、
この土と生きていくと思っていたのに……。亡くなっただんなが残してくれた、いい土は全部、あの黒い袋――フレコンバッグに、つめ込まれてしまったんだよ。もうもとには、もどらない。
とくやしさをにじませる。
■「何もしない」こわさ、「野良で仕事できる」よろこび
家族がバラバラにされ、遠くの応急仮設住宅に避難した菅野隆幸さん、益枝さん夫妻は、次のように語る。
「ここでは何もすることがないのね。コタツに入って、テレビをみて、楽だけど……」益枝さんは、苦笑いします。
その後、避難先で畑を借り、栽培を再開した隆幸さんは、
「避難中だからといって、仮設でちょっと楽をすると、もう野良で仕事をする気をなくしてしまう」
「何もしない、というのが一番、こわいんだ」
と野良で仕事できるよろこびをかみしめ、自らを鼓舞する。
■「ふるさと」は農と人びとの営みがつくる
避難した仮設住宅の暮らしが長引き、その暮らしに慣れるにつれて、近所付き合いも生まれ、友だちもでき、仮設住宅が「第二のふるさと」ともなってきたおばあちゃんたち。その一方で、春の山菜や秋のキノコなど、自然の恵みに生かされた「ふるさと」(帰りたい村)への思いもつのる。
年寄りだけでほんとうに帰れるのか、わかりません。……
村に帰っても、以前のように実りの秋を楽しみにすることもなく、よろこび合う隣近所もなく、暮らしに彩りをあたえてくれ、自然に感謝した山の恵みもいただけないのなら……。
と二つの「ふるさと」の間で心が大きくゆれる。こうした心のゆれは、「ふるさと」はただそこにあるものではなく、『「牛が消えた村」で種をまく』の冒頭の文にもあるように、そこに住む人たちが、「『までい』に田畑をたがやし、牛を飼い、村づくりを続けてきたたまもの」であることを改めて実感させてくれる。そんな実感を、写真絵本のなかからも発見しながら、子どもたちにも伝えていきたい。それが永続する暮らしや地域にもつながる。
(農文協論説委員会)
それでも「ふるさと」
「牛が消えた村」で種をまく
―「までい」な村の仲間とともに―
「日本一、美しい村」とよばれた村が、
福島県の北東部、阿武隈山地にありました。
その村「飯舘」は「までい」な村とよばれます。
「までい」とは、この地方のことばで、
「手間ひまかけて」「ていねいに」
「心をこめて」といった意味があります。
この村の美しさは、村の人たちが、
「までい」に田畑をたがやし、牛を飼い、
村づくりを続けてきたたまものでした。
乳牛50頭を飼う長谷川健一さんも、
酪農家の仕事のかたわら地域の区長として、
「美しい村」づくりを率先してきました。
その村に突然、放射性物質が降り注ぎました。
そして、村には全村避難の指示が出され、
「美しい村」は、「だれも住まない村」
「牛が消えた村」になってしまったのです。
それでも、長谷川さんは「美しい村」が、
家族や仲間とともに暮らした家や集落が、
荒れ果てていくのを、
ただ見ていることはできませんでした。
そこで、ふたたび、仲間とともに草を刈り、
畑をたがやし、種をまきはじめます。
それでも「ふるさと」
「負けてられねぇ」と今日も畑に
―家族とともに土と生きる―
アイヌの人が「キトピロ」とよんだ山の恵み、
高い香りと栄養価で知られる行者ニンニク。
その栽培に夢をかけた農家がありました。
菅野隆幸さん、益枝さん夫妻です。
種まきから収穫まで7年もかかり、
ひじょうに成長がおそい行者ニンニク。
二人は、その種を村のなかの広い畑に、
森や林のなかにもまきました。
それから7年目の春3月、菅野さんが住む
飯舘村に放射性物質が降り注ぎました。
収穫目前の行者ニンニクの畑にも。
待ちわびた収穫・出荷はできなくなり、
一家も村から避難することになりましたが、
行者ニンニク栽培はあきらめませんでした。
家族とともに土と生きてきた農家の、
百姓としての誇りがありました。
「負けてられねぇ」と秘めた誇りが……。
一家を支えた田畑も、家族の団らんも、
生まれそだった村もうばった放射能です。
でも、「誇り」まではうばえませんでした。
菅野さん夫妻は、応急仮設住宅から、
避難先に借りた畑に通いながら、
行者ニンニクの栽培を再開しました。
それでも「ふるさと」
「孫たちは帰らない」けれど
―失われた「ふるさと」を求めて―
自然の恵みゆたかな、福島県北東部の高原の村―
飯舘村から車で1時間ほど
山を下った伊達市にある仮設住宅に、
おばあちゃんたちは暮らしています。
放射能にふるさとの村を追われたのです。
村では広い敷地に何世代も住んでいましたが、
ここは村の1軒分ほどの敷地に、
約100軒もの仮設住宅が建ち並んでいます。
長屋形式で、板で仕切っただけの部屋では、
「テレビの音がうるさい」といった不満も……。
でも、仮設住宅の暮らしに慣れるにつれて、
近所付き合いも生まれ、友だちもでき、
ここは「第二のふるさと」になってきました。
その一方で、春の山菜や秋のキノコ、
一年中、いのちをつないでくれた味噌など、
自然の恵みに生かされた村、
「帰りたい村」への思いもつのります。
そして、避難から6年、避難指示は解除され、
仮設住宅から出ていく日が近づいています。
おばあちゃんたちは、いま、
「二つのふるさと」の間でゆれています。