主張

田園回帰時代に「生活工芸」を再興する

 目次
◆「自らの手で生活空間を構成する」生活工芸運動
◆工芸で増える女性の定住者
◆「農閑工芸」がつくる小さな循環、コミュニティ
◆田園回帰時代の仕事づくりに工芸の力を活かす
◆日本のむらの基層にある「軟質文化」

「自らの手で生活空間を構成する」生活工芸運動

 ①家族や隣人が車座を組んで ②身近な素材を用い ③祖父の代から伝わる技術を活かし ④生活の用から生まれるもの ⑤偽りのない本当のもの ⑥みんなの生活の中で使えるものを ⑦山村に生きる喜びの表現として ⑧真心を込めてつくり ⑨それを実生活の中で活用し ⑩自らの手で生活空間を構成する

 これは、生活工芸運動の町として知られる福島県三島町が1981(昭和56)年に制定した「生活工芸憲章」である。 

「冬は好きだ、ものづくりができるから」――生活工芸運動が始まるきっかけになった言葉だという。冬の奥会津は豪雪地帯。雪のなかで暮らす冬の12~3月の4カ月、農家にとっては、草鞋(わらじ)や蓑(みの)などの道具や衣類、荷縄や籠などの山仕事の道具など、日常に使うものをつくり、あるいは直し、準備をする季節でもあった。

 農家の冬のものづくり、単調なイメージがつきまとうかもしれないが、これこそ「山村に生きる喜びの表現」であり、「自らの手で生活空間を構成する」営みだと「憲章」は謳う。そして三島町の生活工芸運動はその後、大きな広がりをみせている。

 憲章制定から5年後の1986年には、組編み室、陶芸室、木工室、染織室を備えた三島町生活工芸館が建設され、国の伝統的工芸品にも指定されている「編み組細工」のほか、陶芸、木工、染織などの工芸品をつくる体験や研修が行なわれている。「ふるさと会津工人まつり」も開催され、昨年には31回目を迎えた。「工人」とは、自然素材を利用して生活工芸品を手づくりする人のことで、地元の工人のほか全国から選ばれた180人の工人も出店。人口1600人余りの山村に2日間でその10倍を超える2万人以上が集まる。半分はリピーターで、リピーターは同好の士も呼び込むから年々盛況だ。

 会場は、つくり手と使い手の交流の場になる。使い手の要望を受けて、つくり手が次の作品にとりかかることも多い。数十万円の値がつく作品もあり、毎年総額は驚くような金額になるという。もちろん工芸品の販売は工人の生活を支えるものでもあるが、主催者の側は「三島町の生活工芸品の原点は『暮らしの用に供する』だったことを忘れないようにしたい」という。

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工芸で増える女性の定住者

 三島町では昨年の春から、「生活工芸アカデミー」という研修生制度をスタートさせた。研修生は1年間三島町に住んで、材料の採取方法や工芸技術を教えてもらう。工人の高齢化に対応した対策でもあるが、町の活性化につなげる意図もある。12人の応募者があり、2次審査を経て、町は4人を研修生として受け入れた。空き家をシェアハウスに改造して提供し、家賃のほか電気光熱費は町が負担するが、それ以外の生活費は研修生もち。1年の研修後は工人として定住してもらい、町の活性化にもつなげられればと考えている。昨年の研修生はいずれも女性。最年長は50歳、あとは30代と20代である。

 この三島町に隣接する昭和村は、からむし織の里として知られる村だ。人口1200人余りの山村だが、日本有数のカスミソウ産地でもある。カラムシは多年草でその繊維からつくる糸は越後上布、小千谷縮の素材となる。昭和村では良質のカラムシ生産とともに、織姫研修制度で後継者を育ててきた。1年間の織姫研修を受講した女性はこれまでに113人。村内に定住した女性は31人を超え、村外で機織りに従事している人も多い。毎年7月第3週の土・日には「からむし織の里フェア」が開催され、こちらは昨年32回目を迎えた。毎年8000人ほどがやってきて、年々増える傾向にある。

「畑で育てたからむしが、たくさんの工程を経て一本の糸に、布になっていく。布になった時のほっとするような、安心感のような、どきどきのような、そんな感覚が好きです。昭和村は、現代では知ること見ること感じることができないものがたくさん詰まった場所です。昔の暮らしの知恵がまだまだいっぱい残っていて。本当にたくさんのことを村の人々から自然のなかで学んできました」――ある修了生の声である(農文協刊『食品加工総覧』第8巻「田園クラフト 製品開発の着眼点」)。

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「農閑工芸」がつくる小さな循環、コミュニティ

 農家が山の資源やイナワラ、せん定枝などの「ありもの」を活かして冬に行なうものづくりを「農閑工芸」と呼び、その魅力や現代的な価値を調査・研究している宮原克人さん(筑波大学芸術系准教授)。学生たちと一緒になって保育園から高校、地域の人々を巻き込んだ「ほうきづくり」などの活動にも取り組んでいる。

「農閑工芸」は、それほど専門性や大きな設備を必要とせず、それだけに多彩で幅が広い。農作業や暮らしに使う自給的なものづくりから、先の三島町や昭和村の取り組みのような本格的で、販売までする工芸もある。地域の草木を利用することが多いが、その利用の幅も広い。木材は建物の柱になり板になり、薄くされた材は曲げ物になる。草木から籠がつくられ、細かくした繊維は糸になり布になり衣服となる。

「草木は、建物から衣服にいたる緩やかなグラデーションを構成する。自然の造形素材は、画一化されたものではなく、それを扱う技術によって姿を変える」と宮原さん。

 そこには素材への深い理解がある。

「生産効率を求める分業制の生産現場では、素材への深い理解力の喪失とともに、ものをつくり出す喜びも失われている。そのような現代においてこそ、農閑工芸の思考が有効に働く」

 そんな農閑工芸は、そこにしかないローカル性、独自性を宿し、小さな社会で循環するものづくりゆえにコミュニティ形成を促進する力がある。

 多様な地域資源がある農村の工芸なら、組み合わせることで魅力的な空間を広げることもできる。そんな例として、宮原さんは福島県喜多方市の「Play Meal/地の食・地の器」の取り組みに注目している。

「町には台所のような酒蔵、味噌蔵、豆腐屋などがあり、町自体が厨房のようにラーメン店の湯気が立ち上る。町を囲むように田畑があり、それらを囲むソバがあり、漆の木があり笹やネマガリタケがある。食材から器まで。それらを蔵に集め、喜多方の食を創造する試みが『Play Meal/地の食・地の器』であった。

 すべてがここでつくられているという喜多方のライブ感覚を大切に、『食のクリエイティブ』を実現した。たとえば、大きな釜に水を張り、釜に合わせてつくったネマガリタケのざるに喜多方の食材を載せて蒸す。製材所で作成したカッティングボードや竹細工でつくったカトラリー、漆器を使い、味噌などをつけて食べる。そのテーブルは酒造りに使われていた桶のふた、食事の空間は酒蔵、といったように喜多方の地域資源を目に見える形にした」

 農村の工芸は地域資源を可視化する。見るものは、作品から素材やつくり方を読み解くことができ、作品を通してつくり手やその背後にある地域を感じることができる。農村の工芸は、地域のコミュニティと都市民をつなげる力を秘めている(農文協刊『食品加工総覧』第8巻「田園クラフト 加工品としての価値と製品開発」宮原克人)。

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田園回帰時代の仕事づくりに工芸の力を活かす

 そしていま、田園回帰時代の仕事づくりに、工芸がもつ力を活かしたい。そんな思いで、農文協では「生活工芸双書」(全9巻・10分冊)の発行を開始した。

 桐/漆(うるし 2分冊)/楮(こうぞ)・三椏(みつまた)/苧(からむし)/萱(かや)/竹/麻/棉/藍(発行予定順)

 いずれも草木の地域資源。各地で守り続けられてきた技術に学びながら、植物としての特徴から栽培方法、部位別の利用法(1次加工品/各種生活工芸品)まで、実際に栽培し利用するための実用書をめざした。

 企画・編集作業でつかんだことをもとに、それぞれの可能性について簡単にふれたい。

◆桐

「娘が生まれたら桐を植えよ」。キリは生長が早く15~20年すれば材として利用でき、娘の嫁入りの時に箪笥や桐下駄、米櫃を持たせるのに都合のいい木でもあった。肥沃な土地を好み身近なところで手塩にかけて育てるキリと娘の成長を重ねていたのだろう。キリの国内需要は増加傾向にあるが、多くは輸入に頼っている。しかし一方では、貴重な書画を入れる保存箱や桐箪笥、琴などは品質的に優れている国産のキリが求められる。冒頭に紹介した三島町では、毎年100本単位の植樹を行なっているという(本号291ページ「編集局ニュース」もご覧ください)。

◆漆

 2007年の日光東照宮の保存・補修に漆が多用されたのを機に、文化庁は文化財の補修・保全にあたっては国産漆、または国産漆の割合が7割以上のものを使うようにという方針を打ち出した。国産漆の需要は供給を大きく上回ることが想定されている。ウルシの代表的産地であり、本書でもその技術を紹介する岩手県二戸市浄法寺地区では、漆掻き職人を養成する講座の定数を増やしている。ウルシの実からは漆蝋が絞れるし、焙煎してコーヒーにする例もある。花は蜜源でもあり、漆ハチミツも製品化されている。

◆楮・三椏

 世界文化遺産に登録された和紙の原料となる木だが、良質のコウゾが手に入りにくくなっていて、自分でコウゾを栽培する紙漉き職人も出始めた。著者のひとり、田中求さんも、80代のベテラン栽培農家を訪ねて技術を学びながら、後継者を育成しようと奔走する一人だ。

◆萱

 萱を屋根葺きの材料に使い、夏の日よけにヨシズに編む。昭和40年代までは職人さんがたくさんいた。本書で紹介する栃木県の渡良瀬遊水地や琵琶湖畔にはまだ、春にヨシ焼きをし、冬場にヨシ刈りをしてヨシズや屋根葺きに利用する人たちがいる。近年は屋根葺き職人に若手が入ってきている。渡良瀬遊水地のヨシはシイタケ栽培の日よけとしての需要も大きいという。

◆竹

 和紙の漉き箕をつくる職人さんたちは、節間が長くて揃った竹や上下の切り口の大きさがそろった竹が、手に入りにくくなっているという。こうじ造りの人にきくと洗米のあと洗い水を切るには竹のザルがいいという。身近な生活用具に生かしてきた竹を利用する側から見直したい。

◆麻・大麻

 著者で日本大麻振興会の大森由久・芳紀さんは栃木市で大麻を栽培する専業農家。繊維利用のほか、油糧植物でもあり実は七味トウガラシの材料にもなる。厳しい環境条件でも発芽生育し、生長が早いからすぐに利用できる。「大麻は人類が生きていくための命の糧ともいえるような植物だった」と大森さんはいう。大相撲の横綱の綱や神社の注連縄にも大麻が使われる。最近は野州麻紙として生活小物やランプシェードなどにしているが、国内外のホテルから内装インテリアの素材としてトータルに活用したいという要望もあり、結構忙しい。

◆棉

 かつてのワタの産地、兵庫県加古川市ではワタ栽培を復活させる動きがある。名づけて「カコガワ・コットン」。市の事業名は「放棄田を利用した綿人づくり」。市民が参加する「綿人ワークショップ」では、定植、収穫、糸紡ぎ、リースやフラワーアレンジメントも経験できる。参加者が収穫したコットンボールは、新米と交換というおまけつきだ。こうして生産した地元綿は地元の紡績工場や靴下工場で加古川綿100%の靴下になる。

◆藍

 明治初年に外国人たちが「ジャパンブルー」と呼んだ藍染め。徳島県の「阿波藍」の産地では、地域おこし協力隊や脱サラ組の若い人たちが藍師に修業に入り、染物屋をはじめた。「畑で葉を育てて色をつくる」というプロセスに惹かれ藍栽培から染めの委託までこなしている。

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日本のむらの基層にある「軟質文化」

 草木など自然資源を簡易な道具で細工し活用する。そんな日本の伝統を民俗学者の宮本常一は「軟質文化」とよび、それが日本のむらの基層をなしているとした。

「日本の村構造の基本において、たいへん柔軟なものを持っておったということがわかります。その柔軟なものを持っておったことが、日常生活のなかにそのまま出てきて、自分らの手でできるものは自分らでつくり上げていくという、いわゆる自給社会が成立していた。自給社会というものはそういう柔軟な社会の環境がないと出てこないものなのです。誰かに統一せられている社会では、むしろその逆のものが生まれてきます」

「日本の民俗技術のなかで、師匠というものを別に持たないで、しかもたいして刃物を持たないでつくり出せる産物が非常に多くあった。その技術はいつでも、そこに住んでおる人たちが共有することができた。(中略)そういうものを抱え込んで、日本の村は発達していったのだと思います」

 むらには「そこにある技術をみんなが共有できるというシステム」があり、日本人の器用さはここから来ているという宮本常一、こんな言葉も残している。

「器用であればあるほどじつはわれわれ一人ひとりの生活というものが、闘争から遠ざかっておったのだということがわかってきます」(農文協刊『宮本常一講演選集』1「民衆の生活文化」)

(農文協論説委員会)

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