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農文協トップ主張 2008年9月号

暮らしのモノサシで世界をみる、世界をむすぶ
「食」から見たグローバリズムの軋轢と抗い

目次
◆人類の課題を「アフリカ」と「コメ」から考える
◆都市への人口集中のなかで増えるコメの消費
◆世界各地の食が表現する「軋轢と抗い」
◆スペインのパエリア、食育、直売所
◆イタリア―都市と農村の相互関係が生んだ地方の食
◆市場原理に代わる、暮らしのモノサシで世界の地域農業を創造する

人類の課題を「アフリカ」と「コメ」から考える

 食料の価格高騰は低所得国に大きな打撃を与え、20以上の国で暴動やデモが起きるなど社会不安が広がっている。そんななか、7月に開催された洞爺湖サミットでは、アフリカの食料生産倍増に向けた支援や食料輸出規制の撤廃、G8各国の備蓄体制の整備を盛り込んだ食料問題に関する特別文書が採択された。

「先進国」が「発展途上国」にむけて食料援助や技術支援を行なうことは大事なことではある。しかし、「発展途上国」の苦難は、かつて「先進国」が進めた植民地化に端を発しており、現代ではアメリカを中心に「先進国」が強力に進めるグローバル化が「途上国」の庶民に大きな苦難をもたらしていることを忘れてはならない。

 グローバル化は世界を均一な市場とみる徹底した「市場原理主義」によって推進される。先月号の主張「『食料危機』―日本の農家・農村に求められること」では、庶民が暮らしのなかで築いてきたモノサシを奪うことに「市場原理主義」の本質があり、奪うことによって「市場原理」は世界を貫徹する、と述べた。世界を覆う市場原理のもと、人口―食料―資源・エネルギー―環境という人類史的な課題が相互に結びついていっそう解決不能な様相をみせている。

 この難問が人間の生存そのものを脅かし、世界の矛盾の集中点としてたち現れている地域がアフリカである。極度の貧困と飢餓、森林伐採と水問題、HIV(エイズ)・結核・マラリア等の保健問題、それに教育問題など、事態は深刻である。日本が海外から金で食料を買い漁ることで、苦しむのもアフリカの民衆である。このアフリカを市場原理、世界市場化の最後のフロンティアとみるグローバリゼーションとは反対に、「暮らしのモノサシ」で考えてみたい。

「暮らし」を最もよく表現しているのは「食」である。食は地域の自然と人間の関わりを映し出すとともに、侵略、戦争、経済、宗教などに大きく影響され、さらに現代ではグローバリゼーションの波にさらされ続けている。農文協刊行の『世界の食文化』(今年秋の「フランス」をもって全20巻が完結する)は、食を通して世界の地域の歴史と今を描こうとする全集だが、このなかの「アフリカ」(小川了著・第11巻巻)の食、とくにコメに焦点を当てながら、アフリカに象徴される人類史的な課題を考えてみたい。人類史的な課題を解決する根本的な視座は食と農の文化(地域ごとの暮らしのモノサシ)の再評価にある。

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都市への人口集中のなかで増えるコメの消費

 アフリカはいま、もっとも人口増加率が高い地域である。アフリカに住む諸民族の人々8億5千万人。なかでも、とりわけサハラ砂漠から南の南アフリカ共和国を除く47カ国(いわゆるブラックアフリカ)では、人口7億人の60%におよぶ人々が一日1ドル以下の生活をしていると言われる。

 この最貧国を多く抱えるアフリカのコメの輸入量は世界全体の25%を占めている。コメはムギ類、トウモロコシと異なり家畜飼料に回されることはなく、しかも、簡単な調理法で人口を養うことができる。アフリカの多くの国や所得水準の低いアジアの国々では、人口増加と経済成長に比例してコメの消費量が増え、一方、米国・欧州・豪州などでは健康志向の高まりに対応してコメの消費が増えている。

 アフリカ大陸の西端の国・セネガルでも今、コメが大量に食べられている。

「セネガルの都市部の人々が米を食べるようになったのは一九世紀末に植民地化されてからであり、それも第二次大戦後、急激にその傾向を強めている。米はすでに精米された状態で輸入され、販売されるので、それを食べるほうは料理さえすればよい。伝統的な雑穀食に比べると、自分たちで臼、杵で搗くという作業をしないでよいという利点があることになる。米を食べる人々はセネガル以外の地域でも、今後ますます増えていくと予想される」(前掲『世界の食文化』第11巻「アフリカ」より。以下同様)

 第二次大戦後、当時のフランス植民地行政府による都市産業化政策によってセネガルでは急激な都市化が進み、2004年には、人口1100万人のうち首都ダカールの都市圏に240万人の人々が集中している。そして、都市部では、農村部の主食である雑穀よりも、外部から導入された米食が大半を占めている。

 一方、セネガルでは輸出用の落花生栽培を強力に推進してきた。1960年の独立当時、労働人口の87%が落花生栽培に従事し、耕作面積の半分が落花生で占められていた。この落花生のプランテーション農業も、フランス植民地行政府が導入したものである。そして都市では、落花生油をたっぷり使った米飯が定着していった。

「それにしても、油の量は多く、米飯が油できらきらと光っているというより、飯の粒と粒の間に油が充満している。これがダカール人にとってはとてもおいしいご飯なのだ」

 セネガルでは、宗主国の都合で農業が植民地型単作農業に変えられ、そしてまた、安い労働力を都市部で大量に確保するために安くて、共働きができる簡便な食料として米食が広められた。都市への人口集中のなかで、異常なスピードで進む農と食、都市と農村の乖離。都市の食を農の文化が支え、農村の農業を都市の食文化が支えるという、国内で相互に働きかけ合う関係がつくられないままに、今また、グローバル化の波に洗われているのである。

 植民地化とグローバル化が相乗的に「途上国」の都市と農村を的・破局的な関係に変えている。

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世界各地の食が表現する「軋轢と抗い」

 植民地化、グローバル化に翻弄される「食」、しかしそれでも人間は食の文化を創造していく。伝統的な食も、変容しながら息づいてもいる。セネガルでも伝統的な雑穀食が消え去ったわけではない。

「(都市部では)雑穀よりも外部世界から導入された米食が大勢を占めるという事実はある。しかし、都市部でも雑穀食が結構好まれているのも事実だし、他方で、地方部に暮らす人々も米食依存の度合いをますます強めて来てもいる。都市部の人が雑穀食を完全に放棄してしまわないのは、彼らが古くから食べてきた雑穀食のあり方に都会独特の手が加えられ、洗練されて、よりおいしく食べられるようになり、米食の日々の合い間に食べると、とてもおいしいものとして認識されているからだろう」

 伝統的な雑穀食に比べて新しいコメでも、多彩な米料理が生まれている。セネガルの米料理には、「ベンナ・チン(一つ鍋)」と「ニャーリ・チン(二つ鍋)」があるという。

「一つ鍋料理の場合、一つの鍋の中で魚にせよ、肉にせよ、野菜などと共に煮込み、それらの具が煮えたところで、一度それらを取り出し、その煮汁の中に米を入れて炊く。したがって鍋が一つあれば料理できることになる。米は当然ながら、煮汁に溶け込んだ魚や野菜などのうまみを充分に吸い込んだものになる。

 二つ鍋料理の場合は一つの鍋では米を炊く。日本でのように白いご飯を炊くわけである。それに、もう一つの鍋を用いて作る肉や野菜の入ったソースをかけて食べることになる」

 一方、90年代に入る頃から家庭での油の使用量は目に見えて減ってきている、という。

「新聞などでさかんに過度の油の摂取は健康に害があることが報じられた。実のところ、セネガル人、特に都会に暮らす人の中には相当に肥満が目立つ人が多い。その肥満に油が関わっていることが言われ、また肥満は『富の象徴』などと言えるものではなく、健康に害があることが強調されたのである」

 慢性的な食料不足の中で、肥満を「富の象徴」とみるような「モノサシ」に代わる、新しい暮らしのモノサシが生まれつつあるようだ。

 植民地化やグローバリズムに翻弄されながらも、そのなかで生存と楽しみを実現しようと人々は工夫を重ねていく。世界各地の食は、そんな「せめぎあい」「軋轢と抗い」を表現している。セネガルのなかで例外的に雨が多い南部のカザマンス地方では古くから稲作が行なわれてきたが、最近では増える米需要を自国で賄おうと、後述するような新しい米生産の動きも起きている。

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スペインのパエリア、食育、直売所

 コメは世界の多くの国で食べられ、地域ごとに食と農の調和した文化を形成してきた。そのため、貿易にまわされる量は少ない。コメは自給的な穀物なのである。

 キューバなど中南米の米食は植民地時代にスペイン人によって導入された。そのスペインでは、地中海沿岸のバレンシア地方で古くから稲作が行なわれていて、コメと野菜、カタツムリ、鶏肉などを鉄の鍋に入れてつくったパエリアが食べられてきた。それは、地域を問わず階層間を超える「国民料理」であった。

 米料理が「国民料理」として根づくスペインでは、日常の食、地域的な食、伝統的な食をまもる学校の取り組みや地域での食材の調達システムが息づいている(同全集 第14巻「スペイン」立石博高著より。以下同様)。

「2000年11月のある小学校の給食メニューだが、月曜日から金曜日までの4週間の料理をみると、こうした家庭料理が、学校給食の献立にも定番のものとして入っていることが分かる。昔からコシードは家庭料理の定番なのだが、共稼ぎ世帯が一般的な現状ではあまり作られなくなってきている。パスタやハンバーガーの味に慣れてしまった子どもたちに、学校給食として伝統的な料理を味わわせるのは大切なことだと考えられている」

 直売所も盛んだ。

「常設の売り場のほかに、昔のフェリア(定期市)のように、曜日を決めて近隣の農家がじかに野菜類を持ち込んで『青空市』で売ることだ。ここサンティアゴでは、木曜日と土曜日がそうした日となっていて、木箱のベンチに腰掛けて『安いよ!』と声を上げる農家の女性たちの数は、110人にのぼる」

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イタリア―都市と農村の相互関係が生んだ地方の食

 スローフードの国イタリアでは、「近代になって、米は民衆食としての地位を確立する。わけてもロンバルディア、ピエモンテ、ヴェネトなど北部では、リゾットとして、またはズッパに入れてしばしば食卓に上った。今では、野菜、魚介、肉、内臓など、何でも受け入れるリゾットはイタリア中で食べられる国民食になっている」(同全集第15巻「イタリア」池上俊一著より。以下同様)

 ところで、このイタリアには「カンパニリズモ」という言葉がある。「イタリア流お国自慢」という意味で、長い間統一国家ができず、地方ごとのまとまりで生活が成り立っていたイタリアのそれぞれの地方の住民は、「おらが郷土が一番だ」、という熱烈な愛郷心をもっていた。

「このカンパニリズモの有力な要素として、食・料理が動員されてきたことは容易に想像できよう。わが地方のポレンタが一番、いや、わが町のマッケローニに優る食べ物はない、この豆料理を食べてみてくれ、サラミといえば、わが村を措いては語れない……などなど、郷土料理やそこで昔から作られていた加工品への思い入れは、現在でも弱まることなく住民たちの胸に宿っている」

 そして、この地方意識の形成には都市と農村の相互関係があったという。

「都市は、もとはといえば、農村経済のベースの上に浮かんでいて、農民たちがたえず出入りし、生活に必要なモノをもたらした。しかも、都市の中には、かつては大きく緑野が食い込んでその版図を広げていた。こうした都市の市壁は、自然と文化の障壁とはならずに、むしろ浸透膜のように養分の相互流入を可能にしていた。だから農民と都市民、民衆とエリートはたがいに差異化を求める、というよりも、ひそかに模倣し合っていたのであり、食の世界においては、とりわけそうであった」

「イタリア料理のすぐれた特徴は、それが多様性に富むほど、工夫が凝らされるほど、おのずと地方間の融合が進み、と同時に社会的にも諸階級の『出会いの場』となることである」

 こうして地域ごとのモノサシがつくられてきたのである。このイタリアの経験は、グローバリズムがもたらす都市と農村の対立を克服するうえで、大変示唆的である。農村と都市の連携によって「食文化」を形成し、地域をつくる。「地域の創造」こそ、グローバリズムがもたらす人類史的な困難を打開する道であろう。 

 日本ではすでに産直や直売という形で農家と地域住民・都市民の新しい結びつきが広がっている。「鳴子の米プロジェクト」のように、自分たちのモノサシで中山間の稲作農家を守る米価を設定し、地域のコメと米文化を支える取り組みが注目を集め、あるいは生協パルシステムのように事前予約前金システムで消費者が買い支える「100万人の食づくり運動」もある。

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市場原理に代わる、暮らしのモノサシで世界の地域農業を創造する

 話をアフリカとコメにもどそう。今、西アフリカでは、増える米需要を支えるため「ネリカ米」による増産の取り組みが進められている。

 洞爺湖サミットでのアフリカ七カ国を交えた拡大会合で福田首相は、、コメ生産倍増など総額11億ドルに上る食料・農業分野の支援を表明した。その目玉になっているのが、日本/UNDP(国連開発計画)のパートナーシップによって推進されるネリカ米プロジェクトである。

「ネリカ米」は、西アフリカ稲開発協会が、病気・乾燥に強いアフリカ稲と高収量のアジア稲を交雑した品種で、陸稲ネリカと水稲ネリカそれぞれ数十系統が選抜されている。ネリカとはNew Rice for Africaの略称で、収量が多く、しかも虫害や干害に強い品種とされ、西アフリカでは強い期待とともに注目を浴びている。だが、その栽培に必要な肥料代などの農業資材を農家が負担できないなど、課題も多い。

 ネリカ米プロジェクト・灌漑事業を成功させるための留意事項として九項目が挙げられている。それを一言でいえば、農民の立場に立った開発とは何か、それをどう普及するかである。

 日本の農家の経験に従えば、新しい資材や技術の導入に当たって重要なことは、自然・人間・社会の三つの視点から資材や技術を検証し、この三つの有機的連関性のなかで判断することである。

「自然視点」は作物や地域の自然を生かし、自然を破壊しないことである。農家の創意工夫の源である自給を壊すもの、健康を損なうもの、労働の充足感をそぐものは、「人間視点」からみて失格である。まして高い資材を必要とし、身の丈に合わない、自前でメンテナンスもできない技術は「社会視点」からみれば経済的な収奪を強めるものである。

 自然・人間・社会のよい循環を地域において創り出す。先進国の援助も、市場原理主義によるモノカルチャー的、工業的農業を促進するものであってはならない。世界の家族農業を守ることが、農と食が結びついた地域を創造する要である。

 自然・人間・社会という3つのモノサシ、そして農と食が結びついた暮らしのモノサシにもとづく世界の地域の農業の創造が人類を救う。

 我々自身もまた、暮らしのモノサシを取り戻さなければならない。

(論説委員会)

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