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農文協トップ主張 2004年12月号

なつかしい未来へ
「家産の原理」で子や孫も暮らしていける地域をつくる

目次
◆地域ぐるみの「昔の公式」への転換
◆住民みんなの「村産」でもある「家産」
◆いったんなくした「村産」をみんなで復活
◆経済学・経営学ではなく「家産の原理」が地域をまもる

地域ぐるみの「昔の公式」への転換

 本誌の読者の方で、もし昭和59年(1984年)10月号を保管している方がおられたら、その「主張」のページを広げてみていただきたい。そこには「『金もうけ』しようとするから『貧乏』する」と題された、こんな書き出しの「主張」が展開されている。

――今の世の人は「作物が必要とする肥料分」を計算して過不足がないように施肥する。昔の人は「土を肥やすために」施肥した。今の世の人は、収入から経費を差し引いた「所得」をふやすために農業を営む。昔の人はとれた作物を手数をかけて加工し、料理し、貯蔵して暮らしを立て、少しでも「家産」をふやすために農業を営んだ。今の世の人と昔の人と、どちらが正しいのかを今月は考えてみたい。

 その主張を要約すると――昭和30年代ころからの「今の世」の考えでは、収入から支出を差し引いた残りが所得であり、所得をふやすことが「農業経営」の基本だと誰もが信じているが、少し昔の昭和20年代くらいまで農家は農業の目的を暮らしを立て「家産」をふやすことが「農家経営」の基本であると考えていた。これからは(1)収入―支出=所得(収入増をめざす段階)という「今の公式」から、(2)収入―支出=所得(支出減をめざす段階)、つまり売り上げは伸びなくてもコストを抑えて所得を確保する段階を経て、(3)家産+家族労働力=家産増という「昔の公式」に転換することが、「農家経営の現在の課題」に応える道であり、結果として金を残すことにもなるというものである。

 ひと言で言えば「家産論」というべきこの主張が「家産」の典型として挙げていたのは「土」である。「収入をふやす」ために畑に単一の作物をつくり、肥料や農薬を多投すれば、一時的に所得は上がるがしだいに地力は衰え(家産の減)、それとともに所得も減っていく。これを品目の組み合わせや肥料や農薬を減らすことで、しだいに「支出を減らす」方向に軌道修正し、だんだん「土がよくなる」(家産の増)農家経営の数千年来の正しい公式に転換することが現在の課題だと述べていた。さらに家産は土だけではなく、「家畜も家産だし、果樹も山林も家産だ。土地と同じに考えてみてほしい」と付記されていた。

 要するに家産とは、農村空間において農家の暮らしを成り立たせていた有形無形のあらゆる「もの」や「こと」であり、家産+家族労働力とは、田畑や山や川や海に「あるもの」を家族みんなで生かすことでもある。

 さらにこの主張は、家産+家族労働力=家産増という「昔の公式」に転換することが、「『自然と人間の矛盾』という今日の社会的諸問題を解決してゆく根本的な道である」とし、「それが現代社会における農耕の価値であり、意味である。そこから工業について、商業について考えるとき人類にとっての明るい未来を現実に構築する道が拓かれる」とまで述べていた。

 しかし、この主張が掲載された20年前は、バブルの絶頂期に向けて、商業や建設業、観光業、不動産業、金融業など、あらゆる業種の景気は上昇し続けていたが、農業だけは孤立感・閉塞感のなかにあり、財界・マスコミのなかには「日本農業不要論」さえ飛び交っていた時期である。農業の「昔の公式」への転換から「工業について、商業について考える」などと言っても、農家以外は誰も見向きもしなかった。

 だが、20年後の今日の地域を見わたしていただきたい。建設業は公共事業の激減に苦しみ、中心商店街には空き店舗が目立ち、温泉旅館やホテルには閑古鳥が鳴いている。農業もたしかに楽ではないが、他業種との比較で見れば、地域における農業の存在感はかつてないほど大きくなっている。これは、この20年間、農業においては「昔の公式」への転換がはかられてきたからではないだろうか。

 農文協ではこのほど、全国を覆う不況・沈滞ムードをよそに光り輝くほどの元気を放つ地域を集め、『なつかしい未来へ――農村空間をデザインし直す』(「増刊現代農業」11月号)として発行した。「なつかしい未来」とは、すなわち「昔の公式」への転換、である。それも農業のみの転換ではない。そうした地域に共通するのは、商業や建設業、観光業など、あらゆる業種を含めた地域ぐるみの「昔の公式」への転換である。そのいくつかを紹介したい。

住民みんなの「村産」でもある「家産」

 奥会津の山間部、標高約690mの旧街道筋にある大内宿(福島県下郷町)。茅葺きの民家が街道の両側に近接して並び、50戸(約200人)が1カ所にまとまってむらを形成。側溝を山清水が流れ、その水を打ち水する街道は土のまま。この景観を求めて、年間70万人以上もの観光客が訪れる。家々のほとんどが農業とともにみやげもの屋やそば屋、民宿などを営んでいて、大内以外の下郷町内の農家から全体で常時70人の女性を雇用している。ひと昔前まで森と雪に埋もれていた小さな寒村が、茅葺き屋根という「家産」を生かし、大きな雇用を生み出す「暖村」に生まれ変わった。

 大内の人気を支える基盤は、連綿と続く「結い」である。農作業の結いは機械化で姿を消したが、年に4回行なう共有林の手入れ、あるいは思い思いが手料理を一品ずつ持ち寄る5月の観音様祭などまだ多くの共同奉仕が健在。

 なかでも平成10年に結成された「大内結いの会」の活動は、茅葺き屋根の保全になくてはならない存在だ。結成の中心になったのは吉村徳男さん(53歳)。平成9年まで役場の農林課に勤めていたが、結いで行なう茅葺き屋根の葺き替え作業を指揮する親方の高齢化と、その技術を継ぐ若手がいないことに危機感を抱き、25年勤めた役場を辞めて親方に弟子入りし、「茅葺きと農業だけでは食べていけないので」そば屋を開いた。「結いの会」会員は30〜40代の若手を中心に17人。毎春2軒ほど行なう葺き替えや補修の際には、50〜60人の住民とともに共同作業に参加する。共有林の管理は19〜37歳の19人が主力メンバーの「青年会」が担当。毎年4回みんなで山に入り、下草刈り、枝打ち、間伐作業を行なう。このときに出たスギの間伐材100本余りは皮をむいて丸太にし、数本つなげて茅葺き作業用の足場「アルキ」として使う。2年前には共有林で生長した大木4本を伐採。これを1年寝かせて乾燥させ、神社の鳥居を建て直した。青年会の会長は土建業を営む佐藤幸二さん(37歳)で、自宅は夫人と母親が郷土食をつくって出す食事処になっている。

 「青年会は山守のほか、主な祭りも運営します。冬なら20年近く続けている雪祭りのとき、神社でおこした神火をむらに持ち運ぶ。それが各家の前にこしらえた雪灯籠の火種になります。主力メンバーの年齢層が若いのは、長男のUターン率が高いから。都会に出ても数年で戻ってくる。この地方の企業に勤務先を見つけ、土日は自宅のみやげもの屋を手伝うケースも多いのです」

 大内では、集落の50戸全戸が「土地・家屋を売らない、貸さない、壊さない」という住民憲章を守っている。茅葺きの民家は家産でもあるが、集落全体の景観をかたちづくる「村産」でもある。その村産があって、むらがある。「個人の財産だから」と勝手に処分はできないのである。

いったんなくした「村産」をみんなで復活

 大内宿のように、もとからあった村産を生かし、「村産+村の労働力=村産の増」という「昔の公式」への転換を実現させたむらもあれば、いったんなくした「村産」を、住民みんなで取り戻したむらもある。

 下北半島、青森県大畑町では、公共事業でつくられたコンクリートの消波ブロックを解体し、自然石に置き換えるという全国でも画期的な試みが行なわれた。

 きっかけは10年前に同町で開催された「イカの文化フォーラム」。大畑町のイカの水揚げ高は60数億円に達した時期もあり、加工用イカの出荷が全国シェアの半分を占めるほどだった。しかし、1970年代をピークに水揚げ高は下降線を描き、現在は約20億円。フォーラムを呼びかけた角本孝夫さん(52歳・旅館業)が語る。

 「それでもイカが町の経済を支えているという状況は変わりない。でもこれからどうなるかは分からない。イカは回遊魚。ある年を境にパッタリこなくなることもあるかもしれない。市況や自然の状況にふり回されすぎる。そんなイカに頼ったこの町が本当に豊かと言えるのでしょうか?」

 そんな角本さんの問いかけが「フォーラム」の出発点だった。役場職員、銀行員などの仲間11人と実行委員会を設立、イカにまつわる歴史の掘り起こしから作業を始めた。分かったことは、大畑町でも以前はイワシやマグロ漁も行なわれていたが、加工出荷が可能なイカはリスクも低く、町の漁業がイカに専業化していったことだった。イカ漁の船の数が増え、同時に漁船の大型化がすすんだ。町を東西に貫く川の河口に漁港があったが、船が収まりきれなくなり、漁港の拡張が始まった。堅牢な堤防が築かれ、海岸はコンクリートで埋め尽くされた。

 「漁船が大型化して漁港が大きくなるとともに、イカの水揚げ高も増えた。でも、なくなったものもある。それは磯です」

 角本さんが子どものころは、磯には岩ノリやワカメ、コンブなどの海藻が付着し、海藻類を食べるアワビやウニ、小魚が集まっていた。ちょっと潜ればトロ箱がいっぱいになるほどウニも採れた。

 「磯があることで自然の循環が保たれていたんです。磯に出れば晩のおかずが調達できる。当時はそんな暮らしが当たり前でした」

 その磯場が消えていった。

 「イカを採れば儲かる。儲かるから船を大きくする。港も大きくする。でも同時にコストもかかる。だからさらに規模を拡大する。その結果が磯の破壊です」

 そして4年前、同町の木野部海岸で、地域の住民が主体となって、コンクリートの消波ブロックを解体し、磯場を再生させる試みが行なわれた。集落から離れたところに造られた消波ブロックは公共事業の象徴のような「コンクリートの塊」で、ブロックの内側の磯場に砂が堆積し、ウニやアワビ、ノリなどが採れなくなってしまっていた。

 角本さんたちが考えたのは、コンクリートの消波ブロックを解体して、自然石に置き換え、磯場を再生することだった。波を防ぐだけでなく、生活の糧も稼ぐことができる磯場、漁港としてだけでなく漁場としても活用できる漁港を造るということだった。その技術的な背景は、漁師たちの暮らしの知恵だった。

 「磯場というのは自然にできたものではなく、漁師が山から石を持ってきて、人工的に造り上げたもの。石にも、藻が生える石と生えない石とがある。漁師はそれを『生き石』『死に石』と呼んで見分ける知恵ももっていた」

 工事の3カ月後、早くも木野部の磯場は海藻で覆われた。木野部で漁業を営む榊裕行さん(60歳)が語る。

 「最初は岩ノリ。つぎにワカメ。9月になるとコンブも採れるようになりました。最近ではヒジキもポツポツとつくようになりました。ウニやタコ、小魚の姿も確認できます。誰よりも喜んでいるのはおばちゃんたちですね。岩ノリが最初についたときは総出で収穫を楽しんでいました」

 大畑の人たちは磯のことを「海の畑」と呼ぶ。磯の再生で海の畑をめぐる自給の暮らしが戻ってきた。高齢化が進む漁師たちにとっても磯は貴重な漁場だと榊さんは言う。

 「磯物を狙う根つき漁業は小さな船を操りながら船上から海藻類を採ります。ですから高齢の人でも続けることができる。木野部地区はとくに高齢化がすすんでいますからイカ漁から根つきに移行する人が増えてくるでしょう」

経済学・経営学ではなく「家産の原理」が地域をまもる

 「収入―支出=所得」の経済学に「地域」は存在しない。たとえば松下電器産業の平成16年度の国内新卒採用者数は、事務系80人、技術系270人の計350人。これに対し、中国での大卒の現地採用者数は技術系を中心に450人。生産の効率性のためだけならば、企業は地域どころか、もはや日本に立地する必然性すら存在しない。

 これに対し、地域に暮らし続けるための原理は「家産の原理」である。たとえば、年間約400万人の観光客がやってきて、うち約100万人が宿泊し、その60%強がリピーターという人口1万1500人のまち、大分県湯布院町の観光を30年にわたってリードしてきた中谷健太郎さん(70歳・旅館業)はこう語る。

 「大学の経済学では『労働力はなるべく少量にとどめ、最小の人件費で最大の効果を上げるようにするものだ』と教わりました。ところが、地方の旅館ではまったく逆をやらざるをえない。『この企業の中には土地の人たちの能力がたくさんあります。そして空間はゆったりしています』ということにしなきゃいけない。うちの場合は土地が約1万坪ありますから、ある程度ゆったりしている。でもお客様を旅館の外に案内するとき『外はもっとゆったりですよ』と言いたいから、親しい農家の人たちと契約して、そこの田畑で育つ米や野菜を買い上げ続けて、田園空間を保全する努力を重ねてきました。村の人たちのいろんな能力を集めるためには、多くの人を集めなければなりません。だから、何人の村人を養っていけるかで企業の力がはかられるのであって、『何人まで人数を縮小してやっているか』という経営学とはまったく別の話になってきます。村の、つまり地域の経済にとって大切なのは、その地域の経営体が何人の人の能力を支え続けていけるかです。その人の家庭を、あるいはその人の田んぼを支えていけるかということです。じゃあ、うちは何人の人を雇っていけるか? 5人より10人、10人より30人、30人より50人と、頑張って頑張ってやってきて、いま100人を雇えるところまできました」

 『なつかしい未来へ』には、農水省東北農政局からこの7月に発行された報告書「地域に生きる」の一部が抜粋されて掲載されている。「地域に生きる」は、同局が開催してきた東北農政懇談会で、農業や食品加工業など、さまざまな分野で地域づくりを担う人びとの意見や議論をとりまとめたもので、そこには「地域という業態」という新しい概念が提示されている。

 「高度経済成長期の各産業は、業種ごとに区分され、それぞれ川上、川中、川下が分業体制を取っていた。例えば、農業の分野でいえば、川上の生産地は作る専門、川中の流通は運ぶ専門、川下の小売りは売る専門であった。そして、生産地は自分が作った農産物が誰の口に入っているのかも知らず、小売りはいかに安く仕入れるかということしか考えていなかった。同じ食料供給という分野にかかわっていながら、それぞれの間の信頼関係は乏しく、場合によっては、『対立』の関係すらあったのである。また、『護送船団』という言葉に象徴されるように、各業種ごとに業界団体が存在し、中央と地方とは、中央が企画を行い、地方はその実行のみを行うという中央集権的な関係で結ばれていた。その中で、地方は中央に頼らなければ生きられないという他律的な構造に陥ってしまった。さらに、各業種間には、『縦割り』という大きな壁が存在していた。同じ地域の中に暮らしていながら、農業団体と商工会、温泉組合などの間には、相互の交流関係は乏しかった。そして、それぞれに『我が業界をめぐる情勢は厳しい』と頭を抱えていた。『地域という業態』は、このような『対立』『他律』『悲観』という構造から脱却し、『共生』『自律』『楽観』という構造に切り替わろうという考えである。すなわち、これまでバラバラだった、農業、建設業、観光業などの地域の中のさまざまな業種がお見合いをし、相互に信頼関係で結びつき、それぞれ持っている知恵や情報、販路などを交換・共有することで、地域の内側から渦の広がっていく産業構造を作ろうという考えである」

 言い換えれば、高度成長期以降、地域のそれぞれの業種の「専業化」と、その「業種の壁」のなかでの「収入―支出=所得」という経済合理の追求が、それぞれの頑張りにもかかわらず、いや頑張りのゆえに、かえって地域を暮らしにくいものにしてきたのではないだろうか。また、業種縦割り中央集権構造によって地域は分断され、多くの「村産」の価値が見失われてきたのではないだろうか。

 ここで紹介した大内宿、大畑町、湯布院の例がそうであるように、『なつかしい未来へ』に登場する地域は、「業種の壁」を越えて、「村産+村の労働力=村産の増」の原理で、みんなが「村産」を見直し、生かしている地域である。そこには、子や孫たちが未来も暮らし続けていくことのできる「むら」がある。

(農文協論説委員会)