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農文協トップ主張 1991年11月

時間と空間の関係を変換すると農業と、地域の大切さが見えてくる
時間の空間化、空間の時間化

目次

◆世の中は経済合理主義のワクをはみ出した
◆工業は時間を横並べにする
◆農業は空間を積み重ねる
◆市場経済と非市場経済の交差するところ
◆民主主義が多様化するのが国際化時代

世の中は経済合理主義のワクをはみ出した

 敗戦このかた、日本における農本主義は、現実から全く浮き上がった観念的ロマン主義にすぎないと嘲笑されつづけてきた。嘲笑したのは、主に、思想的には近代主義者、現実的には経済合理主義者である。

 だが、今やその経済合理主義が、現実から浮き上がった観念論として嘲笑されざるを得ない状況に立ち至った。

 しかし、そのことは嘲笑する(批判する)主体が農本主義者であって、半世紀を経て両者が攻守の所を変えたというような単純な構図ではない。いま経済合理主義が批判されざるを得ないのは、論理的帰結というようなことでなく、状況の新展開によってである。

 批判には物質的基礎があるのである。

 環境問題は、市民レベルでも、各国の政策レベルでも、国際機関レベルでも、従来の経済合理主義では制御しがたいものであるということが認識され、すでに経済合理を超えた行動がとられつつある。

 医療の世界では、技術の進歩による診療と治療の「高度化」がすすみ、それは臓器の移植をも可能としてきたが、脳死判定の問題については、科学、合理の世界ではなく、とりわけ倫理の問題として論ぜざるを得なくなっている。

 食物の世界での安全性の問題や、環境維持あるいは過剰生産の問題への方策として西欧では農業の粗放化(収量減の肯定)が論じられている。

 教育の産業化――教材産業の隆盛と学校経営の産業化という二つの意味をもつ――に対する児童・生徒からの直接のリアクションの問題も、いまや管理システムをあれこれといじる域を越えて、教育行動そのものを見直すことなしには解決不可能のものになってきた。

 医療、生産と消費、教育などの分野で、経済合理主義とは異なる手法の開発が求められ、市民レベルでのさまざまな試みが草の根的に至るところで行われるようになった。

 こうした状況の展開がすなわち、経済合理主義批判の物質的基礎である。世の中は経済的合理からどんどんはみ出して動いているのだ。

 だが、そうだからといって、経済合理主義に代わるべきものとして、にわかに倫理、道徳、などの心情をもってするわけにはいかない。農本主義もまた心情的なものにとどまる限り、新しい展望を切り開く力にはなりえない。「農本主義と経済合理主義が、半世紀後に攻守所を変えたのではない」とはそういう意味である。

 いま必要なことは、経済合理主義とは異なった論理を、さまざまな草の根的行動のなかから抽象していくことなのだが、この場合、経済合理主義の生みの親である工業の資本主義的展開とは別の世界である、農耕の世界とはなにかを問いつめていくことがぜひとも必要なことになる。(なお、社会主義の形態――国家管理の計画経済――をとって工業化が行なわれた国々についてはどうかといえば、この場合も農業生産システムの破たんを重要な要因として体制の崩壊にまで至っているのだから、同様に、工業とは異質の農耕の世界についての考察は必須ということになる。)

工業は時間を横並べにする

 経済人類学者の玉城哲氏(一九八三年没)は、その死の間際に私的な研究会で、まだ未熟だがとことわった上で、「時間の空間化」という概念を用いて工業と農業の異質性を論じた。

 時間の空間化というのはこういうことだ。

 たとえばスポーツの世界でのように、〇.〇一秒まで争われる短い時間がある。また、地球の歴史のばあいのように何億年という長い時間がある。さらには宇宙を考えるばあいのように何光年という単位で計られる時間がある。だが、私たちは、一時間とか一月とか一年とかの単位で暮らしていて、それが人間の生活時間というものでもある。そんな幅のとり方のちがいはあっても、時間は時間で、一分の六〇倍が一時間、一光年といえども一分の単位に直すことができる。

 このような時間、いわば時の流れを自然時間、あるいは絶対時間と呼んでみる。こういう時間を人間は内部化する(人間の活動のなかにとりこんで流れを自然とは別の流れに変える)。自然時間を内部化するのだから、自然を内部化するといってもいい。

 そうなると、ものごとを絶対時間で考えているだけではまにあわなくなる。最後にはまた、絶対時間に戻らなくてはいけないけれど、内部化された時間をモノサシにしないと考えにくいことが出てきてしまうのだ。それはたとえば次のようなことである。

 いま、自動車は、エンジンはエンジン、車輪は車輪、台車は台車、ボディはボディで、別々につくられる。エンジンをつくること自体数百の部品を別々につくる。となると、一台の自動車は時系列(自然時間の流れ)でつくられるのではなくて、恐らく数千を超える部品の製造の、別々の場所での同時進行によってつくられる。自然時間を輪切りにして横並びにするといってもいい。これが時間の空間化ということである。分業ということを一層抽象化してとらえてみたのである。

 では農業のばあい、時間は空間化できるのだろうか。その前に、農業は自然を内部化できるか?という問題がある。

 それはできる。むしろそれは農業の得意とするところである。栽培とか飼育とかは自然を内部化していることに他ならない。

 ところが、この自然の内部化が農業のばあいは時間の空間化にはならない。そこが問題の核心になる。

農業は空間を積み重ねる

 自然の植物や動物(人間と関係なく、勝手に生きている植物や動物)を作物や家畜とする。それが人間による自然の内部化だが、工業のばあいそれがそのまま時間の空間化をひき出すのに、農業のばあいはそうはいかない。植物や動物が作物や家畜になっても、生長に一定の絶対時間が必要であることを変えるわけにはいかないのである。生長に一定の時間が必要であることこそ、生物の特性である。その特性を抹消することはできない。

 苗代でイネのモミが生長しているあいだに田を耕し代かきして田植えの準備をすることはできる。それを一人でやるのではなく分業してやることはできる。育った苗を田に植える。ここまでは、自動車の部品を同時進行でつくる(時間を空間化する)ことに似ている。だが決定的なちがいは、自動車なら、部品を組み立てることで完成するが、イネは苗を田に植えたことでコメになるのではない。生物が生長するのに必要な絶対時間がなければコメにはならない。

 バイオテクノロジーにしても時間を空間化するわけではない。受精卵移植の技術は良質牛の大量生産を可能にするが、子宮に着床させた受精卵が子牛となるまでの絶対時間が必要であって、部品を組み立てることで完成する技術は生物生産にはありえないのである。

 時間を並列させてしまうという意味での空間化は、生物産業では成立しない。そして絶対時間の流れが必要だということは時間の空間化ができないということである。

 だが逆に、農業は空間を時間化する。どういう意味か?

 それは過去に投下された労働が現在に生きているということである。祖父の代に開墾された畑が、父の丹精によっていま、肥沃な耕地として存在している。そのばあい、祖父や父の空間は、つまり過去は、肥沃な耕地として現在と同時存在している。

 あるいは、六〇年後の伐採を予測して山に杉を植える。このばあい、現在という空間は未来という絶対時間を経てやってくる空間と、同時存在している。過去と現在と、あるいは現在と未来の同時存在――これこそ農業における空間の時間化である。

 そこで一つの結論――。

 工業は時間を並列させることによって時間を空間化し、農業は空間を積み重ねることによって空間を時間化する。

市場経済と非市場経済の交差するところ

 経済合理主義とは市場経済を至上とみる考え方である。市場経済とはオカネで暮らしを成り立たせるしくみだ。市場経済の世界では時間を並列させることで生産の能率を上げることが最も合理的である。

 だが、農林業では空間を積み重ねる(時間を蓄積するといってもいい)ことが最も合理的なのである。過去と現在を併存させる。現在と未来を併存させる。これは市場経済にはなじまない。非市場経済の世界である。

 市場経済の世界がオカネで暮らしを成り立たせるしくみならば、非市場経済の世界とは、オカネだけで暮らしが成り立つわけではない世界――ということになる。

 一人の山持ちが六〇年先の未来のためにいまスギの苗を植える。その苗を購入するとしたら、それは市場経済とかかわっているが、苗を植えることがなんらかの報酬をともなわないのであればそれは非市場経済の世界である。いわば無償の行為となる。

 また、市町村が市町村の予算で山に木を植えたとする。植える山林労働者がその労働の対価として労賃を受けとったとする。その限りでは市町村と労働者とは市場経済の世界にある。しかし、市町村の予算の出どころは市町村民であるから、市町村民と市の関係は市場経済の世界にあるのではない。無償の行為、非市場経済の世界である。

 村役が村のために無報酬で働いたとき、それは非市場経済の世界である。わずかの謝礼を得ても、その労働に費やした時間を他の労働にあてたばあいとくらべて話にならない額である以上、それは市場経済のラチ外のことである。

 農業も生産物を販売する場面で市場経済の世界に入っている。生産の場面でも、資材を購入するという形で市場経済の世界にかかわる。しかし生産に直接投入する労働、田んぼで田植機を押す労働は、他者(経営者)のためにやって賃金を得るための労働ではない。イネのためといってもよいし、経営者としての自分のためにやっているのである(ある経済学派はこのことを「労働力の自己利用」といっている)。この場に則していえば時間の蓄積のための行為であって直接、市場経済にはかかわらない。

 かくのごとく、地域社会とは市場経済と非市場経済が交差して(網の目のように織られて)成り立つ社会である。このような社会では契約よりは信用が、権利よりは相互の扶助が、日常の暮らしを律することになる。

 市場経済を至上とする経済合理主義、市場経済だけで社会が成り立つとする立論はいまや破たんした。

 環境、医療、教育の問題に、それが先鋭的に現われている。問題を解くカギは農耕の営みの原理である空間の時間化にこそひそんでいる。

民主主義が多様化するのが国際化時代

 以上は工業生産と農業生産というものの原理のちがいを論じたものであって、どちらがよいというものではない。しかし、地域社会――人々が日常を過ごす場所――が二つの原理の交差として成り立っているのに、それを市場経済だけで論じようとするのは観念論になる。

 日常の暮らしが成り立つ場所が地域である。地域の社会システムと巨大化された疑似社会(都市とか国家とか国際社会とか)の社会システムもまた自ずから異質のものである。

 巨大社会では管理のシステムが複雑多岐に輻輳する。これもまた時間の空間化である。時間を輪切りにして横並びにすることによって空間としての管理システムができあがるのである。

 権利はよく義務の対語とされ、個人はこの両者をバランスよく保つことで市民となるなどという立論があって、これが民主主義の要諦などといわれるが、ちがう。権利は、管理があるから必要になるものである。管理社会において、個々人には管理から脱出する権利はないが、よりよく管理される権利は保たれている。その権利を保証されずに管理されるのであれば、闘うほかはない。それが近代における民主主義である。

 一方、地域社会では、空間の時間化がシステムの原理となる。地域という空間を永続的に持続させて時間化する。そのためには、人々が相互に扶助し、一方でシステムのルールを義務として守らなければならない。管理が原理となるのではなく、自立が原理となっている。扶助と義務という二つの支柱で成り立つ自立、それが地域社会というものの存在様式である。時として義務が個人を“抑圧”することもありうることを留保した民主主義である。

 国際化時代を迎えたという。さしあたり、国家を超えたこの巨大社会は、市場経済の社会として姿を現わした。しかし巨大社会が地域社会を消しさるものではない。生物としての人間の営みは常に地域で行なわれる。そしてそこではいつも市場経済と非市場経済が交差しているのである。

 国際化時代の巨大社会もまもなく、市場経済社会としてだけ存在することはできなくなる。なぜなら、地球規模の環境問題の発生が非市場経済の導入を余儀なくさせるからである。しかしより大きい要因は、世界は民主主義についての一元的な理解を共有するわけにはいかなくなっているところにある。

 西欧的民主主義は個人と個人とを神のもとで平等としている。これはいわば契約の社会であって、時間の空間化によくなじむ原理である。一方、アジアの民主主義は個々人は自然のもとで平等であるとする。空間の時間化によくなじむ原理である。

 民主主義の原理も、多様であってよい。この多様性は地域社会の市場経済と非市場経済の交差が、また工業の原理と農業の原理の異質性こそが保証するものである。一方が他方を制覇すれば、それは地域社会であれ国際化社会であれ、人間存在としての社会の存立を危うくすることを意味する。

 地域社会にあって農業を守るということの意味はかくのごとく重い。

(農文協論説委員会)

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