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農文協トップ主張 1990年12月

手本のない時代には過去を読む
江戸時代をふりかえることのすすめ

目次

◆まっくら闇の江戸時代?
◆江戸時代の人と自然を知る
◆あっと驚く発見のかずかず◎農家お母さん5人づれが30泊31日の大観光旅行をした話(神奈川)◎杉の生えない山を2段林仕立てで見事な山林にした話(千葉)◎木曽の森林には留山という資源保護の制度があった(長野)

 農文協ではいま、『江戸時代 人づくり風土記』という全集を出版している。全五〇巻で都道府県ごとに一巻をあてている。『江戸時代 人づくり風土記・秋田』『江戸時代 人づくり風土記・岩手』『江戸時代 人づくり風土記・福島』といった具合である。現在、上記三県のほか、茨城、栃木、千葉、神奈川、新潟、福井、長野、静岡、京都、岡山、高知、福岡、長崎、熊本の一七府県分が発行されている。

まっくら闇の江戸時代?

 この全集の編集をしていて、つくづく感じることがある。

 江戸時代は封建的な時代だときめつけたとたんに、この時代は暗黒の時代のようにみえてきて、「百姓は生かさぬように殺さぬように」という政策のもとで、人々は「真綿で首を締め」られながらひっそりと、かろうじて生き延びてきたように思ってしまう。ところが事実はまるで正反対で、人々は活気にあふれて生き、創意工夫にみち、ときによく遊び、総じていえば、日本という国のことを考えるよりも、自分の住む郷をこよなく愛して暮らしていたのである。

「日本国中を回って、花の都京都、花の江戸、大阪、名古屋をみても、生まれ故郷の津軽よりよいところはない。また、津軽のなかを回って、御城下弘前や鯵ケ沢港の賑いをみても、自分の生まれた在所がいちばんよい」。

 これは青森県津軽の農家、中村喜時という人が、江戸時代半ば(一七七六年)に書いた『耕作噺』という農書の書き出しである。「生まれ在所がいちばんよい」というのだが、すぐつづけて、

「我等が在所も人の見ば、かくやあらんと産宮の、講を催し御酒捧げ、所繁昌安全の、願いの外は他念なく、講会ごとに田や畑の、耕作咄しの外はなく、思い思いを噺すなり」

 とある。生まれたところがいちばんよいと誰もが思っているのだから、他所の人からみれば、私の好きなこの生地も、劣ったところにみえるだろう。それで一向かまわない。私たちは産土《うぶすな》神に在所の繁昌と安全を祈り、あとはみんなで集まって、田畑の作りや暮らしのことを、思い思いに語り合い、助け合って生きている。どこの人たちもそうして暮らしているから、争うこともなくそれぞれの地が栄えていく。――ということになる。

 これは、いまのことばでいえば村おこしであり、地域主義であり、草の根民主主義ということになる。

 (『耕作噺』は農文協の『日本農書全集』第一巻に所収。前半の引用は現代語訳、後半の引用は原文)

 いったい誰が江戸時代を封建社会だと定義して、暗黒時代というブラックボックスにとじこめてしまったのだろうか。それは明治維新という革命を担った人たち、そして日本の近代化を推し進めようとした人たちだ。革命をやろうという人たちは、まず、過去の歴史を否定しなければならない。こうした歴史の見方は、やがて皇国史観というものにまとまっていき、日本が海外に戦争をしかける上での思想的な武器になっていく。

 戦争に敗けて、日本は民主主義の国として再建されることになる。このときももちろん、過去を否定する積極的な勢力があった。ところが、この勢力は、これから育て上げるべき日本の民主主義の手本を、日本の内部に求めずにアメリカという外部に求めたのである。封建時代といわれる江戸時代に、日本的な民主主義があった――などといったらたちまち嘲笑されたのが戦後民主主義の時代であった。江戸時代はあいかわらずブラックボックスの中にある。

 だが、敗戦から半世紀近くを経た現在はどうだろう。ある学者はこういっている。

「江戸時代は封建社会である、という一言ほど、歴史を読む者を誤らせる言葉はない」(注1)

 そしてもう一人の学者はこういっている。

「日本の近世(江戸時代)は近代であった」「織田信長の亡くなったぐらいから日本の近代化は着々と進んでいた」(注2)

 さらに、もう一人の学者はいう。

「明治以降の日本は、いわゆる西洋先進国をお手本にして、それにできるだけ追いつくというかたちで政治、経済、文化を運営してきたわけです」「つまり、前にひとつのお手本があった」。ところが現在の日本には「お手本がなくなった。日本より先に進んでいる、というようなところがなくなったわけで、これを追っかければ安全だと思っていたものが追っかけられない、そういう時代になってきているわけです」「ではどうするかというと、やはり人間というのは、いろんなものから学ぶ以外に手はないわけ、われわれの先に進んでいる人のお手本がお手本にならんということでしたら、どこか人間社会の過去のなかからひとつの海図を見出す以外に手がないということになる」。「そういう観点からいきますと、私は江戸時代がいちばんおもしろい――といったら少し変わった表現ですが――役に立つんだと考えております」(注3)

江戸時代の人と自然を知る

 というわけで、農文協は『江戸時代 人づくり風土記』全五〇巻の刊行にふみきったのだが、編集する上でいちばん心がけているのは、これを単なる歴史書にはしないということである。年代を追って、社会の変遷を記述し、その変遷の必然を理由づけた歴史書(通史)はたくさんある。そういう本を出そうというのではない。先ほど引用した学者のことばを借りれば「人間社会の過去のなかからひとつの海図を見出す」ような本にしたいということである。だから書名は「江戸時代 人づくりの歴史」ではなくて「風土記」なのである。

 では、なぜ「人づくり」なのか。それは、何に役立つ海図を求めるかということなので、いわば海図の書き方にかかわるわけである。私たちは、現代の日本での“人づくり”に役立つような海図として、この全集を編集している。

 いま、人と自然の関係、そして人と人の関係がたいへん乱れている。では、江戸時代に人と自然、人と人の関係はどんなふうだったのだろうか。それを知ることで、現代の人材の育成に役立てたいというわけだ。

 江戸時代の前半は開田の時代で、生産基盤が急速に整備され、以後日本の自然利用の原型ができあがった時代である(この時代を昭和三十五年以来の高度経済成長期になぞらえる学者もある)。そして後半の時代(元禄以後)は地方物産の発掘、技術の開発、それにともなう商業・工業の発達の時代で、先ほどの学者の言を引用すれば「日本の近代化が着々と進んだ」時代である。

 こうした成長とらん熟のなかで、人は自然とどういう関係をきり結びながら暮らし、育っていたのかを知ろうというわけである。

 そういうねらいなのでこの『江戸時代 人づくり風土記』は、つぎのように構成されている。

 (1)地域の自然を生かして生き、ときには政治の圧力と闘った「自治と助け合い」の章。

 (2)地域経済の安定・発展を願う先人の努力を描く「生業の振興と継承」の章。

 (3)世界的にみてトップレベルだと評価される教育や、それと表裏一体の関係にあった娯楽のあり方を見る「地域社会の教育システム」の章。

 (4)家族と家業の安定・永続をはかることがとりもなおさず子育てであった時代の「子育てと家庭経営の知恵」の章。

 (5)全国の社会・文化の情勢をいち早くとらえ、地域の交流、学芸・産業の発展や、社会改革運動を担った「地域おこしに尽した先駆者」の章。

 人物や産物、慣習や行事、事件や地域に即した四〇〜五〇のテーマがこの五つの章にふりわけられて記述されている。歴史を勉強するのではなく、江戸時代の人々や自然に、さまざまな角度から触れ合ってみようというのである。そうすることで、明日の社会をどう生きるかのヒントを手にできたら、これは楽しい読書ということになる。

あっと驚く発見のかずかず

 江戸時代が封建で、切棄て御免の世の中だったという教育を受けた編集者自身、執筆者から送られてくる原稿に目を通すたびに、あっと驚く発見があって、興味つきない。それにつけても、執筆をお願いしている各地の郷土史家の方々の詳細きわまるご研究には頭がさがる。これらの方々は皇国史観などまどわされずに、ただひたすら史実を求めて研究し、『耕作噺』の著者のように、在所「郷土」の人と自然をこよなく愛して暮らしておられるのであろう。

 さて、あっと驚く発見のかずかずから、ほんの少しだが書き抜いてみよう。

 農家のお母さん五人づれが三〇泊三一日の大観光旅行をした話(神奈川)

 幕府が一六四九年に出した慶安の御触書という文書があって、これは農民の暮らしをことこまかに規制したものだ。その一項に「大茶を飲み、物まいり遊山好きする女房は離別すべし」とある。ところが、神奈川県淵野辺の養蚕農家の主婦五人が、一カ月もの長旅をした記録が残っている。寺社参詣を名目にした大観光旅行で、天保十四年(一八四三年)の春のことだ。在所の淵野辺を北上してまず秩父巡礼をはじめる。三十四番所を巡りつくしてこんどはなんと長野の善光寺に詣で、帰途にはまた足をのばして日光の東照宮に至る。

 この話を紹介した相模原市立図書館の長田かな子さんは「その体力、精神力のたくましさもさることながら、農閑期とはいえ、かくも長き不在と、かなりの出費を許される彼女たちの、家庭内での重い存在をうかがい知ることができます」と結んでいる。

 江戸時代の庶民は、働くことも働くが、大いに余暇もたのしんでいたわけで、同じ神奈川県の大山は信仰の山として名高いが、じつは江戸庶民の恰好の観光地でもあった。信仰の対象である阿夫利神社には御師《おし》という僧侶が一五〇人ほどもいて、江戸八百八丁のすみずみまで立入って大山講を組織していた。この御師について「江戸庶民の信仰と遊山」を執筆した神奈川県立博物館の鈴木良明さんはいう。「御師の積極的な講の組織活動は、客観的にみれば、現在、観光産業によってさかんに展開されている各種イベントやツアーの組織と共通する面が多くみられます。事実、江の島や大山の参詣客の大部分は信心半分、娯楽半分で、なかにはお参りはほんの口実で、名所見物と飲んで騒いでが楽しみという向きも多かったのです。寺社側もそのことは百も承知で、参詣客の誘致につとめることで財政を豊かにしただけでなく、門前町の発達、土産物産業の育成、地元産品の知名度の向上など、さまざまな波及効果によって地域の活性化に寄与しました」

 杉の生えない山を二段林仕立てで見事な山林にした話(千葉)

 千葉県の中央部には山武林業とよばれる林業地がある。杉と松の二段林という独特の林地つくりで知られるが、この山武林業の興りは江戸中期のことだった。もともと火山灰土で水はけが悪く、杉の生育に適さないこの地に杉が育つようになったのは、江戸で木材の需要が高まるなかで、農民たちが工夫に工夫を重ねた結果である。旺盛な研究心が産地をつくる。

 工夫は二つあり、ひとつは挿し木苗、ひとつは杉と松の二段林である。林を育成するのに、まず黒松を植える。一、二回間伐して松林を育て、一五年から三〇年後、松の生育にあわせてはじめて杉苗を植える。松に守られて杉は順調に育つ。杉が一人立ちしたころ、松を伐り杉の純株とする。

 杉は江戸の家屋の、とくに障子や雨戸の材として珍重され、山武は「上総戸《かずさど》」という建材の特産地となった。松も有効に使われた。炭に焼くのだ。

 それにしても、松を植えてから杉を伐るまで、百年近くかかる。一代では無理。先祖の残した杉を伐り、子孫のために松を植えるのである。自然の大きな循環とともに世代を重ねる江戸時代の人々ののびやかでおおらかな姿をそこに見る。

 木曽の森林には留山という資源保護の制度があった。(長野)

 木曽は今につづく古くからの林業地で、江戸時代には年貢は米でなく木材で納められた。これを役木《やくぎ》という。ところで、この木曽には留木《とめぎ》、停止木《ちょうじぼく》とか、明山《あけやま》、留山《とめやま》、巣山《すやま》、尽山《つきやま》という聞きなれないことばがある。木曽の林地を管理する尾張藩がつくった制度である。明山は、伐採自由の山、留山と巣山はともに伐採禁止の山のことで、巣山はもと鷹を保護するため指定されたのだが、のちには鷹の巣の有無と関係なく、留山同様の意味になったという。一方、尽山とは皆伐した山のことで、江戸時代初期には多くみられたがのちには一切禁止された。森林の保護は一本一本の木にも定められていて、留木も停止木も、明山の中であっても伐ってはいけない木のことである。

 この江戸時代の木曽の森林保護のルールは江戸時代初期の「高度経済成長」のもとで行なわれた尽山に対する反省から生まれたものだ。藩の指導のもととはいえ「直接、山を保護管理していたのは、村々の人たちです」と長野県史編纂室の小松芳郎さんは書いている。

 *

 頭からそうときめてしまっていた「真綿で首を締め」られているはずの江戸の町、村、山の人々が『江戸時代 人づくり風土記』のなかで活力にあふれ躍っている。

 この全集は江戸庶民の風流や滑稽ばなしを集めたものではない。江戸時代三〇〇年を平和に生きた庶民の生き方を、自然と人の関係(村おこし)と人と人の関係(人づくり)に焦点を合わせて活写しようというものである。江戸人の生き方からどのような“海図”を得るか。いや、そういそぐことはない。まずは江戸庶民の群像と在所のリーダーたち、そして全国を歩いて各地の情報を交流させたパイオニアたちと、親しくつきあってみてほしい。誰でも寝ころんででも読めるように、文章は「です」口調で書かれ、絵もたくさん入っている。

(注1)速水融『徳川社会からの展望』(同文館、三五五頁)

(注2)谷沢永一「日本の近世は“忍び足”の近代化だった」(大石慎三郎編『江戸時代と近代化』筑摩書房、三七四頁)

(注3)大石慎三郎「いま、江戸時代がおもしろい」(『自然と人間を結ぶ』農文協、一九八八年二月号三頁)

(農文協論説委員会)

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