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農文協トップ主張 1989年04月

地域資源・農家の知恵を生かした「ふるさと創生」を
内向的発展の地域づくりこそ真の国際化の道

目次

◆超大国の轍はふむまい
◆いまこそ内へ向かうとき
◆農林漁業すら外に向かうときには
◆すでに「創生」した村々がある
◆あんたがやるなら私もやる

超大国の轍《てつ》はふむまい

 いま全国の市町村で、「ふるさと創生」論議がますます白熱化してきている。交付される一億円の資金をどう使うか――地域コミュニティセンターをつくるとか、次代のふるさとを担う「人づくり」のために奨学金制度を設けようとか……さまざまな情報があちこちから聞こえてくる。わが農文協にも、アイデアづくりに役立つ資料はないかと、市町村から毎日のように電話がかかってくる。

 これは、すばらしいことだ。

 リクルート疑惑や消費税の強行導入で、早期退陣説すらささやかれる竹下内閣だが、もしそうなったとしても、「ふるさと創生」だけは後世に残る「善政」である。それはけっして皮肉で言っているのではない。私たちは本気でこの政策は成功させなければならないと考えている。

 なぜなら、この政策は安い労働力や土地、あるいはより高い金利を求めて産業が外国へ外国へと向かう動き、その拠点として東京のみを重視し、一極集中の経済のしくみをつくり出そうとする動きに、くさびを打ち込むものだからである(先月号の主張欄に詳述)。

 国内で、一極集中し、その力で外へ外へと向かう発展が失敗に終わる好事例がある。他ならぬ二つの超大国、アメリカとソ連の現在である。

 第二次大戦後のアメリカは、ちょうどいまの日本がそうであるように、ドルが強いからと外国へ外国へと出てゆき、外国で威張った。そして、第二次大戦前のイギリスに代わって資本主義世界の盟主となった。しかしいまでは、ドル暴落から世界金融恐慌をひき起こしかねない危険な爆弾(財政赤字と貿易赤字の双子の赤字)を抱え、傘下の国々に大きな不安を与え続けている。

 またソ連はソ連で、自らのブロックを維持するための経済・軍事支出、チェルノブイリ原発事故という巨大技術の破綻がもたらした超国家規模の経済的損失、中央集権的な農業政策の破綻による慢性的食糧不足によって、これまた深刻な危機にある。核開発や宇宙開発には巨万の富を投資し、世界に誇る技術水準をもつ国で、アルメニアという、一地方で起きた地震では日常の民生の用に供する病院、学校、アパートなどの欠陥工法が露呈し、数万の人命が奪われた。これはいったい何を物語るだろうか。

 そうした危機にある米ソ両国が、いま軍縮という形で手打ちを行ないつつあるということは、両国ですらそろそろ対外的発展の論理、単一中心主義による覇権の維持に固執すれば自己崩壊をまねくことに気づき、重心を内政に転じようとしていることのあらわれであり、世界平和にとって、それは好ましいことである。

 いま日本という国の大勢は、かつて米ソがたどった覇権的国際化をめざしつつあるかのように見える。しかし、「ふるさと創生」だけはまったく逆の方向をめざしているといってよい。しかも、この運動に農家・林家・漁家の人々の知恵を大いに生かすことができれば、自己崩壊に向かう大勢を逆転させることも可能である、と私たちは考える。

いまこそ内《うち》へ向かうとき

 国内で一極集中し、その力で外へ外へと向かう発展の反対は、内へ内へと向かい、多数の中心をつくる発展である。それを内向的発展と呼ぼう。

 内向的発展の典型は江戸時代にある。日本人は自ら求めて国外に出ることをせず、内にあるものを工夫し、それに満足する知恵を蓄積させてきた(『江戸時代人づくり風土記』全50巻 農文協刊に詳しい)。人の多くは生まれた土地で一生を過ごした。これに対して、外向的発展の典型は明治と昭和の戦争の時代である。内にあるものへの工夫を怠り、当然それに満足せず、外国の資源・財産を求めた。人は農村から都市へ、植民地へ、戦地へと狩り出された。いっとき大日本帝国の夢をむさぼったものの、結局は内外に大損失を与えて、負けた。

 さらに重要なのは、内向的発展の論理は農家・林家・漁家の論理である、ということだ。日本の農家は、わずかずつでも儲けがあれば、土地を広げることよりも土地を肥やすことに熱意をかたむけた。そこにあるもの、限られた地域の自然―雑木林の落ち葉や、掘割《ほりわり》に堆積した底土(汚泥)、さらに人糞尿などなどありとあらゆる地域にあるものに工夫を加えて田畑に施し、土地を肥やしてきたが、それはまた人が暮らす場としての地域の環境を浄化し、都市をも包み込んで人の暮らしの快適さをつくりだすことでもあった。地域にあるものを生かしきることが、地域に生きる人の暮らしの快適さをつくり出すのである。

 一例をあげよう。

 福岡県柳川市――記録映画「柳川掘割物語」で詳細に紹介されたのですでにご存知の読者も多いと思われるが――筑後平野にあり、筑後川河口部に位置するこの人口四万六〇〇〇の小都市には、現在もなお、わずかニkm四方の中心市街地のなかに、じつに六〇kmを超える大小の水路がめぐり、六km四方の柳川市全体で、総延長四七〇kmの水路が張りめぐらされている。

 筑後がわが運んできた土砂と、有明海の干満作用によってつくられたこの平野は、もともと標高差が三mもないほど平坦な低湿地でありながら、地域には矢部川という小河川しかない。そのためせっかく降った雨水もそのままでは大部分の土地を潤さないまま有明海に流れ込んでしまっていた。また井戸には海水が浸透してきた。

 そこで堀をめぐらし、土盛りをして住居を洪水から守り、高潮をかわす。低くじめじめしたところを掘り上げて水はけを良くする。

 めぐらされた堀には、「もたせ」とよばれるさまざまなタイプの樋門や堰を設け、降った雨や上流からの貴重な水を、多くの水路によってできるかぎりつなぎとめて役立て、いっぽう大雨の際にはこの同じものが水の流れを妨げ、もちこたえ、水路網全体に水を分散させて、排水口や下流へたどりつくまでの時間をかせぐことに役立つ。

 それほど広くない土地に、精緻に張りめぐらされた掘割は、農業用水のための貯水池であり、洪水に備えての遊水池であり、柳川市民の飲用水や、造り酒屋の仕込みの水をも提供してきた。そこはまた子どもたちの遊び場でもある。

 一年の間、掘割の底にたまった泥は、冬、水を落として田畑に上げられ、肥料や床土として利用されたが、それは水路を浄化することでもあった。

農林漁業すら外に向かうときには

 そこにあるもの、すなわち「地域資源」を生かしきるという農家の知恵が、農家にとっての私の益を生み出すとともに、都市にも子孫にもおよぶ社会的な利益、すなわち「公益」をも生み出してきた。「あるものを生かす」農林漁業の内向的な知恵が、公益という見えざる富をつくりだす。

 それに対し、「足りなければ外からもってくる。都合の悪いものは外へ押し出す」というのが今日の巨大工業の外交的発展の論理である。その典型である原子力発電所は、電気が足りないといってはアメリカやオーストラリア、アフリカの先住民の土地を荒らしてウラン鉱石を求め、稼動の際の大量の冷却水=温廃水で立地周辺の海を殺し、廃棄物がたまれば地方の農村や漁村に押しつけ、莫大な費用と危険がともなう耐用年数経過後の原子炉の処理や廃棄物処理は子々孫々にツケを回す。

 巨大工業の論理、外交的発展の論理は、いま見える富はたしかにつくり出すかもしれないが、それは私の益のために公を害する以外の何ものでもない。

 柳川の掘割の岸辺に、つぎのような看板が立てられている。

 ゴミは 絶対に 捨てないで下さい

 あなたの 子供や孫に 拾わせることになります 柳川市

 * * *

 しかしここで忘れてならないことは、農林漁業といえども生産的側面、経済効率だけで考えていたのでは、巨大工業の外向的発展の論理と何ら変わるところがないということだ。

 たとえば、食糧輸出のために優遇されたアメリカの巨大農場では、きめの細かい土壌保全策は経済的に割が合わないとして退けられ、平均でも毎年一ha当たり一七tの表土が流出し、自然が何千年もかけて養ってきた豊かな土壌がかなりのスピードで流出。また、地下水需要、かんがい用水の急増のために水資源が次々に涸かつしてきている(古沢広祐氏が「現代農業」増刊号、『コメの逆襲』に寄せた論文に詳しい)。これは、土地を肥やすことにでなく、外へ外へと広げることに熱意をかたむける外向的発展の論理の帰結である。

 また、日本の漁業は面積では世界第七位、生物生産力では世界最大級の二〇〇カイリ水域をもっている。しかし、その沿岸での漁業を失い、遠洋漁業中心となりつつある。遠洋漁業といっても、外国の沿岸に出張っていっての沿岸漁業である。好漁場とは大陸棚であり、外国の沿岸だ。しかも、食物連鎖を無視し、目的外の魚は殺してでも捨てるから(エビ漁などは捨てる魚のほうが多い)、漁場はたちまちやせ細る。生みを肥やすことを忘れたことの帰結である。

 このように、農林漁業であれ、地域資源を肥やすことを忘れ、生産的側面、経済的効率の観点からだけ、その拡大をはかるやり方では公益をつくり出さない。もし農林漁業のすべてがそうなってしまえば、それこそいまはあえて地域資源や農林漁業の公益には口をつぐんでいる農業無用論者たちの思うつぼである。

すでに「創生」した村々がある

 このことに早くから気づいていたのが、「ふるさと創生」の先駆者である高知県窪川町や前述の福岡県柳川市の人々である。

 昨年、原子力発電初の計画を最終的に白紙撤回させた窪川町には、「農村開発整備協議会」の長い歴史がある。その始まりは、日本中が列島改造ブームに浮かれ、経済効率・生産性一辺倒になっていたころ。そのころすでに窪川町は、ハウス園芸の導入などで生産基地としての基盤ができあがっていたが、人がそこで生まれ、暮らし、死んでゆく「住む里」としてこれでよいのか?などの自問から、町、農協、森林組合、酪農協、普及所、農協青年部・婦人部などの手で整備協を発足させた――その中心的な理念は「この里は、遠きにありて想う“故郷”ではなく、ここに定住する人々が、生々しい喜怒哀楽をもってつくり上げてゆく、住民全体の現実的な“わが里”です」ということであった。

 そしてその“わが里づくり”の計画のために、「農家調査」が行なわれる。そのネライについて当時役場の企画課に勤めていた市川和男さんはいう。「農村を生産基地としてのみとらえる考え方は、中央に総論があるために生まれる。これからの時代は地域に総論をとり返し、地域で各論を起こしていかなければダメだ」と。

 この調査の結果、窪川の住民は“わが里”を「自然に恵まれ、人情豊かな里」と認識し、九割を超える住民たちが「永住したい」という意志をもっており、将来については「農林漁業主体に発展させるべき」「社会的なサービス、所得に問題がある」などの希望があきらかにされ、調査の実施から二年をかけて「窪川町農村整備構想計画」が練られた。

 その計画は「今日の問題」として――

 (1)人と自然の関係をより高度なものにしてゆく方向で、多面的に農林業生産の発展を図ること

 (2)地域全体の景観を保育する方向で、自然環境の保全を図ること

 (3)地域生活者の現代的要求を充足させる方向で、生活の基本的条件の整備を図ること

 また、「明日への責任」として――

 (1)地域の真の健全性を確保する方向において、資源保護・開発余地の留保により、地域余力のたくわえに努めること

 (2)次代への人づくりをコミュニティの形成に努めること

 が打ち出された。

 さらにプロジェクトチームを編成して基本計画づくりへ。数年かけてじっくりと練られた基本計画が一九七九年度から実施、いよいよこれからが“わが里づくり”運動の本番、という時に持ち上がったのが原発問題だった(以上窪川町については中筋恵子氏「ムラはいかに立ち上がったか」『季刊クライシス』一〇号 一九八一年冬号に多くを拠らせていただいた)。

 しかし、このあくまで地域の資源を生かそうとする窪川町の人々と、原発という巨大技術のたたかいは、ご承知のように昨年、八年の対立の末に終結した。

あんたがやるなら私もやる

 窪川町に整備協が発足した同じころ、柳川の掘割は荒廃の極に達していた。水道が普及し、台所は改築され、工場廃水が流入し、家庭廃水も直接ビニールパイプで水路に流し込まれる。合成洗剤も水の汚濁に拍車をかける。農家は掘割の浚渫土を肥料に使わなくなり、それがまた荒廃に拍車をかける。水路は一部埋められたり、フタをかけられ始めた。そしてついに一九七七年には、観光舟下りコースを残して大部分の水路を埋め、コンクリート張りの都市下水路にしてしまう計画がつくられた。

 しかしその計画が一部着工に移ったとき、それをさらに強力にすすめるために新設された都市下水係に任命された広松伝さんが、この計画に大きな異議を唱え始めた。掘割をコンクリートで固めてしまったら、土と水は別々になる。土は水を吸い込み、吐き出して、微生物のはたらきで水をきれいにするが、コンクリートは水を浄化しない。さらに、水を吸わなくなった土は収縮し、地盤沈下の原因になる。何より柳川は水の町、水こそ命の町ではないかと――。

 そして、広松さんは当時の市長を説得し、市民の中に入って掘割の浄化に取り組む。その第一はヘドロの浚渫、流れの確保、処分地の確保、緑化などだが、当初行きづまったのは浚渫土砂の捨て場の確保だった。ところが――。一本の川に水が流れはじめると、つぎつぎに協力者があらわれた。初めはその川のそばを通りかかった農業委員の人だった。「計画は聞くには聞いていたが、この川に水が流れているのを見たのは、自分たちがこの先にある小学校に通っていたとき以来だ。あんたたちがここまでやるなら私もひとつ力を入れよう」と、三ヵ所の休耕田などを世話してくれたという。そしてニ、三ヵ所すすんでいくうちに、自分の町内の川をはやくきれいにしよう、無償で土捨て場は提供するから、という人々がつぎつぎにあらわれた。

 ヘドロの浚渫はキタナイ、クサイ作業である。しかし市民はつぎつぎに協力を申し出、一〇〇〇世帯の地区で一人の欠席者もなく清掃作業が行なわれるようにまでなった。

 いま柳川の堀はよみがえり、観光客や視察者はひきもきらない。しかし、柳川の人々にとって、観光や美観という外の人々にどう評価されるかが先にあったのではない。窪川の人々と同じように、あくまでそこに生き続けるということ、そこを中心に生きてゆくという思いが先にあったのである。

 「あるものを生かす」という内向的発展の知恵と、そこを中心に生きてゆくという人々の知恵が結びつくとき、そこに「公益」が生まれる。逆にその知恵の立場に立てば、工業とても「公益」を生み出すものとなるだろう。

 だからこそ、「ふるさと創生」は成功させねばならないのである。

(農文協論説委員会)

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