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農文協トップ主張 1988年06月

どうしたら食糧の安全性を確保できるか

目次

◆安全性のなかみが変わった
◆食生活の習慣はもともと保守的だった
◆食生活は振り子のようにマトモにもどる
◆安全性はいまどうしたらとりもどせるか

安全性のなかみが変わった――からだで確かめずに数字で確かめる

 食生活の乱れについて、あれこれといわれている。統計数字を駆使して、脂肪のとりすぎだとか、エネルギー過剰だとか、減塩が必要だとかが、栄養上・健康上の問題として指摘されているし、一方では飽食の時代、グルメ指向、食のファッション化などのことばでくくられるような、食習慣の乱れも指摘されている。

 しかし、日常の食生活で、私たち庶民はふつう、ひどく高価でないもの、できるだけおいしいもの、そして安全なものを選んで食べているのではないか。

 価格と品質と安全性――この三つが、食品選択のモノサシになっていて、このことは、昔も今もそれほどひどく変わったということでもあるまい。

 価格――これは、ときにはご馳走を食べて散財することもないではないが、食事は毎日、三度三度のことであってみれば、そういつもぜいたく三昧でやっているわけにはいかない。昨今は、外食もふえたし、食材も簡便なインスタント食品から、なにやらいわくありげなわけあり食品まで多種多様なものが出回っているから、とかく財布のひももゆるみがち、ということもあろうが、大部分の家庭では、金に糸目をつけずの食生活をしているわけではない。

 品質――新鮮なものを求めるとか、調理を工夫するとか、あるいは栄養や健康に留意するとか、さまざまの知恵を働かせて、日々の食事をおいしくして楽しいものにする。そういう努力を、大方の主婦は、いまも払っている。食事に対する価値観のようなものがだいぶ変貌していることはあるにしても、作る人も食べる人も、食べものを吟味していることは、昔も今も変わらない。

 安全性――これは大分様子がちがってきた。現在いわれている安全性は、生産過程で使われる農薬や家畜薬などの残留、そして加工や貯蔵過程での添加物の毒性についてである。

 そのようなものが使われる以前の安全性とは、おもに食品の腐敗からくる中毒に対してであった。地場でとれたものを新鮮なうちに消費するのだから、馴れた食品を馴れた調理で食べていればほとんど安全性を問題にする必要がない。地域ごとに長い歴史の中でつちかわれた食品とその食べ方があった。それに従っていればさして問題はなかった。ただ、腐敗に対してだけ、臭いをかぐとか毒味をするとかによって、からだで注意していればよかった。

 ところが、食品が遠隔流通され、加工のかなりの部分を食品産業が受けもつようになった現在では、腐敗(急性中毒)を恐れるゆえに、加工段階で保存料を使用することが避けられないことになった。そして、保存料が使用されているために、安全性をからだで確かめる必要がなくなってきている。冷蔵冷凍技術の普及によっても、からだでの確認はすたれてきた。必要がなくなった――というより、方法がなくなったというべきかもしれない。からだで確認するのでなく、製造年月日や賞味期間などの数字に頼るほかなくなってきた。

 こうして、安全性の問題は、かつては主に腐敗による急性中毒の危険に対するものであったのが、現在では、食品添加物などによる慢性中毒の危険に対するものとなったのである。

 いいかえると、急性中毒から免れるためにあえて慢性中毒を許容しなければならないという矛盾に陥っているのである。

食生活の習慣はもともと保守的だった――感覚がリクツに負けた時代

 食生活のあり方、食習慣とでもいうべきものは、もともと、かなり保守的なものだ。

 食べることに何か新しいやり方をとり入れることには、一種の動物的な防御感覚が働く。馴れないものを食べるには勇気が要る。

 人間は雑食動物で何でも食べるが、ライオンは肉食でキリンは草食だ。昆虫などは、単に肉食か草食かの別というだけでなく特定の動・植物にしか手を出さない。モンシロチョウの幼虫はアブラナ類の葉、アゲハチョウの幼虫はカンキツ類の葉ときまっている。

 動物の中で、数多くない雑食性の動物である人間であっても、なんでも無頓着に食べるというわけではない。住みついている地域にふんだんにある食素材を吟味してえらび、それらを安全に食べる調理法を、長い歴史の中で確立してきた。馴れた食素材を馴れた調理法で食べる。それがその地域の食習慣であり、その地域の食生活の安全性を確保するシステムであった。

 東北や関東では古くから納豆を食べるが、近畿以西では納豆を食べる習慣がない。現在のように人も物も広域交流する時代でも、納豆消費量の地域差は著しい。山菜の食べ方などの地域性はもっと細分化されている。安全性についての納得が、地域ごとにちがうのだ。

 食生活・食習慣の保守性が、安全性を確保するシステムを形づくっていた――といっていい。そして、この食生活にみられる健全な保守性がくずれてきたのが現代の食生活だといえるかもしれない。

 戦後すぐの飢餓の中で、日本人は食の保守性を棄てざるを得ない一時期を過ごした。かつては食べようとも思わなかったものを食べるほかなかった。油を搾ったあとの大豆粕のような、当時代用食と呼ばれたものを食べる。それがいったい何なのかもわからぬまま、アメリカ軍の放出缶づめの中味を食べる。

 そうした、保守性と防御感覚を失わざるを得なかった時期のあと、栄養学がなぜか食生活を席巻して、タンパクや脂肪の積極的な摂取が奨励され、“馴れないものには手を出さない”という食の保守性が、ますますうすれてきた。動物的な防御感覚に頼ることから、栄養学というリクツに頼ることに、食生活のあり方が変わってきたのである。

 そして、時代が、世にいう飽食の時代に入ると、食のファッション化の名のとおり、人々は馴れないもの、珍しいものに好んで手を出すようになってきた。若い人たちの間にみられるエスニック料理の流行は、その一つの典型だろう。若くはない人たちの間にも流行はある。イチゴ大福なるものを若者のエスニック好みと対比させても、それほど的はずれではあるまい。もっとも、これらをもって食生活の栄養学からの解放というには程遠いだろうけれど――。

食生活は振り子のようにマトモに戻る――栄養学・経済合理のリクツから安全性へ

 とはいうものの、食習慣というものは、一すじなわではいかない要素がある。たわいもなく変わってしまいそうで変わらないところがある。新しいものを求める動きが激しいほど、それは長つづきしない。大きなゆれには必ずゆり戻しがある。あれほど特出した豆乳ブームが、いまは全く沈静化しているのがその一例だ。“飽食時代”のなかでの食習慣には、振り子のゆれ返しみたいな現象が、いつも起こっている。

 この春、総理府から発表された「食生活・農村の役割に関する世論調査」(標本数三〇〇〇人)の結果によると、「おコメは日本人の主食として最もふさわしいか」という問いに、九五・四%の人が「そう思う」と答えている。九年前の昭和五十三年には八七・〇%だった。「おコメは健康によい」と思う人は、三年前の五十九年には六九・一%だったのに今回は八〇・五%になっている。ちなみに「おコメを食べると太る」と思っている人は二九・六%(五十三年)から一八・四%に減った。

 この数字をみていると、昭和三十年代の、コメよりパンが栄養的にすぐれている(おコメを食べるとバカになる)というキャンペーンが執拗に行なわれた時代はもう過去のものになったのだなと思う。振り子のゆり返しが起こったのである。

 一方、いまやかましい食糧の輸入については、次のようだ。

 (1) 外国産のほうが安い食糧については、輸入するほうがよい――一九・九%

 (2) 外国産より高くても、食糧は、生産コストを引き下げながら国内で作るほうがよい――三一・九%

 (3) 外国産より高くても、少なくとも米などの基本食糧については、生産コストを引き下げながら、国内で作るほうがよい――三九・三% (2)+(3)=七一・二%

 この数字をどう読んだらいいか。

 食糧の輸入は好ましくないという国民的合意がある――と読むこともできよう。

 ある論者は、質問にあらかじめ“生産コストを引き下げながら”という一句が入っていることを非難して「これは一種の誘導尋問ではないか」と言っている。つまらぬ文句を入れたものだとは思うが、この非難はあたらないだろう。はっきりと“外国産より高くても”と聞いているのだから。

 さて、この数字の読み方は、もう一つありはしないか。

 国民的合意ができたかどうかはともかくとして、これは食べ物の安全性についての、一種の(動物的な)防御感覚ではないか、ということである。リクツとは別の、感覚的な次元での食についての保守性が根底にあって、それが数字として現われたのではないか。

 かつて、栄養学のリクツが食生活を席巻した。そのために防御感覚、保守感覚はたしかに一時的にうすれたようにみえた。それが振り子のように元にもどってきた。

 そしていま、経済合理性という、これまた近年の食生活を席巻しているリクツが、振り子の戻る力によって反発を受けている。そのように、この世論調査の数字を読むこともできる。

(ただし、注意したい点が一つある。「外国産のほうが安い食糧については、輸入するほうがよい」とする意見は、全体では一九・九%だが、年齢と性によってかなりのちがいがある。二〇歳台の男性では、全体を一〇%以上も上回って三一%に達している)。

安全性はいまどうしたらどりもどせるか――食習慣の保守性をテコに

 以上のように考えれば、この世論調査で、七一・二%の人たちが外国産より高くても食糧は国内産のほうが好ましいとしているのは、食生活の健全な保守性の現われであり、それは何より輸入食品の安全性に対する懸念だとみることができる。つまり、食糧の輸入は好ましくないという国民的合意があるとしたら、その根拠は、価格よりも安全性を大切にしたいということにあるということなのである。

 ところで、コメも含めた食糧の完全自由化論者のほとんどは、日本の農業がなくなってもよいとは言っていない。日本の農業は“生産コストを引き下げ”て国際競争力に耐えるようにならなくてはならないが、そのための刺激として自由化が必要なのだ、という論法がよくつかわれる。これは素直ではない。工業産物の輸出のために農産物の輸入が必要なのだと、なぜ正直に言わないのか。

 右のような「国民的合意」が見られる状況について、それは価格第一でなく安全性第一の選択によるものなのだということを理解できないから、彼らは消費者団体が“高い”国産農産物を支持することを不可解だという。生産者団体からカネが流れているのではないかなどという憶測までする。人はとかく自分のふるまいから他人のふるまいを推測するものである。

 さてそこでいよいよ、安全性についてなのだが、安全性というものは、“生産コストを引き下げ”る道とは相入れないものであることを覚悟しなくてはならない。“生産コストを引き下げ”るための方策としてもっぱらとられている路線は相変わらず規模拡大路線である。土地を“中核農家”に集中してコストダウンするという道。この道を行くかぎり、農薬と添加物はついてまわる。

 安全性が損なわれるのは主として単品目の大量・大規模生産と広域流通(遠隔輸送)による。前者のために畑に大量の農薬が必要とされ、後者のために収穫後(ポスト・ハーベスト)農薬と添加物が必要とされる。輸入農産物は大量生産・遠隔輸送によってはじめて成り立つものなのだから、その安全性は当然低い。そのことを、世論調査の回答者は食生活についての保守感覚で見破っている。

 ここをテコにして、もう一歩進んでみよう。単品の大量・大規模生産と遠隔輸送によって食糧の安全性が損なわれるのは、外国産であろうと国産であろうと、じつは同じことなのである。安全性を考えるのならば、農薬や添加物そのものだけを考えるのではなく、農産物の大量生産・広域流通をこそ論じなければならない。

 食べ馴れた食素材を食べ馴れた調理法で食べる。そこに、地域ごとの食習慣が生まれ、それを伝統として保守することで、地域ごとに安全性を確保するシステムが成り立つ。

 安全性は食品の大量生産・広域流通のあるかぎり確保されない。農業の規模拡大と食品産業の巨大化は食品の安全性とは相入れないものだという他ない。「外国産より高くても、食糧は、生産コストを引き下げながら国内で作るほうがよい」のではなくて、そんなことはできないのである。安全性を求めるならば、外国産より高くても、生産コストがかかっても食糧は国内で、地域で作り食べるほうがよい、と考えるのが本筋なのである。

 そのうえで、なお生産コストを問題にするならば――地域で穀物もつくり野菜も多種多様につくり……というように耕作(自然)を豊富にしていけば、必ず化学肥料や化学農薬というコストが自然の力によって代替される。地域の自然条件にかなった品種・栽培法も採用できるから、減農薬・減肥料の生産も組みやすい。化学資材に頼ってきたところを、地域自然の力におきかえる――これによって、安全性と生産コスト引き下げとが、両立する道がひらける。それは、まぎれもなく、国内・地域内生産と消費の食生活において、のことである。

(農文協論説委員会)

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