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農文協トップ主張 1987年07月

地域が潤う野菜流通の変革
少量相対取引を導き手に

目次

◆野菜の値段はセリでは決まらない
◆大手スパーの「相対取引」、農家の母ちゃんの「相対取引」
◆流通コストで目減りが激しい大量出荷
◆流通コスト部分を地域に呼び込む売り方
◆地域野菜の消費を広げる村からの食情報
◆野菜輸入を無力化するもの
◆流通改革に農協の力を

野菜の値段はセリでは決まらない

 いま、野菜の値段が決まるのは、市場でのセリの場面ではない、といわれる。

 これまでも暴騰・暴落を防ぐための価格安定制度や、いろいろな出荷調整、市場や荷受会社の思わくなどが微妙に働いて、品物の多い少ないだけで価格が決まることを避けようとする動きがあった。そして現在では、セリ以外の要因で価格が決まる傾向はさらに強まってきている。

 その要因の一つは、野菜が「過剰時代」を迎え、経済連や全農などによって市場に入る前の段階で強力な出荷調整が行なわれること。もう一つは、大手スーパーなど量販店の市場取引の量が増したことである。量販店は、一定の販売計画をもって、市場取引に参入してくる。仕入れ数量や品物の規格、仕入れ価格をあらかじめ決めて、それを市場に求めるから、セリによって値段や数量が変動するのは好ましくない。大量の仕入をするから、セリの場面では、値段を引き上げなければならない立場にあり、不利である。

 そこで、量販店の野菜取扱量がふえるにつれて、市場の基本的性格が変えられる。たとえば、量販店の大口需要についてはセリの開始前に取引を済ませてしまう「先どり」がある。また、あらかじめ産地・集荷業者との間で相対で価格を決め、その価格を一定期間は動かさないこととして数量を予約する「予約相対取引」がある。

 このような動きは、産地の側も求めるところとなってきている。とくに「過剰時代」に入った現在、「予約相対取引」などは、産地にとって安定した販売を可能にするという一面をもっているからだ。そこで、量販店などとの取引を固めるべく、彼らが求める一定の数量を出せるように産地を大型化したり、品種、規格、品質など生産・技術の組織化、画一化をすすめなければならない。現代的「相対取引」、すなわち大口需要者の要求に向けての産地努力がつづけられることになる。

 こうした産地努力が、地域の野菜生産、ひいては地域経済にとって、安定性・発展性のあるものかどうか。この点は充分に吟味されなければならない。

大手スーパーの「相対取引」 農家の母ちゃんの「相対取引」

 ところで、量販店など大口需要者を軸にした大量の「相対取引」が行なわれるいっぽうで、もう一つ別な「相対取引」がある。

 それは、農家の母ちゃん・お年寄りの手になる「相対取引」である。たとえば「四季のかおり」。福島県二本松市の母ちゃんたちが市と農協の支援のもと、村出身者や知人宛に、宅配便で送り届ける年四回の農産物詰め合わせだ。あるいは「野菜詰め合わせセット」。岐阜県東白川村の「にんじんクラブ」の母ちゃんたちが、時期時期にとれる野菜を一〇種類以上セットにして消費者に届ける宅配便利用だ。

 こうした、「四季のかおり」や「詰め合わせセット」は、もちろん市場のセリとは無関係に価格が決められる。年四回で一万円の会員制(二本松市)であったり、どんな種類の野菜が入ってもいつも一回二〇〇〇円(東白川村)とあらかじめ決められていたりする。

 量販店による予約相対取引と、その点では似ている。つまり、現在の野菜流通では、「相対取引」による市場原則の逸脱が、大口需要者による超大量取引の場面と、村の母ちゃん・お年寄りによる少量取引の場面との両極で起こっているわけである。

 取引の数量や金額からいえば「少量相対」は全く問題にはならない。農協の正組合員数約二〇〇〇人のある町では、野菜の販売額が七億円余り、その大部分を市場出荷が占め、市場を通さない「直売、産直的なもの」は三五〇〇万円くらいだという。母ちゃんたちによる「少量相対」は、金額では、わずか数パーセント。地域経済にとってはすずめの涙ほどでしかないようにみえる。

 いっぽう、大口需用者を軸とした「大量相対」には、右に述べたように、「過剰時代」を迎え産地として生き残れるかどうかがかかっている。取引金額は大きく、一定期間の販売が保証されるのだから、これに向けては、産地の農協も経済連も自ずと力を込めることにならざるをえない。 

 だが、将来、この二つの「相対取引」のどちらが、地域の農業の安定・発展につながっていくか。ここはじっくりと考えなければならない問題だ。

流通コストで目減りが激しい大量出荷

 問題は地域経済にとっての実入りである。金額の多さが必ずしも、農家、農協、地域の実質的な実入りにつながるものではない。

 大口需要に向けての産地整備、品種や技術の統一などの産地努力が、長期的に、実入りを保証するものであるかどうか、この点が心もとないのである。

 まず、いまの野菜流通では、「高品質」ということが叫ばれるが、これが一つの問題である。「品質のいいものを出す産地には高値がつく」といわれ、同じ時期の同じ野菜でも、価格の産地間差が非常に大きい。あるいは、一定の規格以下のものは大幅に値下げされる傾向が強まっている。

 しかしこれは、単純に品質の差によるのではなく、大口需要者の野菜販売戦略の結果なのである。量販店など大口需要者は、店のイメージアップのために、「完熟」とか「有機」とかいわゆる「差別化」野菜を売りものにしつつ、同時に大量販売もねらう。だから、一部の差別化野菜は高値で仕入れても、多くの部分は安く仕入れて高めに売ろうとする。産地に対して「高品質」を要求し、その産地が新しくて良品がとれるうちは高値をつける。産地は栽培に無理を重ねてもそれに応えようとするが、やがて土が悪化するなどして要求される規格や「品質」のものを出しにくくなる。短期間で安値産地へと転落、というケースが少なくないのである。

 「高品質」の要請に対して、予冷施設などを高い金をかけて整備することで産地の流通関連コストはかさむ。同時に、「高品質」の確保のための値のはる土壌改良資材の投入などで生産段階でのコストもアップする。これも、現在の流通に対応するための生産努力であるから、流通関連コストの性格が強い。

 品質面で安く買いたたかれたり、規格外品が出れば、これも流通をめぐる実質的なコストアップにつながる。

 こうして、多額の売り上げも、さまざまな流通関連コストに吸収されて、大きく目減りする。先の農協の例で、野菜の販売額七億円といっても、生産者の手に入る分=地域に残る部分は、大幅に縮少し、二〜三割に落ち込む。三割として二億円強。五億円は農家外、地域外へのもち出しである。

流通コスト部分を地域に呼び込む売り方

 さていっぽう、母ちゃん・お年寄りによる「少量相対」はどうか。この取引は、背景に農家の自給の充実があることが重要である。福島県二本松市の「四季のかおり」は、野菜、豆などの食生活自給運動が背景にある。自給野菜を少しふくらませて、その余りが、農協Aコープ前の「夕市」で地域内の消費者に届けられ、村出身者に「四季のかおり」として届けられる。野菜のほかにその加工品、季節の山菜・きのこも詰め合わされて、季節の便りや食べ方案内とともに送られる。農家の畑や野山を生かす食生活充実と、それの地域消費者への供給、そして出身者への「四季のかおり」が、しっかりと結びついているのである。

 あるお母さんの「夕市」「四季のかおり」の販売額は、手数料引で一年で二〇万円だった。そしてこのお母さんの自給野菜などを金額計算してみると、贈答用も含め一〇〇万円にのぼったという。この人は自給部分を含めると一二〇万円、つまり販売金額の六倍も稼ぎ出していることになる。

 販売した分はもちろん農家、地域に残る金である。自給部分は、買って食べれば農家・地域から出ていってしまう金額だ。この稼ぎを地域全体としてみてみよう。販売金額の六倍というのは多い人の数字だから、三倍としてみる。先の野菜売上げ七億円余りの農協での「直販・産直」の売上げは三五〇〇万円だった。これの三倍を稼ぎ出しているとすると、実に1億円を超える。経費率は大口需要向けに比べたらわずかなものだ。

 こうして、母ちゃん・お年寄りを軸にした「少量相対」とその裾野は、産地形成の大量品目に比べて無視できない大きな額を生み出していることになる。目に見える金額よりも稼ぎが大きくふくらむのはなぜか。

 流通コストにあたる部分を、自分のものにしているからである。自給部分では一〇〇%自分のものになるし、「直販・産直」も規格や包装にとらわれない、手数料部分も少ないなどのために流通での目減りが少ない。流通コスト部分を、農家、地域のものにできる、この点が「大量生産・大量販売」とは全く逆だ。

地域野菜の消費を広げる 村からの食情報

 流通コスト部分を農家、地域のものにする「少量相対」。このようなあり方で、地域の全生産部門を編成していくことはできないものか。その可能性は、ある。大量生産部門が「少量相対」と手を携えながら、その転換をはかっていくことだ。

 二本松市の例にその萌芽をみると、「四季のかおり」の会員からは、あの野菜や果物、もちをもっと欲しい、といった希望が届いているという。それに応えて、いま市と農協は新たな宅配便の新設を計画している。

 こうした動きに発展した背景には、地域の食生活充実への取り組みがある。「四季のかおり」に詰められる野菜、山菜、その加工品……は、いずれも農家がわが家・わが地域の食卓を豊かにするために生み出したものだ。これらが、食べ方や楽しみ方のメッセージを添えて消費者に届けられる。二本松市という地域が生み出した、食品群とその情報である。

 村の食の充実情報が都市の人にとどく。それによって、食べ方を知り、味を知る。その人たちの食卓が農村からの情報でつくられる。そして、恒常的な村の食べものの流通を求める。このような関係において、村の大量生産部門も活気づいていく可能性がある。

 母ちゃん・お年寄りによる「少量相対」は、消費者の野菜の食べ方や食べる野菜の種類、量の拡大につながるのである。野菜が過剰だといわれる時代、この力はきわめて重大である。

野菜輸入を無力化するもの

 現在の大量流通は、この方向とは逆をたどっている。確かに、各種のめずらしい野菜の品揃えなど、量販店での野菜の種類は目を見張るものがある。しかし、それらは、作る地域の人びとがよりよく食べるという裾野がない限り、次々と別のものに置きかえられていくことは目にみえている。

 あるいは、種類と量の裾野だけは膨大にもつ輸入ものに置きかえられていく危険が非常に強い。すでに、野菜輸入は、端境期輸入から周年輸入へと拡大の方向をたどっている。

 そして、急増する輸入の生鮮野菜、加工野菜、冷凍野菜の存在を当然のこととして、食生活の情報・広告がつくり流される。生産場面でも、野菜輸入を前提にした情報が流される。

 いま、大規模量販店や大市場は、コンピュータを駆使して、その日の売上げ状況が即座に明らかになる情報システムをつくり、売れ筋の把握や在庫管理に活用している。こうした情報が、産地に流れ、産地の出荷計画や生産計画が決められる。まさに輸入野菜との競争を前提として、行きつくところのない「コストダウン」「高品質」追求を続けねばならないような「都市から地方への情報網」が整備されつつあるのである。

 大量生産部門で、さらなる面積拡大や「高品質」追求を進めて、輸入ものと競争しようとしても、明らかな展望は拓けない。

 食べものについての情報の流れを、「都市から地方への流れ」から、「少量相対」にみられる「地方から都市への流れ」に転換していかなければならない。その可能性は各地の「少量相対」の事実の中にある。

流通改革に農協の力を

 「少量相対」のもつ原理をテコとして大量部門の転換をはかる。そのために大量部門は、まずその生産物の一部を地域内に流すことを考える必要がある。大量作目の面積をふやす方向ではなく、地域内あるいは周辺の都市の消費を満たすための品目を追加する。

 そして、「少量相対」部門のもつ、地域産物をよりおいしく豊かに食べる食べ方の開発、その情報づくりと宣伝といった優れた機能と合体して、地域内、周辺都市の食卓をかえていく。地域内、周辺都市に、輸入ものの流れにもゆるがないような、野菜、その加工品の流れ、情報の流れをつくり出す。ここが確かなものとなって初めて、巨大都市の食卓がかわり、地域農業はいっそうの安定に向かうはずだ。

 流通関連コストの部門を地域がとり込むか、都市に流出させるか。ここが地域が潤うか否かの分かれ道であることはすでに見た。加工、販売、情報づくりといった流通にかかわる仕事の稼ぎがいかに大きいかは明らかだ。

 いま、その仕事を、大量生産部門も含めて地域ごとに組織的にすすめるのが農協の役割だ。販売・購買・信用あらゆる機能を、地域が潤う流通に向けて活用していく方向である。

(農文協論説委員会)

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