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農文協トップ主張 1986年09月

あなたの山を生かす
「自然保護運動」では山は守れない

目次

◆開発反対では山は守れない
◆農家こそ山へ行こう
◆山に植えるのではなく生えたものを育てる
◆わが山の独自な産物が価値をもつ時代
◆山の可能性は切りひらける

 夏、都会の人びとは、緑と新鮮な空気を求めて山に向かう。最近、森林浴だ、フィトンチッドだと、緑の効用が注目されると、ますます山を訪れる都会人は多くなる。

 こんな傾向とはうらはらに、農村の人が山に行くことがめっきり少なくなってきた。山や森の恩恵にあずかるのは、もっぱら都会の人間、という時代であるかに見える。そして、いましきりと叫ばれる「緑を守れ」「緑を取り戻そう」の運動も、むしろ都会の側からすすめられている。

 農村を取りまく山、自然は、都会の人のために利用され、また都会の人の運動で守られるかのような時代だ。

 しかしいま、非常に目につきやすい都会人の“緑のブーム”、緑の取り戻し運動とは別に、静かに、農村の人びとの足が山に向かいだした。山を農村の暮らしに使うことが、各地で、さまざまな形で再開され始めた。そしてこのことこそが、緑を守る、緑を取り戻すことに確実につながっていく。

開発反対では山は守れない

 「観光道路ができても、できなくても、いずれこの草原はなくなってしまう」

 戦前から、スキーやハイキングのメッカとして親しまれた長野県の霧ヶ峰高原に、四十年代にビーナスラインという観光道路が建設された。この計画に対して、地元文化人が中心となり多くの住民も参加して、大反対運動が盛りあがった。とくに、氷河時代からの生き残りの貴重な湿原植物の群落が破壊されることなどが、観光道路反対の大きな根拠だった。また、六月にはレンゲツツジが咲きほこり、七月に入ると一面のニッコウキスゲの花盛りとなり、やがてマツムシソウやヤナギランなどが見事に咲き競うこの高原の景観が、排気ガスやハイカーの捨てるゴミで消えていくことへの危機意識があった。

 地元の多くの農民もこの反対運動に署名したりしたが、そんな中で、村の古老からは、「草原をバス道路で荒らすなというだけでは草原は守れない」といったつぶやきが聞えたという。

 もともと、この草原の広い範囲が、周囲の村々の草刈り場だった。それぞれの部落から、この入会地に向かう道があり、その道を通って、牛馬に食わせ、また田に入れる草を刈った。戦後二十年代まではこの草刈りが盛んに行なわれ、朝暗いうちに起きて馬をひいて山にいった。

 草を刈る時期や、年ごとの刈る場所などは、村の一定のしきたりで決められており、それが、草原を草原として保っていくことにつながっていた。山の草で家畜を養い田を肥やすことと、山の草原の生産力を草原としてふさわしい状態に維持していくこと、この両者のバランスが、山と村びととの長いつきあいの中で、守られてきていたのだった。

 山を農家の暮らしに使うことが、山を守ることであった。山へ農家の人が通うことが、山を草原を守ることであった。

 その関係が崩れてきている。古老は、そのことに、草原が維持できなくなる根深い原因を見てとっていたのだ。農業の機械化や化学肥料依存といった、外から指導されて滲透し始めた農業の生産・生活のあり方。その中で、人びとが山に行かなくなり、行けなくなる。これでは草原はやがて、草原でなくなっていくはずだ。

 実際にそうだった。観光道路反対運動が盛りあがりを見せ、貴重な植物の群生地などを迂回する形で道路は建設されたのだが、それからおよそ二〇年後の現在、霧ヶ峰の草原のあちこちに、かん木がふえて草原らしくない所が出てきているという。

 田が農地が化学資材などで荒れるのと併行して、山もまた変わり荒れていくのだ。

農家こそ山へ行こう

 田畑で作物がつくりづらくなっていくことと、山や草原が荒れていくことが一体のこととして進む。また、食べものや暮らしのすみずみに有害物も含む反自然な化学的製品が入りこんでくることと、山や草原が変わっていくことが一体のこととして進む。観光道路の問題に限定しえないこの大きな変化を問題にしていたのが、右の古老の意見にほかならない。

 山へ車でいける便利な道ができる一方で、個々の部落から山につづいていた昔ながらの山道が荒れて通行不能になってしまう。この道は、薪をとり炭を焼く雑木林をたどり、さらに上にいくとカラマツなどの植林地があり、その上が草を刈る草原だった。冬の炭焼き、春の薪切り、山菜とり、夏の下草刈り、カヤ刈り、秋の松葉かき、キノコとりと、長年四季を通じて、大きい足、小さい足、牛馬の蹄が踏みしめた山道が、いまは途中からヤブになっている。こういう状態では、いくら自然保護区域をつくったり、自然遊歩道を整備したりしても、自然は守れない。

 農家の老いも若きも山に入れる道があり、四季を通じて山に通えるようでないと、山を山として草原を草原として維持していくことはできないし、農地と人びとの暮らしの健全な状態は維持できない。

 そこで、今月は、「農家こそ山へいこう」と提案したい。山に通う道をもう一度見直してみたい。

 しかし、こういうと、「いまどき山なんぞにいっていられるか!!」「薪や炭は売れないし、杉や桧の建材も安くて話にならない、まして草を刈りにいって田に入れるなどもってのほか」と、反発されそうである。

 確かに、いまや山にいっていては仕事にならない時代であり、生産や生活にとって山の必要性がきわめて少なくなった時代だ。昭和二、三十年代の炭焼きが大いに商売になった時代、またその後しばらく建築ブームで杉・桧の用材が飛ぶように売れ、間伐材も高値で売れた時代とはわけがちがう。それにいま、山は手間がかけられなくなって荒れ放題だ。山に行って何か仕事をしようなどと悠長なことをいってはいられない。

 しかし、である。山がそこにある。このことは三〇年前もいまも変わりはない。これからもあり続けることに変わりはない。しかも、荒れているとなれば、いつか、金を払って人を頼んでも何らかの手入れをしなければならない。マツ枯れがおこれば、防除代を払って対策を打たなければならない。荒れるほどに、金も手間もかかり、やっかいものとなるのが山である。

山に植えるのではなく生えたものを育てる

 それではいま、どうしたら、山を生かせるか、生かすとまでいかなくても荒らさずに守っていくことができるか。

 山の生かし方を変えることである。山は田や畑とは違う。何か作物をいっせいにつくっていっせいに収穫し、一どきに収益をあげる耕地とはちがう。苗木を植えて、材木を一気に切り出すというのは、山の使い方の基本ではない。山では自然にあるものを、生かしていくのが、つきあい方の基本である。これを基本にすえて、山とのつきあいを始めれば、少しのことで、山は必ず変わってくる。

 六一pでもご登場いただいた、北海道厚真町の本田弘さん(45歳)の山とのつきあいを、見てみよう。本田さんは、田畑二〇haの専業農家だ。忙しい農作業のあい間や冬の仕事として、雑木林の手入れをまかされているうちに、すっかり雑木林のとりこになったという。本田さんの家には、建築用材に向けたカラマツ林もある。しかし、本田さんは、雑木林とのつきあいを、非常に大切なこととして山に足しげく通う。

 どういうことか。雑木林での仕事というのは、一気に木を切り出して何かに使うといった性質の仕事ではない。「このカツラの木は、一〇〇年もかけて立派な建材・家具材にしたいな」と思うような木を残す仕事である。自然に生えている木を、見て選び残し、その木の生長のじゃまになるものをとり除く仕事である。そして取り除くものは単にじゃまだからとるのではなく、薪として使ったり、ホダ木としたり、あるいは美しい木目を生かして飾りものやおもちゃ用に使われるものだ。取り除くものさえ、いっかつして”雑木”であるのではなく、それぞれ名前があり、切るときを考えて、かねて本田さんが残しておいたものだ。そこには、いろいろな意味をもった木が、いろいろな切る時期と用途に向けて残され、育っている。本田さんは、雑木林に、できるだけ木の種類を多くするようにしている。

 一〇〇年、一五〇年先を考えて、大径木を目標に養成していく木には、建材・家具材など多方面に利用できるコナラ、ミズナラ、ハリギリ、ホウノキ、カツラ、ヤチダモなどのうち、素姓のよいものを選ぶ。大径木までならないとしても、住宅や農業施設の建材の元として、右のような木やエゾヤマザクラ、キハダ、クルミなどを養っていく。

 さらには、樹種を豊富にすることを目標に、有用材以外のシラカバやシナノキなども残し、また、薬用としてキハダ、コブシ、タラノキ、ウコギなども注意深く育てていく。木に巻きつくツル性の木も、すべて切るのではなく、家族と山の動物が木の実を食べる楽しみも考えて、コクワやマタタビなど必ず残しておくのだという。

わが山の独自な産物が価値をもつ時代

 こうして、雑木林はますます多様性に富み、山の木の用途は、飛躍的にふえる。薪がとれ、ホダ木がとれ、ハサ木や牧柵がとれ、さまざまな建築材料がとれ、薬木がとれ、木の実がとれる。生活が山のもので満たされていく。

 そして、いま、こうした雑木林からの産物が売っても何にもならない時代ではなくなった。ナラやサクラや、カツラなどの大木は、杉や桧よりも貴重とされる。実際、都会に住む本田さんの親しい友人は、マンションの改装のために、厚手のナラ板とサクラの角ものを持っていき、ナラ板を玄関の上がりかまちなどに使い、サクラは茶の間に取りつけて、本田さん自身が驚くほど風格のある住宅に変えたという。

 また、現代医薬の氾濫の中で、薬草、薬木がいま注目されている。本田さんが残したキハダ、タラノキ、ウコギ、マタタビなどは、そんな時代の風潮、要請にもかなっているものだ。

 さて、自然に生えたものを残したというところが重要だ。いろいろな木が残されて、高木と中高木、低木とその下の薬草といったような、独特の風土(自然)がそこにできる。その独特の風土から生じるものが高級建材となり、薬木・薬草となる。そこが重要だ。本田さんの雑木林の独特の風土から生まれたという稀少価値、その価値は下落することがない。

 これをもし、いっせいに苗を植えたり、種をまいたりしてやるとなったらそうはいかない。原価のかかることもあるが、一時的に高く売れても、必ずいつか過剰生産になってしまう。長期的に山を生かすことは、その山の独自の環境と、そのもとで自然に生きるものを活用した、まさに自然生産でこそ可能である。

 雑木林の木が多様になって右のような風土ができれば、家族のいろいろな人の仕事と楽しみができ、山に人が入りやすくなっていく。そして、農家の人がより足しげく山に通うことは、ますますそこの風土を豊かなものにしていくことでもある。

 たとえば、本田さんは林に管理に入るための道をつける。トラクターが入れるくらいの道だ。林の中には、将来に向けて残したいろいろな木があるから、それらを迂回したり、大切な幼木を移しかえたりして、道をひらく。すると、三年もその道を通ううちに、木の切り株には、キノコが群生してくるという。道をひらくことが、新たな風土をつくり出し、そのことが家族の山での仕事(楽しみ)につながっていく。

 山を守る基本は、木を植えることではない。人が山に通い、自然にあるものを育て、かつ使うことによって、さらに多様な植物を育て多様な用途につなげていく。こういった自然生産、そこの山と、そこの家(家族)との独自な交流によって常に豊かになっていくような独自な風土づくりこそが、山を守ることである。

 まずは、わが家の山にいって木を見つめてみよう。そして、そこにある木の多様な用途に思いをめぐらせてみよう。

山の可能性は切りひらける

 山の木の多様な用途などといえば、時代錯誤のように感じられるかも知れない。しかし、たとえば、昔のことだと思われる炭焼きでさえ、いま最新の仕事として取り組んでいる人がいる時代だ、ということに注目していただきたい。

 炭はいま、アメリカではバーベキュー用には最良の熱原とされ、二○万tが使われているといわれるし、また東京銀座のヤキトリ屋はほとんど、燃料を炭に変えたという。炭でないと客が寄りつかないからだ。

 それ以外に、いま炭が注目されているのは、化学資材で痛んだ畑の土の力を回復させる土壌改良資材としての役割だ(二六○p参照)。炭は、土壌微生物の活動を活発にして土壌病害虫が減ること、より少ない肥料で作物がよく育つこと、地温を上昇させたり土壌水分を望ましい状態に保ったりする効果があることなどが明らかにされている。

 すでに、多くの農家が炭を用いて化学肥料を減らす栽培法を始めているし、また地域的対応として、間伐材利用の炭を畑に施す事業を始めたところもある。かつての、山草を通じて山と田畑がつながり、山を守ることと田畑がよくなっていくことが一体のものであった関係と同じようなつながりが、炭を通じてできていく筋道も見え始めている。このように、化学資材による畑の土の荒廃といったような、現代の生産・生活がもたらす矛盾を、山をよりどころとして解決しようとすれば、山のもつ用途はまだまだ広がることだろう。

 さらにいえば、いま山に通い炭焼きをし始めた人は、「山の仕事には自由がある」と眼を輝かせる。

 炭焼きの仕事に自由がある、というのは、釜をつくる場所、釜のつくり方、煙道の高さや煙突の角度、木の並べ方、空気の入れどき、などなど、一つ一つが炭のできに影響するからだ。地形や風向を見定めてもっともよい場所にカマをつくるなど、周囲の自然をより的確に見定めながら、作業の一つ一つで自然との協力関係をつくっていく仕事だからだ。山の条件は場所ごとに異なり、天気も毎日ちがう。その中で本当によい炭を焼きあげるのには、際限のない自然とのつきあいがある。その奥深さに、たまらなく自由を感じるのだという。

 このような、山の仕事のもつ自由さは、炭焼きだけに限られるのではない。右に紹介した本田さんも、山の木一本一本の将来を考え、それに向けて手を入れていく仕事の中に、たまらない魅力を感じている一人だ。そして、子ども山につれ出し、いっしょに仕事をする中で、山の自然に協力しそこから恩恵を得ていくことの楽しみを伝えたいと願っている父親である。

 自然との協力関係をつくっていくことの自由さ、楽しさが、地域で人から人に伝わる、年寄りから若ものへ、親から子に伝わること。これは、さまざまなひずみを生んでいる現代の教育を、根本的なところから変えていくことでもある。山の自然に協力しそれを生かしていくつきあいの中には、教育の源泉がひそんでいる。その源泉によってはぐくまれた気風がまた、地域の山を農地を、人々の生活を健全なものにしていく原動力となるはずだ。

 まず、農村の人びとが山へ足を向けよう。人が山にいける条件をつくっていこう。

(農文協論説委員会)

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