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農文協トップ主張 1986年06月

殺すのでなくつき合う場をつくる
防除の悪循環をどう断ち切るか

目次

◆病虫害防除の新しいうねり
◆農薬が病菌、害虫を強め、作物を弱くする
◆作物と微生物の「つき合い」 相手を犠牲にしない関係
◆病菌がもっている節度とは何か◎作物を侵しても殺さない病菌◎殺す力はあっても侵入力の弱い菌
◆農薬が病菌の節度を乱し難病をつくる◎病害虫と上手につき合う場をつくる

 防除費が肥料代より高くつく時代になった。土壌病害対策で薬に金がかかりすぎ、防除倒産の声さえ聞かれる。それでいて、次々と散布する薬の効きめは落ちてきている。

 農薬は健康破壊が問題になるばかりか、いまや農家の経営を危くする元凶ともなった。

こんな中で、これまでの防除の常識とはまったく違う、新しい動きが始まっている。

病虫害防除の新しいうねり

 病虫害防除の新しい動き。そのひとつは、福岡市で始まり、全国に急速に広がりつつある“減農薬イナ作運動”である。

 害虫の発生は、年によって、また一枚一枚の田んぼによって大きくちがう。道路一本隔てて、こちらの田んぼはウンカが大発生しているのに、むこうの田んぼはほとんど見当たらないということさえある。そんなときに、一つおぼえのように防除暦どおりの機械的な散布をしていたのでは、なんともムダが多い。

 そう考えた福岡市の農業改良普及員、宇根豊さんらは、農家が自分で害虫の発生状況を調べ、それにもとづいて農薬を使っていく運動を提唱してきた。武器は二五cm×三〇cmの板(虫見板)である。虫見板をイネの株元におき、イネをたたいて落ちてきた虫の数を調べる。数が少なければ農薬をかける必要はない(夏ウンカなら五〇頭以下)。不必要な散布をしないから、農薬は減っていく。福岡県の防除基準による散布回数は一一回だが、減農薬に取り組む福岡市の防除基準はわずかに四回、それより少なくすませている農家もたくさんいる。それでいて病虫害はしっかり防ぎ、増収さえしているのだ。

 そして、もうひとつの動きは、酢、焼酎、黒砂糖、灰、植物の煮汁などの手づくり農薬で、病虫害を防ごうという動きだ。家庭菜園の話ではない。ハウス野菜や果樹の専門家が熱心に取り組み、自分にあった防除方式として確立させているのである。

 この二つの動きは、病虫害防除の新しい段階を示すものである。何が、どのような意味で新しいのか。

農薬が病菌・害虫を強め、作物を弱くする

 “防除とは農薬で病菌や害虫を殺すことなり”と考えられるようになってから久しい。病害虫を殺すからには、より殺菌、殺虫力の強い農薬を、より濃い濃度で、より回数多く、より大量にかけなければならないということになる。

 戦後、DDTやBHCなどの農薬が広く普及し、それが病虫害に劇的な効果を上げて以来、病害虫を殺すという発想はすっかり定着してしまった。その結果、もたらされたものは何か。それは“農薬が農薬を呼ぶ”というしくみである。

 なぜ農薬が農薬を呼ぶか。農薬をかければかけただけ病菌や害虫は農薬に対する抵抗力を強めるからである。だが、それだけではない。農薬によって作物が弱体化し、病気におかされやすい体質になってくる。ここが重要なポイントだ。

 ここでは、薬害のことをいっているのではない。目に見えるような薬害ではなくて、作物のからだを弱くする。(半病人にする)害である。大量の薬剤散布がどのように植物のからだを弱めるのかが、だんだんとわかってきた。

(1)農薬は葉の表面のワックス層を弱める

 作物の葉の表面はワックス層(ろう質の組織)でおおわれており、これは病害虫の侵入から身を守る防御壁の役割を果たしているが、多くの農薬はこのワックス層を溶かしたり、弱めてしまう物質が含まれている。とくに問題なのは殺虫剤である。虫の体もワックスの層でおおわれており、虫を殺すためにはワックス層を破壊する必要があるからだ。また薬剤を水に溶けやすくするための溶剤も悪影響があり、さらにいえば農薬散布の水そのものも、葉の表面にしみ込んでワックス層のしまりを悪くする。こうして、農薬は葉の表面を荒らし、病害虫が侵入しやすい葉にしてしまうのだ。

(2)農薬は葉の活力を低下させる

 病害虫の細胞の呼吸や物質合成を害する農薬が、作物の細胞についてだけは害を与えないということは考えられない。農薬が光合成能力を低下させたという研究結果も少なくない。作物にはワックス層を破って侵入してきた病菌を封じ込めたり、殺菌物質を出して殺したりする力がそなわっているが、この抵抗力は活力の高い葉ほど強い。農薬は葉の活力を低下させ、葉がもつ病菌への抵抗力を弱めてしまうのである。

(3)農薬は葉面の微生物バランスをくずす

 一枚の葉の表面にはカビ、細菌、酵母菌などの微生物がビッシリとひしめきあって住みついている。これらの微生物はお互いに干渉しあい、特定の病原菌が異常にふえるのを抑える働きをしている。また、これらの微生物の中には葉に刺激を与え、抗菌性物質の合成など、葉の抵抗力を強化するものがいる。無菌状態にしたイネの葉と、雑菌がたくさんいる葉とでは、無菌状態のほうがイモチ病が広がるのが速いといわれている。農薬は、葉の抵抗力強化に一役買っているこれらの葉面微生物を殺し、微生物相をカクランし、病気にかかりやすい状況をつくりだすのである。同様に土壌消毒剤や除草剤は土の微生物相をみだし、土壌病虫害が発生しやすい環境をつくる。

作物と微生物の“つき合い”―相手を犠牲にしない関係

 このように農薬は、作物が自らそなえている病害虫に対する抵抗力を弱める。農薬が農薬を呼ぶ、これが、“防除とは農薬で病害虫を殺すことなり”とする発想が招いた結果である。

 この悪循環からぬけ出すにはどうするか。発想を変えることである。これまで、農薬は病害虫との関係でのみとらえられてきた。そして病害虫はあくまで殺すべき対象であった。しかし、病菌や害虫は作物と微妙な“つき合い”をして生きているのであり、また他の微生物などとも複雑な関係の“つき合い”をしている。

 こうした生物間の“つき合い”を生かす方向、つまり人間も病気や害虫と上手につき合う方向で防除を考えることが、今求められている。“殺す”から“上手につきあう”への発想転換である。

 殺すこととつき合うことでは、天と地ほどのちがいがある。(いくら農薬をたくさん使っても病菌や害虫を殺しつくすことは土台ムリな話だ。だから、実際にはどんな農家も病害虫とつき合ってはいるのだが、発想が“殺す”ことにむかっているため、つき合い方が下手になっているのである)。

つき合うからには、相手のことを少しは知らなければならない。病菌・害虫とは何か。

 遠回りのようだが、生物界のしくみというようなことから考えてみよう。

 生命は他の生命との“つき合い”ぬきには生きられない。食うか食われるかという激しい闘いがそこにはあるのだが、しかし一方では、生物は闘いの中で、相手を殺さない生き方、相手となれ合う生き方を身につけてきたともいえる。

 数多くの生物が生まれ、他者にはマネができない特技を身につけてそれぞれ分相応に住み分け、生きている。それが生物界の多様性というものであろう。生命が共存する方向にむけて、それぞれ生き方の節度を身につけている。こうしてきわめて多様性に富んだ生物界が成立する。

 さて、植物(作物)と微生物が相手を殺さないで生きる生き方には二つの型がある。一つは死んだものあるいは死につつあるものをエサにして生きることだ。堆肥をつくる微生物など大半の微生物は、生物の遺体をエサにして生きる道を選んだ。これら腐生菌は有機物を分解し、作物への養分供給などに大きく貢献しており、広い意味の共生の関係にある。

 一方、ごく一部の微生物は、生きた生物とともに生きる方法を身につけていった。代表選手はダイズの根粒菌である。根粒菌は生きたダイズの根に住み、ダイズから養分をもらいつつ、自分は空中チッソを固定してダイズにそれを供給する。これは典型的な共生関係だが、それ以外に親しさの度合はさまざまだが、生きたもの同士が最低相手を殺さないことをルールとしていろいろな共生関係を結んでいる。

 しかし病菌・害虫は別で、彼らは作物と共生するどころか、作物を全面的に攻撃するではないか。そういう反論があるかもしれない。しかし、それはちがう。病菌にも節度があるのだ。相手を殺し自分だけ生きていくという生き方は、生存の大原則に反する。相手を殺すといっても、殺しつくしてしまえば、結局自分の生存基盤そのものを失うことになる。

 病菌はそんなあぶない(不安定な)生き方を望んではいない。そこには病菌なりの節度が存在するのである。この点が、防除の新しい段階を考えるうえで、つまり病菌・害虫とのつき合い方を考えるうえで、きわめて大切な事柄になる。

病菌がもっている節度とは何か

 病菌の節度のもち方は、病菌の種類によってちがっている。生きた相手とともに生きる方向で、自分の生き方を定めた病菌もいれば、腐生菌に近い生き方をする病菌もいる。

 前者は純寄生菌といわれているもので、これは生きた細胞でしか増殖できず生きた細胞がなければ活動しない病菌である。サビ病菌、ベト病菌、ウドンコ病菌などがこれに当たる。これらはなじみのある一般病害であることに注意していただきたい。

 一方、後者の病菌は条件的寄生菌と呼ばれるもので、ふだんは死んだものから栄養をとる(腐生する)が、ばあいによっては生きた細胞を殺してそこから栄養をとることができるものである。ハウス果菜などで大きな被害をもたらす灰色カビ病菌や、各種のタチガレ病をもたらすリゾクトニア菌などがこれに当たる。これらは近年問題になっている難病であることに注意していただきたい。(ほかに純寄生菌と条件的寄生菌の中間のタイプもある)。

 このように、同じく作物に寄生するといっても、その生き方、作物とのつき合い方、つまり、発病のしかた、被害の与え方にはかなりのちがいがある。

●作物を侵しても殺さない病菌

 ネギなどで問題になるサビ病菌は代表的な純寄生菌である。この病菌がネギに侵入してもポツポツと斑点ができる程度で、ネギが枯れることはない。侵入する、つまり侵しはするけれども相手を殺すことまではしない。相手を生かしながら自分も生きるというつき合い方の節度を、サビ病菌は身につけているのである。(想像をたくましくするなら、サビ病がつくことによってネギの体内で変化がおき、それが他の病害への抵抗力になるという形で、ネギはサビ病菌の恩恵を受けているかも知れない)。

 同じく純寄生菌のウドンコ病やベト病も、こうした性格が強い。キュウリなどではベト病にやられても、ふつうの状態なら一〇%以内の減収におさまるといわれている。福島市のハウスキュウリ農家、佐藤円治さんは、生育後半にベト病にやられても農薬はかけないという。ベト病が入っても、樹そのものは元気で収量にはほとんど影響しないとみているからだ。

 こうした菌のもうひとつの特徴は、相手とする作物が限られているということである。生きた相手に寄生する特定の能力をもつために、対象とする作物(宿主)の範囲や増殖できる条件をせばめてきたともいえよう。同じウドンコ病と呼ばれていても、オオムギを侵すウドンコ病菌とメロンを侵すウドンコ病菌では種類(レース)がちがう。相手をせばめることによって、相手とともに生きる特権を得ているわけだ。

 宿主を限り、また宿主に致命的な打撃をあたえないこと、これが生きた生命とともに生きる道を選んだ病菌の節度のもち方である。

●殺す力はあっても侵入力の弱い菌

 それに対し、灰色カビ病など腐生菌に近い生き方をする病菌は、侵入する力は弱いが、いったん侵入するとかなり大きな被害を与える。つぎつぎに細胞を殺し、分解してそれを養分として広がっていくため、被害が大きくなるのだ。

 しかもこれらの病菌は多犯性に富んでいて、各種の作物を侵すことができる。灰色カビ病菌はトマト、ナス、キュウリ、キャベツなどほとんどの野菜を発病させるし、リゾクトニア菌は一種で三〇〇種の作物を侵すことができる。

 発病すれば被害が大きく、しかも多犯性だから、農家にとっては、やっかいな病気だが、よく考えてみると、じつは彼らでさえ、一定の節度をもっていることがわかる。作物への侵入力が弱いという節度である。彼らにはまともに育っている作物をつぎつぎに犯していくような力はない。

農薬が病菌の節度を乱し難病をつくる

 さて、問題は、人間の行為が、作物と病菌との“つき合い”をカクランし、病菌の節度を失わせ、難病をつくり出してしまうことにある。“殺す”発想での農薬散布こそ、その最たるものである。

 近年、腐生菌に近い病菌による病気の被害がふえ、難病害になっている。ハウスだけでなく露地のキャベツでも発生するようになっている灰色カビ病や、多くの土壌病害の原因になっているリゾクトニア菌、フザリウムは、このタイプに属する。またウリ類などで難病になっている斑点細菌病菌も、生きた作物体内に自力で侵入するためのとくに発達した器官をもっていないという意味で、後者のタイプに属するともいえる。

 これらの菌は前に述べたように元来作物への侵入力が弱いという節度をもっている。よほど束になってかからないと、なかなか作物を発病させることができない。

そのためには、菌がふえやすい条件と、葉が弱ったり傷ついたりというような、作物の抵抗力が低下するという条件が必要だ。

 その条件をつくり出すのが、“殺す”ための農薬散布にほかならない。つまり、作物がもつ抵抗力を弱める農薬散布が、本来ならたいして問題にならない病菌の節度を失わせ、難病に昇格させているひとつの要因になっているのである。

●病害虫と上手につき合う場をつくる

 とくに問題なのは、ベト病、ウドンコ病など薬の効きやすい(殺しやすい)一般病害に対する安易な農薬散布である。

 農薬をだんだん減らし、今では黒砂糖農薬などをとり入れ、無農薬(無化学農薬)のハウスキュウリ栽培を実現している佐藤円治さんは、まずベト病、ウドンコ病をできるだけ少ない農薬で防ぐことに取り組んだ。最大の敵は斑点細菌病だが、その発生をベト病やウドンコ病に対する農薬散布が助長しているのではないかと考えたからだ。ベト病やウドンコ病は農薬でわりと簡単に殺せるので、つい農薬に頼りがちになるが、それが葉の表面をあらしたり、あるいは細菌病に効果のない農薬散布で細菌をばらまき、斑点細菌病の発病を促す。

 そこで佐藤さんは丈夫な樹づくりや換気などで発病しない条件づくりに努め、また多少発生しても広がりそうにないときは農薬を使わないなどの工夫に努めた。さらに化学農薬をやめて酢や黒砂糖を使った手づくり農薬におき代え、現在の栽培を築いてきたのである。それで二〇tどりを実現している。

 ここには、病菌を殺すのではなく病菌とつき合う防除法がある。

福岡市ではじまった減農薬イナ作も、病気や害虫と上手につきあう防除法への取り組みである。

 虫見板でウンカの数を調べ、ウンカがいても一定以下なら農薬はふらない。病気に対しても、完全防除という発想はとらない。病気で減少する分がどのぐらいかを見きわめ、それより農薬代が高くつくなら、農薬はふらないというかまえである。殺すのではなく共存できる線をさぐる。

 去年、暖地ではウンカが大発生しかなりの減収を招いた。農薬を多用しても防げず、むしろ農薬散布は生き残ったウンカの増殖を促し、被害を大きくする方向に働いた。それに対し、ウンカ防除が一般の半分以下だった減農薬イナ作田では、ウンカの被害がはるかに少なかったという。

 殺すのではなく、病害虫と上手につきあおうと考えたとき、病菌や害虫は、これまで見えなかった姿をわれわれに見せてくれるにちがいない。

ここでは、減農薬という行為は、栽培の環境をととのえ、病菌や害虫に節度を与えることにつながっている。それは、作物と病害虫が生き合う“場”を、より好ましい状態にととのえる技術である。

 そして、酢や灰などを利用した手づくり農薬は、積極的にそのような“場”をつくっていく新しい手法いえるであろう。

酢や黒砂糖、灰などは、それ自体多少殺菌力はあるが、本当のねらいは殺菌力だはなく、葉の活力を高めたり、葉のpHに影響を与え葉面微生物の相を調整したりするということにある。この点については今月号をじっくりごらんいただきたい。

 単にムダだから、危険だから農薬を減らそうというのではない。人間と作物と微生物、ともに命あるものの関係をまっとうなものにすることに、農耕の未来があるのである。

(農文協論説委員会)

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