「中日韓農業発酵技術普及会」に加わって

         

 

笹村 出

2009.9.7 

 

 

 2回目にもかかわらず、準備不足、情報不足で、様々な詮索ばかりしながら、参加しました。初日の伊藤専務の挨拶で始めて主旨がわかり、納得するとともに、意図膨大、前途多難を思いました。農業技術というものの位置づけが、日本国内でも大きく異なります。技術というものは、目的があり始めて存在します。「国際競争力のある農産物、商品価値の高い農産物」という目的のための技術を期待しているのが、中国の行政当局や研究者ではないかと思います。しかし、農文協の目的とする、農民のための技術と成ると、その技術と必ずしも、一緒とは言えません。多収技術より、長い収穫期間が低レベルで続く方がいい場合もあります。つまり、養鶏業で言えば、鶏の回転を早くして、ピークだけを使う養鶏が、近代養鶏技術である。5,6年は当然のように低い産卵を続けることを願う伝統的養鶏もあります。この、真逆とも言える隔たりを両者が承知の上で、交流しているような気が致しました。加えて、中国政府行政の仕組みから来る、官僚主義と農民のかかわりの問題があります。農文協で言えば、もう一つでの目的であろうと想像する、中国での出版事業展開。

 

 こうした中で、ある意味中途半端であることを、持続させながら、「農民と農民の連帯」というような、本質を携えていなくてはならない困難。この困難の正面に立つのが、農業者でありながら、技術指導者として参加する者にのしかかっている。にもかかわらず、個々人が参加することの思いは、抜擢の誉れ、個人的な事業展開の野望、中国への旅行的関心、アジア諸国に対する懺悔滅罪、贖罪的意識。様々内包している。前回の参加では、農業者が少なかったが今回は農業者が多かった。このことはとても大切なことでありながら、あの形で生かすことは困難さが増した。短時間の中で実りを得るには、大学の研究者、行政の研究者であれば、言葉化して、論理的に説明できるが、農業者は経験的、体感的とらえ方をしている。技術より技である。それを言語化してゆくために、大げさになってしまったり、かえって空想的な観念の思い込みに陥る。農業宗教者の世界に入るおそれがある。講演好きカリスマ農業者の多くの事例がそれである。農業者の指導は現場を離れてはならない。鉄則ではないだろうか。

 

 反省点は色々ある。出来る限り、現物を持ち込むこと、今回発酵飼料を持ってゆかなかったことは、申し訳なかった。中国での指導内容が分からなかったために、現物を持ち込むことが頭に浮かばなかった。卵や鶏肉を持ってゆくべきだった。お米や、農産物を持参したかった。そして、中国の養鶏農家に食べてもらうべきだった。中国人ほど味覚に感性の深い民族なら、味からその意味を知る事が出来るのではないか。農の会の主題である、「地場・旬・自給」の意味も味覚から伝わるかも知れない。次に継続的指導が出来ない事。私自身が、あしがら地域の事に全てを尽くす日常である。足柄地域を離れることは先ずない。中国については個人的思いで例外事項である。私は自然養鶏を中国で指導するには、適任ではない。継続して指導が出来る人を選んだほうがいい。もう一つ残念だった点、伊藤専務が現地で言われた挨拶の内容が、素晴しいもので、その主旨が参加要請文にあれば、少し覚悟が違ったかもしれない。事前に参加者に配られている必要があったと思う。

 

 日本の中山間地農業の疲弊。村落自体の消滅まで始まっている。格差社会の中で失業者、困窮者は身の回りでも、目に見えて増加している。しかし、失業しても農業には戻らない労働者の実態。戻れない実態といった方がいいかもしれない。行きすぎたアメリカ主導のグローバリズムの結末が近づきつつある。貨幣経済の限界。中国はさらに極端な形で、限界に向っているように見える。一気に日本が歩んだ崩壊への道を疾走している。次の社会の不時着地点は、ともども農業以外にはない。ここに日本の農業者の役割があるのだろう。また、日中間を民間レベルで繋いでいる農文協の役割は益々重要になる。是非ともこの事業が、実りあるものに育っている事を祈っています。