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新ガーデンライフのすすめ

現代農業2002年5月増刊

【編集後記】

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 「もし買った土地だったら、あるいは借りて自分が抱え込んだ土地だったら、挨拶など考えもしなかったろう。私の土地だ、坪いくらだ、境界線はここだ、よそものは入ってはならぬ……」。

 本号54ページの「囲い込めば、自分がとらわれ、閉ざされる」の中で原明美さんは、「もう忘れかけている土地だから、よかったら好きに使っていい」という田口恒夫氏の土地に開墾に入った初日、自分が「これから鎌を入れます、中へ入らせてもらいます」と、土地に挨拶をしたことをふりかえり、そう書いている。

 そのくだりを読んでいて思い出したのは、前号『自然とともに平和をつくる』の記事の中の次の言葉。

「私たちにとって、大地とは母なる大地。自然とはすべての人たちがそれを共有するところ、また皆がそこで夢をみるところ。生命がそこで生まれ、生活可能性のあるところ。私たちは土地を売る、とか買うといったことは難しい」(南米先住民のリゴベルタ・メンチュウさんの言葉)。土地の売買に反対だというのではない。「難しい」というのは、土地の売買自体が、自分たちの感覚ではまったく理解できないことなのだろうと思った。

 原さんだけではない。本号の何人もの方の言葉に、メンチュウさんの土地に対する感覚と共通するものを感じた。たとえば、50ヘクタールもの農地を受託耕作する愛媛県重信町の牧英宣さん。自分の土地ですら先祖や地域からの「預かりもの」という牧さんは、要望があればいつでも返すという条件で土地を預かっているが、むしろ返すその日を待ち望んでいるようだ。群馬県榛名町の富沢登さん、清水重信さんもそう。この時代に、けして小さくはない金額を出して荒れていくむらの中のゴルフ場予定地を購入し、さまざまな果樹や花を植えて美しい観光農園を開きたいというのも、経営上の計算だけにもとづくものではないだろう。

 土地は、自然は、誰のものでもあって誰のものでもない――。

 少なくとも、モンゴロイド先住民には土地をいのちあるものとして見る「鎮守の森」の思想が共通しているのではないか。(甲斐)

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