主張

生活工芸で、ていねいな仕事と暮らし

 目次
◆藍染めで、みんなが寄り合える場所をつくる
◆漆掻き きめ細やかな作業
◆漆掻き研修生の充足された時間の流れ
◆コウゾとコンニャク、肥草の里山利用
◆カラムシ、アサ、越冬野菜の輪作で産地を守る

 大阪府高槻市にあるJT生命誌研究館。38億年の生命の歴史物語を美しく表現することで、生きものの魅力を実感し、生きることについて考えることをめざしてJT(日本たばこ)が設立した施設だ。その館長で研究者の中村桂子さんが、新幹線のなかでタブレット端末に向かいゲームに興じる子どもたちの姿をみて、次のような思いにおそわれた、という。

 近代社会は「進歩」の価値観のもと、科学技術を駆使して便利さ・快適さを追求してきた。その過程で人間の外にある自然を壊してきたが、その科学技術がいまや人間の内にある自然をも壊しはしないかという危機感である。中村さんのいう「壊す」とは、自然の制約を脱して「便利になる」ことであり、具体的には「速く、手が抜ける、思い通りになる」ことをさしている。そして「生きる」ことについてこう述べる。

「生きるとは時間を紡ぐことであり、まず速くという言葉は合わない。毎日をていねいに暮らし、年を重ねていくのが生きることなのである。また、手を抜かず、手をかけることに喜びを見出すのも生きることである。しかも、それで思い通りになるものではなく、むしろ思いがけないことが起きるところに楽しみがあるのが生きものなのである」(「信濃毎日新聞」2018年6月10日付) 

 これは、農耕にも、そして手を抜くと形にならない「ものづくり」の世界にも通じることだろう。

藍染めで、みんなが寄り合える場所をつくる

 街場の若い人たちが集まってくる藍染め工房がある。福島県の中通りにある大玉村の観藍社。その取り組みが『現代農業』の姉妹雑誌『うかたま』(季刊)の最新号(51号)で紹介されている。原発事故で放射性物質に土地を汚染されるなか、汚染度を調査していた林剛平さんが、耕地の復興にむけて試行錯誤する86歳の地元農家、野内彦太郎さんの力を借りて、ともに始めた工房だ。

 ここに集まるのは建築家、大工、服飾デザイナー、按摩師、パン屋、写真家などみなそれぞれに専門の仕事を持つ街場の若者たち。アイのタネを播いて育て、その葉を収穫して発酵させ染料の素「すくも」をつくり、藍染めにする。「すくも」をつくるのは堆肥づくりに似ている、と彦太郎さん。微生物の力も使う藍染めは奥が深く、どんな道具を使うかによっても染まり方が違う。とりわけ、布の一部を糸で縛って染める絞り染めは人を夢中にさせる。こうして「むらの人も外から来た人も、みんなが寄り合える場所」ができた。集落の女性たちに藍染めをやろうと声をかけたら、15人も集まった。

「科学技術を駆使して便利さ・快適さを追求」することが「自然を壊す」、その最たるものが原発事故だ。暮らしを根こそぎ奪い、人々を土地から引きはがそうとする。その巨大な力の前でも人はタネを播き、その収穫物を生かして暮らしを生み出そうとする。

 科学技術の前では一見無力のような「人の営み」の手づくりの世界だが、手づくりがもつ確実性と生み出す工程のもつ充足感を人々は求めている。時代に敏感な若者たちが、手間暇かかる生活工芸を志向する状況は、今という時代を象徴している。

 農文協は、今春から『生活工芸双書』(全9巻・10分冊)の刊行を始めた。もちろん『』の巻もある。工芸品の歴史や製法の記述はもちろんだが、工芸品の原料植物についても、その栽培法を具体的に詳述した実用書ともなっていて、独特の工芸双書といえる。これまで『桐(きり)』、『漆(うるし)1』『楮・三椏(こうぞ・みつまた)』が刊行され、6月に『苧(からむし)』、7月には『萱(かや)』を刊行する。

「ものづくり」を原料の植物特性、栽培からはじめて、その利用としての工芸品に及ぶという構成である。折しも2020年のオリンピック・パラリンピックを控え、日本文化が注目される時期に、日本人の暮らしのベースにあった植物との関係、自然を生かす先人の知恵と技を改めて見直したい。

 ここではこの双書の内容を紹介しながら、ものづくりが生み出す「ていねいな暮らし」について考えてみよう。

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漆掻き きめ細やかな作業

 文化庁は文化財の補修・保全にあたっては国産漆、または国産漆の割合が7割以上のものを使うようにという方針を打ち出し、国産漆の需要は供給を大きく上回ることが予想されている。

 漆工芸は、育てたウルシの漆掻きから始まる。漆掻きとは、ウルシの木にキズをつけることで、ウルシの「傷害応答メカニズム」を起動させて樹液の分泌を促し、漆液を採取すること。本書では、「浄法寺漆」の産地として知られる岩手県二戸市浄法寺で行なわれている漆掻きのようすが紹介されている。

 漆掻きには四日山よっかやまの原則というのがある。

「漆掻きには、一定範囲のウルシ林を4等分し、それぞれ1日、計4日かけて漆掻きをして回り、これを繰り返していく。このように、4日置きに(雨天は数えない)傷を付けては漆を採取していくことを、『四日山』という。つまり、同じ木を毎日掻くのではなく、別の木に傷を付けて回っている間、4日以上木を休ませることで、良質の漆をより多く採取できるようになる。雨が降っている時や、掻く木が濡れている時に漆掻きをすると、漆の出が悪くなるといわれている」

漆掻き
(『生活工芸双書 漆1』より、下も)

半年間の傷のつけ方。バーコードの模様のようになった

 漆掻きは6月中・下旬~11月上中旬までおよそ6カ月にわたって行なわれる。

 6月上旬にウルシの木の周囲の草を刈り、風通しをよくして乾きやすくする。下旬には1回目の傷をつける。木に向かい右側の根元から24cmの高さのところをカマという道具で樹皮を平らに削ってから、カンナと呼ぶ道具で横一線よりやや右下がりに横に引くように傷をつける。これが1辺目。ウルシの傷は1辺、2辺と数える。この傷を基準にして木の上の方向へ36cm間隔で5カ所樹皮を削っては1辺ずつ傷をつける。これで36cm間隔で5カ所に1辺ずつ傷をつけた状態になる。同様に木の左側にも、右側と交互になるように36cm間隔で傷をつける。こうして、1本の木につけた9~10本の傷を基準に9月下旬まで、巡回してくるたびに傷をつけていく。最初の傷から上へ上へと5mm程度の間隔で1本ずつつけていくので、バーコードの模様のようだ。漆液の採取は2本目の傷から。出てきた漆液をヘラで掻き取り、タカッポと呼ぶ漆樽に入れる(写真)。

 傷を付けるやり方は、漆掻き職人によって微妙に異なり、また天候によっても調整する。低めの気温が続く時や、雨がなく高温が続く時は傷を短めにする。「木にストレスをかけすぎないことが重要であり、カマで樹皮を剥ぎすぎたり、数日も前に予め剥いでおいたりすると、その部分が腐ったり漆の出が悪くなる原因になる。また、漆をヘラで掻き採るときに力を入れすぎたり、カンナ傷の両端まで何度もヘラを入れたりすると傷口を痛めて、漆が出なくなる」

 こうして9月の中下旬の「末漆」まで20辺前後の傷をつけていく。ウルシの力に頼りつつ、きめ細やかな対応が求められる作業である。

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漆掻き研修生の充足された時間の流れ

 ウルシは生きているから、日々刻々変化している。初漆はつうるし(7月初旬~中旬の時期)は水分が多く、山吹色を濃くした色で酸味のある香りがする。盛漆さかりうるし(7月下旬~8月末の時期)は、山吹色で艶がよくほのかに甘い香りがする。末漆すえうるし(9月の1カ月)は、盛漆に比べ白っぽく、粘りや甘みが盛漆より強くなる。

 こうして漆を掻いて6カ月で採れる漆液の量はウルシ1本当たり約200g、牛乳瓶1本分である。漆掻き職人は、6~11月までの6カ月間に400本のウルシの木を巡回して採取していく。かつては1シーズンに20貫、およそ75kgを採取できれば一人前といわれたそうである。地味で細やかな、極めて根気のいる作業といえる。

 浄法寺町では、毎年漆掻き研修生を公募し、最近では定員を増やしている。研修には6~11月までの長期研修と9月に集中して3回の漆掻きを経験する短期研修があり、研修内容は研修生の日誌や感想文とともに報告書にまとめられる。「平成28年度研修報告」には、長期研修生で30代の女性の山崎さんがこんな感想を記している。

「浄法寺に住んで漆掻きという仕事は大変だというのはわかっているつもりでしたが、実際に体験してみると、聞いていたよりも大変な仕事だと思い知りました。聞くよりも見るよりも体験して初めてわかること、初めて知ることなどがあり、つらかったはずなのに今はまた来年もやりたいと思っています」

 山崎さんの日誌には、掻く木の違いや掻き傷のつけ方、木に向かった時の足の位置や構え方、ウルシに当てるヘラの角度まで、細かな指導のいちいちが、自ら描いた図とともに記録されている。長年の経験から形作られた作業工程とその意味がわかるおもしろさや、日々の充足された時間の流れを味わった人の、満足気な様子を彷彿とさせる一文である。

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コウゾとコンニャク、肥草の里山利用

 漆掻きの細やかな仕事ぶりを垣間見てきたが、『楮・三椏(こうぞ・みつまた)』『苧(からむし)』では、原料の栽培をめぐる興味深い話にも触れている。楮の場合は次のようだ。

「コウゾの生育を促すために最も基本的に用いられてきたのは、チガヤやススキなどの肥草である。高知県いの町では、昭和40年代頃までは肥草を30cmほどもコウゾ畑に敷き詰める熱心な農家もいた。ただし、この肥草はコウゾのためだけではなく、むしろコンニャクのための施肥であった。

 コンニャクは水はけのいい半日陰の場所で栽培するが、高知県や茨城県では、コウゾの枝葉が作る日陰での栽培が行なわれてきた。コンニャクもまた重要な冬の収入源であり、茨城県ではコウゾと一緒にコンニャクを育てている畑をジネンジョ、肥草を敷く作業をカシキと呼んでいる。このコンニャクを大きく育てるために肥草などの施肥が行なわれることで、コウゾの生育も支えていたのである。チガヤやススキは11月頃に切って3月頃まで乾燥させてから畑のなかに敷き詰める。切ったばかりで乾燥していないチガヤなどを敷き詰めると、カビが発生してコウゾの枝などにも付くことがあるため、注意が必要である」

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カラムシ、アサ、越冬野菜の輪作で産地を守る

 そしてカラムシ。

 全国的にも知られるカラムシの生産地、福島県奥会津の昭和村では、イラクサ科の多年草であるカラムシ(苧)とアサ(麻)が全域で栽培されてきた。いずれも古代から日本人が利用してきた植物だ。繊維をとりだし、乾燥させ原麻として売るか、裂いて糸に紡ぎ機にかけて布を織った。

 地味の肥えた上畑に分根を植え付けるか、タネを播く。5月半ばに新芽を揃えるためにコガヤ(カリヤス)を掛けて畑を焼き、残った灰に、水で薄めた人糞尿を掛けて押さえ、堆肥を散らす。畑の周囲にボーガヤ(ススキ)で風よけの垣を結って傷がつくのを防ぎ、揃って一斉に伸長したのを7月半ばから8月に刈り、繊維を取り出す。戦前までカラムシとアサは村人の暮らしを支えた。

 このカラムシ産地には、「ウセクチがたったらアサを植える」という言葉がある。

「新しい畑にカラムシを植え付けると5~6年で根が混み、根は弱りウセクチがたつ(欠株が多くなる、連作による障害と思われる。失せ朽ち、失せ口)ので、根を掘り上げ別な畑に植える。畑のウセクチがたった穴状(パッチ)の空間に、アサを蒔き、カラムシとアサを同時に育て、ウセクチ側のカラムシが、多く陽光を浴びることにより硬く太くなることを防いだ技術も、緊急的な対応として行なわれていた。ウセクチのたったカラムシ畑では、その根を掘り起こし畑の外に持ち出し、アサの種が蒔かれ、しばらくの間はアサがつくられ、数年後地力が回復したころにまたカラムシの根が植え込まれた。アサを引き抜いた収穫後の畑には『オバタケナ(苧畑菜)』が蒔かれ秋遅く収穫した。

 こうして一枚の畑を『カラムシ→アサ→越冬野菜→カラムシ→アサ……』という循環・輪作で利用し、カラムシの育成中のものをも、うまく組み合わせることにより、限られた面積の畑から一定品質一定量の収穫を得て、永年収穫でき、産地の維持が可能となっていたのである。

 アサとカラムシという異なる二種類の繊維作物をうまく取り込み、支えあった。アサがあったからカラムシの栽培が続いた。その売り方にしても、繊維原料で出荷するカラムシと、布に加工し製品化したアサという具合に使いわけたのである」

 アサは、夏の終わりに収穫したあとに乾燥させ、秋に水に戻し、または専用の釜で蒸かしてから皮を剥いだ。冬に裂き糸をつくり、春に機にかけ、だれもが布を織った。また原麻は手引きろくろの紐として重宝だったため、木地挽き(木地屋)の手にも渡った。アサとカラムシでつくる布もある。アサ糸を縦糸に、カラムシを横糸にして織りあげた布は「カタヤマ」といって裃の素材などに使われた。

 カラムシの収穫は男が、カラムシ引きは女が、糸と織りも女が行なった。「冬に男が山に猟にでかければ、女は家で原麻から糸を取り出し繋ぐオウミ(麻績み、苧績み)が延々と続けられた」

 この昭和村は今では「からむし織の里」として知られ、織姫研修制度で後継者を育ててきた。1年間の織姫研修を受講した女性はこれまでに113人。村内に定住した女性は31人を超え、村外で機織りに従事している人も多い。

「ていねいな暮らし」は自然とともに生き、自然を活かす暮らし。楮・三椏、漆、萱、苧、麻、藍など暮らしともにあった植物を見直し、その技術を引き継ぎ、残していきたい。

(農文協論説委員会)

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