主張

戦後70年、今、地域から考える「日本国憲法の大義」

 目次
◆女優と老農の不戦のたたかい
◆憲法の大義をその歴史的形成過程と人びとの暮らしの規範から考える
◆TPP反対の声も弾圧されかねない自民党憲法改正草案
◆日本国憲法の大義を考える二つの軸

女優と老農の不戦のたたかい

 女優の吉永小百合さんが、今年1月4日のNHKテレビ「戦後70年 吉永小百合の祈り」という番組で、「“戦後何年”という言い方が、ずっと続いてほしい」と述べて話題を呼んだ。いつまでも“戦後”であってほしい、後になってふり返れば、あのときから新たな“戦前”が始まったという日本にしてはいけない、という平和への強い意志と願いを短い言葉で言い表した名言だった。

 それから6カ月余、集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案が与党の強行採決によって衆議院を通過した。各種報道機関の世論調査でも、この法案への反対、違憲、政府の説明は不十分、今国会で通す必要はないなどの意見が過半数から80%にも達する中での採決だった。

 そんな一連の動きに抗しすでに本誌先月号では、秋田県の農家であり、日本有機農業研究会理事長、一般社団法人農協協会会長なども務める佐藤喜作さん(88)が「『正義の戦争』は二度と御免! 農家の助け合い運動にこそ平和の精神がある」と題して次のように述べている。

「国会では今、『平和のために軍備を』『日本人を守るために集団的自衛権を』と議論されている。耳障り極まりないこれらの発言は、かつての『正義の戦争』に通じるもので、まやかしである。平和のための争いなどありえない」。

「天に代わりて不義を撃つ」。当時の軍歌が示すように、戦争とは必ず、時の権力が正義の御旗を掲げておこなわれる。「勝たずば生きて帰らじと、誓う心の勇ましさ」。戦死を美化・強要し、駅頭に迎えられた「英霊」にはその家族ですら悲しむ様子を見せてはならなかった。

「おそらく未亡人などは家で隠れて泣き崩れていたに違いない。こんなむごい雰囲気が戦争なのである」。

 その後70年。「(世界では)争いの絶えないこの70年間においても、(日本は)戦争に足を踏み入れることはなかった。これは、命を大切にする様々な伝統的な日本文化に加え、世界に冠たる憲法9条があったからである」。

「……しかし、政府や財界が推し進める経済優先の『今だけ、俺だけ、金だけ』の“三だけ社会”は、経済が行き詰まると必ず戦争を引き起こすのである。私は、もう二度と1億総懺悔など見たくもないし、したくもない」。

 そんな国家権力、大企業の経済権力に対し、「小さな農家の助け合いである協同組合運動の精神にこそ、今日の人類が抱える戦争、飢餓、放射能、格差を排除していく力があると考える。しかし、その農協をも潰しにかかっている政府には憤りを覚える」。

 小さな農家の助け合い、その地域地域に根ざした協同運動の精神にこそ人類が抱える戦争を始めとする諸問題を平和裡に解決していく根源的な力がある――。佐藤さんはこのように述べ、吉永さん同様“ずっと続く戦後”を守るべく、たたかい続ける決意を表明しているのである。88歳とは思えぬ若々しい、凜とした姿勢に思わず背筋を伸ばさずにはいられない。

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憲法の大義をその歴史的形成過程と人びとの暮らしの規範から考える
――『日本国憲法の大義――民衆史と地域から考える15氏の意見』発刊の意味

 先にあげた世論調査の結果に見られるように、今回の安保法案や憲法の行く末に不安や危惧を覚える人は日に日に増えている。それは、この法案の中身はもとより、その作成過程での事実上の解釈改憲=戦後史の大転換を、自民党政権自身が長年にわたって築き上げてきた「集団的自衛権の行使は違憲」という解釈をもいわば一夜にしてひっくり返し、一内閣が強行突破して真逆に仕立て上げた、その強権的手法にも批判が強まっているからであろう。

 農文協はこのような事態に対し、国家によって日本中のあらゆる地域社会と人びとの暮らしが根底から破壊された戦前の歴史と、その裏返しでもある朝鮮、中国を始めとするアジア諸国への植民地支配や侵略を二度とくり返してはならないという思いを広く、農家、国民とともに共有すべく、『日本国憲法の大義――民衆史と地域から考える15氏の意見』を発行した。それは、戦時下に発足した私たち農文協が戦前に犯した罪、国家の政策を自覚的に検証することなく、国策に沿った映画、幻灯、紙芝居などによって農家・農村に国威発揚、戦意高揚を煽ったことへの「深甚なる反省」(戦後再建農文協初代専務理事・故 岩渕直助)をこんにちに引き継ぎ、真に民主的にして平和な日本と地域社会を創るための欠かせない仕事でもあるからだ(詳しくは近藤康男著『農文協五十年史』1990年)。

 日本国民は当時の日本の国家権力、軍国主義の被害者であったと同時に、アジアの諸国民に対しては紛れもない加害者であり、あるいは加害者にさせられた存在だった。この認識を欠いてはならない。現日本国憲法は、そのような二重の認識、反省を基本的な出発点に置いて制定された。

 本書は、この現憲法の基本精神を明らかにするとともに、―その逐条的な解説は他書に譲り―、その歴史的形成過程と地域における人びとの暮らしの作法、規範が日本国憲法をこんにちまで価値あるものとして存続、定着させてきた、〈国民の営みの所産としての日本国憲法〉の意味を明らかにしようとしたものである。

 その「まえがき」(農文協編集局著)は(強行採決前の6月に書いたものだが)次のように述べている。

 

 憲法を「尊重し擁護する義務を負う」(日本国憲法第99条)国会議員たちがそれに真っ向から反し、蹂躙する事態が起きた。

 去る6月25日に開かれた、安倍晋三首相に近い自民党の若手議員たちの勉強会「文化芸術懇話会」で出された意見の数々だ。いわく「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番だ。経団連に働きかけてほしい」。いわく「沖縄の2紙(沖縄タイムスと琉球新報)は絶対につぶさなあかん」。いわく「中国に、島の一つや二つとられてしまえば目が覚めるだろう」――。いずれも今国会で審議されている安全保障法案に批判的なメディアや辺野古問題などで眼の上のたんこぶと苦々しく思っている沖縄県民やその抗議運動を念頭に置いての発言だ(講師として招かれた作家の百田尚樹氏の発言を含む)。

 この政権与党の議員たちは、言論・報道・表現の自由というものをなんと心得ているのだろうか。日本国憲法第21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」、同第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」を引用するまでもない。言論、報道機関はつねに権力におもねることなくこれを監視し、時に批判する。それが社会の公器としての出版、報道機関などの責務である。それに対して異論、反論があるなら反批判で応酬する。言論には言論で対抗していくという当たり前のことがハナから眼中になく、権力を笠に「懲らしめる」というのだから恐れ入る。「文化芸術懇話会」を標榜するこの議員たちの「文化」「芸術」とはいかなるものなのか、想像するだに恐ろしくなる。「このままでは懲らしめられるのはマスコミではなく自民党になってしまうだろう」(「日本経済新聞」6月28日「社説」)。

 本書は、このような事象に象徴される為政者たちの日本国憲法に対する無知と傲慢を糺し、その世界遺産とも称さるべき大義と、「人びとの生活の作法」「自分たちの生きる世界の規範としての憲法」(本書、関曠野氏と内山節氏の言葉)の歴史的形成過程とその意義を明らかにし、かつ、「現憲法の理想を実施に移すことによって、人類の新しい歴史のページを開いてゆくことができる」(同、色川大吉氏)という未来に向けた展望を広く読者の皆様と共有すべく企画・発行いたしました。

 現憲法は安倍首相が「けなす」ようにアメリカの押し付けによってできたものなどではないこと、その思想的底流に明治期以降の全国津々浦うらで、各界各層の多彩な民衆によって創られた百にも上る憲法草案があったこと、その後のGHQの占領下にあっても、そうした民衆憲法草案の先駆的思想を引き継ぐ日本のリベラル派官僚や学者の意見が非常に多く採り入れられてできたものであること、などを明らかにします。

 そうしてできた現日本国憲法は、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義といういわゆる憲法三原則のほかに、独立した一つの章(第八章)を設け、日本社会における「地方自治」(地域自治)の重要性を明記していることも見逃してはならない原則として成り立っていることも明らかにします。

 本書を、権力を縛る憲法と、地域に生き地域をつくり、自分たちの生きる規範をつくり発展させていく鏡としての憲法の意味を読み取る武器にしていただければ幸甚です。

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TPP反対の声も弾圧されかねない自民党憲法改正草案

 右の「まえがき」の冒頭で集会、結社、表現の自由を保障した憲法21条を引き合いに出して「文化芸術懇話会」での自民党議員たちの発言を批判したのは、私たち農文協を含む出版、言論、報道機関などへの不当な圧力であるからだけではない。農家の皆さんも含めた国民全体の集会、結社、表現の自由の圧殺につながりかねない危険な言動だからである。そして、それが杞憂に過ぎないものでないことは自民党憲法改正草案にすでに堂々と書かれている。同草案第21条は、上掲現行本文に続いてわざわざ第2項を新設し、次のように述べている。

「2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは認められない」。

「公益及び公の秩序を害する」とはいかなる場合、状況を指すのかは時の権力によって裁断されることは火を見るより明らかだ。TPPを国策として推進するために「1.5%のために98.5%が犠牲になってよいのか」と言った前原誠司外相(当時)のあの発言を思い出してみよう。TPPに反対する運動、集会、デモ、結社などは「98.5%の公益を害する」として「認められない」ことになりかねない。戦争法案反対などとプラカードを掲げデモをすることなどは、さらにその危険性が高い。戦争への道を開き加速させたあの「治安維持法」をも思い出させるようなかかる事態を黙って見過ごすわけにはいかない。それは、国内320万人、アジア諸国2000万人もの犠牲者の無念の思いから眼をそむけることに他ならないからだ。

 本書はこのような思いや、上掲まえがき後半に述べた企画趣旨にご賛同いただいた各界の方々の熱い思いと渾身の書き下ろしによって出来上がった。

 ご執筆いただいたのはわが国歴史学の重鎮であり東京経済大学名誉教授の色川大吉氏や映画作家の想田和弘氏を始め総勢15名の多士済々の方々だ(379ページ参照)。

 もとより、15氏の意見や主張は一枚岩ではない。微妙な違いや時には相当に相反する見解ももちろんある(その多様さが本書の面白いところでもある)。しかし、今日の改憲勢力や解釈改憲の邪な動きには異口同音に警鐘を鳴らし、現憲法の基本的精神や三原則、さらには地方自治(地域自治)をいかに発展させていくかという点では共通した論陣を張っている。紙幅の関係ですべての方の論旨を紹介できないのは残念だが、ここでは2氏の主な論点、主張をみてみよう。

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日本国憲法の大義を考える二つの軸
――憲法の理想と精神を実質化させていく課題と、地域で人びとが生きる規範が生まれうる共同体社会の再創造

 ■現憲法成立の経緯から「押し付け憲法」論の虚妄を排し、憲法の理想を実施に移すことこそ世界の平和と人類の新しい歴史を拓く――色川大吉氏

 色川氏は現憲法成立の背景に、今から140年も前の明治期に現憲法の三原則にも通ずる90種もの優れた民間憲法草案が日本人自身の手で創られていたこと、敗戦直後もその先駆的思想を引き継ぐ形で「1946年2月、GHQ草案と日本政府案とが成立する前に、少なくとも13種の憲法草案が民間でつくられ、発表されていた」ことなどの歴史を詳細に紹介し、その中の「憲法研究会案」というものがGHQ幹部の目に止まり、それをたたき台にしてGHQ草案が起草され、「日本国民の意思が、……実質的に相当に汲み入れられている」(家永三郎氏)事実を明らかにしている。そして、「もし、こうした前段階での準備がなかったら、どうして突然のマッカーサー指令によって、1週間で日本国憲法草案を書きあげるという離れ業を成し得たであろうか」として「押し付け憲法」論を事実をもって排している。当時の支配層以外の日本国民には、自前の新しい憲法をつくる能力が厳としてあったのである。

 その上で色川氏は、「日本列島をミサイルの針ねずみにして防衛するより」「現憲法の理想を実施に移すことこそ現代世界での最良の安全保障」であること、それは決して絵空事の「理想論」ではなく、世界の国際環境の今日的特質から必然的に導き出される論理的帰結であることを強調している。そして、そのことによって「世界の尊敬を受ける」、侵略せず、侵略されない国になる、真の「積極的平和主義」の道であることを熱く語っている。抑止力こそ平和の武器と信じて疑わない為政者に、よくよく熟読玩味してもらいたい論考だ。

 ■憲法を政府を縛る契約へ純化させていく課題と、私たちが生きる世界の規範をどうつくっていくか=共同体社会の再創造という課題――内山節氏

 内山氏は「憲法には二つの意味がある」とし、大要以下のように述べている。

「ひとつは政府の行動を縛るものとしての憲法、もうひとつは人びとがどのように憲法をとらえてきたのかということである」。後者は「イメージ化された憲法」と言ってもよく、その最大のものは「平和憲法」というイメージであり、これが「明治以降の戦争の歴史の否定、……戦争なき社会の維持というイメージとともに……、憲法を『国民の憲法』として定着させた」ものである。

 もちろん「イメージ化された憲法は矛盾もはらんでいる。平和な日本というイメージがありながら……今日の集団的自衛権の名の下に再び実質的な憲法改定がおこなわれている。この現実と平和憲法というイメージは調和しているのかといえば決してそうではないだろう。……だが私がみておきたいのは、そういうさまざまな矛盾がありながらも憲法イメージが戦後の社会イメージと重なり、それがこの社会のひとつの規範として機能してきたということである。ここに条文解釈だけではみることのできない、もうひとつの憲法の意味がある」。であるが故に、「条文だけを見れば戦後憲法は今の時代に合っていない面もある。だが私は、憲法を変える必要性はないと思っている」。

 こうして内山氏は現憲法を「国民の憲法」にした人びとの世界観、その憲法イメージが日本社会の規範の一つとして機能してきたことを高く評価しながら、論を次に進める。

 憲法を、ともにある社会の規範のように感じさせてきたのは、日本の人びとが「共同体を基盤にしながら長い歴史を紡いできた」からである。しかしその共同体が今、“死に体”になりつつあり、「個人と国家が媒介をもたずにつながる時代」になってしまった。

「今日の時代の危険性のひとつはここにあるのだと思う。個人と国家が直接結ぶかたちになれば、個人の利益と国家の利益を同一視する傾向が出てくる。強い国家がなければ私たちの利益も失われるという意識である。それをナショナリズムと呼んでもいいが……」「それは、共同体社会がつくりだした自分たちの生きる世界の規範というものと、政府を縛る契約であるという面とを憲法として統合すること自体がもっていた無理である」。

 とするとこんにちの課題はどこにあることになるのか。「そのひとつは憲法を、政府を縛る契約へと純化させていくことだろう。近代国家が成立している以上そうするしかない。しかしそれだけで終わってはならない。もうひとつ自分たちの生きる世界の規範をどうつくっていくのかという課題がある。…『国民の規範』ではない『私たちの規範』を生み出せる社会をつくりだすことである」――。

 憲法を憲法として論じ正しく純化させていくことと、国家意思に足下をすくわれない「私たちの規範」を共同体社会の再創造という課題と併せ追求していくことが求められている。

 その先駆する可能性は、「田園回帰」の動きに見られるように、農山村にこそある。

(農文協論説委員会)

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