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農文協トップ主張 2011年8月号

大震災、原発災害
「あきらめない東北」が日本を変える

目次
◆業種の壁を越えたつながりが復興を後押し
◆沿岸と内陸のつながり
◆動きながら仕組みをつくる若者の力
◆自治体の存続をかけ、原発災害に立ち向かう
◆垂直のヒエラルキーを水平に

 東日本大震災から3カ月、農文協では、本誌と同日発売の『季刊地域』第6号で、「大震災・原発災害 東北はあきらめない」を総力特集した。そこには、政治の混迷・空白がつづくなか、巨大地震と大津波による被害はもちろんのこと、収束の展望が見えない原発災害に対してさえも、けっしてあきらめることなく立ち向かう人びとの姿、またそれを支援する人びとのつながり合う姿が凝縮されている。

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業種の壁を越えたつながりが復興を後押し

 岩手県陸前高田市で200年以上つづく醤油・味噌製造販売の老舗・(株)八木澤商店では、40人の社員がいったんは全員が高台に避難したものの、営業課長の佐々木敏行さん(当時47歳)が消防団員として住民の避難誘導中に津波に巻き込まれ、亡くなった。津波は八木澤商店の蔵も工場も、会長の河野和義さんの自宅もすべて押し流した。

 河野さんは、「社員のうち、家を流されたのは27人、身内を失ったのは7人。妹を失った僕を入れると8人。社員が『何もしないでひとりでいると気が滅入るから、何か仕事をしたい』と言ってきたから、『避難所以外の孤立世帯に物資を届けよう、それが仕事だ。200年間、地域に受けた恩、いまお返ししないで、いつ返すんだ』」と、陸前高田に隣接する一関市大東町の避難先に陣取り、全国の取引先や友人と携帯電話で連絡を取り合って、送られてきた食料や衣類などの救援物資を在宅の被災者に届ける活動を震災後の1カ月間指揮した。10台あった会社のトラックのうち、津波で流されなかった2台を使い、ガソリンがなくなると、会社の仮事務所と物資の集積所として借りていた陸前高田市内の高台にある自動車学校の車から抜き、それもなくなると、高速道路の通行制限で東京に牛乳を届けられなくなった葛巻町の乳業会社が、運搬車のガソリンと牛乳を提供してくれた。

 そして4月12日からは、会社の営業再開に向けて全力で走りだす。内陸部に工場があった味噌は3.7tが残り、これまでどおり売りつづけることができる。もろみや製品在庫がすべて流された醤油は、八木澤商店同様に伝統製法にこだわる秋田県の老舗に委託生産することにし、早くも5月1日の「けせん朝市」で、「氣仙味噌」「国産丸大豆しょうゆ」の販売を開始、翌2日には、一関市や一関商工会議所の支援で探した大東町の空き工場に開設した倉庫兼営業所で出発式を行ない、本格的な営業活動を再開した。

 この間、八木澤商店では従業員を一人も解雇しないどころか、2人の新入社員を内定どおり採用した。それは、「廃業、解雇という言葉が出るようでは、陸前高田から働ける若者がいなくなり、年寄りばかりになって、陸前高田のまちがなくなってしまう」との危機感からだ。その思いを、中小企業家同友会や地元学の県内外のつながりが後押しする。仙台市で警備保障会社を経営する友人は、震災後誘致企業の第1号になり、陸前高田でスタッフ80人を募集中。福井県小浜市の塗り箸会社の会長は、復興住宅の建設で出る気仙杉の端材を使った割り箸づくりの仕事の話をもってきてくれた。醤油工場の再建のために、醸造用の水が確保できる可能性の高い土地の提供を申し出てくれた友人もいる。震災前からの業種の壁を越えたつながりが、八木澤商店と陸前高田復興の大きな力となっているのだ。

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沿岸と内陸のつながり

 内陸に位置する岩手県住田町では、隣接する陸前高田市や大船渡市から支援要請を受け、水、食料、毛布などの備蓄物資をすべて放出するとともに、遠野市や水沢市、北上市に職員を派遣して物資を購入し、炊き出しを含めた支援を、県外からの支援が届き始めた震災1週間後までつづけた。また、支援物資は被災地の避難所にしか供給されないため、被災者を受け入れている町内の家庭にも配布しつづけた。

 町長の多田欣一さんは「同じ気仙地域で運命共同体の陸前高田市、大船渡市の被災者に何ができるか」を考え、震災から四日後の3月15日、町産材を使った木造仮設住宅100棟の建設を決断し、指示する。

 気仙地域は良質な気仙杉と、全国に名を馳せる気仙大工の里であり、なかでも住田町は総面積の90%を森林が占め、その3分の1である1万3500haが町有林で、2003年には「森林・林業日本1のまちづくり」を掲げ、山づくりから製材、集成材、プレカット工場、気仙大工による住宅建築までの一貫体系を構築してきた。そうした林業のまちだからこそできる支援策として、一日も早い木造一戸建て仮設住宅建設をめざしたのだ。

 しかし、現行の災害救助法などでは、仮設住宅は被災した自治体にしか建設できず、発注は都道府県しかできない。1棟250万円として100棟で2億5000万円が必要だが、町の単独予算での建設、競争入札でなく随意契約での建設を町長の専決処分で決定したが、このことを議会や職員、住民は快く了解した。

 この木造仮設住宅は、1〜2日で完成するよう設計されていたが、実際には完成までに1カ月以上を要した。断熱材やアルミサッシ、水道管などの工業部材が入ってこなかったからだ。それでも町内産スギ、カラマツを使った仮設住宅93戸が完成し、震災後3カ月を前に全戸入戸。東京の大手が受注した1棟400万〜500万円のプレハブ仮設住宅で雨漏りやアリの発生が問題となるなかで、1棟250万円の住田町の木造仮設住宅は「温かみがある」「木の香りが心地いい」「プライバシーが保たれる」と評判がよく、「仮設としての使用後は譲ってほしい」との問い合わせも多く寄せられているという。

 山崎農業研究所事務局長の小泉浩郎氏は、「被災地を内陸に向けて見れば、沿岸部の背後には日常の暮らしがそのままの地域が広がっている。隣接する隣り同士には資源も知恵も力もあるのだ」と述べている(『耕』2011年春号)。住田町の木造仮設住宅は、まさにその隣接地域の「資源と知恵と力」を示しているのではないだろうか。

 また、こうした取り組みが報道されると、森林保護団体more trees(代表は音楽家の坂本龍一氏)やFSCジャパン(森林管理協議会・本部ドイツ)などの全国的な組織が募金を全国や世界に呼びかけてくれた。その後、県から建設資金を負担するとの申し出もあったが、住田町ではこれを断り、この取り組みに共感し、参加してくれる人びとの志を受け入れようとしている。木材や森林に対する多くの人の共感が、森林と林業を守ることにつながると考えているからだ。

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動きながら仕組みをつくる若者の力

 3月14日、人口約5200人の群馬県片品村は、津波と福島第一原発の原発災害の被害を受けた福島県南相馬市を支援するため、3000〜5000人の被災者受け入れを表明した。18日に、実際に避難してきたのは約980人だが、震災からわずか3日目の決断と7日目の行動は、その敏速さもさることながら、滞在施設として村内の民宿や旅館を提供し、普通の家庭生活に近いかたちで避難生活を過ごせるよう配慮されていることも注目された。

 当初、受け入れ期間は約1カ月の予定だったが、津波などの震災被害が甚大であったこと、先の見えない原発災害もあって、帰りたくとも帰れない人たちが多数いるため、7月中旬まで延長。さらに長期化しても支援を続けるという決意の背景に、未曾有の震災に対して「自分たちも何かをしなければ」と集まった若者の熱意があった。

 スキー場がある片品村は尾瀬観光の拠点でもあり、村内には約290軒の民宿、ペンションなどがある。村長の千明金造さんが役場の幹部会議で被災者受け入れの意向を打診したのは3月14日。その日のうちに村の民宿旅館組合連合会の了承も得、県庁に出向いた。当初は1カ月程度の滞在期間を想定し、一人一日当たりの食費として2500円は必要という連合会の意見を反映、1億円を村の自主財源で予算化した。

 18日の早朝、片品村から180km離れた南相馬市を出発した23台のバスが続々到着し始めたのは、夜10時を過ぎたころ。子どものいる若い世帯などは、早くに車で自主避難したので、バスで避難してきた人の大半は高齢者。バスを降りても民宿、旅館まで歩けない人もいて、若者ボランティア集団「片品むらんてぃあ」の約40人が背負って宿まで案内した。なかには片品の雪景色に驚いてパニックに陥り、「帰る」と、山に入ろうとする人までいた。

 片品村では、昨年からの村の総合計画づくりの一環で、村民へのアンケート調査を実施した。その結果、10代から20代の若い世代ほど愛郷心が強く、「働く場所さえあれば村に残りたい」と考えている若者が多く、これを受けて村では3月、むらづくり観光課に「若者雇用創出室」という部署を新たに設けた。その第1回の会合を18日に予定していたところに震災が起き、そこで急きょ結成されたのが「むらんてぃあ」である。村長の千明さんは「この村にこんな若者たちがいたのか」と驚いたという。

 驚いたのは若者たちの数だけではない。その行動力にも驚いた。おとなは何をするにも「まず会議」だが、若者たちは行動しながら仕組みをつくっていく。携帯メールやツイッターで連絡を取り合い、住民課に代わって村内外からのボランティアの申し出を受け付け、被災者を隣接する沼田市の病院へ送迎し、被災者に靴を提供したいというメーカーの要望に応えて、一人ひとりに靴のサイズを聞いて回ったりした。

 そして5月から、旧JA片品村の空き施設(1階が農協観光の事務所、2階はホール)を借り、被災者が気軽に集えるたまり場づくりに着手、23日に「じぇじぇ・あがっせ」(さあ、おあがりください、という意味の南相馬の言葉)をオープンすると、国の緊急雇用対策を受けて、あがっせの運営スタッフ4名、病院搬送・村内巡回バス「まいれー号」のドライバー6名を雇用するなど、被災者が被災者をサポートし、同時に雇用へとつなげる動きもつくり出した。「まいれー」は相馬野馬追のかけ声で、南相馬の人びとが自分たちでまいれー号を走らせ、集いの場を運営し、むらんてぃあ事務局がサポートする仕組みである。

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自治体の存続をかけ、原発災害に立ち向かう

「東北はあきらめない」には、自治体の存続をかけて原発災害に立ち向かう首長たちも登場する。

 計画的避難区域に指定され、全村避難の福島県飯舘村村長の菅野典雄さんは、放射線被ばくによる「健康のリスク」とともに、「避難にともなう生活のリスク」の重大さ、悲惨さをも心にかけてほしいと国に訴えてきた。

「生きるということについて、都会の方たちと私たちの考え方は根本的にちがいます。飯舘村の住民にとって生きるというのは家族や集落の人たち、家畜や自然とともに生きているということなのです」

 飯舘村では屋内作業の工場や特別養護老人ホームを残して村民の仕事の継続と再開の条件を維持し、無人の集落や民家を見回る防犯パトロールへの村民参加を実現し、さらに「国全体のプロジェクトの一部に飯舘村を組み込むのではなく、飯舘村の事業を国家プロジェクトとして位置づけてほしい」と、昨年から農地・水・環境保全向上対策で実施してきたヒマワリ栽培を、農地除染の国家プロジェクトとして取り組むことを提案している。

「飯舘流スローライフ」を「までいライフ」と呼び、「資源を大切に」「CO2削減」などの直接生活に関係しない言葉で語るのではなく、土地の暮らしに根ざした「までい」(真手=両手ということから、丁寧な、心を込めて、というような意味)な暮らしをめざし、合併もせずがんばってきた村は、「避難計画」ではなく「早期帰村希望プラン」と名づけた計画書を県に提出した。

 一方、警戒区域、計画的避難区域、緊急時避難準備区域が混在する南相馬の桜井勝延市長は、「脱原発、反原発を超えて、原発を使わなくてもよいエネルギーシステムの構築を事業化していく。風力、水力、バイオマス、太陽光など、あらゆるものに可能性を見出すエネルギー開発が必要です。南相馬を原発克服産業の拠点にするのです」と語り、そのための資金調達は、「世界的に大きな資本だけではなく、市民も投資でき、仕事に参加できると同時に、利益も享受できる市民ファンドのようなシステムづくりに着手したい」「高台に街をつくればいいというような『復興』とはまったく違う発想で、南相馬が津波や原発災害を克服する世界的なプロジェクトのメッカとなる」と述べている。

 桜井さんは、震災発生直後、国の救援物資が遅れたり原発災害についての情報が錯綜・不足するなか、インターネットの動画投稿サイト「ユーチューブ」で英語字幕付きで南相馬の窮状を訴え、アメリカのタイム誌に「世界で影響力ある100人」に選ばれるなど世界的な注目を集めた。その経験を生かし、原発克服のメッカとしての南相馬建設の資金と英知の結集を、世界中に呼びかけている。

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垂直のヒエラルキーを水平に

 菅野村長、桜井市長はともに酪農家出身。菅野さんは、酪農をつづけながら嘱託の公民館長として、5年間で91人の村の女性をヨーロッパに派遣する「若妻の翼」事業を支えた。桜井さんは、産業廃棄物処分場を阻止する運動のなかで市会議員となり、そして昨年、市長に選ばれた。

 農家出身の、この2人の震災後の不眠不休の活動をジャーナリストとして取材するなかで、4月の東京都世田谷区長選に立候補することを決意し、「原発依存からの脱却」を訴えて当選したのが保坂展人さんだ。

「飯舘村も南相馬市も、東京電力福島第一原発の恩恵は何ひとつ受けていません。立地自治体の交付金対象から外れています。被害だけを受けた。恩恵を受けてきたのは、電気使い放題の暮らしを当然だと思ってきた東京の、私たち消費者です」

 保坂さんは選挙戦で「世田谷を『再生・持続可能な新エネルギー』の研究・開発の拠点に」と訴え、当選後にも南相馬市を訪れ、桜井さんと「南相馬と、多くの大学や研究機関、企業がある世田谷で知恵を出し合い、提携していこう」と話したという。また飯舘村も再訪し、「原発依存社会とは対極の生き方が可能な地域、エコビレッジをめざしていた村です。そんな村が汚染され、避難を余儀なくされるというのは、何とつらくむごいことだと強く思いました」と述べ、さらにこう話している。

「この重大事故で日本人の新しい意識が試されているのではないか。国、都道府県、市町村という平時の、あるいは明治維新以来の垂直のヒエラルキーを水平関係に置き換え、自治体がその垣根を越えてサポートし合う大きな転機を迎えていると感じました」

 国は、菅首相が五月六日に静岡県御前崎市の中部電力浜岡原発の停止を要請し、「エネルギー政策を白紙から見直す」と表明したものの、国家戦略室がまとめた「革新的エネルギー・環境戦略素案」では「重要戦略」のひとつに原発を位置づけ、6月18日には海江田経産相が停止中の原発の再稼働要請方針を明らかにした。原発依存からの脱却をめざすのか、依存しつづけるのか、なんとも腰が定まらない。

 一方、経団連は5月27日、「復興・創生マスタープラン〜再び世界に誇れる日本を目指して〜」を発表。その「おわりに」では、「原子力政策を含めたエネルギー政策」の検討などにふれたうえで、「日本経済の再生のためには、今回の震災からの復興を踏まえた新成長戦略の加速が求められる。とくに震災前からの懸案である『社会保障と税・財政の一体改革の推進』や『TPP(環太平洋経済連携協定)への参加』を、震災によって後退させることなく推進する」と締めくくっている。新成長戦略は原発容認にむかうだろう。そしてTPPは被災地の復興を困難にし、日本の地域を苦しめる。

 復旧、復興にむけて「業種の壁を越えたつながり」や「沿岸と内陸のつながり」、若者たちとむらのつながりが生まれている。「明治維新以来の垂直のヒエラルキーが水平関係に置き換えられ、自治体がその垣根を越えてサポートし合う動き」も始まっている。「あきらめない東北」に呼応し、支援し、TPPを跳ね返し、地域からこの国の未来を築いていきたい。

(農文協論説委員会)

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「田舎の本屋さん」のおすすめ本

現代農業 2011年8月号
この記事の掲載号
現代農業 2011年8月号

巻頭特集:一枚にいろいろ植わっていた畑をヒントに/草を敵にしない農業をヒントに/機械がなかった頃の手作業に学ぶ/暑い夏は積極穂肥で一等米/ラクして続ける小力イチゴづくり/子牛のハッチは手作りがイチバン/農家の干し野菜最前線 ほか。 [本を詳しく見る]

季刊地域6号 季刊地域6号』農文協 編

特集:大災害・原発災害 東北(ふるさと)はあきらめない! I  原発災害に立ち向かう 怒りと決意の飯館村「までい」の村は負けない/風評被害とたたかう直売所「はたけんぼ」「みずほの村市場」II 大震災を生き抜いて/宝来館(釜石)/八木澤商店(陸前高田)/重茂漁協(宮古)/熊谷産業(石巻) III むらとまち、地域と世界を結び直す/地域からの脱原発・自然エネルギー革命の動きが始まった! [本を詳しく見る]

までいの力 までいの力』農文協 編

飯舘村を襲った悪夢のような地震と原発事故。 突然襲ってきた眼には見えない災害が村を恐怖のどん底に突き落とした。それまでいっしょうけんめい築いてきた暮らしがガラガラと音をたてて崩れ落ちた。牛の面倒は、農作業の準備は、そしてふるさとは・・・。 村民も役場職員も極限状態にありながら乗り越えられた力。それは村が地域を見つめ先人たちが築いた「までい」の力があったから。飯館村の復旧と復興に向けて! ★この本の販売収益は飯館村復興のために役立てられます。★ [本を詳しく見る]

地域に生きる 農工商連携で未来を拓く 地元学からの出発 TPPと日本の論点

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