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農文協トップ主張 2007年5月号

むらの歩み60年に未来をみる
ベストセレクト集」をむらづくりに役だててほしい

目次
◆いろんなことがあった、いろんな人がつくってきた
◆村の実態調査をキソとした新しい村づくり
◆暮らしを明るくする若妻グループ
◆畑に出ない嫁っこたちから畑大好きの嫁っこたちへ 共同畑の大きな波紋
◆複合経営を築く 親子三代 生活と経営の年輪
◆楽しみイネつくりシリーズ

いろんなことがあった、いろんな人がつくってきた

ベストセレクト集」には、本誌グラビアを撮り続けた橋本紘二さんの懐かしい写真ページもあります。
正月に一時帰郷した出稼ぎ農民
正月に一時帰郷した出稼ぎ農民(昭和52年 新潟県松之山町)
田植えの時期はお母さんたちが活躍する
田植えの時期はお母さんたちが活躍する。耕耘機のトレーラーに乗って今日は本家、明日は隣の家の田んぼと助け合っていた(昭和50年 松之山町)

 「大変懐かしい文章を読ませていただき、当時を思いだし、感無量です。37年前の仲間づくりは間違っておりませんでした。今は72歳になりましたが、地域活動や老人クラブなど、頑張っております」(岩手県・立花利通さん)。

 「母は昭和57年に亡くなりました。私も今年で77歳になりましたが、まだ現役の百姓として頑張っています。一昨年まで野菜の産直を続けてきましたが、体力の関係もあってやめました。が、米は全量直販を続けています。東京都文京区の方々とは平成4年からすでに14年ほど続いていますが、もうすっかり親せきみたいな信頼が生まれ、とても楽しくやっています(福島県・吉田恒雄さん)。

 これは、「ベストセレクト集」に記事を再録させていただいた農家の方々からの近況のお便りの一部である。

 そんなお便りを読みながら、農家もむらも、積み重ねながらの息の長い営みなのだと、改めて強く感じた。

 戦後60年、いろんなことがあった。終戦直後の米の強権供出と重税、昭和27年のMSA小麦輸入に始まる農産物輸入の増大、米の減反政策……農村には「冷たい風」がずいぶん吹き荒れた。今また、牛肉、乳製品、小麦、砂糖の関税を撤廃しようという日豪FTA(自由貿易協定)の交渉が始まり、一方、米価をはじめ農産物価格は低迷し、農家に先行き不安をもたらしている。

 そんな「冷たい風」が吹くなかで、農家は工夫し助け合って生きてきた。いろんな人がいろんなことをつくってきた。そんな農家・農村の足跡を残し次代に引き継ぎたい。こうして復刊60周年記念号『現代農業ベストセレクト集』が誕生した。

 60年分の膨大な記事のなかから農家が書いた、あるいは農家を取材した記事にしぼり、激動する時代のなかで生まれた農家の工夫、家族の絆やむらの共同性を守る取り組みの記事を中心に選択した。

 掲載した記事は約100本、改めて読み進めると、そこには農家・農村の「変わりつつ、変わらない」ありようが浮かびあがってくる。そして、「変わらない」ありようこそ、明日への希望につながる農家力・農村力なのだと思えてくる。5本の記事を紹介しながら、そのことを考えてみたい。(以下、セレクト集での掲載ページを示す。なお、冒頭の立花さん160頁、吉田さん172頁)

村の実態調査をキソとした新しい村づくり

●長野県大田村連合青年団の活動記録(57頁)

 1955年(昭和30年)1月号の記事である。

 今、70〜80代の農家の多くは、若いころ村の青年団員として活動したにちがいない。戦後の民主化のなかで村々に青年団が生まれ、読者会や演劇などの「文化活動」が盛んに行なわれた。やがて、青年団の関心は経営や村の農業をどうするかに向かい、山に囲まれた「貧しい」水田単作地帯だったこの大田村でも、活発な活動が行なわれた。

 当初は学者などの講演会を開いたが、これだけでは村の未来が見えてこない。生活改善でカマドを改善しても私たちの生活が楽にならないという女性の訴えもあった。どう働いても楽にならない生活をどうしたら豊かにできるか、自分たちで村の調査を進めていこうとなったのである。

 実態調査の報告会で、ある青年がこう話した。

 「おれの行った家は4反そこそこなので、親父さんは村の横貫道路の人夫に出ているんだが、収入は何が一番ですって聞くと、ちょっと待ってくれといって、家計簿まで持ってきて調べてくれた。家計簿だってボロ紙をつづり合わせたもので、ガサガサのなれない手つきで計算してくれたが、30羽の鶏の産む卵が一番だということになった時、おれ、なんといっていいかわからなかった」

 そんな調査から青年団の課題が明らかになっていった。

 「水田耕作面積が5反以下の家が村の農家戸数の半分を占めている。この人たちがどう生活しているか、どうしたら生活が自由になれるのかを考えることが、村の進む方向を見つけ出すのにも、また青年団活動をより活発にするためにも、一番必要なものになってきた」のである。

 「小さな農家」が生きる手立てとして注目したのは家畜を飼うことであった。

 「土地のないものが家畜を飼うことによって、採草地や飼料畑が実際に必要になってきて、山の採草地化、開墾等をやろうとする相当の力になるのではないか」

 こうした青年たちの実態調査を柱とする活動は、先輩たちにも受け入れられ、村人を結ぶ力になっていった。

暮らしを明るくする若妻グループ

●富山県砺波市(80頁)

 1960年(昭和35年)、普及員の高島忠行さんが執筆した記事である。この当時、青年団とともに若妻グループがたくさん生まれた。この記事に登場する「新進クラブ」は会員12名でうち5名は農業経験のない若嫁さんたちだ。自作自演の素人演芸や人形劇などの活動をしていたのだが、「昔から村に伝わる付け届けの風習改善」を話題にしたところ、姑さんたちに誤解され、反発もあって活動が停滞した。「生活や生産関係からかけ離れたことが多かった」と話し合った若妻たちは、夫たちに協力を求めながら、働きやすい作業衣つくりや野菜つくりの勉強を始めた。若妻たちが豚の管理飼育料をもらうという話をまとめ、にわかに養豚熱も高まった。

 「今まで豚が飼われていても人の豚のように思えて、夫の留守などには断食させたこともあったのだが、売り上げの2割が天下晴れて大っぴらに自分で勝手に使える金が入るというわけで一生懸命です。早く大きくさせるために、エサのことやら手入れのことや豚のよい悪いの見分け方など、一生懸命勉強するようになってきました」

 この豚の飼育には、こんな会員の思いがあった。

 「コメづくりだけではますます、経営の大きさから収入の多い農家と少ない農家の差が開いてきます。このことから小さい経営の人が引っ込み思案になってしまっては、困ったことになるのではないでしょうか」

 青年たちと同じように、若妻たちも、むらのみんなが豊かに生きる道を模索し続けたのである。

畑に出ない嫁っこたちから畑大好きの嫁っこたちへ 共同畑の大きな波紋

●秋田県仁賀保町農協(194頁)

 それから25年たった1985年(昭和60年)の記事。この間、農村をめぐる状況は大きく変わった。高度経済成長の波が農村に押し寄せ、出稼ぎそして兼業が増えた。兼業による収入が小さい農家を支えたのである。この仁賀保町でも女性たちの多くがTDKの大工場に勤めにでていた。

 兼業でお金を稼ぎ、すべてを買う生活…そのなかで、健康、家族の和、農の心…が失われつつある。それではいけないと、仁賀保農協の佐藤喜作組合長(現・日本有機農業研究会会長)が自給運動を呼びかけたのは昭和45年のことである。

 そして昭和52年、自給運動の一環として「共同畑」が始まった。「勤めと家の仕事で忙しい主婦たちが、畑の中で井戸端会議ができるように」と、組合長が婦人部に呼びかけたのがきっかけである。ご主人も姑さんも子どもたちも応援してくれて、みんな、畑づくりが楽しくなった。

 農協の生活指導員・渡辺広子さんが「嫁っこ」たちの声をこう綴っている。

 「金、金、金と明け暮れた日々。土の中にこんなにたくさんの宝物があるとは思わなかった」

 「兼業の進むなかでともすれば失われがちな農業の希望や誇りを、自給運動や共同畑に結集する中で発見した。これからは、共同畑を『基礎講座』とし、わが家の畑は『上級講座』とし、仲間や先輩や義母からよく習おう。田んぼ同様、畑にも力を注ぎ、義母の青空市場へ『これも、あれも』と出せるような野菜をつくり、義母の後継ぎになろう」

 そんな女性たちが、姑さんの時代の「引き売り」や「朝市」を引き継ぎ、それが今日の「地産地消」をきりひらく原動力になったのである。

 この「セレクト集」には農村女性がたくさん登場する。本書は、戦後の生活改善運動―自給運動―地産地消と展開してきた農村女性の活動をいきいきと記録した戦後農村女性史でもある。

複合経営を築く 親子三代 生活と経営の年輪

●宮城県・二階堂彦寿(166頁)

 仁賀保町の農協組合長が自給運動を提唱するころ、わが『現代農業』でも「自給」に注目するようになる。野菜産地では土の悪化、連作障害が深刻になり、農薬中毒による農家の健康破壊など、経営面でも身体面でも農業近代化の矛盾がだれの目にも明らかになっていた。これを打開するうえで拠り所になったのは、農家が農家であるかぎりもっている「自給」の側面であった。

 この記事は、連載で追求した「自給型複合経営」の農家事例の一つである(1973年・昭和48年)

 「わたしはつくづく思うのだが、毎日の食べるものがうまいと家のなかもうまくいく。大家族であればなおさらである。祖母や母や妻の女衆にありったけのウデをふるってもらう。味噌もしょう油も漬物も、よその人に自慢できるうまい味をつくる。母がこっそりドブロクをつくって味噌に入れる。わが家独自の『香味』を出している。ありがたいことに、農家は金をかけなくてもうまいものが食べられる。自給できるからだ」

 「今、農村には農業近代化の波と都市化の波とが押し寄せている。この二つは根っこは同じで大資本がもうけ、農家をほろぼすものだ。一度自給がくずれると、あとは急速に農家の経済はくずれてしまう、都市化の波に押し流されてしまう」という父・保次郎さん考え方を、若き彦寿さんはしっかり受け止めた。経営は、イネ+鶏+野菜+豚+果樹の複合経営、そして中心柱はイネである。

 「収入面でもそうだが、それ以上にわが家にとって水田は親子三代の精神的な支柱でもある。水田には、祖父母や父母たちの願いがこめられているからだ」

 行商や日雇いをしながら小作の水田を増やしてきたおじいさん、お父さんが戦地にいっている間、田を守りぬいたお母さん…そんな苦労のうえに今がある。「『農業は一代にしてならず』というのが、私の現在の実感である」と彦寿さんは述べている。

 先祖から受けついだ田畑をおれの時代に荒らすわけにはいかない…そんな「変わらない」農家の心情が、家族経営を維持し、むらを伝承してきたのである。

楽しみイネつくりシリーズ

●平均48歳の“4Hクラブ”・兵庫県(260頁)

 1980年(昭和55年)。本誌でおなじみ、兵庫県の井原豊さん初登場の記事である。集落は全員兼業農家。そんな農家が4Hクラブを結成、イネつくりに火がついた。

 「都市近郊で、みんな毎日の仕事はバラバラ。たまに顔をあわせるのが葬式のときなんですね。仕事はバラバラやからお通夜いうても、何も話すことがあらしません。何やら淋しいんです。最後のころになってでてくるのは、やっぱり農業のことですのや。イネのこと。それやったら、いっぺん研究グループつくってみようやないか、いうて声をかけてみたんです。みんな同じ思いをもっとったんですな。『オレも、オレも』で、すぐ10人集まり寄ったんです」

 兼業の小さな農家が編み出したイネつくりは、硫安などの単肥を使い徹底的に金をかけないやり方。井原さんはその後、イネの力を存分に引き出す「への字稲作」を提唱していった。こうした資材依存から抜け出す「農家の技術」は、作物や地域の自然を生かし、身体に無理がなく、年をとってもやれる「小力技術」の多様な工夫をもたらした。

 働きかけ働き返される―育てることは学ぶこと。そんな「変わらない」農耕労働の営みが豊かな「農家の技術」

「小力技術」を生み出してきたのである。この豊かな蓄積は、定年後に農家を継ぎ、楽しく農業をやるために大いに役だつ農家共通の財産でもある。このセレクト集には、そんな農家の技術が凝縮されている。

 戦後60年、いろんなことがあった。農家も農村もずいぶん変わってきた。が、そこには「変わりつつ、変わらない」農家とむらの営みがある。

 自給を基礎に暮らしをつくる農業は、「地産地消」の大きな流れに引き継がれた。

 農家の土地やむらへの思いも変わっていない。いま課題になっている集落営農を支えるのも、先祖からの田畑を次代に引き継ぎ助け合う「変わらない」気持ちなのだと思う。

 この「ベストセレクト集」を、自分たちが関わってきた時代を見つめ、これから何をしなければならないかを考える歴史素材として、活用してほしいと思う。「セレクト集」に登場する農家の取り組みと自分がやってきたことを重ね合わせながら、自信と誇りをもつよすがとしてご覧いただければと思う。そして、むらの新しい担い手づくりにも役だてていただきたい。

 都市に住む子や孫にも一冊買って送ってほしい。

 「変わらない」ことの確かさと、「変わらない」がゆえに今、地域住民や都市民を巻き込んで生まれてきた農村の新しい息吹を、あなたに代わって、伝えてくれるにちがいない。

(農文協論説委員会)

現代農業ベストセレクト集」(特大号)定価1500円。

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