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農文協トップ主張 2006年5月号

「むらづくり」のなかに、地域の個性が輝く未来社会をみる
『現代農業』復刊60周年の節目に当たって

目次
◆戦後60年、むらはどう変わったか
◆都市民の励ましが誇りと自信をもたらした――長野県栄村のむらづくりの実践
◆むらの自治力を現代に活かし生涯現役のむらづくり
◆街並みづくりから、農村都市交流のまちへ――長野県小布施町の実践
◆「ほんもの」だから都市民との心の交流がはじまる。――長野県飯田市の「ほんもの体験ツーリズム」から
◆都市から農村へ、人口移動の逆流がはじまった――農都両棲社会と個性輝く未来社会への展望

戦後60年、むらはどう変わったか

 農文協が『現代農業』(当時『農村文化』)を復刊したのは60年前の1946年(昭和21年)1月号で、5月号から発行が軌道に乗った。前年8月の終戦から半年後、戦後の混乱がつづき物資も十分でなかったが、新生日本への希望のなかでの復刊だった。

 昭和22年からは3年かけて農地改革が行なわれ、農家はみんな自作農になった。大家族のもと、子どもたちの歓声がこだまし、貧しかったがむらは活気にあふれていた。

 やがて、集団就職が始まり、1960年代、日本は高度経済成長の時代をむかえる。さまざまな商品やサービスが豊富に出回り、農村にも続々入ってきた。農業の機械化がすすみ、結いなどの共同作業も減り、わずらわしさもなくなったが、とにかくお金のいる時代となった。専業農家は規模拡大や産地化でいよいよ忙しく、一方、父ちゃんだけでなく母ちゃんも稼ぎにでて、むらに住んでいても隣は何をする人ぞ、と時にさびしさを感じないわけでもない。

 そして、農村から都市への人口移動は続き、とりわけ中山間地では過疎化が進んで、むらの維持そのものへの不安が増大している。そのうえ、農産物輸入の自由化・関税引き下げへの圧力が強まり、米も含めて農産物価格が低迷している。

 しかし、むらは形を変えつつ生きていく。そしていま、元気なむらに共通していえることは、大都市の都市住民や地域の住民と連携し、これをバネにしてむらの伝統的な自治の力を現代的なかたちで発揮しているむらである。『現代農業』60周年の節目にあたり、長野県の3事例をとおして、現代のむらづくりの意味を考えてみたい。 

▼栄村 人口2545人の小さな山村。2002年、この栄村に合併しない町村が集まり、「小さくとも輝く自治体フォーラム」が開催された。

▼小布施町 人口11700人の地方小都市。歴史や文化を生かしたまちづくりをすすめ、年間120万人の観光客が訪れる。「日経新聞」の調査で、全国の訪れてみたい商店街のナンバー4にランキングされたこともあるという。

▼飯田市 体験型のグリーンツーリズムを進め、2004年、「第一回・オーライ!ニッポン大賞」で内閣総理大臣賞を受賞した。

都市民の励ましが誇りと自信をもたらした――長野県栄村のむらづくりの実践

 長野県県北の栄村は日本有数の豪雪地帯で、9割を山林占め、高齢化率40%の山村である。

 栄村では、高齢化を配慮して山間部の小規模圃場整備を村独自の方式で行ない共同化を進める一方、軽量野菜の栽培を促進し、アトピーの子どもをかかえる大都市の母親たちの要望に応えて雑穀生産を復活させて産直活動を展開し、その産直ルートのうえに豊富な山菜や少量多品目の作目を乗せて、農家の所得を大きく伸ばしてきた。

 このような都市との関係づくりに大きな役割を果たしているのが、村が全額出資してつくった栄村振興公社である。公社では、大都市に働きかけて都市農村交流を促進し、村内の農林産物やその加工品を、大都市の交流団体や、栄村を訪れる約20万人の観光客に届けている。その際、農業林産物の加工品については全量買入し、それを公益事業としてマージンなしで販売。また、公社が運営する観光宿泊施設の土産物やそこでつかわれる食材、飲食料品などは、村内優先・定価買取りとなっており、農家だけでなく村内の個人商店にも公社の利益が及んでいる。こうして、公社が支出する総経費3億円のうち7割が村の農家、商店などに環流し、その金額は一世帯当たり22万円に達している。

 こうした取組みの結果、農業粗生産額は大きく飛躍し、長野県の平均を下まわっていた農家一戸当たりの粗生産額が、県平均を上回るようになったのである。

 しかしこのようなむらづくりが、一直線にすすんできたわけではない。高橋彦芳村長によれば、過疎化のなかで村民が自信を失い、むらづくりどころではなかった時期もあったという。

 「過疎化が進行していく中で、住民が足元が見えなくなる状況に陥りました。自分たちの仕事や、あげくの果てには郷土である栄村まで無価値に思えてくるのです。夜の地域おこしの集まりではけっこう元気がよくても、朝になってわが家の暮らしの現実に戻ると自信がなくなってしまうのです。こういう時、人間は同じ境遇の者同士で交流してみても、たいした元気は出ないものです」

 そこで村民の自信回復を、と思い立ち、空き家を、村の人と交流することを条件に一家族一週間ていど無料で都市民に貸し出したところ、申込みが殺到。過疎と過密という「境遇の違う両住民の交流は、スポンジが水を吸い込むように進んでいった」(高橋彦芳・岡田知弘著『自立をめざす村』自治体研究社)。

 こうしてはじまった交流のなかで、都市民による評価が励ましとなって、村の人びとに誇りや自信が回復し、地域づくりの機運が生まれたという。その端的な例が伝統のワラ工芸品の一つ、「猫つぐら」(ワラ編んだ猫の家)である。家の奥から引っ張りだした猫つぐらを、都市民がわが家の猫用に売ってほしいと言い出したのがきっかけだ。その見事な手わざが都市民に高く評価され、ペットブームのなかで注文に応じきれないほど売れていく。つくるのに3日かかって一個5000円ではとても儲かる仕事ではないものの、人を喜ばせるような技をもっている自分が誇らしくなり、自信が回復する。また、生産者は注文に応じてつくって送る際、季節の野菜などをその小包に入れることで購入してくれた都市民との交流が生まれ、この交流が農家にとっては金銭以上の励みになったという。

 こうして単なる経済的な関係を超えた交流が進んでいく。村づくりや伝統的祭事と結びついた集落単位の小イベントが年中開かれ、世界的規模での絵手紙展や木彫の創作展など、大きなイベントがこれに加わる。このようにして村の応援団を都市部に組織し、アンテナショップを東京に開設するなど、都市との連携を強力に進めてきたのである。

むらの自治力を現代に活かし生涯現役のむらづくり

 都市との交流を進める一方、栄村では、お金が地域でまわる循環的な経済システムづくりと、住民の自治活動を推し進めた。その一つに、高齢化がすすむなか農家の多くが待ち望んでいた山間部の小規模圃場整備がある。かつて農家が自らモッコや手押し車で改良を重ねてきた「田直し」の延長で、国の補助事業の基準どおりなら反当200万円を超える工事費を、わずか40万円でやってしまった。施工は田んぼを熟知した農家の要望を聞きながら、18歳からブルに乗り、土木建築などを請け負っている村の青年が進めていく。こうして、使いやすい田んぼが低コストでつくられ、その工事費は地元の建設業者へ支払われ、村内で循環する。

 独居老人の家や集落内道路にまで除雪車が入るようにする村民参加の「道路の拡幅工事」や、2〜3集落を束ねた9つの「克雪生活圏」ごとにヘルパーを配置してきめ細かく介護にあたる「下駄履きヘルプ」制度なども、同じ手法である。住民に呼びかけたところ、小さな村に160人のヘルパーが誕生した。こうして高齢者も生涯現役で働け、安心して暮らせるむらづくりを、むらをあげて創造的に行なってきたのであった。

 「小さな町や村で、地域を深く見つめて創造的な自治活動を行なっていくことが住民の幸せに通じる道である。私はそれにこだわっている」と高橋村長は述べている。

街並みづくりから、農村都市交流のまちへ――長野県小布施町の実践

 次に、長野市の近郊にある小布施町のまちづくりを見てみよう。小布施町は、花いっぱいの文化と歴史があふれるまちづくりを進めることによって、年間120万人もの観光客が訪れる町になった。「何度も訪れたくなる、素敵なまちでした」…そんな声がたくさん聞かれる。

 まちづくりがはじまる直接のきっかけは、1970年代、町の人口が1万人を切った時に、このままでは町の活力がなくなるおそれがあるということから、長野市郊外という立地を活かして宅地造成事業を進め、その収益で、1976年に「北斎館」を建設したことにある。

 小布施町と葛飾北斎との関係は、当時の豪農・豪商、高井鴻山の招きで北斎が晩年、小布施町を訪れ、合計3年半にわたって滞在して肉筆画を多数残したことからきている。開館当時は「田んぼの中の美術館」と揶揄され、美術品に対する真贋論争まで起こったそうだ。この真贋論争が北斎館を有名にし、人集めのために建てたわけでないのに、全国から3万人の人びとが来訪したというから面白い。

 小布施町はこれを機に、北斎を招いた高井鴻山の記念館を隣接地区に開き、周辺の景観整備を進めていった。地権者と町が協力してアイデアを出し合い、昔ながらの風情を大事にしつつ歴史的建築物を再生し、周辺の店舗も景観に調和した建物にしていく。室町時代に持ち込まれて栽培がはじまったといわれる小布施栗をつかった栗菓子製造の3つの老舗、日本のあかり博物館、小さな栗の木博物館、景観とマッチした栗菓子工場というように、それぞれ格調の高い、しかしそれぞれが調和する町並みをつくっていく。その過程で住民の思いに火がつき、町主導のまちづくりから住民主体のまちづくりへの転換がおきたという。

 長い歴史をもつ、地元の栗を通した農工商の連携、それがもたらす小布施栗の文化が、まちの魅力の大きな一つになっている。

 もうひとつの、花のまちづくり。1990年には、美しい町づくり条例を定め、1992年には花のまちづくりの情報発信基地として観光客や住民のくつろぎの場「フローラルガーデンおぶせ」を建設。その4年後には地域の育苗センターとしてプラグ苗の生産やポット苗の収集・分配を行なう「フラワーセンター」を建設し、約30戸の花卉生産農家が花の地産地消に励んでいる。

 小布施町がめざすのは、 農業とそれによって形成されている田園風景という、この土地の独自性に正面から向き合いながら、 商業、工業、農業が融合した循環産業のまちづくりである。そんな小布施町が、今、進めているのは、農家民泊による、農村都市交流である。

 小布施町には宿泊施設が少ない。小布施町はあくまで 農業の町で観光地ではないという考えから、宿泊施設は増やさないようにしてきたという。その代わりに、農家に泊まる民泊事業を進めようと、平成15年には、農泊をやりやすくするための特区を申請した。

 年間120万人の通過型のお客さんと地域の農家・農業をもっと結びつける。農家に泊り、農作業体験などが出来る数多くの体験メニューを用意し、滞在型の交流事業を進めていく。長い時間、小布施町に滞在してもられえれば、リンゴやブドウなど、農業の主力である果樹の観光農園もやりやすくなり、農産物の直売所ももっと盛んにできる。

 魅力ある街並みと、農家・農村の魅力があわさった、新しいまちづくり、都市農村交流による地域農業の振興を進める。そんななかで、次の世代も育てていく。

 このまちづくりのきっかけをつくった唐沢彦三前町長(現・北斎館理事長)は、住民主体のまちづくりを強調しつつ、「小布施の風土の上に育まれた独自の景観や風俗、歴史など、有形無形の財産を子供たちに伝え、ふるさとを大切にする心を養う『小布施教育』をより尊重していくことを何よりも考えた」「景観づくりもこのような人づくりの一環」と語っている。

「ほんもの」だから都市民との心の交流がはじまる。――長野県飯田市の「ほんもの体験ツーリズム」から

 以上の2事例のように、現代のむらづくりは都市との関係ぬきには考えられない。しかしそれは、ものを売らんがための関係づくりではなく、そこに住む住民自身が暮らしよい空間をつくることであり、それを土台に経済関係を越えた関係を都市の人びととの間に築くことである。そのことが都市生活者を魅了し、結果として地元のものが売れ、交流人口・滞在人口をふやして、果ては都市民の就農や定住をも招くことになるのである。

 その点で、子どもたちの「体験教育旅行」や大人たちの「ワーキングホリデー」など、日常の生産生活のありのままの姿を見てもらい、体験してもらう長野県飯田市の「ほんもの体験ツーリズム」の取組みは改めて注目される。自給や伝統の農産加工の取戻しなども含めて「暮らしをつくる総合産業」としての農業の真髄を発揮し、自らの生産や生活を豊かで美しいものにしていく。そのなりわいを通じてその人の生き様を伝える。そのような「ほんもの体験」であるからこそ共感が生まれ、心の交流が可能になるのだ。

 子どもたちの「体験教育旅行」では、インストラクターのお母さんがその後、体験教育旅行で飯田を訪れた千葉県の中学校の文化祭に招かれ、「飯田は第二のふるさとです」と謝辞を生徒からうけて涙を流した。都市の子どもたちを受け入れたおばあさんは、子どもたちからの手紙や写真を宝物のように大切に保存している。

 大人たちの「ワーキングホリデー」では、農家の仕事を手伝い農家の暮らしにふれるなかで、「本当に素朴で温かな田舎で、家族の一員として心から扱ってくれる。週末が待ちどおしい」「それまで単なる風景や知識として自分の外にあった農業が、自分の内側に入ってきた。作物の生長が気になり、天気が気になるように自分が変わった」などの声に見られるように、都市の人びと生き方が変わり、飯田市の農業への強力な応援団が形成される。

 飯田市の取組みでは、体験を迎え入れるインストラクターが一番元気になる。結果として経済効果が生まれ、飯田市に定住してもよい、嫁に行ってもよい、という都市の人びとも出てくるのである。飯田市では交流人口・滞在人口の増加により7億5000万円の経済効果(2003年)があがり、毎年、新規就農者や定住者、嫁、婿が生まれている。ワーキングホリデーの登録者800余名は新規就農予備軍といってよいという。飯田市もまた特別の名所旧跡や観光施設があるわけではない。日本全国、どのような農村でも、このような「ほんもの体験」の都市農村交流やグリーンツーリズムは展開できる。

都市から農村へ、人口移動の逆流がはじまった――農都両棲社会と個性輝く未来社会への展望

 2004年春、「ふるさと回帰支援センター」が5万人の都市生活者を対象として行なった「ふるさと暮らしに関するアンケート調査」によれば、ふるさと暮らしをしたいと思っている人は全体の40.3%にものぼり、その内訳は、「定住」が79.3%もあり、「一時滞在」が17.7%、「都市と農山漁村との交流」が10.9%であった。

 2005年11月、3000人を対象に行なわれた「都市と農山漁村の共生・対流に関する世論調査」(内閣府大臣官房広報室)でも、平日は都市部で暮らし週末は農山漁村で生活する二地域居住の願望がある人が37.8%、農山漁村への定住の願望がある人が20.8%である。

 かつて工業文明の発達した都会生活にあこがれ、農村から都市へ雪崩的に人口が移動した。そしていま、成熟社会をむかえるなかで人びとのライフスタイルが大きく変化し、人口移動の逆流がはじまった。時代は大きな転換点にある。農文協は早くから「農都両棲」や、定年退職者や青年の「帰農」を訴えてきたが、それが現実のものとなりつつある。

 これからの時代は個性的自己実現の時代である。農業には、自然に働きかけ働きかけ返されるたしかな労働があり、人と人の豊かな関係がある。そこにわが家の、わが地域の個性が生まれる。農業は、個性豊かな自分の暮らしや地域の生活をつくっていける唯一の「産業」なのだ。2007年からは、団塊の世代700万人の定年がはじまる。過密・過疎の問題をそれぞれかかえる都市と農村が交流し融合してこそ、個性的な地域からなる新しい社会が形成される。

 本号では、復刊60周年を記念して、「むらを伝える 28のキーワード」を増ページして掲載した。これからのむらづくりの取組みに役立てていただければと思う。

(農文協論説委員会)

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