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農文協トップ主張 2004年3月号

なぜ、いま「食育」なのか?
「大量単品生産・大量遠隔流通」からの脱却

目次
◆それぞれの食事の崩壊
◆大量単品生産・大量遠隔流通の時代
◆からだが信号を送らなくなった
◆食生活が変わる――「食育」と「地産地消」
◆「食育」は地域に根ざす

それぞれの食事の崩壊

 ――食事つくりには、住んでいるそれぞれの地域の四季がありました。朝、昼、晩がありました。「はれ」と「け」がありました。そして、わが家と隣家では微妙に違う、それぞれの「手前みそ」、あるいは「わが家の漬物」のような、個性的な貯蔵・加工・料理の技があったのです。その総体こそが「食事つくり」であったのです。「食べる」という人間の営みを、あれこれの「料理」として、自然からも人間からも切り離して「料理のつくり方」を教える「料理本」としてではなくて、人間の営みを人間の営みらしく、人間の食事として、その総体を描こうとしたのがこの本です。――

 これは地方のたくさんの方々の協力を得ながら、農文協が10年がかりで編さんした『聞き書 日本の食生活全集』の、第一回配本『岩手の食事』のまえがきからの引用である。

 ――それぞれの地域で数人のおばあさんに集まってもらい、昔の食事を思い出してもらいます。昔つくった食事を実際につくってもらいます。そういう作業を経ながら「聞き書」がつくられ、原稿が書かれます。そしてその原稿をもう一度読んでもらう。その繰り返しでこの本はできあがりました。――

 ――結果として「地域の風土と生業」そのもの、そして「食事つくり」にたずさわった「女の一生」そのものを描いてしまったのでした。題して『岩手の食事』としましたが、これは岩手の食事ではありません。「岩手の食事」などはないのです。「むがしは、なんでも、手かずをかげて、うんみぇもんこしゃだもんだ」。こう語ってくれたおばあさんが、主婦として家族にかけた「おもい」、そのおもいの表現としての「その家の食事」だけがあるのです。――

 「地域の四季」「はれ」と「け」のある食事、そして、「その家の食事」つまり「わが家の食事」「それぞれの食事」がたしかにそのころの日本には存在した。生産と生活が、紙の裏表のように分かちがたいものとして成り立つ農山漁村ではもちろん、都会でも「四季の食事」「それぞれの食事」は成り立っていた。敗戦直後の飢餓の時代にも貧しいながらそれはつづいた。およそ昭和30年代前半まではそうであった。

 それがいま、崩れている。崩れはどのように始まったか。

大量単品生産・大量遠隔流通の時代

 昭和30年に、わが国の稲作は戦後10年にして初めて、大豊作となった。1238万トン(反収396キロ)。これはそれまでの最高記録である昭和8年の1062万トン(345キロ)を上回る数字だった。この豊作は好天候に恵まれたのもさることながら、農地改革によって誕生した全国の小規模自作農家の増産への努力が実ったのだといってよい。敗戦後数年間の文字通りの飢えの時代と、その後のやや長い不足時代とが過ぎて、30年代の前半は、今思えば、生産(者)と消費(者)があまり意識し合うことなく、いわば「自然体」で関係できた良き時代であって、この間、都市の食生活は貧食でも飽食でもなく、つつましく安定した姿をみせていた。大・中・小の都市とその近郊の農業が、おのずから地域経済を形成していた時代である。そのころまでは「わが家の食事」はたしかにあった。

 だが、その「良き時代」は、意外に早く崩れていく。工業の成長によってである。

 高度経済成長はまず、都市に人口を集中させ、集中した人間によってつくられる工業製品を全国くまなく流通させようとする。そしてその力は、生活のパターンを一元化して地方性をなくするように働く。地域差なしのテレビ、冷蔵庫であり、スーパーマーケットであり、一方では「名店街」であり、そして住まいについていえば、赤い屋根、青い屋根の違いはあっても、同じ新建材のプレハブ住宅であった。

 そうした一元化を受け止める消費の側は、むしろこれらを生活の近代化として歓迎した。また、高価なものの大衆化、地域格差をなくする平等主義として歓迎した。そうしたなかで食料の生産と流通はどう変わっていったのだろうか。

 農業近代化政策の大綱は、昭和36年に公布施行された旧農業基本法に明らかだが、政策実施の段階で、スローガンめいて唱えられたことに「選択的拡大」と「主産地形成」がある。

 「選択的拡大」とは、農業生産のウエイトを穀物から、需要の高まる青果物や畜産物に移すということである。

 一方、「主産地形成」とは、単一の作物または家畜を大量に栽培飼育する地域(産地)をつくるということであり、この場合「適地適作」が叫ばれた。「適地適作」とは土地柄に適した作物をつくることを説いた古くからの標語だが、その適地が、近代化政策ではほぼブロック単位で発想されている。北海道は畜産、東北は米、関東は野菜、といった具合である。しかし、適地適作の本来の意味は、谷一筋、田畑一枚の違いで微妙に変わる土地柄にきめこまかな気配りをして、つくるものをいろいろに組み合わせるということなので、それをブロック単位で決めてしまっては趣旨は全く変わってしまう。こういう行き方が食べ物の生産と流通の地域性、つまり一定の範囲の地域内での生産と消費の自己完結(地域内自給)をなくすように働いた。結局、地域ごとに単一のものを大量に生産し、それを全国に大量流通させることとなったわけである。ほんとうの意味の適地適作や、いまようやくいわれだした地産地消とは正反対の道である。

 交通網の発達や冷凍輸送技術の開発に支えられて、大量単品生産・大量遠隔流通の体系はそれなりに完成され、ますます、地産地消から離れていく。「それなりに」と限定したのは、実は生産の側には多くの新しい問題が発生したからである。野菜では単品生産によって連作障害・病害虫への無理な対応(農薬や化学肥料の多用)やハウスなどによる周年栽培を強いられたし、産地間の競合による浮沈もあった。果実では過剰生産などによる暴落に見舞われたし、畜産では規模拡大に伴う過剰投資によって破綻する経営も多くみられた。

 生産の側はこうした多くの難事をくぐり抜けながら総体としては維持され、その結果、消費の側は大量遠隔流通と生産の過剰基調のなかで何の不安もなく、次第に飽食への道を進んでいったのである。

からだが信号を送らなくなった

 「飽食」は、ぜいたくな食事(美食)とうけとられがちだが、必ずしもそれだけではない。飽食状況――食べたいものがなんでも、どこにでもある状況――は、人間の身体の生理的な面に深刻な変化をもたらした。“からだが信号を送らなくなった”のである。

 ここで筆者の私事を書かせてもらう。

 昭和30年代の前半のころのことだ。さきほど「生産(者)と消費(者)があまり意識し合うことなく、いわば自然体で関係できた良き時代であって、この間、都市の食生活は貧食でも飽食でもなく、つつましく安定した姿をみせていた」と記した時代である。

 キツネうどんをとる。当時の(関東の)キツネは、キツネ(あぶらあげ)とホウレンソウとナルトがはいっているのがふつうだった。キツネうどんを前にして、まず二、三本のうどんをすする。汁の湯気が醤油の香りを伴ってスッと鼻に入ってくる。さて、つぎはキツネに箸をつけるかホウレンソウに箸をつけるか。日によってホウレンソウのときもあり、キツネのときもある。それはむろん考えてのことではない。自然に箸がどちらかを選んでいる。どうやら、その日のからだの調子で決まっていたように思う。ホウレンソウにまず箸が行くときは、野菜類(ビタミンとかセンイとか)をからだが欲しがっているのだし、キツネに行くときはアブラっ気を欲しがっているのだし、そのくらい、からだは正直だった。

 いま、飽食の時代となって、からだが手に、おのずからの信号を発してくれない。

 アジア経済の研究者である小島麗逸さんが、ずいぶん前のことだが、テレビでこんな話をしていた。おもしろかったのでメモしてある。

 衣服のばあい、ファッションが発生し、それが大衆化していく度合いは、要するに一人当たりの布の使用量が増加することで決まるのだそうである。同様に、食べることにも「ファッション化」があるという。

 一人一年の穀物消費量が160〜200キロだと飢餓ライン、220〜300キロで満腹ライン、350キロで晩酌ライン、そして400キロがファッション化ライン、さらにふえて500〜600キロにもなるとアルコール中毒多発ライン。そんなふうに小島さんは言っていた(この場合の穀物とは、コメ(籾)・ムギ・トウモロコシ・コウリャン・その他雑穀を含み、消費量とは間接的消費である家畜飼料用、酒造用ほか一切の食品工業仕向けを含むし、輸入か国産の別も関係ない)。

 「食料需給表」の国内消費仕向け量の数字から試算してみると、大まかにみて満腹ラインに達したのが昭和35年、晩酌ラインを超えたのが40から42年、そして53年の数値は412キロだから、このころまでに食事のファッション化が始まっていたということになる。昭和45年は外食元年と呼ばれる。「すかいらーく」の前身「ことぶき屋」が日本でおそらくはじめてファミリーレストランをスタートさせた年だ。その二年後までにはマクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどのファストフーズが日本上陸をしている。

 ファストフーズ云々だけでなく、時代は食品産業全盛の時代となって、インスタント食品、レトルト食品、冷凍食品、真空パック食品など、新技術によるあらゆる加工食品が勢ぞろいする。惣菜のテイクアウトも始まり「わが家の食事」は音をたてて崩れていく。

食生活が変わる――「食育」と「地産地消」

 いまようやく地産地消が推奨され、また「食育」という新しいことばが生まれたりする時代がやってきた。

 地産地消は、掛け声だけではなく、いまや全国的にみられるようになった農村の女性起業による直売所や朝市などによって先駆的に実現している。都市でも生産(者)と消費(者)の関係に「顔の見える関係」が成り立ってきた。デパートやスーパーのインショップ、宅配便による個々の生産者と個々の消費者の結合である。

 「食育」は、まだ実体がない。しかし、多くの識者がそれぞれに議論を展開している。また、諸官庁が一斉に新しい施策を計画・実施しはじめている。内閣府、農水省、文科省、厚労省が担当する諸事業が賑やかに出そろった。

 内閣府――食育推進国民会議を設ける。また、食品安全委員会のリスクコミュニケーション専門調査会が報告をまとめ、食の危機管理や情報交換の具体化を検討。

 農水省――「食の安全と安心の確保」のために「食育」活動の総合的な展開をすすめる。「食を考える月間(毎年一月)の設定」「各種メディアを通じた情報発信活動」(東京で本年一月、第一回食育総合展開催)「地域特産物や伝統的食文化など各地の特色を活かした「食育」の実践活動の展開」(「地域に根ざした食育コンクール」の実施)。

 文科省――地場産物などを使った郷土色豊かな学校給食の事例集作成。農業団体や栄養士などと連携した学校での食育の推進。食の指導に関する冊子の教職員への配布。小学校低学年用食生活教材の配布。

 厚労省――対象特性別の食生活指針の作成。健康づくりのための「食育」推進。

などなど――だ。「食育基本法」の制定も日程にあがっている。

 つぎに、多くの識者の言うところをみてみよう。

▼食育を以前から提唱してきた服部幸應さんの意見――

 日本の教育は“知育・徳育・体育”の三本柱の基本理念で成り立っています。私はそれに加えて「食」を学校教育の中に組み入れると、より豊かな教育効果が得られるのではないかと思い、教育の一環として「食育」の導入を関係各方面に働きかけています。私が考えている食育とは、料理や食体験を通して、主に幼稚園児や小・中学生(父兄を含めて)を対象に“何を食べるのか”“どのように食べるのか”を教え、食に関する興味を抱かせることです(1998年刊行の『食育のすすめ』のまえがき)。

 もう少し広く、学校教育に限定しない意見もある。

▼『その食事ではキレる子になる』の著者、鈴木雅子さんの意見――

 それぞれの専門分野の方々において指摘するポイントが違い何が食育なのかというまとめはできていないのです。私は健康に生きていくことのできる心と体を作るというのが「食育」の中心ポイントだと思っています。(略)食についての知恵を伝えることが「食育」だと私は考えています(「今こそ「食育」を」KAGOME2001年4月号)。

▼食生態学者・足立己幸さんの意見――

 食育とは「人々が人間らしく生きる・生活する資源としての食、同時に健康の資源でもある食を営む力を育てること、そしてこれらを実現可能な社会・環境を育てること」。児童対応のわかりやすい表現にすると「いきいきと、自分らしい生活や学習ができるように、健康で楽しい食事を整えたり、味わう力を育てること、そうできる仲間や環境を育てること」(「食育の概念規定をめぐって」こども未来財団報告書「地域で支える児童参加型食育プログラムの開発に関する研究」所収)。

 これは研究論文の一節だが1月18日の「地域に根ざした食育コンクール」の発表会の講演要旨にはつぎのように書かれている。

 「“食育”とは、一人一人にとって生きがいのある健康な生活ができるような食生活を営む力を育てること、そうしたことが実践できる社会を育てることです」

 ところで、農水省の「食の安全・安心のための政策大綱」の解説パンフレットでは、簡潔にこんな定義をしている。

 「食育=一人一人が自らの食について考え判断できるようにすること」

「食育」は地域に根ざす

 驚いたことに、明治後期のある本の中に、そのものずばり「食育」の二文字が使われている一文があった。明治36年、報知社出版部発行の村井弦斎『増補註釈・食道楽――秋の巻』の一節である(243ページ)。

 「今の世は頻りに体育論と智育論との争いがあるけれどもそれは程と加減に依るので、智育と体育と徳育の三つは蛋白質と脂肪と澱粉の様に程や加減を測って配合しなければならん、然し先ず智育よりも体育よりも一番大切な食育の事を研究しないのは迂闊の至りだ。」(傍点引用者)

 この論は、食育を智・体・徳の三つの育と並列させていない。三つの育はバランスよく育てられなくてはならないが、そのバランスは三つの育よりも大切な食育があってはじめて実現する、というのである。

 「食育」はまだスタートしたばかりで、実体がない。だからいろんな意見があっていい。そこから食育の理念もつくられてくるだろう。その際、すでに先駆的な実体のある地産地消、つまり食の地域性が手がかりになるだろう。食の基盤には農林水産業がある。それら第一次産業に属する営みは地域性なしには存在しない。

 食育はいまは上から下への一大キャンペーンのようにみえる。しかし「地域に根ざした食育コンクール」に寄せられた事例のような取り組みが全国にみられはじめた(*)。食のもともとのあり方だった「地域の四季」「その家の食事」「ひとりひとりの食事」「適地適作」を回復させるためのものとして「食育」キャンペーンを受けとめ、さまざまな実践をつみかさねていこう。

 それが、大量単品生産・大量遠隔流通から脱却して、「生産(者)と消費(者)が自然体でつきあえる、つつましく安定した姿」をとりもどす遠くて近い道である。

(農文協論説委員会)

*「地域に根ざした食育コンクール」(提唱:農林水産省 主催:地域に根ざした食育推進協議会、農文協)の受賞事例は、「食文化活動」37号(2004年3月号・農文協刊)に掲載されます。

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