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農文協トップ主張 2002年4月号

この春 学校が変わる

学校区に村のきずなを復活させよう

目次
◆放っといたら子は育たない時代
◆「総合的な学習の時間」と「社会人先生」
◆先行事例1 子どもが田んぼに目を向ける
◆先行事例2 子どもが食べることを考える

放っといたら子は育たない時代

 村のお年寄りの話を聞いていると、昔の話、今の話が入り交じって、ふっと昔をなつかしむ感想が漏れたりする。昔とくらべて、今は総じて村のきずな、村の力が弱くなってきたようだ――そういう思いが伝わってくる。

 でも――、と口をはさんでみたくなる。

 いま、村のお母さんたちはどこでもなかなか元気で、加工場をこしらえてその地伝来の漬物だのまんじゅうだのをつくったり、農協と組んで地場野菜を朝市に出したり、楽しくやっておいでじゃないですか?

 お年寄りの答えはこうだ。

 それはそうだ。昔の母ちゃんたちは苦労が多かった。大家族でね。子も多かったし。それはたしかに、いい時代になってきてる。男たちも勤め人になって、ふところ具合はよくなった。私がいうのはそういうこととは別のことなんだよ。

 村の力がおとろえてきたというのはね、溝さらいをやるといっても出にくい人が多くなったよ。昔は日を決めて、総出でやったものだったが。みんながクルマに乗るようになって、道で会えばひと話するなんてことも少なくなった。いちばん変わったのは子どもだね。昔のように子だくさんではなくなって、子どもどうしのつきあいがない。私らのころは夏なら川で毎日遊んで、年上の子から泳ぐことを教わったり、大きくなれば教える方に回ったりね。学校の帰り道はよく道草をしたもんだ。田んぼのこともよく知っていた。オレんちの田はタニシが多いぞって誰かがいえば押しかけて、みんなでとって帰って、その子の庭で焚火して焼いて食ったり――。通い道沿いの田んぼなら、どこは誰んちの田んぼだなんて、子どもながらみんな知ってた。第一、田植えどきは学校も農休で、にぎりめしやヤカンを運んで手伝ったものな。

 そういうことがない。すっかりなくなった。農家の子が田畑のことを知らない、食べものがどうやってつくられるかもよく知らないし興味も向かない。親たちもそれをふしぎと思わない。これはちょっと、困ったことだなあ。そういうのも老人のぐちなのかね。もっとも子どもたちもなにやら忙しくしているね。学校の勉強もあるし、塾通いをしてる子も大勢いるし。

 放っといても子が育つ時代じゃなくなったんだね。

「総合的な学習の時間」と「社会人先生」

 この4月から、小学校や中学校の授業が大きく変わる。週休2日制になることもあるが、いちばん大きく変わるのは「総合的な学習の時間」というものができることだ。そしてもう1つ。これまでは、学校の教壇には免許証を持った先生しか立てなかったが、それとは別に「社会人先生」というしくみをつくって、大いに活躍してもらおうということになった。社会人先生は、おもに校区に住んでいる人たち、子どもたちのお父さんやお母さんがなる。あなたもなれる。なってくださいと学校からたのまれるかもしれない。

 社会人先生は国語や算数を教えるのではなく新しくできる「総合的な学習の時間」の先生になる。逆にいえば「総合的な学習の時間」は、そういう社会人先生の力を借りないとやれないのである。

 「総合的な学習の時間」では何を教えるのだろうか。じつは何を教えてもいいのである。その運用は学校にまかされている。もっといえば、何かを教える時間ではない。国語を教える、算数を教えることはできるけれど、「総合的な学習の時間」を教えることはできない。せいぜい「総合的な学習の時間」で教える、学ぶとしか言えない。学校教育の目的は一方で知識を教えることではあるけれど、それも含めて、基本的には「生きる力を養う」ことである。そのように文部省の基本方針が大転換した。そして生きる力を養うために「総合的な学習の時間」が設けられたのである。しかも、この「総合的な学習の時間」は国語や算数と同じくらいの時間をとることになっている。

 こういう時間だから、全国画一的にやることはできないし、先生ひとりの力ではできない。そこで、この新しい「時間」は、学校が自由に組み立てる時間であり、社会人先生に登場していただく時間となったのである。

先行事例1 子どもが田んぼに目を向ける

 この4月からいよいよ、この「総合的な学習の時間」が全小中学校で始まる。すでに数年前から、一部の学校では先行して実施されて、いろいろな工夫が試みられている。その事例をみると、いま学校教育が何をめざそうとしているのかがわかる。

 まず、兵庫県佐用町・江川小学校の桑田隆男先生がやったことを紹介すると――。

 桑田先生と5年生の子どもたちは、校区に住んでタガメの研究をしている日鷹一雅さん(愛媛大学助教授)から、江川地区の田んぼにはいま絶滅にひんしているタガメが、なぜかたくさんいると聞いた。さっそく休耕田を農家から借りてタガメを飼い、その成長を観察した。やがて、子どもたちは自分の家の田んぼにもタガメがいることを発見する。田んぼをじっくりと見たのは初めてだった。タガメを孵化させ、成虫まで育て、冬越しにも成功する。日寄せ(田んぼの回し水路)に行っては、タガメのエサになるオタマジャクシやカエルを捕える。タイコウチやガムシ、シマゲンゴロウなど、田んぼにはまだまだいっぱい生きものがいることを発見する。タガメの飼育と観察は、低学年の子どもたちにも引き継がれ、日鷹さんや親、地元農家の呼びかけで「田がめっ子くらぶ」が結成された。

 子どもたちの願いからできた「田がめっ子くらぶ」だったが、いまでは親や地元農家も熱心だ。タガメという生き物は田植え後に里山や水路、ため池から田んぼにやってきて、落水時期まで産卵を続け、成虫は水路、ため池に移動し、里山で越冬する。つまり地域全体の環境が守られていないと生きていけない生き物だという。「田がめっ子くらぶ」の活動が広がるにつれて、地域の人の田んぼの見方も変わってきた。日寄せを残したり、天水を利用した農法で米つくりに取り組む人が増えてきたのである。

 「昔は初夏になるとナマズが田んぼにのぼってきたもんだよ。今の子どもたちにナマズとかウナギ、フナなんかを手づかみさせたいな」

 校区の農家の山本稔さんの一言がきっかけで、田んぼで泥まみれになりながら、ナマズやウナギを手づかみし、炭火でやいて食べる催しもはじまった。近くの川では山本さんが子どもたちに、伝統漁法のやたにぎり(川底の石に手をまさぐるように入れて魚をつかむ方法)を伝授している。
(詳しくは農文協刊『食農教育』2002年1月号と3月号を参照)。

 「総合的な学習の時間」で、校区の大人たちが社会人先生になって学習をすすめるなかで、お年寄りのいう「村のきずな」が復活してきたのである。

先行事例2 子どもが食べることを考える

 新潟県小国町の上小国小学校の大倉とし子先生は「総合的な学習の時間」で、なんと、豚を飼っている。大倉先生の話を聞こう。

 「数ある小学校のなかでも、豚を飼ったことのある小学校というのは稀に違いない。ところが私は、子どもたちと2年続けて豚を飼うという貴重な経験に恵まれた。

 前任校の比角小学校で5年生の担任をしていた平成9年度、保護者から休耕田を貸してあげるという申し出があり、保護者や祖父母の助けを借りながら子どもたちと米作りに挑戦した。そして、収穫したコシヒカリをおにぎりにして、全校児童にふるまうことができたのである。この頃から、自然の恵みはたとえ少しずつでも、みんなで分け合って食べたいという思いがあった。

 5年生の終わりに、せっかくの取り組みが途切れてしまうのはもったいないと学年の担任3人で話し合った結果、6年生では動物による生産活動に取り組んでみようという話になった。動物の飼育と自分たちの食べる肉が結びつかない子どもがたくさんいた。植物に引き続き、動物による生産活動も体験させることが子どもたちに必要ではないかと考えたのである。

 動物といっても、鶏、牛、豚などいろいろある。さて、何を選ぶか。子どもたちと学年集会を何回かもって議論していった。牛を飼いたいという子もいた。しかし、安心して食べられるものをつくりたいということが、みんなの共通認識としてあったので、配合飼料では飼いたくない。すると、牧草など牛の飼料の準備は前年からやらなくてはいけないから、無理という結論になった。」

 「話し合いを重ねるなかで、給食の残飯を利用できる“豚”がいいのではないかという考えに落ち着いていった。担任たちの話し合いでも、毎日かなりの量が出る給食の残飯を何とかしたい、『食の循環』を教えたい、それには豚だということで一致していた。

 豚を飼うと決まったとき、近くの町内会などから疑問の声が上がった。これに対しては、子どもたちが『悪臭やハエが出るなど不衛生にしたら、飼うのをやめます』と約束して、何とか乗り切ることができた。

 それからも、次から次へと難問は続いたが、子どもたちの頑張りでクリアしていった。まず小屋づくり。土台工事は子どもの親戚のおじさんが引き受けてくれた。小屋は子どものお祖父ちゃんが大工さんで、廃材を使って4坪ほどの小屋を建ててくれた。

 「総合的な学習の時間」に、子どもたちはグループごとに手分けして小屋づくりの交渉やら、残飯がない夏休みの餌の確保にために精力的に行動したのである。コンビニで残飯を分けてもらおうと交渉に行った班は、外部には一切出してはいけないからと断わられた。賞味期限切れのたくさんの弁当などが捨てられているのにと、食をめぐる社会の仕組みについて割り切れない思いもした。結局、パン屋さんからパンの耳を分けてもらえることになって、ひと安心した。」

 「こうしたなかで、しだいに困難に立ち向かう同志としての教師と児童の関係ができていき、それを大切にしていった。

 こうやって、豚を飼う準備は整っていった。さて、肝心の豚は、渡辺牧場に頼んで、オス2頭、メス1頭を分けてもらった。渡辺牧場長の勧めで、最初だから飼育しやすいようにと子豚より少し大きめの20kgくらいの豚たちがやってきた。

 この時、渡辺さんが『みなさん、この豚を最後まで飼ってくださいね。それはおいしいお肉にして、みなさんで食べてあげるということですよ』と話してくれた。この言葉の意味を、出荷時期にもう1度子どもたちに問い直すことになるのである。

 周囲に対して衛生的に飼うと約束した以上、子どもたちは当番を決めて毎日の掃除・糞の始末そして餌やりと、奮闘した。試行錯誤の日々が続いた。糞は、サツマイモ畑の畝の間に埋めて、肥料にもした。

 半年後、100kgも超える成豚に成長した豚を目の前に、重苦しい日々が続いた。家畜として飼うということは、最後は肉にして食べるということをみんなで共通理解してはじめた活動であった。しかし、風邪を引いたといっては獣医さんに相談し、下痢気味といっては心配して育てていくうちに、可愛くなっていった豚を食べるという決心がしだいに揺らぎはじめたのである。

 出荷の日まで「食べるべきか、食べざるべきか」が議論されることになる。食べるべきだと口では言う子も、心では食べられないと葛藤しているようだった。話し合いを重ねた結果、諸般の事情もあって、結局、豚は出荷するという結果に達する。私自身は心残りの結論であったが、やむを得なかった。

 そして10月末、出荷の日がやってきた。事情を察してか、なかなか車に乗ろうとしない豚を見送りながら、泣かなかったのは1番熱心に豚の世話をした子たちだったのが、印象的だった。」
(詳細は農文協刊『食農教育』2002年3月号参照)。

 この大倉先生のお話の中に、社会人先生が何人も出てくる。「子どもの親戚のおじさん」「大工さんのお祖父さん」「パン屋さん」「渡辺牧場長」「獣医さん」、こうした人たちの社会人先生としての参加がなかったら、こんなすばらしい授業はできなかっただろう。

学校という場で村のきずなをとり戻す

 村のお年寄りが、このごろ少しおとろえたと嘆く「村のきずな」「村の力」とはなにか。それをまとめてみると、少し堅苦しいけれど、つぎのようなことになると思う。

 第1に農家の暮らしのあり方。農家とは、異なった世代が協力しあって農の営みを保ちつづけていく人間の生活の単位である。農の営みとは、生産と生活が分離せずに、人間が丸ごとの人間として生きられる営みである。

 第2に自然と人間のつきあいのあり方。農家はいつも自然に働きかけ、自然から働きかけられているわけだが、その働きかけあいは、自然の全体をいつも見通しているから成り立つ。イネの苗を育てているとき、秋の収穫までのイネの生育の全過程を頭に置いていなければ育てられない。農業の労働は日々を積み重ねて成り立つ労働だから、分業をすることができない労働なのだ。

 第3に農家の連合として村があること。農家1軒1軒は村の中で生きている。農家の連合としての村には、おのずから自治の力が働いている。自治や扶助の力がなければ、農の営みの基盤である地域の自然を維持し豊かにしていくことができないからだ。

 ここでいう村とは、町村(行政村)でなく部落(自然村)である。この村のきずな、村の力が、農業の技術が変わったり、農家の家族構成が変わったり(大家族でなくなったり、勤めに出る人がいるようになったり)したために、弱まってきた。それをお年寄りが心配している。

 心配はもっともだ。しかし村のきずな、村の力を復活するといっても、昔のように大家族みんなで農耕をするところに戻るわけにはいかない。

 村の範囲をすこし広く、小学校区ぐらいで考える。いままさに、明治以来国の管理のもとに閉ざされてきた学校が、地域の学校に変わろうとしている。学校に子どもの教育をあずけるのでなく、学校という場で村のきずなを復活させよう。村の子どもの教育を考えよう。「総合的な学習の時間」と「社会人先生」を活用しよう。学校の先生はいま、地域の人々が教育に参加してくれることを切実に期待している。

 農と村の復活を学校という場でやってみる。それに一肌も二肌も脱いでいただきたい。そうすることで村(地域)が変わり、日本が変わる。日本が国家の力、国家の指導で変わるのでなく、学校区という場に復活する村のきずな、村の力によって変わるのである。

(農文協論説委員会)


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