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農文協トップ主張 2000年8月号

「定年帰農」を村からみると

目次
◆小さい農業が元気だ
◆都会が農村に引かれる時代
◆農業の持つ本来的自由
◆循環可能な二つの空間

 本誌の今年1月号に「後継者が続々生まれる時代が来た」という特集が組まれている。ここでいう「後継者」とは、30年も前からずっとマイナスイメージでいわれつづけてきた「後継者不足」といういい方の「後継者」とはちがっている。「後継者問題が深刻でねえ」などといわれた時代、高度経済成長のもとで村の若者がどんどんと都会(他産業)に引かれて行き、三ちゃん農業などということばが流行した時代、あのころの後継者とは農家の後継者を指していた。1軒1軒の農家の「あとつぎ」のことだったのである。

 いま、問題のありかはまったくちがっていて、現在、全国の村々で活発に展開していることがらは農業の後継者を地域の中にどのようにつくっていくかということである。専業農家をどう確保育成するかという発想ではなく、地域の兼業農家が営む“小さい農業”を生かすことで村の農業をつづけていこうという動きである。「村の農業をつづける」のだからこの動きは結局、農村の後継者というテーマに連動していくにちがいない。農村の後継者とは、つまるところ農村社会の継承と持続を担う人ということである。

 結論を先にいえば、いまことばとしてだけでなく事実として一つの流れをつくり出している「定年帰農」とは、この農村社会の継承と持続の、一つの新しい手がかりなのである。内発的に村の中から興ってきた小さい農業と、定年帰農した人たちのやる農業とがドッキングすると、どのような農業が、いや農村が姿を現わすのだろうか。

小さい農業が元気だ

 まず、あの特集記事の一つ、「農協が掘り起こす地域の農業の後継者、JA甘楽《かんら》富岡の挑戦」を要約して、事実を確認しよう。

 JA甘楽富岡は群馬県の富岡市、甘楽町、下仁田町、妙義町、南牧村の5市町村からなる7000戸の大世帯農協だ。かつては養蚕とコンニャクで栄えたが、いまどちらも激減している。10年前にこのJA管内で50億円あった養蚕の売上げは1億を切った。コンニャクは30億円から8億円に落ち込む。販売農家数は7000戸のうち3000戸くらいで、遊休地も増えていく。販売農家だけのことを考えていては、農協の経営が成り立たない。と同時に、村が成り立たない。

 農協は残りの4000戸の家族に注目した。この人たちとて、耕作を全くやめたわけではない。自家用のあれこれは作っている。それを、少し気張って余計作って、ちょっとは出荷してみたらどうですか、そういうさそいをしたのである。さそう以上、しっかりした販路を作らなければならない。多種多様の農産物だから、市場出荷でなく直売所方式を採用した。いま管内2カ所に“食彩館”という販売店を持ち、東京に3店と前橋・高崎に各1店、合計5カ所の“インショップ”がある。インショップとはスーパーなどの一角に専用の売場を恒常的に設けるやり方だ。

 この直売所に出荷する組合員を、農協は精力的に募った。栽培の講習会などもひんぱんに開いた。大勢の老人や女性が参加して、いまこの直売部門の売上げは100億近い農協の全売上げの30%に達する勢いである。出荷する農家にとっても、恒常的に無理なく出荷していれば年間200万円、がんばれば400万〜500万円にはなるという。ヘタなパート稼ぎよりよほどいい。だから参加者はふえる。1996年に直売所がスタートした当初、34人だったのが、4年後のいま854人になった。

 農協の直売所部門以外の部門はどうかといえば、これも大量単品の市場出荷をねらう古いスタイルの産地形成路線ではない。秋ナス、オクラ、タマネギ、タラノメ、ニラ、菌床キノコ、“やわらかネギ”、ブロッコリーの8品目を重点とし、ほとんどがスーパーや生協との相対取引だという。だから規格は3ランクぐらいにルーズにでき、農家は出荷に煩わしい思いをしなくてすむ。

 この部門の出荷者は生産部会に組織されているが、直売所出荷の人たちがやがて、生産部会に加わって本格出荷にふみきることも多くなってきた。

 農業の後継者は増えつづける。

 そして、そのことは、気がつけば農家の後継者も生まれた――ということなのだ。農高や農業大学校を出て就農する後継者とはちがった、新しい後継者の誕生である。在村して他産業に勤めていた人たちの定年帰農(あるいは定年をまたずに実行する退職帰農)が、農家の後継者を生んだ。もちろんこの後継者は高年齢である。だが、だから頼りにならないなんてことはない。後継者誕生のありかたが、すっかり変わってきている。平均寿命が延びて、人々のライフサイクルが変わった。それに応じて人々のライフスタイルも変わる。そういう変わりの中での新後継者誕生なのである。

都会が農村に引かれる時代

 少ない量だが多くの品目を、場合によっては農産物、農産加工品だけでなく、ザルや人形などの工芸品までを産直や朝市、都会の「インショップ」に出す。はじめはチリも積もれば山となる式だったものが、しだいに、そうした小さい農業をする人の数がふえてゆき、その地域のゆるぎない産業ができあがる。そのことがまた、地域の個性的魅力となって、人が人を呼ぶようにもなってくる。こうした例はいまでは全国どこにでもみられるようになってきた。

 JA甘楽富岡が東の一つの代表なら、西は徳島県の勝浦郡農協上勝営農部会だろう。1981年の寒波で、大産地だった温州ミカンの80%の樹が枯死してしまって以来、上勝地域は多品目少量生産を結集させることで新しい地域の農業を拓いてきた。20品目ほどの様々な農産物・農産加工品を販売しており、特に「彩《いろどり》」という名で出荷する料理の添えもの、入れもの、かざりもので有名になった。枝物のフカシや細工物、柿やモミジの紅葉など多色多彩。最近では質のいい菌床シイタケで名をなしている。有名度が高くあちこちで紹介されているから詳細は略すが、こういう産地を築き上げた農協の担当者、横石知二さんの手記(注)はこうした手法で村を興そうという人達に大いに参考になるだろう。ちなみに横石さんは村育ちの人ではなく徳島市の人である。

 くりかえしいうが、現在はもう、個々の農家の後継者がないことに、先行の暗さをなげく時代ではない。あの時代には専業と兼業をわけて考え、後継者がいなければ専業はムリだから、わが家の農業もわれわれ一代で終りだと、大正から昭和1ケタ世代の人たちが考え、あきらめていた。いまは、すっかり農村・農業の雰囲気は変わっている。大正・昭和1ケタ世代が60、70歳で元気に小さい農業をやり、それを農協や市町村、あるいは若いグループがとりまとめる役をする時代になっている。

 さて、そこに、若いとき都会の自由な世界を求めて出て行った団塊の世代が戻ってくる。それが次世代の後継者になっていく。いま、ことばとしても定着し、事実としてもあなどりがたい流れが生まれてきた“定年帰農”というものの意味が、ここにある。彼らは農村の後継者なのである。

 都会に自由を求めて出て行った団塊の世代。彼らは、エリート・サラリーマンでないかぎり、いやエリートだからかえって、疲れがでているようである。1人残した老いた父母を都会に引き取って面倒をみる人たちも多い。しかし、高齢でも元気で農業をつづけるようになった父母たちは、都会に出ることを肯じなくなってきた。ウンとはいわない。それよりも、あんたの方が帰っておいで――。そこで、定年帰農なのである。

 さらに、故郷を持たない人の帰農願望(あるいは田舎住い願望)も醸成されてきた。いわゆるIターンの人たちである。農村で、自由な農業が盛んになってくる。自由だと思った都会とはちがった自由のある農村へのあこがれ。

農業の持つ本来的自由

 農村にある自由とはなにか。群馬の甘楽富岡、徳島の上勝の、高齢で後を継いだ父や母がやっている小さな農業。それをやる自由である。そうした自由が、いま農村にある。

 かつて、農家の長男は、本人の意思にかかわりなく家を継ぎ、その嫁は、本人の意思にかかわりなく、農業の補助労働についた。運命的な人生であった。人生はいま運命ではなくなって、自ら選ぶものとなった。だから自由がいま実現した――といってもいいけれど、じつは、農業という営みそのものは、もともと本来的に自由なものなのである。それがいまようやく花開く時代になってきた。多分、明治維新以来、初めてのことだろう。

 農業のもつもともとの自由とは何か。それは、“分業”ということに深くかかわる。工業は分業があってはじめて成り立つ。農業では分業はムリである。

 例えば――。

 田植えの作業は、大まかに分ければつぎの3つが結びついたものである。苗を苗代からとる作業と、それを田に運ぶ作業と、それを田に挿す作業。この3つはそれぞれ異なったグループによって行なわれる。運搬は男、挿すのはもっぱら女というのが、どこの田植えでも見られる分かれ方である。たしかにこれを分業といえばいえる。だが、これは近代工業が生んだベルトコンベア式の分業とは全くちがう。

 第一に、田植えの早乙女は、もっぱら苗を挿すことだけを憶えればその作業を上手にやれるかというと、そうではなくて、苗取りの事情を知っているほど、いや、もっと広げて、苗つくり全般、これからの稲の育ち全般、つまりは春から秋への稲作の全体の流れを承知していればいるほど、苗を挿す作業を巧みにやれるというおよそ分業とは逆の事情が、そこには働いている。自動車なりテレビなりの、組立てコンベアにくみこまれた作業員が、わりふられた作業をいかによく実行できるかは、他の行程を知るか知らぬかは関係ないし、ばあいによっては知ることがマイナスになることもあるのと対照的である。

 第二に、早乙女は1年中早乙女をしているわけにはいかない。田植えはせいぜい年に1週間か10日、かりに日本中をかけまわって田植え専門でやってみても、せいぜい2カ月あまりのことだろう。わりふられた作業を日々続けるのでなければ、分業とはいいがたい。

 このように、農業では、「分業」はある一時的な部分作業を受けもつものであって、それは分業とはいわず分担というべきものである。分業は農業にあっては全生産行程をつらぬく原理にはなりえない。工業にあっては分業は生産力の増大の原理である。それとはちがって、農業では全生産行程、つまり、作物の生育の過程全体をトータルに認識すればするほど生産力は増大するということである。田植えが機械化されても、この事情は変わらない。

 “作物の生育の過程全体をトータルに認識する”と書いたが、それは知識の積み重ねだけで行なわれるものではない。対象が自ら生育してしまう。それに寄り添う認識なのだから、農家は対象を客観視するのでなく、対象と相互にゆきき(相互浸透)することによって認識する。稲や牛や樹木と“話をしながら”認識するのである。主客合一という認識の方法である。分業が成り立つためには、生産の対象物を部品に分解できることが必要条件である。部品の組み立て作業があってはじめて分業は貫徹する。

 分業を貫徹することで工業は発展し、その結果、人間自体が部品となる。部品と化した人間(疎外された人間)は自由ではない。

 農業に分業(疎外)はない。だから農業は本来的に自由である。

循環可能な二つの空間

 自由な農業、自由な農村に引かれて、都会から農村に人が動く時代がやってきた。

 都市空間は、自然を排除することで成り立つ空間である。そこでの人と人のつながりは直接的である。媒介するものがない。権利、人権がむきだしで現われる。

 農村空間は、自然を馴化する(自然とうまくつきあう)ことで成り立つ空間である。そこでの人と人とのつながりには、媒介物がある。自然という媒介物。自然と人間との関係のなかで、人と人も関係をもつ。

 いま農村で、自由な農業、つまり小さな農業が内発的に生まれてきている。その勢いはかつてなく強い。そういうベースがつくられているところに、定年帰農の人たちが入ってくるとどうなるか。

 かつて、農家があるから農業が成り立ち、農業が成り立っている限り農村はある、という歴史的事実があった。しかし、そこからだけ考えていると、農家の後継者が減れば農業が成り立たなくなり、農業がなくなれば農村は崩壊する――という図式の中で、思考は堂々巡りにおちいることになる。

 いま新しい動きが始まっている。小さい農業が村々に興り、それによって農村社会が元気に持続していけば、農家の後継者も続々と誕生する――という、逆の「巡り」がまわり出したのである。そしてさらに、農村社会が元気であれば、それがリードして、人工環境に満たされてしまった都市にも、再生のきざしがみえてくるということなのである。

 農村が都市をリードするという、この文脈の中で「定年帰農」をとらえれば、都市と農村の間をライフサイクルに乗って循環する新しい人間の暮し方の誕生、というふうにみることができる。

 農村と都市という二つの、成り立ち方も機能もちがう社会が、循環可能な二つの空間として存在しはじめたのである。

(農文協論説委員会)

(注)1998年現代農業1月増刊号「田園就職」14ページ。定価(税込)900円。


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