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農文協トップ主張 1999年7月号

米消費拡大は学校の子どもたちに
働きかけることが一番の早道だ


目次
◆イネ作りのすばらしさが子どもに伝われば米の消費はふえる
◆なぜ米の消費が減退したか――「つくる」と「食べる」の乖離
◆「つくる」と「食べる」の乖離が無意欲・無関心・無感動な子どもをつくる
◆生産と生活が一体の「農家」の出番がやってきた
◆食と農の深い世界が新しい総合知を生みだす
◆地域の文化と学校の文化を一体的に築いていく

 これまでさまざまな形で米の消費拡大運動が行なわれてきたが、米の消費量は年々下がる一方だ。しかし、米の消費を格段にふやした実践がある。本誌5月号の巻頭特集「学校と一緒になれば特産が生まれる 村に元気が湧いてくる」のなかでとりあげられている、小林重希さんをリーダーとする福島県猪苗代町の会津有機米研究会の実践である。

イネ作りのすばらしさが子どもに伝われば米の消費はふえる

 小林さんたちは、米の産直でつきあいのあった学校関係者からの要請をうけ、東京の私立の小学校の校庭に4坪の人工の田んぼをこしらえて、春から秋まで稲作体験学習を手伝うことになった。そして田んぼで稲を育てることや村の農耕文化のすばらしさを10回に及ぶ授業で子どもたちに伝えていった。農家の話に子どもたちは引きこまれ、強い関心を示し、家庭に帰ってからも、ふだんはロクに口もきかなかった子どもと親との間で稲作や米をめぐる対話が生まれた。「こんな子どもの表情は4〜5歳以来見たことがない」。そしてこんなに我が子を変えた小林さんたちのところを訪ねてみようと、夏休みにはバスをしたてて親子で福島県の田んぼに来るまでになった。そのような関係の深まりのなかで、その学校区の家庭では食事で食べるご飯の量がふえ、その地域の米屋さんに出している小林さんたちの米の取扱量は、月に200キロから1000キロへと、五倍にふえたというのである。

 小林さんは言う。「米の販売先探しに困っているという人もいるが、米の消費をふやすには、田んぼでイネを育てることのすばらしさを、農家が子どもたちに伝えること、それを子どもたち自身が体験するのを手伝ってやることだ。消費拡大なんてすぐできる」

 小林さんたちの実践は、米消費拡大運動に何を提起しているのだろうか。

なぜ米の消費が減退したか
  ――「つくる」と「食べる」の乖離

 小林さんたちは、子どもたちに稲を「つくる」(生産)ところから米を「食べる」(消費)までの一連の過程を体験させ、その体験をベースに、自然の力や人間の労働の意味、あるいは人間が生きるとはどういうことか、われわれが生きている世界とはどういうものかを感得させるような取り組みを展開したのであった。そのことによって、米を食べることの意義が、子どもや親に自覚された。学校の授業が変わって、子どもと親が変わり、米の消費が拡大したのである。

 なぜ、「つくる」と「食べる」の再結合が必要なのか。米の消費減退の背後には労働や食生活の変貌がある。世界的に見れば「食」ほど保守的なものはないと言われている。なのに「なぜ、日本の食生活はこれほど大きく変わったのか」について、木村修一教授(昭和女子大学大学院)は大要、つぎのように言っている(『農村文化運動』第83号)。

 ――「米をこぼしたらばちがあたる」「お百姓さんに申しわけない」「お米一粒のなかには1000人の神様が宿っている」というような感覚は、「つくる」ことが理解できていて初めて深くわかる言葉である。戦後のひもじい時代、米に対する人びとの愛着は大きく、誰にとっても意識のどこかに「つくる」ことが入っていた。農家の子弟は田植えや稲刈り、田の草とりも手伝った。あるいは農家の子どもでなくても、米をとることがいかに大変であるかは肌で感じとっていた。こうして、「つくる」と「食べる」がしっかり結合していた。しかし、昭和30年代後半から高度経済成長がすすむにつれ、米がどのようにしてできるのかを知らない子どもたちが増え、その目に米は特別なものとしては映らなくなった。そのようにして、米に限らず、食べ物はスーパーで選んで買えばよいものとなり、食べ物は安くてうまければどこの国のものでもいいという感覚が定着してしまった――。

 さらに木村教授は、核家族化という家族構造の変化とテレビの普及も、この乖離に力をかしたという。一家の献立は家族内の力関係で決まる。献立に関する家族員のさまざまの要求は、かつては一家のあるじの権力の下で落着きを見せていたものが、核家族化がすすんで家庭における父親の実権が弱まるにつれ、その決定権が微妙に子どもや若い母親の側にシフトした。そこに巨大な力をもつテレビのCMが強力に作用して、「つくる」とは無関係の新しい食べものが家庭に大量に入り込んだ、というのである。

 以上に見たような「つくる」と「食べる」の乖離は、高度経済成長時代に子どもであった現代の親たちの世代まで広く深くすすんでいる。そこで米の消費を拡大するには、CMが子どもたちをとおして食生活の変貌をもたらしたのとちょうど逆に、今度は農家が子どもたちの教育学習活動に深く関与し、「つくる」と「食べる」の結合を現代的に取り戻すことが重要なのである。

「つくる」と「食べる」の乖離が無意欲・無関心・無感動な子どもをつくる

 そして今、このような「つくる」と「食べる」の再結合の運動を展開する条件を考えると、その条件は十分すぎるほどに整っている。というのも、「生きる力を育む」「地域と連携した総合的な学習」をキーワードにした「教育改革」がはじまるからである。その中心は2002年度から既存の教科の学習の時間を大幅にカットして、小中高で各学年約100時間もの時間をつかう「総合的な学習の時間」がはじまることである。そこでは地域と連携した食農教育を展開できる可能性が大きいのである。

 なぜ、このような「総合的な学習の時間」が必要かについて、文部省初等中等教育局の嶋野道弘教科調査官は、「高度な産業社会のなかで無意欲・無関心・無感動な子どもが増えている」「知力(特に記憶した知識)だけが突出して情意力、実践力とのバランスを欠き、〈実感を伴って分かる〉ことが少なくなり、〈知的好奇心・探究心〉〈主体的・能動的に行動する力〉が形成されない、という矛盾が深まるなかで教育の根本的改革が必要になった」と述べている(「出版ダイジェスト」99年4月11日号)。

 「つくる」と「食べる」の乖離をもたらした高度な産業社会は、米の消費を減らしただけではなく、同時に、子どもたちから人間としての自然を奪い、無意欲・無関心・無感動な子どもをつくりだしていたのである。端的に言えば、経済成長がすすむにつれ、子どもたちに親や地域の人びとの仕事や暮らしが見えづらくなり、子どもの仕事もなくなって、ものができる過程も見えなければ、自分の存在も確かめにくくなった。その遊びも商品化されることによって、自然や人びとの暮らしとの関係を断ち切られた。そして組織されたスポーツや勉強だけが「仕事」となり、その成績だけで評価されるようになるに及んで、子どもたちは抽象化された世界のなかで浮遊するような存在になっているのである。前述の三無主義もそこから発生する。米の消費減退と三無主義は、同一的本質の二つの現れなのである。

 そこで「生きる力」を育むことが課題となり、既存の科学的知識を注入するだけの「教え込み教育」からの転換がはじまった。本当に身につく生きた知の形成に向けて、その内容が学校の創意に完全にまかせられる「総合的な学習の時間」が新設されることになったのである。

生産と生活が一体の「農家」の出番がやってきた

 このような課題をもった「総合的な学習の時間」のテーマとして、「食農教育」は最適である。食と農は人間のいのちの根源であるからだ。

 水田=米は食農教育の中でその要(かなめ)の一つをなすだろう。消費量が減ってきたとはいえ米は日本人の主食であり、稲作は日本農業の土台であり、日本の文化の基層をなしているからである。

 冒頭にのべた小林さんたちが関係している東京の小学校では、社会科だけでなく、理科や体育、音楽など、他の教科の時間も充てて、全部で30時間以上田んぼや米の学習をしたという。小林さんは、ある時、稲は一日に2センチずつ葉を伸ばすことを話して子どもたちをびっくりさせた。またある時は、田んぼに畦があることの意味は何かと宿題に出したところ、家でおとうさんからヒントを得て建設省に電話をし、田んぼがもつダム効果について調べてきた子どももいた。また、ある時は収穫の喜びと「お祭」の意味について話をした。子どもたちは、4坪の田んぼに植えた「自分の稲」を祈るような気持ちで育てているから、理解は早い。祭の認識が、「お父さんたちがお酒を飲んで楽しむもの」から「自然に感謝するのが祭」という認識に変わるのに時間はかからなかった。

 田んぼづくりを終えた子どもたちから小林さんに届いた手紙や寄せ書きには、「お米大好き」「お米を大切にします」「お米とぎの手伝いでこぼさないよう気をつけています」などなどの言葉があふれていたという。このような本当のものに触れる学習が、子どもたちの心をゆさぶり、その心が結果として米の消費拡大につながるのである。

 米を売らんかなという態度をあからさまにして米の消費を訴えても、この飽食の時代にあって、消費拡大にはつながらない。米と稲作、そしていのちへの認識が深まり、子どもたちと農家との関係性が深まって、その結果として米の消費拡大がすすむというところが重要なのである。

 低温倉庫で保管した備蓄米「たくわえ君」のPRなども、古米をさばくなどという発想ではなく、備蓄を教材化して、その重要性を真正面から取り上げる必要がある。新潟県上越市の大手町小学校や、岩手県一関市の山谷小学校では、すでに飢餓の体験学習を行なっている。そのような体験学習とともに、郷土食の時代における農家のくいのばしや加工貯蔵の知恵、あるいは新米が出たらそれを備蓄に回し、前年の備蓄米を食べはじめたというかつての農家の生活文化の意味や、江戸時代の飢饉や備蓄米制度「義倉」などの歴史学習と合わせて行なえば、本当に深いいのちの学習ができるだろう。

食と農の深い世界が新しい総合知を生みだす

 食と農は自然と人間との間で行なわれるあらゆる物質代謝の基礎であり、人間の共同性や人倫の大本である。地球上の文化も文明も一切がそれを基にして築かれている。そこで食と農の体験学習を「総合的な学習の時間」の中軸にすえて、そこから生命系としてのいのちや環境の問題に、文明系としての人間・社会の問題に入っていくことにより、知が総合化され、人が生きるとはどういうことかを知育の範囲を超えて感得させることができる。

 一例として食べ物で考えてみれば、栄養、安全性、調理法、運動と食と健康等々からの接近がある。さらに食べ物の生産に目をやれば、光合成と農業生産、作物の生理生態と栽培技術のポイント、日本の風土と農業・食の独自性、それを支える調理・加工・貯蔵の工夫、生態系における食物連鎖や地球環境問題、農産物輸入問題、食糧危機問題、第三世界の飢餓問題等々に広げていくこともできる。さらには農耕の発明と文明の生誕、日本の稲作の歴史と農村の歴史など、世界や日本の歴史につなげることも可能だ。あるいは時には、外国の郷土食を実際につくってみて給食の時間に食べ、米を中心にした日本の食の独自性の背景を考えてみてもいいし、それを国語で作文にしてもいいだろう。

 体験学習をベースにして、このようにさまざまな教科で扱う諸々の知が統合されてこそ、〈座標軸をもった知の体系〉が形成され、自然の恵みや、農家あるいは調理してくれる人の知恵や労働にも思いが及ぶようになるのである。

 付言すれば、「食」は、最も身近な日常的な行為であり、子どもの関心を強く呼び起こすことができる。また、「食」も、その表裏をなす「農」(=農林漁業)も、地域的な個性があるために、地域独自の「特色ある学習」の実践が可能である。さらにまた、生きた学習を可能にする「地域との連携」という面でも、食と農は地域の「社会人先生」に事欠くことはない。これらの特性も総合的学習に「食」と「農」が最適である理由としてあげることができるだろう。

 食や農をテーマにした「総合的な学習の時間」は、普遍的な「科学知」ではなく、体をとおした丸ごと認識としての「身体知」、地域の社会人先生といっしょにつくる「情意をともなった実践的主体的知識」の形成という点で、まさに「生きる力」を育むことにつながるのである。

地域の文化と学校の文化を一体的に築いていく

 米の消費拡大は、一時的な課題ではない。長い時間をかけて変えられてきた食生活を転換するには、子どもたちの気持ちがゆさぶられるような、「体験と学習の場づくり」に、本格的に取り組むことが重要だ。「バケツ稲づくり」や「学童農園」も、農業体験の素材や場所の提供に終わることなく、「総合的な学習の時間」への具体的提案と合わせて提供してはどうだろうか。地域の人びとと学校との連携を促進し、「総合的な学習の時間」に地域独自の食農教育のテーマをすえるところまで、支援していきたいものである。

 今、地域では、高齢者や女性による朝市・産直が急増し農産加工が興隆するとともに、都市農村交流・グリーンツーリズムや定年帰農などの広範な動きが起きている。その活力が地元の子どもたちの体験学習と結びつき、所によっては、遠く離れた大都市の子どもたちを招いての農業体験学習・交流学習などに発展してきている。これらの動きと学校の総合的な学習とが結合し、地域の生活文化と学校の文化を一体的に築いていく段階に入っているのである。

 このような活力をもった地域実践と子どもたちの出会いをはかり、「つくる」と「食べる」を再結合し、まともな日本型(地域型)食生活をとりもどすなかで、新しい教育の確立と米の消費拡大をはかっていきたい。

 時折しも、JA岩手県中央会ではこの7月24〜25日、盛岡市民文化大ホールで、「いのちを育む食農教育」のフォーラムと総合展示を行なう。文部省の富岡賢治生涯学習局長による講演の他、地域おこしに取り組む岩手県の農協組合長・中学校校長・小学校教諭・地域の社会人先生などがパネラーになったパネル・ディスカッションがもたれ、岩手県独自の農村空間が教材の宝庫であることを示す総合展示がなされる。地域おこしの活力と真の教育を結合する、地方からの発信である。次代をになう子どもたちの健全な成長と明るい未来のために、このような取り組みが全国各地で発展していくことを願ってやまない。

(農文協論説委員会)
*フォーラムおよび総合展示の「ご案内」の請求は、農文協文化部まで。TEL03―3585―1149 FAX03―3585―6466)。


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