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農文協トップ主張 1998年4月号

いま、大きな田んぼを
小さく使うとき

2000年の田の歴史から考える

目次
◆焼畑は80年でひとまわり
◆畑は輪作、田は連作
◆田をつくれ、田をつくるな
◆「田畑勝手作」の時代
◆地域のために田を使う

 日本の農耕には2つの系譜がある。
 田の系譜と畑の系譜。
 田の系譜は稲作の伝来に始まり、畑の系譜には古くから焼畑があった。もちろん、畑の系譜のほうが早く始まる。
 2つの系譜は同じ農耕というものの2つの面であるのに、つまり同じ農民が営んでいるものなのに、始まりから今日に至るまで、田と畑はおおむね切り離され、結び合うことのないままにその系譜をつくってきた。それが日本の農耕の特徴である。
 なぜそうなったのか。
 先に結論を言っておけば、田は権力者の強制によってつくらされ、畑は農民がまずは自分の暮しのためにつくった、ということなのである。

◆焼畑は80年でひとまわり

 まずは畑の系譜から。
 佐賀県唐津市の菜畑遺跡で、縄文晩期(紀元前5世紀前後)の土器類とともに水田の遺耕が発見されたことから、弥生以前にイネがあったとされる。しかし、イネが、日本列島で栽培された最初の作物というわけではない。焼畑によって栽培可能の空間がつくられ、そこにイモやアワやヒエがつくられたこと、それが日本の農耕の本格的な始まりであった。
 静岡県の安倍川東岸、海辺からわずか2キロほども離れていない低湿地で発見された登呂遺跡。そこには整然とした水田遺跡がある。1枚の面積が平均630坪(約20アール)、それが50枚並んでいた。登呂遺跡は弥生時代後期(3世紀の初め)のものとされるから、焼畑の時代から1000年とはたたぬうちに、日本の農耕の姿は大きく変わったということになる。
 いや、そう簡単なことではない。焼畑は、ついこの間まで、日本の農耕の一つの様式として、きちんと存在していた。
 岩手県の北上山地、軽米町での見聞を記そう。
 ここでは永らく、山の恵み、炭焼きが換金作物だった。炭を焼くのにはナラの木を皆伐する。そのあとに火を入れる。焼畑である。そこにヒエやアワやダイズをまく。肥料は入れない。5、6年そうしていると土はやせ収量は落ちる。そこにソバをまく。これがまた5、6年つづくが、やがてソバもまけなくなる。カヤが立ってしまうのだ。だが、それで終わってしまう“略奪農業”ではない。カヤは屋根をふくのにかかせない。カヤを刈って当時どの家でも飼っていた馬の背につけて村におろすのだが、このとき馬が残したひずめの跡穴に、風に乗って飛んできたアカマツの種子がうまく吹きだまる。自然の妙。みごとに芽生えたアカマツがほどよく生き残って40年もするとりっぱな松林となる。すると小鳥が別の山から運んできたナラの種子が芽生えて、マツの下場に立つようになる。それから20年、そのナラはまた、炭の原木に使えるようになる。
 これでひとまわり、焼畑の輪作は80年の周期であった。これを語ってくれた人が、この80年のすべてを見ていたわけではない。しかし案内してもらった松林の下には、あざやかに残るソバの畝跡があった。
 この地でいちばん最後に山に火を入れたのは昭和28年のことだという。“ついこの間”のことである。

◆畑は輪作、田は連作

>  そのころ、山すその常時畑(焼畑でなく、ずっとつくりつづけている畑)では2年3作の輪作が営まれていた。春ヒエをまく。それを8月から9月に刈り取る。そのあとはコムギ。コムギは翌年7月に刈るが、雪が消えてコムギがぐんぐん伸びるようになれば、その株間にダイズをまく。9月に収穫。秋起こしをして一冬休ませ、3年目の春、またヒエをまく。だから2年3作である。田の少ないところだから、このヒエ、ムギ、ダイズのあらかたは自家用のものだった。
 同じ焼畑でも、南の照葉樹林地帯(九州など)では、炭を焼かない焼畑だった。だから、周期は80年というほど長いものではなかったろう。もともと、土の肥沃度を高めるための農法ではないから、やせてくれば放棄して、他の地に火を入れる。放棄された跡地は5、6年もすれば木が立つ。そこにまた火を入れればふたたび耕作ができるわけである。
 焼畑にしろ常時畑にしろ、畑では輪作が前提となって農耕が成り立つ。そこが大切なところである。
 一方、田は、2000年もの長い間、イネをつくりつづける場所としてしか考えられてこなかった。農家がそう考えたというよりは、その時その時の権力者が、その考え方をおしつけてきたのである。
 さきほど触れた登呂の遺跡だが、海辺からわずか2キロほども離れていない低湿地に、1枚の平均が20アールの田が50枚ほども並びあっている水田が、弥生後期(西暦200年ごろ、別のいい方をすれば、中国の魏の「倭人伝」に記された邪馬台国の卑弥呼のころ)に静岡は安倍川東岸の低湿地に構築されていた。
 しかもその水田の畝は、厚さ3センチ、幅30センチ、長さ1.5メートルの杉材の「矢板」をビッシリと打ち立てて、補強がなされていたという。守田志郎氏の計算によればこの田の畝の補強に要した杉材は、根元の直径1尺五5寸の材として1万5000本から2万本は必要だという。これだけの木材をどこに求めたのか、誰が運び、誰が打ち立てたのか。守田氏はそこに権力による強制を見る。そして、この劣悪の地の水田で果たしてイネが穫れたのかどうか、「2つある高床式貯蔵庫に、収穫物が満たされたかどうかも疑わしい」と断定する。事実、この登呂では1粒の籾も、その痕跡も、発見されていない(守田志郎「登呂」、『文化の転回』(朝日新聞社)所収)。
 この、権力による稲作の強制という史観は、いま多くの学者が説くこととなった。例えば『日本農法史研究』(農文協)の著者、徳永光俊氏はいう。「畑と田が分離させられたまま、支配者たちの食糧庫であった田には農民たちの涙がしみ込み、農民たちの食糧庫であった畑には汗がしたたり落ちていた」。

◆田をつくれ、田をつくるな

 さて、冒頭に、「始まりから今日に至るまで、田と畑はおおむね切り離され」と記したが、まちがいなく、“田と畑の分離”と“支配者の強制による稲作”は今日に至るまでつづいたのである。
 登呂、卑弥呼の時代から古墳時代へ、豪族たちは住民の労働で開田し、その田でのイネつくりを住民に命じ、かつ、収穫物を自分のものとした。律令国家の班田収授の法のもとでは、人口の増減に応じて田を与えられたわけだが、その理由はその収穫物で食べていけということではなく、労力にみあって、つくらせる田を与えたということである。中世の荘園制のもとでは、人々は荘園の中にとり込まれ、兵士もやり農夫もやるという暮しとなった。荘園の主たちは絶えず戦争をしていた。平氏だの源氏などはその連合体である。
 戦国時代の終わりに、秀吉が刀狩りをした。兵と農を分離して、直接、田んぼ(の収穫物)を支配するようにしたのだった。そのスタートの時点で行なわれたのが太閤検地である。これによって人は(あるいは家は)田に張りつけられることとなる。「田畑勝手作を禁ず」(田を畑にしてはいけない)というお触れも出た。このやり方がずっと、徳川時代いっぱいつづく。それが徳川250年の平和と、村の自治をもたらしたわけではあるが、収穫物である米は都市に運ばれて、村々はしばしば飢饉に襲われることになる。
 明治以降はどうか。地主制のもとでの小作百姓の貧困がつづく。第2次大戦末期には、地主の権力がはずされて、直接国家が食糧を管理する。旧食管法が公布されたのは昭和18年のことだ。農家はみな「供出」の義務を負った。
 それより前、昭和16年12月、例えば長野県では食糧増産のための果樹園整理縮小という告示がでて、リンゴやクルミの樹が切られた。その跡地にはムギやサツマイモの作付が強制された。権力の支配はこのとき、ついに畑にまで及んだ――ということになる。
 戦後、農地改革によって農民の九割方が地主から解放され、自作農として出発した。これで、登呂以来の、日本に稲作が到来して以来の、権力者による田の支配は終わったのだろうか。事実はまったくちがって供出はつづき、一方では、八郎潟干拓にみられるように、国家による大規模な造田事業も進められていた。
 昭和30年は、全国的に米の大豊作。このときようやく、米を作る者が3度の飯に米を食べることができるようになったというのが真実であろう。
 昭和39年の東京オリンピックの年、ふたたび米不足の事態が起って、米の増産が叫ばれた。直接的な供出制度はもうなかったから、強いられた増産ではなくて農家自身の意志による増産運動として、水田の歴史が始まって以来初めての盛り上がりだったかもしれない。日本全国に精農家を訪ねてその技術を学ぶ農家の姿が見られた。しかし、そうして収穫した米を農家が自分で売ることは依然として許されていなかったのである。
 昭和45年、減反政策が始まる。以後今日まで、すでに27年間続く政策である。田をつくれという強制とは逆に、田をつくるな、という強制である。

◆「田畑勝手作」の時代

 農家は怒った。米どころの山形県米沢市の、農協青年部の会合で「減反はしないでいい。イネをつくらずに何をつくるのか」「いや、ここで政府のいうことに従うのが明日あさってのイネつくりを守ることになる」などの意見のなかで、精農家、鈴木利三郎さんはこんな発言をしている。
 「わたしは気にしない。わたしはこの道で生きてきたし、これからも生きていく。これ以上はおまえの米は買わない、と政府がいうなら、わたしの米はわたしが売ればいい。売って罪になるというのなら牛に食わせる」。
 いまようやく、自分で売っても罪にならない時代がきた。田を自分の思いどおりにつくることのできる時代である。イネをつくってもよい。イネ以外のものをつくってもよい。そして、ばあいによっては、しばらくは休ませておいてもよいのである。その限りで、2000年という年月の果てに、いま「田畑勝手作」の時代がやってきた。
 だが、改めてその田んぼを素直に見直せば、イネ以外のものをつくるにしては、1枚の面積がどうにも大きすぎるようである。農業基本法(昭和36年)以来進められた“大型圃場整備事業”がもたらしたこの巨大なゴバン目の耕地は、大型機械を入れての“請負耕作”や“集落営農”による米つくりには向いていようが、田を畑にするには小回りがきかずにかえって不便というあんばいである。
 そこでブロックローテーションなどという横文字の農法が推奨されたりもする。巨大な圃場を2分割なり3分割なりして、イネ、ムギ、ダイズなどの輪作をしようというわけである。そういうことに成功している村もあるし、また、今日では、たとえばダイコンやニンジン用の大型の収穫機もあり、レタスの移植機もあるから、それはそれで“大きな畑作経営をする条件も成り立っています”ということかもしれない。
 だが、いま時代は大きく変わっているのではないか。そのようにしてダイコンやレタスやニンジンの大産地をつくったとして、そういう単品目の産地は、売ることに多大の投資をしなければならない。遠くの都市へ出荷するための予冷庫、市場の要望に応えるための選果機、それらはかつて、昭和40年代からの主産地形成の歩みの行きついた場所である。では、いまといういまは――。

◆地域のために田を使う

 世の中は先行き不透明な時代だといわれる。明日が読めないという。農業だけでなく、社会全体がそういう気分にある。しかしそうしたなかで、まったく明らかなことが2つあるのである。
 一つは高齢化社会がやってくること。
 一つは女性の力が強まること。
 前者は説明するまでもないと思う。後者の、女性の力が強まるというのはどういうことだろうか。これは、国連の決議があるからとか、男女雇用機会均等法ができたからとか、そういう政治や法律の力によってというものではない。そうではなくて“社会がおのずからそうなっていく”ということなのである。このことは都会よりもむしろ農山漁村の生産現場をみたほうが理解が早い。
 高齢化、女性化の2つがいま、日本の農業の力を弱くしているといい、そこに危機感を持つ人たちがいるが、これはまったく逆で、この2つが明日を拓く大きな原動力だといっていい。
 女性化。女性の力が強まること。それは、農村では、かつては補助労働を担っていた女性が、経営の前面に立つことを意味する。女性起業とか女性による「食」業起こしとかいわれるが、これらはみな、女性が核となって進められていることがらである。女性が生産の核となる。それこそが女性の力が強まるということの意味であり、都市におけるように、単に女性の発言が強まるという類のことではない。女性が低賃金労働力として活用されるなどということではない。農村では、女性が生産のイニシアチブをつかむのである。
 一方の高齢化はどうか。農山漁村では高齢者にも、元気な限り働く場所がある。そしてその働くことのなかみが重要である。単なる労働力としてではなくて、一家の暮しのなかにきちんとはめこまれた、なくてはならぬ働き、なのである。
 老人や女性の身体にあった農耕のしかた、省力ならぬ小力の技術が、全国各地で、老人・女性そのものの手で開発されているし、また、機械や機具のメーカーも、そうした新製品の開発を手がけるようになった。
 そのような、農耕にたずさわるときの、たずさわり方の大きな変化がいま進行している。
 一方で「田畑勝手作」の時代が到来している。田でなにをつくってもよい、つくらなくてもよい、という自由な時代。
 自由とは、じつは面倒なものではある。お上のいうとおりでなくてよいということは、自分たちで、やることを発見し、組織するということ。大きくなりすぎた圃場という名の田を、小さく使って自由な農業をする。大経営がいけないというのではないが、大経営の傍らにはいつも、地域の暮しをモノでも心でも支える農耕の世界が必要だ。
 「自主転作」などと他人ごとのように呼ばれる昨今の転作を、村のために必要だから、地域のために有意義だからやる転作にしていこう。まずは村=地域のために田を使う。とすれば、地域で必要なものをそこで生産する――ということになる。そのような工夫はすでに村々のお年寄りと女性の力で全国各地に芽ぶいている。朝市と産直がそれである。
 地域の中に自給の輪をつくりあげる朝市。
 遠方の縁者におすそわけをする産直。
 そうした小さな動きが地域を変え、先行き不透明だという社会全体すらを変える力になっていく。
 田を地域のために使う。その使い道を地域の個性に合わせて創造しよう。
 本誌では、そのような実例をどんどん紹介していきたい。
(農文協論説委員会)


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