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農文協トップ主張 1996年10月号
学校の食教育を応援しよう
―「食べごと」の教育力が「生きる力」を育む―

◆産直には子どもたちの姿がよく似合う

 北海道厚真町の本田弘さんの畑では、イモ植え、イモ掘りが町の人たちの年中行事になっている。イモだけでなく鶏に葉っぱをやったり、裏山で遊んだりと、親といっしょにきた子どもたちは1日を楽しく過ごしていく。やがて礼状が届き、その終わりに「本田農場の米を毎月20キロずつ購入します」と書いてある。「この家族はたぶん、私が米つくりを続けているかぎりは、私の米を食べつづけてくれるでしょう」と本田さんは確信する。
 各地でくり広げられる産直での農家と都市民の交流風景には、子どもたちの姿がよく似合う。
 もしかりに産直を商売、ビジネスととらえたとして、商売成功のカギ、ビジネスのターゲットは何かと問われたら、それは「子どもにあり」といえそうである。いじめやアレルギーだけではなく日頃感じる子どもへの不安、そんな子どもが元気で動きまわる姿は親にとって何ものにもかえがたいほどうれしい。
 産直においては、消費者はそれぞれにちがった暮らしをもつ生活者としてたち現われる。そんな人たちとのふれ合いの中に子どもたちがいれば、産直による結びつきは、いつか商売、ビジネスの域を越え、人と人とのつながり、人と自然とのつながりの場所になる。

◆学校は地域の教育力を求めている

 農家・農村と地域の子どもたちが結びつくとき、農村は元気になる。そして、子どもとの結びつきを考えるうえで、欠かせないのが学校とのつながりである。学校が応援してくれれば、農家・農村と子どもたちが出会う条件が飛躍的に広がる。
 その学校が今、変わろうとしている。学校教育が地域の教育力に大きな期待をもってきているのだ。
 この国の教育行政をリードしてきた中央教育審議会(中教審)は、今年の5月に「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」と題する「審議のまとめ」を公表した。このまとめは「生きる力」を育むことを教育の基本課題にすえ、それにむけて、学校を地域に開くことを強く打ち出した。
 まとめの「開かれた学校」の項は次のように述べている。
 「学校が社会に対して閉鎖的であるという指摘はしばしば耳にするところである。学校や地域によって事情は異なり、この指摘の当否を一律に断定すべきではないが、子供の育成は学校・家庭・地域社会との連携・協力なしにはなしえないとすれば、これからの学校が、社会に対して『開かれた学校』となり、家庭や地域社会に対して積極的に働きかけを行い、家庭や地域社会とともに子供たちを育てていくという視点に立った学校運営を心がけることは極めて重要なことと言わなければならない。」
  「学校がその教育活動を展開するに当たっては、もっと地域の教育力を生かしたり、家庭や地域社会の支援を受けることに積極的であってほしいと考える。例えば、地域の人々を非常勤講師として採用したり、あるいは、地域の人々や保護者に学校ボランティアとして協力してもらうなどの努力を一層すべきである。」
 基礎学力、さらには科学・技術の修得を中心とした明治以降からつづいた教育観、学校観が今、大きく変わろうとしている。自然体験や農業体験を奨励し、知識を覚えるだけでなく自分で調べる学習を重視し、そして地域の歴史や人々の生活から学ぶことを重要な課題としている。
 今ほど地域の教育力が求められ、また発揮できる時代はないのではなかろうか。教育には家庭、学校、そして地域の3つの場がある。親も学校の先生方も子どもたちの成長に心を遣い、思い悩み、がんばってはいるのだが、それだけではいきづまってしまう。「家庭でもっときちんとしつけをしてほしい」という学校側と、「学校はもっときびしく教え込んでほしい」という親側との対立の構図も浮かんでくる。そこで、教育の場としての地域が見直される。
 それでは地域の教育力とは何なのか。

◆地域の教育力のカナメは「食」にある

 地域とは自然に人間が働きかけてつくり出された歴史的生命空間であり、そこから地域に固有の日常生活文化が生まれる。そして、日常生活文化の中心には「食」がある。だから、地域の教育力は「食」とのかかわりの中で、最もよく発揮される。実際、食のもつ教育力は大変大きい。ただし、ここでいう食とはただ単に食べるという行為ではない。
 たとえば、熊本県天草の苓明高校の家庭科での実践を見よう。
 苓明高校の家庭科では、地域の老人クラブや知的障害者、さらには保育園児との「合同調理会」を行なっている。老人クラブとの調理会では、お年寄りを教室に招いて野草や海草、サツマイモや小麦粉を利用した郷土食を教わる。高校生とお年寄りがいっしょになって調理し食べる。これは単なる「食」ではなくて、地域という場の中での食なのである。こうした経験をくりかえした高校生の心の世界は、あっと驚くほど広く、大きくなる。感想文の1例を読もう。

 私たち生活情報科では、3年間で5回、高齢者との合同調理会を行いました。1年生の時、餅つきや味噌作り、押し包丁などの郷土料理をし、2年生の春、クサギナやヨモギなどの野草を使った料理を教えてもらいました。3年になって、昔の天草の海について話を聞き、そして海藻料理を習いました。これらの、合同調理会での自分を振り返ってみると、1年生では、人見知りする子供のようでした。多分、おばあさん達と共通の話題がなくて何も話せずにいたか、あるいは、ただ単に緊張して恥ずかしがっていたかのどちらかです。
 2年生の時は、自分から話すように心掛けました。3年では、すぐに挨拶が交わせるほどになりました。自分でもすごい変化だと感心します。
 でも、それはおばあさん達の良さを知ったからです。昔の私はひどい言い方ですが、おばあさんイコールのろまで役立たずだと思っていました。
 合同調理会にきた本渡市老人クラブのおばあさん方は、バイタリティー溢れていて、しわばかりの手に似合わない手際よさを発揮されました。話が盛り上がって野菜を切る手が止まることもちょくちょくありました。
 私がワカメを水に戻していると、おばあさんは一口味見して「このワカメは、どこのかね、あんまりおいしくないね、昔は海ですぐ取れよったとに今じゃ沖にしかなか」と言われ、私は、驚きました。そのワカメは近くのスーパーで、購入したものです。どちらも同じワカメなのに、どうして品質の違いが分かるのでしょうか。私はさっぱり感じませんでした。私はこれまで乾燥ワカメしか食べたことがないので生のワカメを食べてみたいと思いました。でも、今はその生のワカメも品質が落ちて、おいしくないと聞きます。そうなってしまった理由は、なぜなのでしょう。海の汚れのせいでしょうか。(以下略)

 1年、2年、3年と、お年寄りとの食を通したふれあいの中で、生徒たちは海という地域自然のありよう、海が汚れた原因にまで目を広げていく。家庭や学校の中だけでは得られない「生きる力」を育てる地域の教育力がここにある。卒業後、はじめて母校にきたというお年寄りもいたりして、老人クラブの皆さんもこの合同調理会を大変楽しみにしている。
 食とは、単に食卓の上のことではなく、調理すること、材料を入手すること、そして生産にまでつながる一連の
 「食べごと」の世界である。食を考えるとは、それを生み出す自然と労働のことまで思いをはせることである。だから学校の食教育は単なる料理講習会でもないし、栄養学の知識を知ることでもない。食教育とは食を媒介とした地域教育に他ならない。それは地域の自然とそこに住む人々に支えられてこそ豊かになる。

◆学校の食教育に新しい気運、盛り上がりが

 子どもたちの心身にわたるゆがみが進行する中で、あるいは環境教育が求められる中で、今、学校では食教育への気運が急速に高まっている。
 去る8月1〜3日の3日間、幕張メッセで日本教育新聞社主催の「教育総合展」が開かれた。学校での情報活用にむけ各メーカーが多数の教育ソフトを出展し、各地からたくさんの先生方や教育関係者が訪れた。農文協では、「現代農業記事検索CD-ROM」と「日本の食生活全集」のインターネットのテスト版を用意し、先生方と交流したのだが、その過程で学校の先生方は農や食に大変強い関心をもっていることを実感することができた。
 雑誌「現代農業」を知らない人も少なくなかったが、たとえばCD-ROMで「アサガオ」という言葉を検索すれば、サツマイモにアサガオを接ぐ遊びの記事がでてきて、「これはいい。今、学校に両方ともあるからやってみよう」という小学校教師。「手づくり・国産小麦」と「パン」の検索ででてきた国産小麦パンの記事の多さに「各地でこんなにいろんな取り組みがあるとは知らなかった」という家庭科の教師もいた。「赤米」の記事を見て、食べものの調べ学習や歴史教育にも使えるという社会科の教師は「実際にやっている農家の記事だから、栽培法がよくわかるし、種モミを頼むこともできそうだ」と喜んでいた。
 「現代農業」は農家の雑誌である。そこに農家の生産と暮らし、自然観が豊かに描かれているがゆえに、「生きる力」を開発する「教育雑誌」としても活用できるのである。今、先生方は地域の教育力を生かすための「食べごと」の情報を求めている。

◆「食べごと」の教育力

 インターネット版「日本の食生活全集」も好評だった。県別に昭和初期の庶民の食事を描いているだけに「修学旅行の前に、行き先の生活文化、食文化を生徒に調べさせるのにちょうどいい」という反応が返ってくる。「国語教育に最高だ」という先生もいた。

 田植えがすんで1週間目ぐらいに、稲株のまわりの土を除いて、株張りがよくなるよう気を配りながら1番草をとる。そして2番草、3番草となると、真夏の暑い太陽で背中が焼けるようだ。そのうえ、稲の間をはうようにして手でとるのだから、腰が痛くつらい仕事である。草を少しとっては腰を伸ばす。ふと目をやると、かっこう(笹ゆり)の花が山ぎわの草むらの中に咲いていて、ほっと腰の痛さを忘れるひとときもある。気をとり直し、また、かがんで草取りに励む。暑さは、すげやわらで編んだ日薦を着るので少し防げるが、腰の痛いのはどうしようもない。
 長い草取り仕事の間の骨休みは、朔日と15日である。山からりょうぼの葉(りょうぶの幼芽)をとってきて、麦のかわりにりょうぼや山菜を入れて、りょうぼ飯や山菜飯などの混ぜごはんをつくって背を伸ばす。

 お年寄りからの聞き書きにもとづく本全集の「山口の食事」の文章の1例だが、このように「食」は、単なる食事でなく生活そのものなのだ。これをみて先生方は新鮮な感動を覚える。国語は言葉の意味や使い方を教える科目だが、その国語教育が「生活体験」の乏しさのために成り立ちにくい状況があり、この状況を打破するうえで、この「食べごと」の中から生まれた言葉が、学ぶ意欲をもたらしてくれるのでないかという。基礎学力もまた、食や地域の教育力に支えられて成り立つのである。

 自然に人間(農家)が働きかけることによって食べものができる。食べものを食べて人(の身体)ができる。それを土台にこころが育つ。産直という農村から都市への働きかけは、この生命の流れを正常にもどし、正常にもどすことによって世の中を変えるとり組みである。
 食べものを変える。食べもので変える。地域の生命空間を豊かにすることで生命力あふれる食べものをつくり、それをもって都市に働きかける。それが、子どもたちの健康を守り、教育の場を広げ、生きる力を育む力になる。
 「21世紀を展望した我が国の教育」は、農家、農村の力によって切り拓かれる。
(農文協論説委員会)


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