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農文協トップ主張 1995年9月号
戦後50年にあたって農村のお母さんたちへ
―世の中、暗くみるか明るくみるか―

◆農村婦人の戦後50年

 いま70歳前後のご婦人が農村に嫁いできたころは、農地改革の嵐のさなかでした。
 いま60歳前後の方々が嫁いできたころは、農村は久方ぶりの豊作で、心なごんだ時期でした。農地改革によって自作農としての営農に新しいスタートを切った全国の農家の努力が稔って、昭和30年にイネは大豊作となり、戦後の「食糧難」も基本的に解決したといわれた時代です。
 いま50歳前後の方々が嫁いできたころは、農村から都市へ出稼ぎに出る人が急に増えていく時期でした。昭和30年の豊作からしばらくは、耕うんは牛馬に頼り、肥料は堆肥と単肥に頼るおだやかな農耕がつづけられたのですが、工業の発展のスピードがだんだんと早くなって、農業の近代化(機械化、専作化、規模拡大)が叫ばれるようになりました。農業基本法ができたのは昭和36年です。そして昭和39年の東京オリンピックを契機として出稼ぎが急増したのです。
 いま40歳前後の方々が嫁いできたころは、すでにイネの減反政策が始まっていました。オリンピックのころから数年間は米不足の時代になり、米の増産運動が全国ではなばなしく行なわれ「農家が燃えた」時代だったのですが、昭和45年から、減反が始まって、バブル崩壊の今日にまで至っているわけです。
 農家に嫁いで50年、40年、30年、20年……。
 どの世代のお母さん方も、戦後の農村の変わりようを、身を以て経験された生き証人です。
 みなさんは、世の中、よくなったとお考えですか。それとも……。
 それは、それぞれの地域、境遇、感じ方でちがうでしょう。それでも、日本全体がたどった戦後の50年のなかでの農村の暮らしをふりかえってみることは、明日を考えるうえで、きっと役立つと思います。
 ……と書いてはみましたが、農村のお母さんたちがたどった歴史は、ほんとうにたいへんだったんだと思います。「思ってもらってもわかりはしないよ」といわれてしまいそうです。しかし、勇気を起こして、戦後50年の農村の変化、農村のお母さんたちの暮らしの変化をたどってみます。それを、明日の農村の暮らしをよいものにするよすがにしたいと思うのです。
 農地改革―高度経済成長―減反―バブル崩壊という戦後50年の変貌のなかで、後もどりできない農村の暮らしの変化がありました。それを4つの節目で考えます。分家革命―青年革命―婦人革命―老人革命です。順を追って考えてみます。

◆農地改革―分家革命

 「革命」ということばを使うのは、すこし激しすぎるかもしれません。しかし、農地改革は、短期間のうちに、それまで主流だった地主=小作の関係をほとんど消滅させ、たくさんの自作農民を誕生させました。農地改革以前に268万戸もあった小作、小自作農家が72万戸に減り、逆に284万戸だった自作、自小作農家が541万戸に増えたのです。農家の暮らしが成り立つ土俵がすっかり変わったのですから、これは革命と呼んでもおかしくない変化でした。
 けれども革命というのは、別にその現われの激しさの程度によってそう呼ばれるというものではありません。静かに、だれも気付かぬうちに進むけれど、決してあと戻りはしないような、ものごとの根底からの変化が起こることこそ、革命の名にふさわしい変化だと思います。
 そうした意味で、農地改革が村にもたらしたその後の変化は革命と呼ぶにふさわしいものでした。それが分家革命です。
 本家と分家の関係は、農村では長いあいだ暮らしのありかたを決める重要な絆の一つでした。地主と小作の関係は直接に暮らしの経済を決める関係でした。小作人は収穫した米をまず地主に収めなければならなかったからです。一方、家族の暮らしを決めるものは本家―分家の関係だったのです。いま「家族」といえば父母と当主夫婦とその子どもの、3世代で成り立っているのが普通ですが、戦前は本家―分家のタテの関係がつよくて、一つの家族のなかで起こることがらの決定は、本家筋とも相談して、その了解を得て行なわれたものです。田畑の売り買いはもちろん、子どもの進学も、結婚もそうです。「親族会議」がなにかにつけて開かれます。いま70歳前後の方だったら、あなたの婚儀についての「親族会議」が開かれたかもしれません。
 秋田県の山深い里のある部落では本家はオヤケ、分家はベッケと呼ばれていました。農地改革当時、オヤケは部落の耕地のほぼ全部の所有名儀人で、これをベッケ各戸に配分して小作させていました。農地改革のときオヤケはその時点で配分されていたとおりに土地を開放したとのことです。この部落を訪れたとき、あるベッケだった老人がいいました。「農地改革に私らはとまどいました」と。
 つまり、本家が分家を庇護することで村びと全員の暮らしが成り立っていたという事情もあったのです。しかしこの部落ではその後、若い人たちが本家に提案するかたちで入会山を開拓し、分家の自作地ができるだけ差のないように配分して、食糧の生産に(暮らしの確立に)励みました。いま、この部落にオヤケ―ベッケ、本家―分家の区別を日常気にする人たちはいません。
 分家革命は、本家の分家に対する一種の拘束力から、分家を解放したわけです。本家によって分家が守られてきた面もあったけれど、それはまた分家の、一つの家族としての独立した振舞いをはばんでもいたのです。それが、分家の経済的な力が強まったことで、なくなりました。農家1軒1軒が、3世代家族として独立できるようになったのが、分家革命の成果です。

◆高度経済成長―青年革命

 「農村の次・三男問題」ということばを、昭和3十年代前半まで、よく耳にしました。
 長男は家を継ぎますが、次・三男はどうすればいい?
 若勢といって、村内の大きな農家に住み込んで農作業をするとか、日傭取りといって今日はこっち明日はあっちの農家の作業を手伝って歩くというような、村うちでの「農業労働者」として働くことがふつうでした。遠く北洋の捕鯨船に乗り込む出稼ぎに出るのが当たりまえ、という村もありました。
 しかし、昭和30年代も後半になると、都市への出稼ぎの口がいくらでもあるようになって、次・三男問題は一挙に「解決」してしまいました。当時、東京の地下鉄工事の現場を取材したことがありますが、青森からさそいにあって出稼ぎにきたという青年たちがこもごもに語っていたのはつぎのようなことでした。
 「1日の稼ぎはほぼ1000円。一冬5カ月いて15万円になる。支出は食費が1カ月最低4500円、風呂が500円、タバコや酒が切りつめて3000円。以上で1カ月8000円だから5カ月で4万円。これに往復の旅費が1万円。一冬働いて手元に10万円ほど残る」
 「10万円を米で稼ぐには17俵(当時米価は1俵6000円弱でした)。1町歩やっていて、反当1.7俵増収すれば出稼がなくてもいいわけだが、それはなかなかきついよ。それに雪の中で10万円稼ぐよりモグラで稼ぐ(地下鉄工事で稼ぐ)ほうが気が楽だね」
 青年たちは春から秋までは村に帰って稲作りをしました。次・三男ばかりでなく、後継ぎも、のちには1家の主も出稼ぎに出ました。「母ちゃん農業」などということばが流行して、村のお母さんたちがいちばんつらい思いをした時代です。
 やがて、村うちにも何やかやの仕事ができて、出稼ぎよりも「安定兼業」の時代になります。家から通勤できる距離に勤め先がたくさんある時代になりました。
 青年革命とは、長男は本人の意志にかかわりなく農業を継ぎ、次・三男はやがては村を去る他ないというような、人生についての運命的な拘束から、青年たちの未来が解放されたことです。もちろんそれが、「後継者難」を生むのですけれど、長男が成人するとき親はまだ50歳くらいの働き盛りですし、機械化もされてきましたから、長男が高校を出てすぐに農業に就かなければならない必要性も少なくなってきたという事情もあるでしょう。

◆婦人革命と老人革命

 男たちが勤めるようになったことは、婦人が農業をやることにつながります。もともと農業をやらないできた農家の婦人など、稀にしかいませんが、農業とのかかわり方が変わってきたのです。
 これまでは一言でいって男に使われる農業であったのが、自分でやる農業になってきた。手つだい・使われ労働から自分の労働になって、営農全体を切りまわす立場になってきたのです。そのために、一層きつい労働になってきたかもしれません。たしかに、都市のサラリーマンの婦人に比べたら数倍の労働量になるでしょう。しかし営農に采配をふるう仕事は知的な労働を含みます。農業はいま、婦人の柔軟でしなやかな知力が十分に発揮される労働になりました。
 それに加えて、婦人が営農に采配をふるうことは、家族のなかや村うちでの婦人の役割や地位を高めました。農業技術の講習会などへ、婦人がどんどん出席するようになりました。
 福島県の会津地方の山間の村で、大勢のお母さんたちの話を聞いたことがあります。昭和5十年代の半ばのころでした。
 「おなごはな、習ったことを手抜かずにちゃんと守ってやるから、ひょいとすれば男衆よりもうまく作る」「10アール13俵も穫って、こりゃおなご百姓もたいしたもんだって自画自賛したもんだな」「昔はいちばんソコナリだから百姓になったといわれたけれど、いまは百姓ほど頭をよく使える人でないとだめな仕事はないな」「兼業農家になってよかったなあと思う。もし専業でやっていたら、夫婦で足を引っぱりあって、かえってうまくいかなかったかもしれない」
 そうはいっても、兼業化したからお母さんたちが元気になったというだけではありません。専業農家はそれなりに規模は大きくなっているし、また作目を増やして複合的な経営になっていけば、婦人の労働も補助的なものにとどまってはいけません。作業や作目の分担をすることで、基幹的・独立的な労働を婦人がまかされるようになってきました。村々を毎日歩いている私たち農文協の古参職員だれもが感ずるのは、近ごろの農家のお母さん方が、自分で物ごとを決められるようになったことへの驚きです。「父ちゃんに相談しておくから」という言葉は聞かれません。お父さんに取材していると、お母さんがお茶を振舞ってくれて、そのまま話に加わることもしょっちゅうです。たまにお姑さんの愚痴(?)を聞くことがあります。「私らが嫁の時代には一所懸命姑に仕えたものだが、こちらが姑になってみたら、嫁たちの天下になっていた」と。
 婦人革命につづいて、村々で老人革命が起こっています。
 お年寄りたちは一時期、生産の現場から追われてしまったことがありました。大きな産地ほどそういうことが起こりました。昔は、健康である限り老人として分担できる農作業があったのに、大型機械のゆきかう田畑を横目にしながら、ゲートボールの試合に出かけていくようなことになってきました。
 しかし、バブル崩壊からこのかた、様子が変わってきています。定年になって村に落ちつき、老人に適したやり方で農業に就く人が全国あちこちに見られます。埼玉県の加須市にはズバリ「定年退職者学頭営農組合」(学頭は地名)という名の組合があって稲作の作業受託や経営受託をしています。リーダーの71歳になる小倉さんは「農家の長男として育ったものの東京電力社員として、57歳までサラリーマン生活を送ってきた」人で、「家の農業については年老いた両親と妻の「3ちゃん」に任せ、自分はほとんど農業にかかわりを持っていなかった」といいます(註1)
 また、お年寄りによる特産物つくりも、あちこちで始まっています。大分県の日田市の大鶴農協は500戸たらずの小さな農協でしたが、村のなかに「やる気のある老人」がいないものかと人探しをして、まず10人のお年寄りを見つけました。そして老人向きの小物野菜をつくりはじめました。作目は年齢に応じた「適人適作」で、少量多品目の野菜つくりに徹したのです。10年たらずで、参加者は10人から336人となり、売上げ高は2000万円から3億7000万円になりました。そして「いまゲートボールを楽しんでいるのは非農家のお年寄りだけ」なのだそうです。(註2)

◆暗く考えるか、明るく考えるか

 いま農村でいちばん元気なのはお母さんたちだという声をよく聞きます。山口県のむつみ村では、15年前、兼業のお母さんたちだけで雨除けトマト栽培を始め、いまでは農協のトマト部会は70人を超え、勤め人だったお父さんが退職して加わったために専業農家になったという家もあります。漬物だのまんじゅうだの、その地その地の特産物をつくって朝市や産直で売るお母さんたちは、いまでは全国どこにでも見られるようになりました。それを市町村や農協が応援しています。
 こうした農家の女性たちの働きは、都会の女性がパートに出るのとはわけがちがいます。自分たちが自分たちで始める仕事なのだから、失敗すればツケは自分たちに戻ってきます。そのかわり、成功すればその成果はすべて自分たちのもので、村にも活気がでてきます。勤め人ではなくて、村の仲間が集って行なう責任ある仕事なのです。だから、農村の女性起業というようなことばも生まれました。
 農水省が先ごろ発表した「農山漁村高齢者ビジョン」でも、農山漁村の高齢者は「生産活動を通じて所得を得る機会を持ち、農林漁業の振興及び農山漁村地域社会の活性化にもかけがえのない役割を果たすことができる」人たちだとして、農山漁村の高齢社会化を積極的にとらえています。
 分家革命―青年革命―女性革命―老人革命という見方で、農村の戦後50年を見てきました。これを暗いほうへ暗いほうへと考えれば、農村から青年たちがいなくなり、女性と老人だけの農業になってしまったということになります。明るく考えれば、本家―分家というタテのしがらみがなくなり、青年たちは自分で職業を選ぶ自由が持て、女性は自分が営農の中心に立てるようになり、世間一般は高齢化社会に頭を痛めているのに農村ではお年寄りに向いた仕事がいっぱいある――ということになります。
 学校を卒業して農業に就く者は数えるほどになってしまったと嘆くこともできますが、女性が中心になって老人も楽しく働いているのを見て、孫たちが農村に住み農業を営みたくなる時代がやがてやってくると明日を展望することもできます。
 いかがでしょうか。あなたは暗く考えますか、明るく考えますか。

(註1)詳細は『農村文化運動』第129号「高齢者と女性が地域社会の未来を拓く」(定価260円送料52円)をごらんください。
(註2)詳細は、現代農業増刊号『日本農業は提案する』所収の「1戸1品運動でお年寄りが村づくりの核に」(定価800円送料120円)をごらんください。
(農文協論説委員会)


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