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農文協トップ主張 1995年4月号
都市と農村は
平素からの親戚づきあいを

――阪神大震災被災者の農村「疎開」に考える

 戦後最大の自然災害となった1月17日の阪神・淡路大震災は5300名を超える方々の貴い生命を奪い、兵庫県南部地域に甚大な被害をもたらした。この震災で亡くなられた方々に心からお悔やみを申し上げるとともに、怪我をされた方々、いまなお避難所生活を余儀なくされている方々にお見舞いを申し上げたい。
 この震災に関しては地震発生直後から、国民のほとんどといっていいほどの広範な方々が、それぞれの立場で支援の手をさしのべてきた。全国各地から現地へ飛び、ボランティア活動にたずさわっておられる方も数多い。ここでは、そうした幾多の営みのなかのひとつの動きに注目してみたい。

◆震災4日後に早くも発表された
「緊急疎開」の提言

 震災の衝撃もまださめやらぬ1月21日の朝日新聞「論壇」欄に、ひとつの投稿が掲載された。投稿者は東京農工大学助教授の千賀裕太郎氏。千賀氏は「緊急の提案」として周囲の市町村の協力によって被災住民を「緊急疎開」させることを呼び掛け、その理由を次のように述べていた。「避難生活者が30万人という数字は、その対策について発想の転換が必要であることを示している。被災者の中には、寒中外にテントを張って夜を過ごす人もいるし、避難場所の体育館も超満員である。この大寒の時期では、こうした生活に何日も耐えられるものではない。」
「移動先の地域のホテル、旅館、民宿等の宿泊施設を国が一時借り上げて宿泊所とする。学校や公民館の和室など公共施設も利用する。民泊を申し出るボランティアも募る。深刻な被災を免れたすぐ近くの市町村、とりわけ農村部には、いつものように水も食料も、安全で快適な空間も、暖かな人も手もある。」
「こういうときにこそ、大都市と周辺の農村地域との連携が図られるべきなのである。農村にはそれだけのふところがある。」
 千賀氏はこのようなマスコミを通じた呼びかけの一方で、中長期的な遠距離疎開の可能性も含めて、全国の顔見知りの農家に電話で打診した。本誌の執筆者で長野県松本市の酪農家小沢禎一郎氏も打診されたひとり。「自分の住んでいる市町村に被災者の受け入れを」との呼びかけに、小沢さんは果たしてそんなことができるだろうか、と一晩悩んだ。一睡もしないまま、翌朝5時半、市長の自宅の門をたたく。急遽、市内の識者が集められ、検討すること3時間。いま松本市では施設・住宅を検討し、子ども、老人を中心に200人前後の受け入れを行なう方向で検討が進められている。
 小沢さんはこのような地元でのめまぐるしい活動のかたわら、1月23日には本誌編集部あてに「兵庫県南部地震被災者を農村で受け入れよう」という緊急アピールの原稿をファクスで送信してくれた。折りから編集部は3月号の印刷所での最終校正の最中だったが、記事を差し替えて「読者のへや」の欄に掲載したので(3月号、369頁)、ご覧になった読者の方も多いことと思う。

◆地域づくり活動のネットワークが
支援活動に生かされた

 同じ頃、遠い北海道では旭川市の若手農家が動き出していた。同市西神楽地区の農家12戸が語らって、「金を送るだけが援助じゃないだろう」と、20人の小中学生の受け入れを決意したのである。1月28日には、西神楽農協にかけあって、農協内に「西神楽災害支援委員会」事務局を設置、広報活動と申し込みの受け付けを開始する。地域ぐるみの動きとしてはかなり早かったので、多くのマスコミが注目して報道したものの、遠い北海道ということもあってかなかなか反応はない。1月末には2人を現地に派遣し、千賀氏や学生と合流しながら活動を続けるうち、西宮市の新谷陽一さんから事務局に問い合わせがあった。
 新谷さん一家は陽一さん夫婦と小学生娘2人の一家4人。8階建てマンションの3階で被災、幸い大きな怪我はなかったものの、倒壊の危険があるため、市内にある陽一さんの実家のアパートに身を寄せていた。手狭なため、祖父母は神戸市北区の親類宅に移ったが、早く実家に戻したほうがいいと、子ども2人に2人の「疎開」先をさがしていたところ、新聞で西神楽の記事が目にとまったのだった(「朝日新聞大阪版」2月6日付記事による)。
 新谷さんにとって、旭川は縁もゆかりもない土地、「北海道の冬」への不安もある。しかし、小学校6年の美由紀さん、5年の清香さんの年子の姉妹を伴って西神楽にやってきた妻の妙子さんは、地域ぐるみの暖かい迎え入れ体制に安心し、娘たちを農家宅にホームステイさせながら、当分の間、地元の小学校に「留学」することにし、西宮に帰っていった。
 受け入れ班の餌取清治さんは、「今回の支援活動を通じて、関西の人々にとっていかに北海道がなじみ薄いところか痛感した。でも活動を続けるうちに、西宮市在住で旭川に住んだことのある主婦がメンバーと一緒に、北海道の良さを被災者にアピールする活動に自主的に参加してくれるなど、かけがえのない出会いもあった。この活動が、ひとりでも多くの人に北海道や旭川を理解してもらうきっかけになれば」と、話している。
 もともとこの活動の母体となったのは「夢民村」という西神楽地区の20〜30歳代の農家グループ。農業や地域の未来について語りあう自主的な集まりであるが、近年は企業、行政との連携をはかるべく、そうしたメンバーも巻き込んで「地域づくり研究会」を旗揚げした。今回の支援活動において、航空会社のJASをはじめ、多くの企業の人的、資金的援助を得ることもできたが、それはこの研究会のネットワークが生かされたからである。

◆物のやりとりだけでない関係の証しとして

 自治体ぐるみで条例を制定し、被災児童・生徒の受け入れを決めた町もある。岩手県和賀郡東和町。小原英夫町長はテレビで海外から神戸市に対して被災者受け入れの申し出があるのを知り、いくら遠隔の地とはいえ、同じ日本の市町村が名乗りを上げないのはおかしいと思い立つ。全国に先がけた「友好都市等被災住民緊急受入条例」は2月初めの臨時町議会で全会一致で可決された。被災地の保育所から高校までの児童・生徒を中心として約500人、ホームステイと町営住宅等の公共施設で最長2年間の「疎開」を予定しており、受け入れに係わる交通費、見舞金などはは町が補助する。2月中旬現在、30件ほどの問い合わせが寄せられた。受け入れに向けてすでに2度にわたって職員を派遣しており、2月14日からの第2次派遣では7名の職員が救援物資を携えて被災地の学校を巡回している。 この活動には地元のJA岩手東和町も全面的なバックアップを表明している。JA岩手東和町は本誌94年11月号でも紹介したように、昨年から「らでぃっしゅぼーや」と8000俵の特栽米の取り引きを始めるなど、米の産直に熱心な農協である。多田啓紀組合長は「被災地には私どもの農協の特栽米の会員が1100世帯もいる。また、神戸市場は当地のリンゴの主力市場でもある。早朝から働いていた市場関係者や仲卸には被害に遭われた方も多い。『親類』が困っているのに黙って見ているわけにはいかない。地震の直後にも米と水を送らせていただいたが、今回、町が制定した条例にも農協としてできる限りの協力をしたい」と話していた。
 私たち農文協は、2月号のこの欄で、米産直をめぐって「生産者も消費者もともに生活者なのだという新しい考え方に立った『生活者型農産物流通』」を提起した。昨年春の米不足騒ぎ以来、外国産米の緊急輸入から、米流通の「自由化」という激動のなかではっきりしてきたことは、これからの時代は農家と消費者の個別的関係がよりいっそう求められるということだ。それは農産物というモノのやりとりを超えた信頼関係に立脚していなければならない。米不足だからといって農家は売り惜しんではいけない。米が余ったからといって、消費者は特栽米契約を破棄してはならない。事あれば助けあう。そのような関係をふだんから築いておきたい。JA岩手東和町の決意はそのような関係づくりの一環なのであろう。

◆平素から都市と農村の親戚付き合いを

 すでにJA全青協とJA全婦協は被災地の児童・生徒のホームステイ受け入れを決め、受け入れ希望者の受け付けを開始した。心ある方はぜひ応募されたい。
 いやわれわれが改めていうまでもないであろう。いま紹介したのはむしろ被災地から遠い地域の事例であって、神戸市の周辺市町村や近県のJAなどを中心に多くの農家、農業関係者の方々が、すでに被災者を受け入れておられることと思う(注)。いま、震災によって、神戸市の小学生の15%に当たる1万5000人が転校しているという(『毎日新聞』2月15日付)。まさに戦災のような状態である。
 ここでもう一つ考えておかなければならないことがある。このような「戦災時」ばかりでなく、いざというときに備えて平時においても、都市と農村は「親戚づきあい」をし、「疎開」先を決めておく必要があるのではないか。
 岩手の東和町が今回、全国に先がけて条例を制定した背景には、昭和63年のリンゴの宅配から始まった川崎市との交流があった。平成2年にヒョウ害にあったリンゴを町出身の川崎市の高校の先生の呼びかけで教職員組合が買い上げたことなども契機となって、人的・物的交流が年を追って活発になり、いまでは自治体ぐるみのつきあいに発展している。平成2年以来、毎年行われている小学生のサマーキャンプをはじめ、中学生の農家生活体験旅行、高校生の修学旅行などで、川崎市の児童・生徒を農家民泊で受け入れており、その数は昨年実績で400名にのぼる。
 今回の条例が「友好都市等」と銘打たれているのは、東和町が「阪神大震災を教訓に地方自治体同士が(平素から)独自の緊急相互扶助体制を整備しておくことが非常に重要と判断」したからであり、現に条例制定に先だって町では神戸市とともに川崎市にもわざわざ職員を派遣しその意図を伝えているのである。全国の都市と農村も、東和町と川崎市の「親戚づきあい」に見習うべきであろう。
 「疎開」が必要なのは災害時ばかりではない。農村の恵まれた自然環境の中で農業にふれることは、たとえ短期間であっても、成長過程の子どもたちにとってかけがえのない経験となる。稲を刈り、ナスをもぎ、牛に餌をやり、朝市で自分の収穫した野菜を売る――そんな当たり前の体験が新鮮な喜びであることは、東和町での農家生活体験旅行で見せた川崎市立東高津中学校の子どもたちの生き生きとした表情が物語っている(本誌94年12月号、橋本紘二カメラマン撮影のグラビア)。農家にとって、見ず知らずの人を預かるのは、気骨の折れることではあろう。しかし、それは少なくとも農業に理解ある消費者(=「生活者」)を育てることにつながる。のみならず、子どもたちの新鮮な驚きを通して、自分たちがふだん気付かない村の良さに気付くことにもなろう。それは村に暮らす者にとって、何にも代えがたい置きみやげとなるにちがいない。

◆最大の災害対策は都市と農村のバランスの回復だ

 震災の発生を人間の力で防ぐことはできない。しかし、その被害を最小限にとどめることはできる。
 エキゾチックでおしゃれな観光都市神戸のもう一つの顔は、「外延部の新興団地へと息子・娘夫婦らは孫を連れて去っていき、旧市街地の老朽住宅には老夫婦、独り暮らしの高齢者が取り残された」うらさびしい町であった(「毎日新聞」1月31日付、内橋克人氏〈新消費学〉)。「六甲のおいしい水」とはほとんど縁なく、淀川の水を延々と引き込む砂上の楼閣であった。震災のいたましい犠牲者(その多くは高齢者)と水をはじめとしたライフラインの壊滅的な分断は、この一見華やかな町の虚構性をはからずもあばいてしまった。この都市に本当に必要だったのは、ビックイベントの招聘や巨大な人口島の建設だったのであろうか。「神戸市株式会社」などといって、この自治体の「企業家精神」を持ち上げていたマスコミはいまこそ猛省すべきである。
 企業家の時代から生活者の時代へ。近視眼的な経済発展ではなく、百年の計を考えるならば、災害対策上はもちろんのこと、老人福祉、教育、住環境などあらゆる面からいって、都市は農村との関係強化に投資するべきであろう。それは長期的にみれば都市と農村の人口格差の是正につながっていく。都市問題は都市内部ではけっして解決できない。都市と農村の関係を変えないかぎり、これら21世紀につながる主要な問題の根本的解決の道はない。かつて農村は救われるべき対象であった。いまや農村が都市を救う時代なのである。
 川崎市の面積は136平方km、東和町の面積157平方kmより狭いところに、約100倍の106万人がひしめいている。この異常は明らかである。そうはいっても、この格差は容易には縮まらないであろう。しかし、産直を核とした都市と農村の関係づくりは格差是正の「はじめの1歩」にはなる。
 2月号の主張では「米産直を農村の多次産業化の武器に」と述べたが、究極の産業はそこの土地柄そのものをアピールことであろう。川崎市では東和町との人・モノ・情報の交流の蓄積を踏まえて、田沢湖畔に伝承文化体験や園芸農業体験などができる長期滞在型市民保養施設を建設する予定である。いわば恒常的な「疎開」施設ができるわけである。ほんらいリゾートとはそういうものであろう。そのような関係のなかで、都市から農村へ移り住む人も生まれてこよう。すでに東和町へは関東近県からの新規就農者も増えはじめている。究極の「災害対策」がいま静かに幕を明けようとしている。

(注)このような動きと関連して、千賀氏の論説が掲載されたころ、京都大学助教授の嘉田良平氏は近畿2府4県のJAに緊急ホームステイに向けた協力を要請し、1月30日の『日本農業新聞』紙上でも提言を行なっていた。

(農文協論説委員会)


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