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農文協トップ主張 1994年07月

これからの農業は大小相補で
もちつもたれつの農村ネットワークをつくろう

目次

◆農業が変われば日本が変わる
◆「自己完結」の新しい形を模索する
◆小が集って大をつくるやり方
◆はめ込み方式の「自己完結」
◆耕すことの自由、耕し方の多様性

もちつもたれつの農村ネットワークをつくろう

農業が変われば日本が変わる

 「自己完結型」の農家経営をつづけていくことは、いま、かなりむずかしいことになってきている。このことを考えるうえでだいじなのは、そのむずかしさは、兼業農家だけにあるのではなくて、専業農家のほうにもあるという点だ。経営の大小でのちがいではない。

 自己完結型農業は、長いあいだ、理想的な姿だとされてきた。農家経営の理想というだけでなく、人の生き方の理想のようにもいわれてきた。事実そうだったのだろう。室町時代の隠遁者、江戸時代の本百姓(ほんびゃくしょう)、農業基本法の自立経営、西洋の独立自営農民、東洋の修身斉家、みんな心地よく響くことばだ。自分をちゃんとすることで自由を得るという思想である。

 そのような自己完結型農業をつづけることがむずかしい時代になったとすれば、困ったこと、由々しきことととられがちだが、果たしてそうか。時代が大きく変わろうとしているとき、それまで「理想」としてきたことが壊されることがままある。それをただ嘆くのではなく、また単なる流行のように新時代を受け入れたつもりになるのでもなく、新しい時代の皮袋に昔から守り育てられてきた美酒(理想)を入れるような、むずかしそうだが、賢明なやり方もあるように思う。

 今年一月号の主張で私たちは、「二十一世紀は“小さい農業”の時代」という提唱をした。

 農業機械、化学肥料、農薬など、近代科学の粋に助けられて、規模を拡大する方向に進んできた二十世紀後半の日本農業ではあったが、これからはむしろ、ハイテクノロジーという新たな技術革新によって、機械、化学肥料、農薬から徐々に離れてゆき、手作業(クラフト)的な農業に向かっていく条件ができてきたのではないか。そういう技術を生かして多くの小さい農家が成り立っていく――これが二十一世紀の日本農業の姿だという主張だった。

 そして、そのためには大きい農業と小さい農業が相補的に、持ちつ持たれつのネットワークで、うまく組み合わされることが必要であり、それができれば農村は、小さい農家も大きい農家も、そして非農家も共存していける、好ましい住み場所になり、都会ばかりが肥大してしまうこれまでの日本とはちがう日本がつくられるだろうという論旨である。

 二十一世紀が小さい農業の時代だということには、単に農業だけの話ではなくて、日本という国が成り立つ基盤としての社会システムを大きく変えていく要件になるという含意があった。

 小さい農業の時代がうまくつくれたら、日本が変わる。

“自己完結”の新しい形を模索する

 自己完結型というこれまでの農業の理想は、たとえば昭和三十年ごろのイナ作をみれば、春になると塩水選をしたモミを保温折衷苗代に播き、牛馬の力を借りて本田を耕起し代かきし、ユイを結んで助け合いながら田植えをし、夏の暑さのなか水管理をし除草をし、畦畔の草を刈って収穫の秋を迎え、クラフト的な機械(つまり道具)の力を借りて脱穀調製し、自家製の俵に玄米をつめる――という一巡りのしごとだった。もちろん冬にもしごとはあった。

 この一巡りを、おおむねは家族と家畜で、ときに近隣むら人の力を借りて行なっていたわけで、購入する資材も、いまと比べれば、それほどの額ではなく、自給的資材のほうがずっと多かった。

「自己完結」の一巡りの輪は、じつに多くの異なった作業が連綿とつながっていくことによって成り立っている。そうでなければ「完結」はしない。異なった作業のつながりを、一人のひとが見据えている。秋のことがわかるから、春の作業ができる。秋のことはわからないが春に最善のことをやれば済むという、分業の世界ではない。プロの世界でもない。

 百姓ということばは、百種類のものを作るという意味だといわれるが、別の解釈で、百種類のしごとの積み重ねという意味だともいう。“百姓”はスポーツでいえば十種競技の選手なのかもしれない。

 十種競技というのは、ひとつの種目の競争ではなくて、一〇種目の競技をやって、その総合得点で勝敗を決める、混合競技である。徒競走、棒高とび、砲丸投げなど、走る、飛ぶ、投げるというちがった力を試されるのだから、一つの能力だけが優れていてもダメで、いろいろな能力を(とびぬけてプロ的に上手でなくてもいいから)、まんべんなく持つことが求められる。

 自己完結型の家族農業経営には、この十種競技のような能力が必要だった。

 ところで、スポーツではなくて音楽の世界では、シンフォニー(交響楽)という分野がある。バイオリンからはじまって、ビオラ、チェロ、コントラバスなどの弦楽器から数々の打楽器や笛の類まで、たくさんの種類の楽器を受けもつ百人もの人たちで組織されるオーケストラ(交響楽団)によって演奏される。農業のばあいの自己完結は季節の巡りとともに成り立つが、シンフォニーの自己完結は同時に多人数が演奏することで成り立っている。

 そこにはおのずから、指揮者が必要だ。しかし、当然のことだが、指揮者だけのオーケストラというものはない。演奏者がいなければオーケストラは成り立たない。

小が集まって大をつくるやり方

 富山県の砺波平野の城端町に野口という集落がある。総戸数三〇戸、うち農家二三戸。どの農家にも勤め人がいる。この二三戸の人たちが、野口営農組合という農事組合法人をつくって、集落の水田三四haを耕作している。みんな勤めを持っている身だから、平均一・五haの田ではあっても、家族での自己完結型農業をやるのは少々手に余る。機械が過剰投資になるということももちろんあるだろうが、“完結”の一巡りを終始見ながらやっていく余裕はない。その「終始見ながらやっていく」仕事は、たとえてみれば、さきほどのオーケストラの指揮者に当たる。それを、ここでは集落ぐるみの営農組合がやっている。組合の役員はご老人(定年退職者)で、機械を動かす人(オペレーター)は若い勤め人。有給休暇を順ぐりにとってこなしている。それが、この砺波の地域社会で認知されていることが、すばらしいことだと思う。

 この野口営農組合は“これこそ正真正銘の集落農場だ”などと評価されていて、独創的な工夫がいっぱいある。たとえば一人一人が持っている土地には、上田、中田、下田のちがいがある。当然の話だ。でも、この組合では田ごとの反収差は問わずに、米を売った代金は面積割りで分けるという。もう一つこんなこともやられている。

 水管理、畦畔の草刈り、追肥などの管理作業は、土地所有者に、組合が“再委託”する。一〇aの管理労働時間を一六時間とみなして時間当たり一一〇〇円、個人持ちの草刈り機などの使用料や肥料代も加味して、一〇a当たり二万三〇〇〇円の管理費が支払われる。

 管理作業というものは、個人の請負耕作などのばあい、けっこうな時間をとられ、せっかくの規模メリットを損なってしまう例が多いが、ここは受・委託者双方がつくる集落農場だから、委託者にやってもらうという方式がとれた。もしかしたら、そういう動機とは逆に、委託者が自分の持分を忘れてしまうというような、脱農への道を知らず知らず歩むことを牽制する知恵だったのかもしれない。

 野口集落では、自己完結が農家一戸一戸としてでなく、組合という大きい農業によって確保されていることになる。そして組合員一戸一戸の小さい農業は、健全に存在しつづける。小さい農業が、新たに組まれた大きなネットワークの組織(営農組合)のなかに組みこまれているわけで、大小相補の関係のありかたの一つの典型事例といえよう。小が集まって大をつくるという事例だ。

はめ込み方式の“自己完結”

 栃木県の今市市にT&Tナーサリーという会社がある。T&Tとは“手と手”という意味でつけたのだそうで、出資者八人(常勤二人)、社員四人の有限会社である。ナーサリーはこの会社のしごと内容からいえば育苗所とでもいう意味だが“手と手をつないで地域の農業を育てる”という思いを込めてのネーミングだと、社長の手塚博志さんは言う。手と手をつなぐこと、すなわちネットワークである。出資者たちは高校時代からの友人たちで、農業好きの農家出身者。やっているおもなしごとは、(1)水稲苗の生産販売、(2)野菜と花のプラグ苗生産販売、(3)イナ作の作業受託(ライスセンター業務を含む)である。

 高校の頃から物理が得意でコンピューターが好きという手塚さんは、農業についてたいへん新鮮な発想をする。

「イナ作の作業には種まきから出荷まで、百近い作業行程があるが、そのうち育苗の部分が恐らく三分の二を占めるのではないか。しかも育苗の作業行程は、施設・技術を集約化しなければならない部分で、本田移植以後の土地を相手とする部分とは異質の作業だ。育苗と、収穫後の調製作業は会社組織でやるのに適している」

 苗土や育苗技術の研究を積み、地域の田に合った苗土と苗の生産が安定してできるようになって、現在、このT&Tナーサリーがブレンドした苗土の供給量は八〇〇t(市内水田四〇〇〇haの四分の一分)。イネ苗の供給は四万箱(市内水田の二〇分の一分)とのこと。

 今市市を含むJA日光の管内ではイネとリンドウの輪作が多く、出資者たちの個別経営にもリンドウがとり入れられており、それぞれが熱心な生産者である。リンドウのプラグ苗生産を会社の施設で試みたところ大成功。慣行の育苗ではなかなかよい苗ができず、ムラも出て、一株から五〇本切れればよいほうだったのが、このプラグ苗では一〇〇本も切れる。それをJA日光りんどう部会に提供して、リンドウ産地としての日光の体質は大いに強くなった。

 イネ苗にしてもリンドウ苗にしても、自己完結型農業で連綿とつづく、異なった作業のつながりの輪の、ある部分を切り取って専門化(プロ化)し、その部分の作業を合理化して生産物の品質を高め、ふたたび自己完結の輪の中に収めるというネットワークの先駆的事例であろう。家族単位の自己完結の輪は切れているようにみえてじつは、地域社会の中でつながっている。だから、これは分業ではなくて分担だ。 

「作業の合理化」についてつけ加えておくと、T&Tナーサリーでは各種のロボットを自分たちでつくってしまった。イネの育苗箱に土を入れモミを播き潅水するシステムを開発して、いま二秒で一枚をこなす。このシステムに張りつく人員は二名。

「箱並べロボット」は一・五×二×一mくらいの小さな機械だが、育苗箱を積載すると、後ずさりしながら一列二〇箱の苗箱を無人で展開してしまう。その働きぶりは美事というほかない。

 ライスセンターでは「全自動袋積機」が器用に米袋を積み上げていて、これも自社開発なのだという。

「オートメーションの専門家であっても農業の専門家ではないから、機械屋さんにいろいろ説明してもわかってもらえない。それなら自分で設計したほうが早い」

 という、これも新しい時代の発想だった。

耕すことの自由、耕し方の多様性

 T&Tナーサリーの小さな事務所の壁に「農業を、もっと自由に生き生きと」というスローガンが掲げられている。

 もっと自由に、という意味には既成の観念や農政の枠組にとらわれないで――ということも含まれているだろう。

「新農政」と呼ばれる二年前に農水省が示した「新しい食料・農業・農村政策の方向」にはこんな一文がある。

「わが国は、急峻な地形で、国土の三分の二を森林が占め、山間の小さな土地も水田に変え、これを良好に管理してきた世界に類例のない国である。こうした国土条件の下で柔軟で多様性を持った地域社会を形成し、経済的、社会的発展を遂げてきている。これを支えてきた人材の多くは、地域における独自の価値観や伝統・文化の中で育まれてきた。すなわち、このような個性ある多様な地域社会を発展させることが、国民一人一人が日々その生活の中で豊かさとゆとりを実感でき、多様な価値観を実現することができる社会を育むことにつながるのである」

 まったくその通りだと思う。名文である。多様な価値観は自然の中で育つ。地域社会では農林業という姿をとって自然と人間のかかわりが具現する。耕すことで人間が自然(環境)を形成し、また自然(環境)が人間を形成する。

 その耕すことの自由を拡大すること――多様化することが二十一世紀に向かっての課題であろう。

 新農政は組織経営体と個別経営体というものをこれからの農業を担う中心的存在としている。しかし、それが、兼業農家からの借地によって成り立つ個別の、あるいは個別が連合した法人による請負耕作だけを意味するとしたら、少しも多様ではないし、自由な農業でもない。そのような大きい農業だけで「柔軟で多様性を持った地域社会を形成」することは不可能である。「新農政」には、高齢者による「生きがい農業」ということばが使われているが、これを農業経営体とみるかみないかはともかくとして、地域における小さい農業としての重要な要素とみて、大小のネットワークに組み入れるのでなければ、名文で書かれた高邁な理想も反古に帰する。

 大小相補――大きい農業は小さい農業を必要としているし、小さい農業は大きい農業を必要としている。双方がもちつもたれつして成り立つ日本の農村。村むらに新しいネットワークをつくり出すこと、それが日本という国の健全さを持続させる。

(農文協論説委員会)

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