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農文協トップ主張 1994年05月

米の自由化を根源からとらえる
あなたが1俵増収することが未来を拓く

目次

◆1960年代の米輸入といま
◆敗北の瞬間に盛り上がる意欲
◆老人・婦人の農業が主導力に

一九六〇年代の米輸入といま

 稲作の本が異常に売れている。『六〇歳からの水田作業便利帳』『新しい不耕起イネつくり』『合鴨ばんざい―合鴨水稲同時作』などの新刊書の出足は極めてよいばかりでなく、『イネの作業便利帳』『井原豊のへの字型イネつくり』『あなたにもできる安心イネつくり』などの既刊書も売れ行きは上々である。

 大凶作のうえに「米の自由化」。そのうえ稲作を担っている主力は老人と婦人。「後継者不在」の農家が大部分である。世はこれを農業の衰退という。しかしながら、農家は決して稲作を諦めたわけではない。稲作本の売れ行きの勢いは、稲作農家の稲作増収への「静かなしかし強い意欲」を示している。

 世の中の常識に反する稲作本のこの異常な売れ行きは、はるか三〇年前を思い出させる。一九六〇年代後半の農業基本法のスタートの頃、第一次構造改善の時代の頃である。世の中、これから稲作はだめといっていたあの頃、片倉権次郎著『誰でもできる五石どり』が一〇万部も売れた。

 当時の世の中の常識は「国民の食生活は変わった。これからは米ではなく畜産・果樹を振興すべし。稲作は反収四石の壁に突き当たっている。これからの稲作は反収を上げることではなく、機械化と大規模化によって省力し労働生産性を高める方向だ」と、稲作増収技術否定の方向であった。税金によって行なわれている稲作の研究の全ては、反収の増加を全く無視し、機械化の研究に集中した。

 昭和五十三年(一九七八年)に発行された農文協文化部著『戦後日本農業の変貌』(農文協刊)は当時の事情を次のように述べている。(以下引用)

 ―政府としては米の生産は減っても、機械化と大規模化が進めばよかったのである。もし米が不足することがあっても、カリフォルニア米を増収させ輸入させることは困難ではないと予測していたであろう。むしろ、それは望ましいことであったかもしれない。

 政府の予測と異なり、昭和三十七年(一九六二年)、三十八年と米の国内需要はふえていった。米の輸入を三十六年八万トン、三十七年一八万トン、三十八年二四万トンとふやしても、昭和三十九年には米不足の状況が発生した。(余る余るといって米不足を起こす政府の手法は今も昔も全く同じである。)世界中の米を買いあさり、昭和三十九年五〇万トン、昭和四十年一〇五万トンと米の輸入は増大しつづけた。

 もし、農家が(政府のいう)大型機械化一貫体系などという馬鹿げた「合理的」「科学的」稲作に乗っていたら、米の輸入はいよいよ激増せざるを得なかったろう。そうなればアメリカには長期契約にもとづく米の輸出を行なう用意は充分あった。(アメリカの思うつぼであった。)そうなれば、日本の農業を支えている稲作そのものがゆらぐことになったろう。高度経済成長に酔い痴れていた日本は、農業の衰退は国民総生産の増大につながると考えるくらいに狂っていたから、この危険は必ずしも空想的なものであったわけではない。

 日本の稲作を守ったのは(日本の政府ではなく)やはり農家であった。三十年代後半において稲作の「反収四石」の壁を打ち破る技術は農業試験場ではなく日本の農家の中に産み出された。追肥重点の稲作として知られた片倉式稲作である。

 出穂三〇日前の稲の姿を中心に展開される稲作増収の新技術は、またたくまに全国に広がっていった。篤農技術と一笑に付していた農業技術者も、現実の増収結果に押されて事実確認の「あと追い試験」をせざるをえなかった。三十年代末から四十年にはいって稲作研究熱は全国に高まった。稲作研究会はむらむらに組織され、片倉さんの田んぼ見学者は年間数万人に達する。結果は四十二年、四十三年と二年連続して米の生産量は一四四五万トンとなる。昭和四十年に一〇五万トンに達した米輸入は昭和四十四年五万トンに低下した。

 食料の国内自給の政策をとるか、外国依存輸入の政策をとるかという一国の政治についての基本的な「政治闘争」は一つのデモンストレーションも一つの集会もなく、ただ広々とつづく田んぼのうえでの闘いであった。そしてその闘いに農家は勝利した。米の輸入を阻止することが出来たのである。―(カッコは今回加筆した部分、他は昭和五十三年発行当時のままである)

 一九六〇年代の米輸入の危機は当時の全稲作農家の増収意欲によって回避された。米の輸入を阻止するには米を余るくらいに作らないと阻止できない。ちょうどよく作るのではない。余るように作らなければ不足するのである。経験ある農家の主婦なら、自給野菜は決してちょうどよくは作らない。誰でも余るほどに作る。天候によって足りなくなるからである。余るほど取れたら加工して貯蔵する。料理を工夫して多く食べる。これは農家の極めて当たり前の常識である。ちょうどよく作れば必ず足りなくなる。農産物は工業製品と違うのである。農家はこの原理に基づいて増収することによって米を余らせ、余らせることによって米の輸入を阻止したのである。米が倉庫に余っているのに米を輸入することはできない。「減反政策」によってちょうどよい具合に作っておけば、必ず足りなくなって輸入の条件はできる。そのことを長年かけて政府はやってきたのである。

敗北の瞬間に盛り上がる意欲

 ウルグアイラウンドの「米自由化反対」のこの八年間、減反政策をはねのけて稲作増収する力を農家は失っていた。米の不作に対応し政府が減反を緩和しても、減反田を一〇〇%修復する力を欠いていた。やむなく農家にとっては不慣れの「米自由化反対」の政治闘争が全国的に展開された。米増収の熱気ではなく、集会・デモ・ハンガーストライキ等々、日本史上初めて農家が都市労働者をも仲間にして「米自由化反対闘争」を主導したのである。労働者主導の政治闘争に農家が加わるのでなく、農家主導の政治闘争に都市労働者が加わったのである(それは生協とか消費者グループとかいろいろな形ではあるが、都市労働者との連帯であることに変わりはない)。

 さらに、農協組織によって「米自由化反対」運動は国際的な連帯を求めて世界に広がった。原水爆禁止運動を除けば、「労働者階級」の国際的連帯の運動が絶えてから久しい。それがこともあろうに、「農家層」が主導する国際連帯の運動が史上初めて展開されたのである。

 にもかかわらず「米自由化反対」の闘いは敗北した。いや敗北の色が濃い。「農業合意」が秋の国会で批准されれば、決定的な敗北である。

 しかし、この最後の瞬間に農家の決定的な力である「稲作増収」の意欲が盛り上がりつつある。稲作の担い手である老人層と婦人層の稲作増収の意欲を全国的に組織することができれば、情勢を逆転させることは可能である。

 今年の米を一〇〇〇万トン以上とることができれば、来年は輸入米を全部備蓄に回すことができる。その水準をずっとつづけることができれば、輸入米は倉庫に満ちあふれて余ることになる。今なら食管を有効に作動させることによってそれは十分可能である。

 今日必要なのは、老人や婦人たちが稲を作り続けられるように条件を整備することである。農業を守るために若い後継者を求めることよりも、緊急にやらなければならないのは現在稲作を支えている老人と婦人があと一〇年稲作を続けることができるように、政治が老人と婦人をバックアップすることである。老人・婦人の稲作が田植えや稲刈りに困難を感じているのなら、それを農協なり、第三セクターなり、大きい農家なりがバックアップすることを推進する農政を実施すべきである。

 一方、大規模の稲作請負農家が凶作で打撃を受けている。小さい農家より傷は大きい。稲作トップ農家が大規模稲作経営を維持していけるように、たとえば借地料を補助することも含めて政治が凶作による打撃を救済すべきである。これらの大型稲作農家によって支えられている小さい農家が極めて多い。この「小さい農家」と「大きい農家」のタイアップこそが今日の日本の稲作を守っているのである。

 老人農家と婦人農家、「小さい農家」にあと一〇年稲を作ってもらうことができれば、事態は極めて好転する。一〇年以内に必ず世界は穀物不足になり、世界的食料増産時代が来る。

 アジアに集中している世界の人口の大部分は現在高度経済成長の最中にある。高度経済成長によって所得が上がれば、第一に増えるのは食料需要である。所得増による食生活の向上は畜産物の需要を増やす。畜産物の需要増は家畜のエサ穀物の需要を増やし、穀物の不足をもたらす。世界の食料は不足する。

 それまで、日本の稲作をもちこたえさせることができれば、世界の農産物自由化の基調は大転換し、各国がそれぞれの食料は自給化しようという国際的な自給化の基調に大局は変化する(『食料自給を世界化する』犬塚昭治、農文協刊)。

 そういう時代になってから失った水田を取りかえそうとしても、それがどんなに困難なことかは減反政策の中で日本の農家だけが知っている。しかも「米の自由化」によって稲作の未来に絶望し、気力を失い、水田を捨てて老人が稲作をやめて都市の息子の所におもむき、第二種兼業農家の婦人が水田を捨てて夫とともに町のアパートに去って勤め人の主婦になってしまったら、水田をとり戻すことは困難を極める。

 農家が踏ん張って稲作を増収し今年の早場米地域の先食いにも耐えて来年度分の米の需要を満足させるか否かが極めて重要なのである。政府に心あれば、この緊急事態に対応し、緊急米価対策を講じ、来年度米価の値上げによって稲作農家のバックアップをすべきところであるが、そういうことがわかる政府ではない。

 農家自身が自らの判断と自らのやむにやまれない気持ちから「稲作増収」に取り組むしかない。農家の「稲作増収」の熱意こそがやがて農政そのものを動かすことができる。農政に頼ることでは局面は変わらない。「増収」に取り組み輸入米を要らなくすることによってこそ局面は変わる。稲作増収運動の今年の成否が未来を決める。

老人・婦人の農業が主導力に

 今起きている「米増収運動」は二十一世紀を作るうえで決定的に重要な意味を持っている。それは五〇円儲かるか一〇〇円儲かるのかのゼニ金の問題ではないのである。地球環境の問題を解決することが二十一世紀に向けて全人類の最大の課題である。この環境問題の解決の方向と、今日の「稲作増収」の方向とは全く一致しているのである。それがこれまでの「稲作増収」運動との決定的違いである。二〇年前の「稲作増収」運動の象徴は、山形の精農家・片倉権次郎さんの『誰でもできる五石どり』という稲作本であった。今日の「稲作増収」運動の象徴は、茨城の六三歳の農家、高松求さんの経験をまとめた『六〇歳からの水田作業便利帳』である。六〇歳からの、と年齢を限定した稲作本は洋の東西古今を問わず初めてのものである。

 老人の身体は農薬を嫌う。できるだけふりたくない。老人の身体は重労働を厭《いと》う。できるだけ重労働は避けたい。かくて内なる「身体という自然」と稲・土などという外なる「身体でない自然」との折り合いをつける技術を求めて「六〇歳からの」稲作技術は構築されているのである。

 農薬をできるだけふらず、重労働なしで稲を作ろうとすれば、土や稲の持っている自然力を生かす意外に道はない。自然を支配し、コントロールする「科学的」「企業的」稲作技術、肥料・農薬・機械の力できつく自然に働きかける技術に対して、自然にやさしい、低投入・持続型(リサ型)の稲作技術が六〇歳以上の「身体」が求める技術である。時代の求める技術と老人・婦人の求める技術とが一致しているのである(この具体的な内容については三月号主張「いま、“むら”に住み、イネをつくる意味」に詳しく述べた)。

「環境を守る」とか「自然と人間が調和する」とかの実現は個別分散的な一対応一的な科学によって、問題解決の道が発見されるのではない。

 日本の稲作は老人・婦人によって担われるように変わった。その稲作労働の主体である老人・婦人の内なる自然=身体が要求する技術と、稲や土などの外なる自然の要求する技術が自然に(おのずと)一緒になる。このいかにも微妙にして絶妙な自然と人間の関係を発見することこそが、自然と人間が調和する道なのである。自然と人間の調和とは「内なる自然」と「外なる自然」の調和、つまり「自然」と「自然」の調和なのである。そこを認識できるのは科学ではなく、自然に対して身体という自然で働きかけつづけ、かつ自然から働きかけられつづけている人間、農家・林家・漁家のトータル的労働の中での自然認識こそ、自然と人間の調和をめざす運動の主導的な力なのである。

 一月号主張でそういう自然と人間の関係を作ることのできる農業として「小さい農業」を明確に位置づけた。二月号主張では、経済学という社会科学の分野でさえも、科学的認識の根源が農林漁家によって担われる時代が現代であることを明らかにした。三月号で環境が人間をつくり、人間が環境をつくる「自然と人間の交流」の関係、つまり自然と人間の調和をめざす自然と人間の関係を具体的に示した。四月号では、自然と人間の調和をめざす運動の根源的部分は、人間の暮らしの中にある日常文化の問題であることを、米の緊急輸入という事態に即して明らかにした。そして今月号主張は「米の自由化」という極めて時事的な問題を根源からとらえなおしてみた。

 人生八〇年の時代を農業の分野の中でつくるうえで農業機械は大きな役割を果たした。過激な労働である馬耕労働がつづいていたら、農業分野での平均寿命八〇歳は実現しなかったろう。そしてその機械があるからこそ、寿命の伸びた老人だけの稲作を可能にした。機械が農家の寿命を伸ばし、その機械が、寿命の伸びた老人が稲作をつづけることを可能にした。この自然と人間の絶妙な関係。

 他方、世の消費者が安全な米を求め、持続的農業を求めるとき、それを実現するのにふさわしい老人・婦人という労働主体ができあがっているこの絶妙さ。

 そしてその機械によつて、不耕起移植栽培という世にも不思議な移植技術が出来上がるおもしろさ。不耕起田植機は耕耘の重労働から人間を解放した機械が、その自己の耕耘の力を否定し不耕起で苗を植え、稲の根の自然の力で土を耕起させる、稲の根の力で維管束を増やし太茎にし、稔実歩合を高めて増収する、という「自然力を利用する機械」への自己変革である。この自然の妙は科学を超える根源的自然認識によって意味の把握が可能になる。

 世界で日本は高齢化社会の最先端にいる。その日本の最先端にいるのが農村である。世界中で平均寿命は伸びている。所得が向上すれば少産になる。世界は二十一世紀にあげて高齢化社会になる。いまお米の問題でぶつかっている問題を、一月号から今月号までの主張の流れの中で考えてゆくことによって、明るい未来の展望が開ける。

 今年、あなたが米を一俵でも増収することによって未来は拓かれる。

 どうか本誌一月号から四月号までの主張をお読みください。そして、この五月号の主張を、そのまとめとしてお読みください。なお、一〜五月号の主張は一冊のパンフレットにまとめます。ご希望の方には無料でお分けしますので、ハガキでお申し込みください。

(農文協論説委員会)

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