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農文協トップ主張 1994年04月

外国産米が店頭に並ぶに際して消費者の皆さまへの静かな訴え

目次

◆性格のちがう外国産米が順次やってくる
◆外国米とのつきあい方、この秋までとその後と
◆「米の文化」の現在的意味、米とわたしたちとの新しい関係をつくる
◆経済と文化の関係を見て静かな革命を成就する

性格のちがう外国産米が順次やってくる

 いよいよ、さまざまな外国産米が店頭に並ぶようになりました。卸売業者がそれぞれに工夫をこらしたブレンド米として、あるいはカリフォルニア米であることをあえてアピールした単品として――。これを伝えるテレビの画面は、長々とした行列を映し出して、物珍しさから売れゆきは上々だと強調していました。

 あれだけウマイ、ケッコウイケルという前宣伝がされていて、それなのに庶民には買うすべがなかったのですから、とりあえずは、自分で試してみようというのは、当然のことでしょう。

 でも、それから先の話が大切です。できれば安心できる国産米を食べていたい消費者としては、これから外国産米とどうつきあっていくのが賢明なのでしょうか。

 答えは意外にカンタンです。買わなければいいのです。食べなければいいのです。ただし、いそいでつけくわえますが、今年の穫れ秋までについては、事情は別です。

 外国産米は、今年からずっと、よほどの事態急変がない限り、毎年毎年輸入されます。それとどうつきあうかを考える場合に大事なのは、これからの輸入米にはまったく性格のちがう三種類の米が現われてくるということです。正確にいえば、これから二十一世紀初頭までに、三段階に区切られて、輸入米の性格が変わってくるということです。

 第一段階は本年(一九九四年)秋までの外国産米。これは政府が昨日の大凶作に対する緊急措置として、食管法第一条の「国民食糧ノ確保ヲ図ル」という目的に沿って緊急輸入した米です。先般合意されたガット・ウルグアイ・ラウンドの約束ごととは何の関係もありません。数量は約二〇〇万tを予定。

 第二段階は来年(一九九五年)春から今世紀末(二〇〇〇年)にかけての六年間、ウルグアイ・ラウンド合意に基づいて、ミニマムアクセスとして、国の采配で、つまり食管法のもとで輸入される外国産米。数量は当初は年間四〇万tで最終年には八〇万t。

 第三段階は、第二段階が終わったあと、また国際的な交渉を行なったうえで決まることですが、現時点では二十一世紀初頭(二〇〇一年)からは関税化が採用されると見通されています。この段階での米は国による輸入ではなく、民間商社などの自由な輸入となるわけです。数量は輸入業者の思惑次第です。

 このように、三つの段階での輸入米の性格は全くちがいます。

 そこで、消費者として、どのように輸入米とつきあうかですが、第二、第三段階についていえば(国内産米が平年作である限り)、買わなければよい食べなければよいということになります。第一段階、この秋までについてはちがいます。

外国産米とのつきあい方この秋までとその後と

 大凶作に遭遇して、政府はよく「国民食糧ヲ確保」したというべきでしょう。ただし、国際流通するわずかな量の米を大量に買い付けて国際価格を急騰させ、他の輸入国の購買を困難に陥れた責任は、国民ともども感じなければなりません。さらに、凶作は天災だけれども米不足は人災だということを深く考えてみるべきです。凶作でもすぐに米不足とはならない手だては、いくらでもとれたのです。国は備蓄米をもっと多く設定しておくべきでした。これは国民の責任ではなく国家の責任です。

 というわけで、この秋までは、賢い消費者としては外国産米を心して味わうほかはありません。他の米輸入国に大きな迷惑をかけながら米を食べているのだということ、これからは、もっともっと米を備蓄しておかなければならないのだということ、さらに、食管法があったから、これだけの大凶作でも、価格の暴騰を見ずに済んでいること、これらすべてを胸に感じながら、うまいかまずいかなどということは二の次にして米を食べる。それが道理でしょう。いつまでも異国の米の味を物珍しがってはいられません。一方、いくら高くてもいいからわたしは国際米を食べる、というのはおかしなことです。第一に、こういう人たちは米の代わりにパンやめん類を食べるのでしょうが、残念ながらその大部分は輸入の小麦粉、そば粉に頼ってつくられています。第二に、こういうときですから自由米(ヤミ米)の価格は当然上がります。上がってはいますが、その上昇にはいま、かなりの抑制力が働いています。平年作地帯の農協は、各組合員がなんとかもう一俵よけいに出荷しようという働きかけをしていますし、特裁米などで米の産直を行なっている生産者は、できるだけ多くの米をできるだけ例年の価格に近づけて消費者にとどけようと努力しています。そうしたなかで、あなただけ「いくら高くてもよいから」は道義に反する。とにかく、この秋までは消費者も生産者も“じっとがまん”です。“がまん”の中から何かが、何か新しい米に対する認識が生まれてきます。それが第二段階に入ってとるべき消費者の、輸入米とのつきあい方が賢いかどうかを決定します。

 “がまん”してきて、さて、今年の穫れ秋に、国産の新米が出まわります。ほっとした気持ちです。平年作を上回ることを祈るばかりです。国産米が潤沢に出回るなかで、第二段階、ミニマムアクセス米が入ってきます。さて、どうする? ここから買わない、食べないが始まります。内食用はもちろん、外食も、安いからといって輸入米をつかうお店があったとしても、消費者は味がわかる舌を第一段階で鍛えてしまっているから寄りつかない。カレーは長粒種の方がうまい、というように感じる舌を養ってしまった人は、それはそれで結構。そういう米を使うカレー屋さんで食べればよろしい。いずれにしてもミニマムアクセス米は余ります。余ったら備蓄に回す。最終的にはエサ米になる。万一ミニマムアクセス米を備蓄用としてあらかじめ設定し、その分減反を強化するなどということを国がやったら、それこそ生産者も消費者も怒るぞ……。

 そして第三段階、関税化が行なわれるときには、輸入しても売れない。売れない米を高い関税を払ってまで輸入するほど国際協調する輸入業者はいない、ということになっていたいものです。

 私たち論説委員会の消費者の皆さまへの訴えは以上の通りです。今年の秋までは、モノを思いながら、ガマンして外国産米を食べましょう。来年からは買わず食べずでいきましょう。そして来世紀からの関税化時代には、だれも輸入しようとしなかった――という筋書きを実現させましょう、ということです。

 いかがでしょうか。カンタンではありませんか? わたしたち庶民の、道理と道義に基づいた静かな意志表示さえあればよいのです。

「米の文化」の現在的意味 米とわたしたちとの新しい関係をつくる

 今年、一九九四年は、日本人の米食文化が思わぬきっかけから、根底的に試される年になりました。それがたいへん強固なものなのか、案外脆弱なものなのか、答えが出てしまうのです。

 今から八年前、一九八七年に『現代農業』は「コメの輸入五九氏の意見」という緊急増刊号を発行しました。いま年四回特定テーマで発行している「増刊号」の第一号です。一九八七年といえば、米自由化の地ならしをしようと、官産あげての農業・農協たたきが行なわれた年です。それに対抗しての「増刊号」でした。この増刊号には、あえて農業に直接関係のある方ではなく、いわば消費者として農業を考える方々の寄稿を求めました。ドイツ文学者池田浩士氏のご寄稿を引用します。八年前に、こういうことをおっしゃっている方がいたのです。

 「米とかメシとかには、時代や生活環境と切りはなせないような、ひとそれぞれの記憶や体験がこびりついている。ごはんつぶを粗末にするとバチがあたるとか、目がつぶれるとか言われて子供時代をすごしたものと、スーパーの徳用品コーナーに積まれた袋入りのオカキまでが「コシヒカリ一〇〇%使用」などと銘打たれている時代の子供とでは、同じく米を食べるにしても、これはもう別種の人間というべきだろう」

「米にまつわるわたしの想念は、ただひたすら、過去の思い出という方向しかたどらない。…失われたものへの哀惜が、米をめぐる想いの基調となって響いてしまう。なまがわきの薪が尻から白い小さな泡を出して燃えるカマドのまえで火の番をしながら……吸いこんだあの香りには、コシヒカリもササニシキもへったくれもなく、ただもう「米の飯」の味わいだけがあったように思える。古き良き時代……」

「輝かしい未来なるものに反対するのは、必ずしも古き良き時代の思い出に恋着してのことではないのだ。現代のあり方にたいする反対と、さらには、古き良き時代のあり方そのものへの反対も、来るべき「自由化」にたいする反対は含まざるを得ない。歴史の歯車は逆転させられないとしても、歴史をふりかえって、過去と現在のあり方を考えなおすことはできる。米の文化と呼ばれるものの過去と現在をふりかえる作業は、米の「自由化」という未来像をまえにして歴史を逆に押し戻そうという空しい抵抗とはちがう。むしろ、いままで実現されることのできなかった米とわたし(たち)との新しい関係を、遅ればせながら手さぐりする試みなのだ」

 今こそ手さぐりを、大きな両の手でやらなくてはなりません。何を心しながら外国産米を食べるのか。今から七ヵ月は、まさしく日本の食文化にとって、ほんとうに大切なときなのです。

 文化を考えるために、同じ増刊号からもうおひとりの引用をします。社会経済科学者の佐伯啓思氏の文章です。

「なぜわれわれは、衣服や家具や自動車と同類の「商品」としてのコメを論ずることが困難なのか。あらゆる商品はただモノなのではなく、文化的産物でもある。衣服という商品の価値の大半を占めるデザインは、その時代の文化的土壌を持っている。自動車の流行は明らかにそれが文化の中に属していること示している。ではコメの場合はどうなのか。もし仮りに文化を限りなく「自然」に近い軸と高度に『人為』な軸で区分けできるとすれば、明らかにコメは「自然」の側に属する。それはコマーシャルやちょっとしたアイディアや外観の工夫といった「人為」によって文化的価値を示す商品とは対極にある。……一方で高度な市場化という「経済」の論理があり、他方でその原風景ともいうべき「文化」的な意味があり、その両者が矛盾するということであろう。この矛盾がどちらの方向を向いてゆくのか予測すべくもないのだが、いずれにせよそれは高度な市場化がもはや政治や経済の論理だけではやってゆけないことを示している。主として「文化」の領域での矛盾をそれは必然的に産み出すのであり、コメもいささか変則的な形でありながらもその一つの表現なのではないだろうか」

経済と文化の関係を見て静かな革命を成就する

 池田、佐伯両氏の文脈の中に出てくる〈文化〉(傍点はすべて引用者)は、どうやら経済以上に根源的な次元にあるもののようです。

 こんなことをいう人がいます。

「祭り、コンサート、歌舞伎だけが文化ではない。それらは文化のいわば花の部分である。葉、茎、根にも眼をくばらねばならない。……文化の根幹にあるのは暮らしの立て方である」「経済は金銭で終始するものではなく、人と物との関係からなっている。は生活様式の物質的基礎として、文化と不可分である。かくして、ある国の経済はその国の文化的表現である」

 少しむずかしくなりました。でもモノは文化と不可分だと文脈がみえてきました。精神的な側面だけが文化的なものというわけではないのです。「米に宿る日本人のこころ」というような歴史的伝統的な考察もありますけれど、いまは、現在という瞬間に米が、モノとして文化である、ということに注目したい。「文化の根幹にあるのは暮らしの立て方である」。逆にいえば、人々が暮らしているという、そのことこそが文化の根源であり、それがモノとして形をなすということでしょう。その上に経済はあるのです。その点からすれば、自動車というモノも、米同様に文化です。

 ところでいま引用した一文は、経済史家である川勝平太氏の一文です。一つまえに引用した佐伯啓思氏との共著『静かなる革命』という本(リブロポート刊)からの引用(196・198頁)です。川勝氏は「江戸時代農業の世界史的位置」という論文(『日本農書全集』第四五巻月報)で、資本集約型をとった欧米諸国の産業革命と、労働集約型をとった江戸時代日本の生産革命を対比させて、日本的自給(鎖国)の世界史的意味を鮮明にわからせてくださいました。それを援用して、一月号の「これからは小さい農業の時代」という主張は書かれました。

 さて、その川勝氏と佐伯氏との共著『静かなる革命』は濃密な労作で、ただおふたりの論文をならべたというものではありません。はじめに往復書簡があり、つぎに対論がありそして個々の論文があるという構成です。佐伯氏はアメリカが建国以来一貫してやってきたことはモノに世界的に通用する普遍性をもたせる努力だったといいます。あのコカ・コーラは社会主義大国旧ソ連にさえ歓迎される普遍的な存在でした。それがいまフランスでは農産物市場開放に反対する農民の手で川に流れている。モノとして文化の在り方に「静かなる革命」が起こっているというわけです。

「文化の核心にあるものは、ひとつの社会や集団の(世界ではなく―引用者注)、理想や理念や記憶、あるいは自己理解のやりかたを象徴的手段をつかって表現する形式なのである。モノもこうした形式のひとつであった。重要なのは経済活動そのものではなくて、こうした文化的なかたちと結び付いた経済活動なのである。あるいは、経済が、こうした文化的な形式のなかにしかないということなのである」(佐伯、同書180頁)。

「使う物の組み合わせが一人一人ちがうことによって人は個性として現われ、社会は文化複合体として現われる。日本人の生活様式は日本人の眼にはかわりばえしなくても、外国人からみれば日本文化である。人は消費をとおして自己のライフ・スタイルを決めている。いや決めなくとも、ライフ・スタイルが現われてしまうのである。それにとどまらず人のアイデンティティすら物をとおして現われる」(川勝、同書197頁)。

 あえてモノとして――ただし文化の表現として――米と素直に接するとき、そこにわたしたちは自分自身の、暮らしの立て方を見出すでしょう。政治や経済から離れた、根源としての文化を感得するでしょう。緊急輸入の外国産米を心して食べるとは、そういう意味です。そうすることで、ミニマムアクセス米や関税化米に静かに顔をそむける自分自身を見出すでしょう。

(農文協論説委員会)

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