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農文協トップ主張 1993年12月

道理と道義によって米問題を国際的に解決しよう

目次

◆農水省の備蓄見直しを高く評価する
◆買い占めが起きないのは備蓄への信頼の表われ
◆マスコミの暴論
◆国際価格急騰の非道義性
◆目先の経済合理か、長期永続的な国際的道義か

農水省の備蓄見直しを高く評価する

 作況指数八〇(九月十五日現在、同三十日発表)−未曽有の大凶作である。このままでいけば、これから来年のとれ秋まで、二〇〇万tの米が足りない。政府は遂に、一〇〇万tを超える「米緊急輸入」を行うと発表した。これまで長年の低米価に耐え、それでも減反、あるいは復田で国の政策に協力しつつ「米自給」のために奮闘してこられた農家の胸中はいかばかりかと思う。

 だが「緊急輸入」でも需給は間に合うかどうかきわどい状況にある。作況八〇では主食用の不足は八〇万t程度だが、今後作況が七五くらいにまで下がったら、全体で二五〇万t、主食用で一二三万tが不足するという。一方、輸出の側は、加工用米は、タイ米で比較的余裕があるとしても、主食用ジャポニカはカリフォルニア産六〇万t、オーストラリア産三〇万tでギリギリの線。それもすべてを日本が独占して買い占めると言うわけにはいかないだろう。これまで自由化論者たちは、安易に「足りなければ安い外国の米を輸入すればいい」と言い続けてきたが、緊急輸入が実現することにより、皮肉にも世界の米生産と流通にはその程度の余力しかないことも明白になってきている。

 そうした中で農水省は、冷害被害に対する八項目の総合対策(共済金の早期支給、種モミ確保、公共事業の重点配分など)とともに、「三年後一三〇万tの適正在庫(備蓄)」をめざして、減反面積を平成六、七年産米についてそれぞれ一五万haずつ緩和する方針を固めた。 

 この「一三〇万t」という備蓄量の多寡はともかくとして、私たちはこの方針を高く評価したいと思う。なぜならこのことは、政府が一九七〇年代からの減反政策でとり続けてきた米の「単年度需給均衡方式」を見直し、はじめて適正備蓄量を一〇〇万t超とした点に意義があるからだ。その量はたしかに私たちがかねてから主張してきた「二〇〇万t備蓄」にはほど遠いものである。たとえば、今年わが国と同じような冷害に見舞われた隣国・韓国の備蓄量は二〇〇万t。人口五〇〇〇万人の国であることを考えると、わが国の約四倍の備蓄量である。

 そうであっても、農水省が「単年度需給均衡」の見直しに着手したことの意義は大きい。自然に支配される農産物を、生産調整によって「単年度で需給のバランスをとる」考えなど、食料安保からみても、また米国際市場の安定ということからみても、まったく危険きわまりない「幻想」だからであり、その考えを見直すということは、国民に安定的に基本食料を供給する食糧管理制度本来の姿に立ち返る手がかりになるからである。「単年度需給均衡」による生産調整が、いかに危険なものであり、現在の「米不足」の元凶ともいえるものであるかは、次の指摘からも明らかである。

 「一九六〇年以降の二六年間に単年度需給が達成できた年は、一六ヵ年で、そのうち一〇ヵ年は需給がギリギリの状態で、辛うじて需要より生産がわずかに上回っているにすぎない。この二六年で生産が需要を一〇%以上上回った年は六年しかないのである。その六年の『ゆとり米』で他の年の不足を補ってきたというのが実態である。ことに単年度需給政策をとり始めた七〇年以降の一六年間においては『ゆとり米』が生じた年はわずかに三ヵ年にすぎず、逆に冷害等によって生産が需要に達しない年が五ヵ年、需要がギリギリの状態の年が八ヵ年という状態になっている」(『食糧・農業問題全集』14−A、河相一成著「食糧政策と食管制度−歴史と現状の全データ」、農文協刊より要約)。

 そのような綱渡りを経てきたうえでの、じつに二三年ぶりの「歴史的見直し」なのである。

買占めが起きないのは備蓄への信頼の表われ

 この食管制度の下に「備蓄がある」ということが、いかに国民の食生活と社会生活に安心感をもたらしているものであることか。二〇年前、第一次オイルショックのとき、洗剤、砂糖、トイレットペーパーという、いわゆる「三白」の買占め騒ぎが起きた。これにもし、米が加わっていたとしたら、パニックはあの程度のものではすまなかったはずである。そして二〇年後の現在も、これだけの「米不足」大報道にもかかわらず、消費者の間に買占めなどの動きは起きていない。そのことについて、経済同友会の幹事である小島正興氏は、次のように述べている。 

 「今回のは明らかに異常事態であり、緊急輸入は当然行うべきことだ。したがって、これを機会にコメ市場を開放しようという議論は意味がない。むしろ驚くべきは、これだけコメ不足と報道されながら、コメ買い占め騒ぎが起きないことだ。それだけ消費者は、コメだけは政府が何とかしてくれるに違いないと信じているのだ。食糧管理制度を信頼しているといっても良い。政府は、このコメ不足を機に、食糧の安全保障とは何かを、真剣に考えて欲しい」(十月一日読売朝刊)

 八四年の韓国米緊急輸入以来、マスコミは政府の米備蓄の心細さについてほとんど報道してこなかった。そのため消費者の多くは、「備蓄は大丈夫」という誤解も含めての食管制度への信頼と自制とで、買い占めに走っていない。だからこそパニックが起きないのだ。農水省は、この信頼と自制とに、今回の緊急輸入はともかく、今後は真の備蓄による安定供給を実現することで応えていかなければならないのである。

 たしかに、備蓄はそれ相応のコストがかかる。七〇年、七一年当時には、六〇年代の空前の大豊作で「過剰米処理」問題が起きたことも事実である。しかし、一三〇万〜二〇〇万t程度の備蓄にかかるコストは食生活、社会生活の安心を得るうえでの不可欠の社会的費用であり、義務教育や医療、消防、道路などと同じように、軽々しく「経済合理」で断じてはならない筋合いのものである。

マスコミの暴論

 ところが、マスコミの中には、この程度の「備蓄」はおろか食管制度そのものさえ許せず、「不足分は海外から」輸入することによって、あわせてガット・ウルグアイ・ラウンドの農産物交渉の解決を図れ、とするような「暴論」がまかり通っている。

 「(コメの緊急輸入について)政府はあくまで『食管法の枠内』を強調し、空前の冷夏のせいにしているが、国内のみで需給を均衡させ、国内で自給しようとする強引な政策が破綻したことは間違いない。コメ鎖国政策の限界を露呈したことで、ウルグアイ・ラウンドの場での日本の立場は、修正を迫られる可能性が高まった。」「緊急輸入と言う事態を迎えて『在庫をもっと増やせばいい』という意見もある。しかし、これは過剰米の発生時にすでに捨てた政策だ」(一〇月一日朝日朝刊)

 この記事の筆者は、「農業は天候が相手だから、年ごとにばらつきが出て当然であり、だから減反の強化や緩和で需給調整を行うことには無理がある」とし、「また備蓄は捨てた政策」なのだから「緊急輸入を消費者が外国の安いコメを食べる機会を広げる契機にすべき」と言う。農業は天候が相手だから「単年度需給均衡には無理がある」というのはそれ自体としては正しい。しかし今回破綻したのはその「単年度需給均衡」であって、自給政策ではない。また「単年度需給均衡は無理」という考えを、なぜ世界の米需給に当てはめて考えようとしないのか。世界市場なら「単年度需給均衡」のバランスがとれるとでもいうのか。世界の農業もまた「天候が相手」であることがわからないのか。ましてや、商品として流通している世界の米は総生産量の三〜四%(一一〇〇万〜一三〇〇万t)。生産のほとんどは自給用なのであって、それこそ天候しだいで消滅するかもしれないほどの流通量なのだ。しかも日本は後述するように、世界米生産地の適地中の適地にある。その適地が自給を放棄し、米輸入国に転化するということは、エコロジカルな意味で「道理」、また地球規模の食糧自給という意味での「道義」の放棄である。また自国の備蓄コストを渋っている日本に対して、輸入可能国であるアメリカやタイやオーストラリアが、備蓄コストを負担してまで安定供給してくれるわけがない。

 またかねてから関税化論者として知られる青山学院大の速水佑次郎教授は、「農業関係者には、コメ不足に備えてコメを備蓄せよと言う考えがあるようだが、備蓄したコメは何年かたつともう食用には適さなくなり、おカネの無駄遣いというほかない」と、マジメ?に語っている。(十月一日読売朝刊)。馬鹿も休み休み言ってほしい。一年ごとに、前年度の繰り越し分を食用・加工用に回すのを「備蓄」ないし「回転備蓄」というのであって、教授の言うのは「備蓄」ではなく「死蔵」である。

 繰り返しになるが、一九六〇年からの二六年間で「単年度需給均衡」が達成できた年は一〇年、そのうち十分に「ゆとり米」までとれた年は六年しかないのである。食管制度の下で、その「ゆとり米」が今日まで「備蓄」の役割を何とか果たしてきたからこそ、今日まで「米不足」が顕在化しなかったのだということを論者たちは知るべきである。

国際価格急騰の非道義性

 食糧の「単年度需給均衡」は、国内的にも国際的にも「無理な政策」であり、「備蓄」を他国に依存できない以上、国内できちんと「自給と備蓄の体制」をとっておかねばならないことが、今回の米不足の貴重な教訓である。このことの「道理」を認めているのは農業関係者だけではない。さきに引用させていただいた小島正興氏は同じ記事の中で続けて次のように語っている。

 「日本が一〇〇万t程度のコメを輸入するというだけで、世界のコメ相場は早くも上昇している。一〇〇万tで相場が上がるぐらいだから、逆に言うと、世界のコメ市場がいかに小さいかということだ。世界の市場にかなりの影響を与えるということも想定しなくてはならない」

 この意見の大事な点は、国内備蓄が天候、つまり自然と人間の関係の「道理」にかない、同時に、豊かな国と貧しい国、米が潤沢にとれる国ととれない国の間の「道義」にもかなうということを示唆されている点だ。

 本誌先月号「主張」では、日本が一〇〇万t単位で緊急輸入を行えば、在庫の薄い米の国際価格は必ず急騰すると述べたが、その予測どおり、タイではもち米やうるち米の輸出価格が大幅に上昇し、九月下旬に比べて、二〇%前後も値上がりした。また、カリフォルニア産米のシカゴ先物取引でも、現在九月二十八日、わずか一日で一六%の価格上昇を引き起こしている。カネのある日本はそれでも米を買えるが、買えなくなった国々には必ず飢える人が出てくる。また韓国、あるいはスペイン、ポルトガル、イタリアのようなヨーロッパの米どころも今年は大幅な不作という。これらが国際価格に与える影響も無視できない。

 この価格高騰は、これまで「日本の米は国際価格と比べて五〜一〇倍も高い」と、あたかも米の国際価格が安定的なものであるかのように言ってきたマスコミや自由化論者、一部自由化論者にも否定できない現実のものである。

 九月三日、社説で「食糧管理制度の下で政府が必要に応じてコメを輸入することには何の問題もない」としていた毎日新聞の経済欄には、十月三日、「緊急輸入で国際相場急騰、貧しい国の“迷惑”も考えて−」と題し、「(コメという)小さな市場に、輸入国は途上国を中心に百か国近く。突然の巨大輸入国の“出現”によって国際相場が高騰すると、コメが買えなくなるという貧しい国々もあることに日本は配慮すべきである」という記事が掲載された。また同九日の毎日新聞「記者の目」で原剛編集委員は、「大量輸入は国際価格圧迫」として、次のように述べている。

 「タイをはじめ東南アジアの国々では、『安いコメ』が都市の労働者の暮らしを支える、いわば『社会安全装置』扱いされている。タイ政府が米の輸出総量に枠をはめ、国内米価に『指導価格』を設けている背景だ」「世界で年間九千六百万人ずつ人口が増えつづけ、その九〇%が途上国の、主に都市部に集中していることを考慮しておきたい」

 世界各地で難民や移民の増大が重大な問題に発展しつつある現在、この「社会安全装置」という指摘は重要である。十月十四日の読売新聞には、名古屋学院大学商学部の羽路駒次教授による「コメ緊急輸入責任と問題」と題する文章が掲載されている。

 「米を主食、加工原料とする国にとって価格の高騰は国造りの根幹にかかわる重要問題だ。わが国はこれら多くの国々に多大な迷惑をかける責任の重大さをもっと真剣に考慮すべきで、代金を払って米を購入するから問題はないとする姿勢は、食糧調達に四苦八苦している国からみれば、極めて非人道的行為とみなされるだろう」

 これらは必ずしも自由化反対の立場に立った記事ではない。しかし、緊急輸入であれ恒常的輸入であれ、日本の米輸入が世界米市場という「薄い市場(THIN MARKETと呼ばれる)に引き起こす影響は、避けて通ることのできない問題なのである。

目先の経済合理か、長期永続的な国際的道義か

 これだけははっきりさせておきたい。

 日本および朝鮮半島は、世界でもっとも米の生産量が多く、また消費量の多いアジア・モンスーン地域の中でももっともイナ作に適した気候、土壌、地形、そして家族農業をもつ地域である。いまここに北朝鮮についての資料はないが、人口五〇〇〇万人の韓国は二〇〇万tの国内備蓄を行なっている。そのため国際市場に米を求めることはめったにない。そのことが世界の米市場に果たしている意味を、人口一億二〇〇〇万人、米の年間消費量一〇〇〇万tで、今回一〇〇万〜二〇〇万tの緊急輸入を行なわざるを得なくなった日本は、国際市場の安定に対する「道義的」な責任という観点から、じっくりと考えるべきではないか。 

 さらにまた、日本の水田は日本の自然と数千年にわたって共存し、これまで無償で緑や水、景観や空気や風、そして災害からの安全を国民に提供してきた。しかし、もし日本がかりに恒常的輸入国になったとして、その米の産地であるアメリカやタイに、これ以上水田を増やす余地はほとんどない。アメリカのカリフォルニアは大規模かんがい、アーカンソーは地下水の汲み上げ、またタイは熱帯雨林の破壊という、自然と水田イナ作とが対立するかたちで拡大を続けてきたからである(三三〇ページおよび本誌昨年七月号「主張」参照)。

 以上のことを考えるならば、米を国内的に自給し、備蓄していくことは、多少経済合理にかなわなくても、永続的な人間と自然との「道理」にかない、したがって、永続的な国際的「道義」にもかなうことなのである。いっぽう、米関税化を受け入れ、自給も備蓄も放棄するとしたら、それは目先の経済合理にはかなったとしても、長期的な人間と自然の「道理」にもかなわず、長期的な国際的「道義」にもかなわないことである。いずれそのことは、子や孫の代の長期的な経済合理にもはね返ってくることなのだ。

 また農水省が本気で自給と備蓄体制の再構築に取り組むのならば、来年度米価は米審を繰り上げてでも引き上げを農家の前に明らかにすべきである。それもまた、これまで低米価に耐え減反に応じてきた農家に「道理」と「道義」で報いる道であり、そのことで「自由米」市場の沈静化をはかり、米不足の中で食管を信頼し、買いだめを自制している消費者にも報いる道だからである。

 来年こそ、作れる田に作れるだけの米を作り、関税化の圧力をはね返していきたい。

(農文協論説委員会)

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