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農文協トップ主張 1993年05月

地域性の追求こそが日本ルネッサンスを拓く
「日本の食生活全集」は地域づくりの書

目次

◆「地域性の追求」と「日本ルネッサンス」
◆地域は個性的色彩を放つ
◆外来の技術を地域になじませる
◆地域小宇宙の永続を支える食
◆地域自然を呼び込み、つなぎあわせる
◆多様化の流れの中で

「地域性の追求」と「日本ルネッサンス」

 この二月に完結した『日本の食生活全集』について、食文化の国際比較研究の第一人者である石毛直道国立民族学博物館教授は、つぎのように評されている。

「一民族の食事文化の、これだけ多くの地点での調査は、世界唯一のものであろう(注1)」。

 この全集は、都道府県ごとに一巻をあて、各県を特徴あるいくつかの地域に分け、地域ごとに大正末から昭和初めにかけての食生活の全てを、その地域の古老から聞き書きし、当時の食事を再現してもらって、まとめたものだ。全巻を通じての地域数五百余、語ってくれたおばあさん・おじいさんも五百余人。撮影のために食事を再現していただいた方などをあわせると、三〇〇〇人を超える人々のご協力をいただいた。

 あらためて、この十余年間のあいだに本全集にご協力いただいた方々に、厚く御礼申し上げたい。

 石毛氏は、世界の食事文化の民族による地域性を追求する資料の最大なものとして『週刊朝日百科/世界の食べもの』全一四〇冊をあげられ、そのいっぽうで、一民族内の食事文化の地域性を追求する資料として『日本の食生活全集』をあげておられる。石毛氏のキーワードは「地域性の追求」ということである。食事文化は一民族の内部であっても地域の自然的、社会的条件によって変わる。その変化、多様性のあり方の追求ということである。

 ところで、もう一人の方の評価。西洋史家で幅広い文明論を展開する木村尚三郎東京大学名誉教授は、『日本の食生活全集』の製作・出版活動について、「文字通り日本ルネッサンス運動である」と位置づけられた。

「戦後『古いものは悪い、前近代的』の思い込みから消え去ろうとしていた、土地に生きる知恵がここにある。(中略)技術文明が成熟し、人と自然と技術との調和が求められる今日、プレモダン(前近代)の生き方こそ、一九七〇年代半ばからのポストモダンの生き方と通じ合うと言わねばならない。つまりは『近代』が古く、『前近化』が新しいのだ。本全集は、食の掘り起こしを通して、地域文化そのものの確認にまで到達しており、(中略)日本各地に息づく生活文化の集成そのものとなっている(注2)」。

 本誌読者が暮らしておられるそれぞれの地域の古老の昔語りが、「日本ルネッサンス」すなわち二一世紀に向けての「自然と人間と技術との調和」のとれた生活文化形成の方向を指し示している、というわけだ。

 地域の多様性を追求することが、日本のルネッサンスを導くのだと、お二人のキーワードを合体させたい気持である。『日本の食生活全集』は、そこに食事文化の面から迫ったのである。

地域は個性的色彩を放つ

『日本の食生活全集』は、『日本農書全集』につづくものとして企画された。江戸時代の農書には、全国各地でそこの自然と風土を生かして展開された農法と営農の知恵がこめられている。いわば、「自然と人間と技術との調和」のとれた姿を、農業の営みの側から集大成したのが『日本農書全集』である。江戸時代は、日本における自然活用の基本型(ベース)が形成された時代である。そのベースのうえに成立した人びとの生活のあり方総体を、「食事」を軸にして、できるだけ現代に近い時点でとらえること−それが『日本の食生活全集』のねらいだった。

 といって、農書のように、記録されたものがあるわけではない。日本の自然活用の総体=生活のあり方の総体をとらえる、といっても、どのような場面で、何をよりどころにしてとらえるのか−企画の初めから難問をかかえ込んでの出発だった。

 そして、この難問を解くカギを与えてくれたのが、古老の昔語りだった。岩手県沢内村。奥羽山系にそって南北に細長く広がる村である。沢内村は、江戸時代には「南部藩の隠し田」といわれ、水田中心の農業地帯だった。だから、食事は、大根かて飯など各種の混飯、米粉を利用した多彩な団子・やきもち、さらには秋田からくるニシンやハタハタに米こうじを合わせる飯ずしなど、お米中心の食事の工夫がこらされるものと思われた。そして、事実、沢内村の中心部に住む加藤善夫さん(明治生まれ)の話もそのことを裏づけてくれた。

 ところが、同じ沢内村の北部に住む藤原春吉さん(明治生まれ)の話はまったくちがっていた。日常の食事は水田でつくるヒエが中心であり、畑のソバやアワがこれに加わった。ヒエと大根、ヒエと山菜の混飯、ソバでんがく、ソバひっつみなどの粉食である。寒いがゆえの貧しさ、といえなくもないが、広大な山をもつ沢内村北部は、多種多様な山の幸にめぐまれている。共有の山で牛を飼い、木を採る。適度に人や牛が入った山にはワラビがよく育つ。

 秋、今年は水田が凶作になりそうだ、となると、村中で申し合わせて、ワラビの根掘りにいく。根花(でんぷん)をとるのだ。掘ってきたワラビの根は、夜、大きな木舟に入れて、子供は小さなつち、大人は大きなつちをもって打ち、水で根花をさらし出す。根花の白い上等な部分はからかさの防水のり用に売るが、黒っぽい部分はもちにして、家族で楽しんで食べるものだ。残ったワラビ根のすじは壁ぬりに欠かせない。

 南北にわずか一〇kmの沢内村を、二つの地域に分けてみなければ、自然活用の総体=生活の総体はみえてこない。一つの県を、いくつかの地域に区分して調査をすすめるという発想は、沢内村の古老からいただいたものだった。

 地域は、沢内村のように一村が二つに分かれるせまい範囲のばあいもあるし、いくつかの市町村にまたがる広い範囲のばあいもある。山・川・海・田・畑がおりなす自然・風土と人びとの暮しぶりが個性的色彩を放つ範囲が地域である。

外来の技術を地域になじませる

 しかし、地域の食事は決して閉鎖的なものではない。沢内村の北と南では、かて飯(混飯)、粉食、飯ずしなど、食事づくりの基本的技術は同じだし、これらは全国どこにでもみられるものだ。縄文時代の食べものの研究者、渡辺誠氏は、当時の植物食として確認されたものは、クリ・ドングリ・クヌギ・トチなどの木の実、ヤマイモなど三九種類で、クリやドングリなどは粉にひいてかゆ状にし、他のものと混炊されることが多かった、とされている。混飯、粉食は、はるか縄文時代以来の食の基本技術であった。同時に世界の食事の基本的技術でもある。

 ヤマイモやワラビの根からでんぷんをとる技術は、アジアで森林に住む人びとが古くに身につけた技術、魚と米を合わせ乳酸菌発酵させる飯ずしは、大昔、中国南部で行なわれた、ともいわれる。

 原始・古代以来、食事づくりの技術とその情報は、広く世界を舞台に交流したものといえよう。もともと食の技術そのものは、多いに普遍的・国際的なのである。普遍的・国際的技術・情報が、各地域の自然・風土と出会い、そこの産物に光をあて、逆にそこの産物によって技術にみがきがかけられ、地域独自な食事作りの手法ができあがる。

 現代の食事や農耕が、普遍的・国際的技術・情報を、地域にそのまま持ち込む傾向があるのとは、大いにおもむきが異なる。優れた普遍的・国際的技術・情報を、徹底的にその地域になじませる営みが続けられたために、技術・情報は一段とその真価を発揮することになった。その営みは、地域という場で食事をとらえてみて、はじめて目のあたりにすることができる。

 水田稲作という高い生産力が魅力の農耕の技術と、「もち」というおいしく保存性もよい食の技術さえも、地域になじませ地域で真価を発揮させる営みがつづけられた。沢内村南部では、秋の刈入れどきから年末にかけては、九日ごとに仕事休みの日があり、そのたびにもちをつき、明神様、えびす様、観音様、大師様とうちつづく神仏の年越しにも、もちや団子と、それぞれの神仏にちなんだ料理を供える。もちにつけるものはごま、黄粉があり、もち草があり、小豆、くるみがある。もちが、まさにこの地域の産物を結集し、ひきたてるわけである。

地域小宇宙の永続を支える食

 ところが、大黒様の年越しの日は、ちょっと様子が異なる。加藤善夫さんの話−。

 大黒様の年とりには、豆ごはん・豆腐・納豆・煮豆・炒り豆・豆しとぎなど大豆料理の数々と、まっか大根(二股大根)をあげるんです。豆料理は大黒様の好物だから数が多いほどいい。四八の豆料理をそなえろ、なんてこともいわれるくらいだ。まっか大根というのはね、大黒様は大変にもちの好きな神様だった。あるとき、強い悪い神様がやってきて、大黒様を殺してここをのっとろうとくわだてたもんだ。その策略というのが、大黒様を招いて、もちをたらふく食わせて、食あたりで死なせてやろうというものだった。もちを食べるときは大根といっしょに食べるといい、といわれていたから、悪い神様は、村中の大根の数を全部数えさせて、一本といえども大黒様に渡してはならないというお達しを出したものだ。村びとは大いに弱ったが、中に一人の知恵者がいた。二股大根の片方だけかいて大黒様にやっても、大根の数はかわらないと、気づいたわけだ。これで、大黒様は、もちをたらふく食べても死ななかった−だから、大黒様には必ずまっか大根をそなえたものだった。

 この話は、もちと大根と大豆、つまりでんぷん食と野菜・繊維食と植物たんぱく食の組み合わせ、という健康的・栄養的バランスについての教えといった内容も含んでいる。同時に、畑作地帯に稲作が入ってきたときの対応や、稲作を地域になじませてきた歴史を物語っている。

 加藤さんの地域には、ここに独自な、水田稲作と、大豆や大根をつくりつづける畑作との組み合わせができあがった。たとえば、稲と大豆と馬の関係−当時、馬は稲作にも畑作にも欠かせなかった。その馬のエサは稲ワラ・米ヌカ、そして豆がらと、一〇日に一回の豆腐づくりから出るオカラであった。大豆をつくることは人間だけでなく馬にとっても必要だったのである。馬が田畑を肥やしたのはいうまでもない。

 馬も人間も含めた地域自然−これを永続する小宇宙として管理して、活用していく生活のあり方が地域ごとに形成されてきた。そしてそのあり方を支えるものが、豆腐、納豆、豆しとぎなど四八の豆料理、大根かて飯、大根おろしもちといった、食事づくりの手法の数々と、それらがつながって成り立つ食事のスタイルだったのではないか。大黒様、えびす様、大師様……と打ちづつく神々へのもてなしは、そうした地域産物と、食事の手法を保ちつづけることを確かめ、伝承する節目だったのではないか。宗教生活も、地域自然(小宇宙)の永続をはかるシステムの一角をなすものだった。

地域自然を呼び込み、つなぎあわせる

『日本の食生活全集』に登場する地域では、一人一人が個性的である。家それぞれ、人それぞれに個性的な山・川・海・田・畑の暮らしへの取り込みかたがある。

『日本の食生活全集』は、各地域のまとめにあたり、おもに一人の方のお話をもとにしている。その意味では、ある個人が、地域自然を活かし活かされる暮らしの描写ということになるが、それがかえって、いま私たちが表面的に目にする地域自然の景観や地域情報をこえた、内面の情報を記録する結果となったと思う。

 沢内村の高橋ヒメさん(大正生まれ)のお宅に写真撮影でおじゃましたときのことである。メンバーは撮影に協力していただいた生活改良普及員さん二名とカメラマン、編集者の四人。ヒメさんの家は、昔ながらのたたずまいで、台所わきの土間には沢水がひかれ、石の水槽に水がたまり、チョロチョロと屋外へ流れ出している。台所のほうで昔の夏の朝食・昼食・夕食、つけもののいろいろを撮らせてもらったあと、ヒメさんは何げなく水槽わきの板敷におりて、そこにしゃがみ、水をくむかのようなしぐさをされた。その場所とヒメさんの姿のとりあわせが、なじみ合い「決まっている」ということだったろうか、カメラマンがあたりを見まわし、天井を指さしたのはすぐそのあとだった。そこに一本の長い棒がとりつけられており、棒の片側をはずすと、ちょうど板敷の上、ヒメさんの手もとにおりてくるようになっていた。石臼のまわし棒だったのである。石臼でソバをひき、左手の水槽から水をくんで粉をしとね、そして右手にあったいろりでソバでんがくを焼きあげた。水槽では、乾したワラビが水もどしされ、ウリが冷やされる。水槽を流れ出た水は、家のわきの池に入る。そこにはコイ・フナが放たれ、ドジョウがすみつく。水は池であたたまって稲を養い、ドジョウはいろりですり味汁……。

 ヒメさんがこの場所に自然の豊かさを呼び込み、つなぎあわせる妙技がその場に浮かびあがり、一同だまって立ちつくすという恰好だった。高校生のお孫さんがいつしか、その場に来てヒメさんの昔語りに感じ入っている。

 地域はこのような、一人一人のその人なりの地域自然の呼び込みとつなぎあわせがあってはじめて地域であった。そこから、独自な地域景観ができあがった。

多様化の流れの中で

 いま、地域づくりの大切さがいわれる。

 本誌は、農家の高齢化・婦人化・兼業化を農業の衰退とみるのではなく、逆に地域づくりの活況要素とみる立場をとっている(一月号「主張」、参照)。老人・婦人の願いや身体性は、より「自然と人間と技術との調和」のとれた作業や農耕や産地のあり方を求め、着々と、そういうものが生み出されてきているからだ。

 技術や経営はもはや、効率追求型の普遍的技術の生まの適用だけでは考えられない時代に入っている。それぞれの人の事情に即した個性的で多様な技術・経営の展開があってはじめて「地域社会の活性化」が実現する。

 多様な人びとが個性的に、わが家・地域の自然に注目し、呼び込み、つなぎあわせるとき、地域自然のもつ資源的価値はグンと豊かなものになってたち現われてくるはずである。取り組む人が多様なだけに、その営みは従来の農業技術・農業経営のワクを超える。農業は食事であり、健康を守ることであり、地域景観を生み出すことであり、その地域自然に息づく日常文化と共感の伝承=教育である。(注3)

 もちろん『日本の食生活全集』の当時とは時代がちがう。人びとがつながる範囲は広がっているし、普遍的技術は格段に進化しかつ多様になっている。これらの条件をも地域になじませ生かし切るための身のかまえ方は、五百余地域の私たちの先輩の語りのなかにみることができるはずだ。「日本ルネッサンス」は「地域性の追求」によって成しとげられる。『日本の食生活全集』をぜひ地域づくりの書としてご活用いただきたい。

 (1)出版ダイジェスト一九九三年三月一日号

 (2)『日本の食生活全集』の「月報37」

 (3)『自然と人間を結ぶ・地域活動情報15』

 一九九三年三月号「特集・『日本の食生活全集』とはどういう文化現象だったか」では、石毛氏・木村氏の文章も含め、さまざまな方からいただいた書評・感想のほか、本全集を契機とした食生活・健康・教育場面でのさまざまな地域活動、研究活動を紹介しております。ご一読下さい。

(農文協論説委員会)

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