主張
ルーラルネットへ ルーラル電子図書館 食農ネット 田舎の本屋さん
農文協トップ主張 1992年11月

土壌保全と植林の思想が海も育てた
沖縄サンゴ礁を守った文化を考える

目次

◆貝も飼ってたサンゴ礁
◆褐虫藻(植物)とサンゴ(動物)の共生でできた「豊かな海」
◆ヤマチーネ、ウミンハギン
◆本土基準の「土地改良」で
◆固有の文化が固有の自然を守る

 「終戦後、うちの主人が目におできができてね、手術をしたために、目を失ってしまっているさ。だから七人の子どもを育てるのによ、非常に苦労したよ。私一人ではどうにもならん。おかあさんに子どもをみてもらってね。私は、潮が引いたら、アーサ採ってきて、洗って。きょう採ってきたら、あした売れる。またあしたも、朝はイモ掘ってきたら、すぐ昼から潮引けば、またアーサ。このアーサを買う人がいらっしゃらなかったら、どんな生活したかねと思うよ。親と海とはね、私の子ども助けたという意味で印象深いの。本当に忘れようにも忘れられない…」──沖縄は石垣島、白保地区の沖に広がるサンゴ礁でのアーサ(ヒトエグサ科の海藻)漁の話である(野池元基著『サンゴの海に生きる』農文協・人間選書より)。

貝も飼ってたサンゴ礁

 白保地区の人々の生活にとって、サンゴ礁は自給用の食料や、子どもたちを学校にやるための現金収入をもたらす「恵みの海」であり「命つぎの海」だった。

 白保の人々の多くは農家である。昼、地区の北のほうにある畑や水田で農作業を行なったあと、夕方、浜伝いに歩いて家に帰りながら、イノーと呼ばれるサンゴ礁内の浅い池(礁池)で、パリャンという一人用の網を使って魚をすくい捕る。

 また、魚垣(白保ではカキまたはカチという)はまさに「海の自家用畑」。浜からサンゴ礁の中へ、大きく弧を描くように石を積み、礁内に石の囲いを作る。魚垣は、満潮時には海に沈み、魚がその中の海藻を食べに入ってくる。そして潮が引くと逃げるに逃げられなくなった魚が閉じ込められる。その魚を捕まえるのはたやすいことだ。その魚垣は白保には一〇以上もあり、「ユネムリヌカチ」は米盛さんの垣、「ビラチヌカチ」は平地さんの垣というように、その一つ一つが、垣の持ち主の家の姓で呼ばれていた。

 さらに面白いのが「貝を飼う」話。「ヤックンゲ」(夜光貝)という大型の巻き貝を二〇個、三〇個と捕まえてきては、貝殻の縁に穴をあけ、そこに綱をかけてサンゴ礁内の浅瀬で生かしておいて、おかずにしたいとき、煮て食べる。まるで自家用のニワトリやウサギを飼う感覚に似ている。

 そんな白保の人々が、サンゴ礁の恩恵をもっとも感じたのは沖縄戦とその後の食糧難のとき。陸軍の飛行場を作るのに人々は駆りだされ、食料は徴発される。米軍の空襲が始まってからは山に逃げ込む家族が増えるが、マラリアで死んだ人も多かった。戦争が終わってからも、食糧難は続いた。そうした中で人々はサンゴの海へ出て、魚や海藻を採って生きのびた。

 「イモも食べられない、米もなかったよ。ただあの海の魚をちょっとずつ、きょうもあしたも少し食わしたら、子どもなんか喜んでよ。何カ月くらいかなー、海の魚で子どもなんか生かしてきた。この海のありがたさというのはね、絶対忘れてはいかん」(『サンゴの海に生きる』より)。

褐虫藻(植物)とサンゴ(動物)の共生でできた「豊かな海」

 沖縄の人々の暮らしや青く澄んだ海の色を見ていると、いかにも「豊かな海に囲まれた暮らし」のようにみえる。しかし沖縄では、動力船を駆ってはるか沖合で漁をする専業漁師の歴史は古くない。サンゴ礁を取りまく海そのものの生産力が高くないというのもその一因だ。海の水が澄んでいるということは、養分が乏しく、生物が生きにくい海であるということである。もし、養分が多ければ、サケやタラが大量に捕れる北の海のように、有機物や植物プランクトンで、海の色は「濁って」みえる。

 海水が透明で、見た目に美しいということと、海の生産力、多くの生物が生きていきやすいかどうかは別のことなのだ。しかし、白保の人々の暮らしにみるように、サンゴ礁内の生態系は多様性に富んでいて、生産力も低くはない。世界の魚類の三分の一の種類がサンゴ礁海域に生息しているという説もある。その生物の多様さを示すのに、サンゴ礁を「海の熱帯雨林」とか「海のオアシス」にたとえる人もいるほどだ。

 ではなぜ、「貧しい海」の中に、白保の海のような「豊かな海」ができたのだろう──その秘密は、サンゴと「褐虫藻」という植物(微生物)の共生・共同作業にある。

 サンゴというと、すでにサンゴ礁になった風景や、宝石としてのサンゴを思い浮べる人がいるかもしれない。しかし、サンゴはイソギンチャクの仲間の「動物」で、その動物が大気から海中に溶け込んだ炭酸ガスを炭酸カルシウムとして固定したものがサンゴ礁である。サンゴ礁はたくさんの穴が開いた石のように見えるが、その穴の中に動物としてのサンゴ虫が住み、昼は石の中でじっとしているが、夜にそこから触手をのばして餌のプランクトンをさかんに食べる。サンゴ虫は普通単体ではなく、多数が集まってさまざまな形の群生をつくって生活し、それが長年成長を積み重ねて巨大でさまざまな形をしたサンゴ礁を作り、それがさまざまな生物のすみか、隠れ家となって、豊かなサンゴ礁の海ができあがる。

 つまり、群生の結果できあがったサンゴ礁が、それ自体では動けないサンゴ虫、外敵に狙われやすい小魚などの隠れ家になるのだが、そもそも石ができるためにはサンゴの体内に共生する褐虫藻のはたらきが不可欠なのである。

 褐虫藻は、サンゴ表面の一平方センチ当たり一五〇万個にものぼり、これが光のエネルギーを受けて光合成をする。そしてつくられたエネルギーの九割はサンゴに渡され、サンゴはもらったエネルギーの大半をみずからの生活や成長に使用し、残り半分は粘液の形で体内に分泌され、魚やカニ、動物プランクトンのエサになる。褐虫藻がサンゴから得るものは安全な隠れ家とわずかな養分だが、その関係と、その結果つくり出されるものがサンゴ礁の多くの生きものたちの隠れ家とエサである。したがって、この関係こそが、「海の熱帯雨林」「海のオアシス」をつくり出す秘密なのである(炭酸ガスによる地球の温暖化が問題になっているが、海は大気との接触により大量の炭酸ガスを海中に取り込んでいる。その多くがサンゴ礁に固定されており、サンゴ礁は炭酸ガスの貯蔵庫としても大きな役割を担っている)。

 ところが、そのサンゴと褐虫藻の共生関係が成立するためには、非常にデリケートな条件が必要である。その一つは水温が一八・五度以下にはならないこと。二つには、水深四〇メートル以下の浅い海であること。三つには、水が透明であることである。一つめの条件は褐虫藻の活動に必要な温度であり、あと二つの条件は褐虫藻が植物であり、太陽エネルギーなしには光合成ができないからである。そのためサンゴ礁は、熱帯、亜熱帯の、大陸や島のまわりの浅い海、その中でも、大河からの土砂や冷たい河川水の流れ込みのないところでしか発達してこなかった。沖縄は世界的なサンゴ礁の分布からみると、かなり高緯度に位置しているが、黒潮の影響により世界でもっともサンゴが豊富な場所となっており、なかでも白保のアオサンゴ群落は、北半球で最大かつ最古ということが明らかになっている。

 白保をはじめ、沖縄のサンゴ礁での漁とそれによる人々の生活は、サンゴと褐虫藻との共生、それを可能にするデリケートな条件があってはじめて成り立つことだったのである。

ヤマチーネ、ウミンハギン

 沖縄には「ヤマチーネ、ウミンハギン」という諺がある。「山を伐ると、海もはげる」という意味だそうだ。沖縄は台風の時期など、大量降雨が一時期に集中しやすい。しかも、川の総延長は短く、土壌の多くは流出しやすい「マージ」(赤褐色のやせ土)だから、山の緑を大事にし、保水力を高めなければ、大雨で土が川に押し流され、濁った泥水がサンゴ礁を覆い、サンゴを死滅させてしまうことを言ったのだという。また、陸に降った雨が冷たいままサンゴ礁に流れ込んでも、サンゴの生育は悪くなる。昔の人はサンゴと褐虫藻の共生の関係やそのデリケートな条件は知らなくとも、冷たい、濁った水がサンゴ礁に流れ込むとどうなるかを、経験的、直観的に知っていたのだろう。

 また陸の側からみれば、畑からの表土の流出は貴重な耕土の流亡であり、降った雨が陸にとどまることなく海に流れ出してしまうことは、水資源の浪費であった。

 したがって日本の江戸時代にあたる琉球王朝時代、政治指導者であった蔡温(さいおん、一六八二〜一七六一年)は、農業基盤を維持、確立するための農書として、『農務帳』を著し、その冒頭に「地面格護」(土壌保全)を掲げ、「山間の傾斜地の草木を刈り払って開墾し、山肌を出したままにしておくと、荒れ土が流れ落ちて本田畑をだいなしにしてしまうので、かたく禁止する」「水害のためにくずれてしまった土地が多いが、このような場所では、泥や水が一ケ所に集中して流れないように排水溝を数多くつくり、前もって災害の備えをしておくこと」などと述べている。

 この『農務帳』が琉球王国の農業についての総論、基本編だとすると、つぎの『八重山嶋農務帳』は、石垣島での地域別の各論、実際編である。

 そこでも「地面格護之事」は冒頭に掲げられ、より具体的に土壌侵食を防ぐための溝や樹木の植え方が述べられ、ついで「まわ地(マージ)畠敷致様之図」(マージ土壌での畑地のつくり方)では、「水が蛇行して静かに流れることを『順行』という。流れが急だったり、逆流したり、直線の流れが長くつづいたりすることを『力』といい、このような流れでは水害が起こる」として、等高線に沿った排水溝のつくり方や、排水溝のところどころに泥の沈殿槽を設けることなどが図示されている(『農務帳』『八重山嶋農務帳』ともに農文協刊『日本農書全集34巻』所収。現代語訳は同書による)。

 また蔡温は、治山・治水のための造林法とその監督について規定した「林政書七種」(樹木播殖方法、山奉行所規模帳など)をも著し、各村や島々に配布したりもしている。そのような琉球時代からの努力によって沖縄の山の緑は維持され、集中して降った雨も長期に山に貯えられ、少しずつ谷間を流れ落ちては川や湿地をつくり、一方、地下にしみ込んだ水は「ワク」とか「バギナー」と呼ばれる湧き水となって、無駄なく農業や暮らしに役だてられて海に流れ込んだ。

 表土の流出を惜しみ、雨水をムダなく利用しようとする蔡温の指導が、サンゴ礁の保全までを意図していたかどうかはわからない。しかし、そのような土壌保全の思想にもとづいた技術の一つ一つが、農家の実践や知恵と結びつき、結果として、石垣島・白保のような「豊かなサンゴ礁」を守ってきたということは言えるだろう。

 沖縄には、こんな思想や知恵にもとづいてつくられた山と畑と水田、そして川と海とがひとつながりになった風景が、つい最近まであったのである。その風景は、白保の農家をはじめ、沖縄の人々と、サンゴの海との「共生」が生み出したものといえるだろう。

本土基準の「土地改良」で…

 だが今、その沖縄の「共生の風景」が一変し、サンゴの海が危機に瀕している。

 その危機は、「沖縄返還」後、国が巨費を投じてすすめた「土地改良事業」と、それによる「赤土流出」がもたらしたものだ。その「土地改良」の多くは、農家の自発的な意志にもとづくというより、「復帰」後できるだけ早く産業・経済を「本土並み」にさせるための方法として、土建業行政に力を注いだ政策によるといわれている。

 「土地改良」は、山の起伏を平らにし、直線的、平面的で一区間の畑や水田をできるだけ広くとろうとする。当然、耕地を取りまく多くの樹木が切り倒され、耕土は薄くなる。したがって耕地一枚一枚の保水力は落ちるが、それはダムや用排水といった灌漑施設に頼ろうという発想だ。

 しかし、そこには大きな無理がある。「本土並み」をめざすスピードがあまりにも急激なため、台風のシーズンに多くの裸地が存在することになり、そこから大量の赤土が流出した。また、「土地改良事業」で設けられた「沈砂池」は、水田の水路が土砂に埋められるのを防ぐ「本土基準」(粒径の大きなものだけを沈澱させる)であったため、微粒子の多い沖縄の赤土は、濁り水となって流れてしまう。また新たにつくられた水路も、これまでにあった自然の川さえもコンクリートで直線的・平面的に固めるやり方のため、ますます赤土は沈澱しにくくなり、サンゴの海に流れてしまう。

 陸にとっては貴重な土と水だが、濁り水として海に流れてしまえばサンゴの海を殺す汚染物質である。サンゴと共生する褐虫藻の光合成は、濁り水に太陽光線をさえぎられてしまい、やがてサンゴの死滅につながる。サンゴが死ねば、サンゴ礁もやがて破壊され、魚類の産卵の場、小さな魚の隠れ家、エサを得る場所もなくなってしまう。これは「将来そうなるだろう」という予測の話ではない。すでにもう「そうなってしまった」ところも多いのだ。

固有の文化が固有の自然を守る

 「ヤマチーネ、ウミンハギン」という諺が生まれたとき、おそらく人はサンゴと褐虫藻の共生や、それがデリケートな条件があってはじめて可能になることなど知らなかっただろう。ごく小さな範囲でのサンゴの死を見、その背景にある陸の問題を感じとったに違いない。それは、ひとつながりの山−農地−川−海の結びつきの中で、生かし、生かされる共生の感覚が感じとらせたことかもしれない。

 沖縄には今も、言葉や音楽、食文化など、独自の歴史と風土の中で育まれた固有の文化がある。サンゴと褐虫藻という、目に見えない世界の「共生」を守った山−農地−川−海という目に見える世界の結びつき、その中ではぐくまれた農地の風景や農耕の技術もまた、固有の文化と言えるだろう。その文化が、「本土並み」の土地改良基準によって画一化されたものになるとき、文化が守ったサンゴの海は消えてしまう。

 だがそのことは沖縄に限ったことではない。明治以前、半農半漁の村が多かった日本の漁村には、「魚付き林」という認識があった。これは「海辺などに植えつけたる黒松などの森林の名。影、海水に落ちて、水中暗く、魚類を寄附かしめ、又、森林中に棲む蟲類、微生物を海中に送り、魚の餌ともなるなり」(『大言海』、昭和七年)というものだが、海辺に限らず、山の縁が漁業にとって大切であることが、県を越え、二〇キロ上流の山との関係で認識されてたことも報告されている(畠山重篤「漁師が山に木を植えたわけ」・現代農業臨時増刊『そんなことじゃ地球のためにならない』所収)。

 藩政時代、内湾や浅瀬など、好漁場を抱えた各藩は「魚付き林」の保護・育成のために、森林の保存や積極的植林の助成を行なっていたという。これもまた、村や、藩という、地域の自然を総合的に認識する主体があってはじめてなし得たことである。ところが明治以降、農業は農業、漁業は漁業、林業は林業と、個別分析的な政策がたてられるようになり、魚付き林のことは、いつか人々から忘れられ、そして沿岸漁業は衰退してしまった。

 地域の自然にとって、地域の文化やそれを重視する政治がいかに大事なものか、それがいま、問いなおされている。

(農文協論説委員会)

■参考文献(本文掲載書以外)

 『サンゴ礁の生物たち──共生と適応の生物学』(本川達雄著、中公新書)

 「沖縄の自然はなぜ破滅したか」(吉嶺全二、『世界』一九九二年六月号所収)

前月の主張を読む 次月の主張を読む