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農文協トップ主張 1991年03月

いま、「市民農園」の何が人を魅きつけるのか
ブームをつかまえようとする前に

目次

◆東京板橋区、雑木林の中の区民農園
◆人の手が入ってできた雑木林
◆市民農園を点でなく面に
◆土地柄が生み出す暮らし方
◆都市から遠く離れたところでも

 昨年六月、「市民農園促進整備法」ができて、いろいろな思惑のもとに、自治体や農協などによる計画づくりが始まった。そのことを歓迎する人は多い。国会でも珍しく全会一致で成立したという。

 私たちもこの法律を歓迎する。問題や不十分な点は多いが、「リゾート法」のようには悪用されるとは思わないからだ。

 しかし「市民農園とは何か」ということは考えておかなければならない。なぜそれがいま、ブームになり、法律ができるほどまでになっているのだろう。まず、一つの経験から始めたい。

東京板橋区・雑木林の中の区民農園

 池袋から電車に乗って八つ目の駅で降り、駅前の繁華街を通り抜け、起伏の多い道路をしばらく歩いていると、目の前に葉を落としたケヤキやナラの雑木林が連なる崖の線が広がってくる。そしてその崖の坂道を登ると、雑木林のところどころで視界が開け、小さく区分された畑、土蔵や垣根のある農家、古びたお堂や神社の間を縫うように、細い砂利道が伸びている。そして崖の上からは、いましがた通り抜けてきたビルの立ち並ぶ市街地は見えなくなって、その騒音も聞こえなくなり、空の青さが目にしみ、野鳥の声がひときわ大きく聞こえてくる。

 「この東京にも、まだこんな風景が残っていたのか…」

 それが、東京・板橋区の「区民農園」のある、同区赤塚、四葉、大門地区を初めて訪れたときの驚きだった。全国的にも有名なマンモス団地である高島平団地から歩いて十数分、東京の中心部からも、電車に乗れば最寄り駅まで三〇分とかからない場所に、「武蔵野の原風景」とでも言うべき雑木林や民家、小径などが織りなす風景が広がり、その一画にある区民農園では、さまざまな人々が一坪ほどの「家庭菜園」で汗を流している。

 現在すでに、武蔵野台地の深奥部である狭山丘陵や多摩丘陵にまで開発の波が押し寄せ、農地や雑木林など、武蔵野の風景は急激にその姿を消しつつある。ところがこの都心から三〇分の板橋区に、その風景が色濃く残っているのだ。

 じつはこの地域を歩いたのは区民農園のことを調べるためではなく、五年間にわたってこの地域の「武蔵野の原風景」を撮り続けている写真家、木村松夫さんの案内で、写真集発行の下調べをするためだった(その写真集は、二月に農文協から、『あの丘にのぼれば―武蔵野・最後の原風景をゆく』と題して発行される)。

 木村さんは、この地域を写真に撮り始めた動機は、「東京に残された武蔵野」というモノ珍しさではなく、その風景から土地の奥深さ、そこに住む人の暮らしの奥行きなど、都市の風景とは本質的にちがう何かを感じたことにあったと言う。

 「わたしが一番魅かれたのは、昔ながらの農道の風情である。四葉二丁目は、メインストリートでもクルマ一台がやっと通れるような狭い道だった」

 「わたしが四葉二丁目の地理を完全に頭にいれたのは、取材をはじめて一年もたってからだった。わずか五〇〇m四方という狭い土地なのに、最初のうちは何回も道に迷ってしまった。曲がりくねった細い小径は、それほどに、この土地を実際以上に奥深いものに感じさせていた」

 「土地勘がつかみにくい理由はそれだけではなかった。ここでは、いつも歩き慣れているはずの同じ道が、春夏秋冬の四季ごとに異なった相貌を見せるのである。ひとつの季節の中でも、晴れの日と雨の日、一日の中でも朝昼晩、それぞれにちがう光景のように、見るものに多様な印象を与えてくれるのだった」

 「コンクリートのビルの壁やブロック塀で仕切られた都会では得られない、暮らしの潤いや奥行きがここにはあった」(『あの丘にのぼれば』より「小径の魅力」の項を抜すい)。

 筆者も、初めて歩いたときには、それぞれが遠く離れたところにあると感じた神社や祠、そして小さな墓地が、二度目に歩いたとき、実際には一〇〇mと離れていないことに気づき、驚いた。

人の手が入ってできた雑木林

 驚きはそれだけではなかった。文化年間、つまり一八一〇年ころに建立されたらしい二体の石像に守られた祠の脇に、高さ五mほどの小高い丘があった。初めて訪れたときは、その丘は自然の丘だと思ってのだが、二度目にいたずら心を起こして登ってみると、その「中腹」には何か溶岩のかたまりのような小さな岩が配置してあり、その「頂き」には「天明浅間□□」と書かれた小さな祠があった。「ひょっとして」と思って木村さんにたずねると、やはりその「丘」は、天明三年(一七八三年)の浅間山の大噴火を記念し、地元の農家が浅間山を型どって盛り土した築山だった。それが長い時間の流れの中でまわりの風物に溶け合い、なじんで、人工のものとも自然のものともつかなくなっていたのである。

 それらのことに自分でも気がつき始めると、その祠の傍の野菜畑の畦道にポツンと生えているマツの木でさえ、いつか、誰かが、何かを願って植えたものだということが感じられて、だんだん想像がふくらんできた。この台地全体の特徴を印象づけている「雑木林」も、自然そのままの植生ではなく、周期的な伐採、下草刈りや落ち葉かきなど、たえず農家の手が入ることで維持されるケヤキ、ナラ、クヌギなどの落葉広葉樹が中心で、シイ、カシなどの常緑樹は少ない。「雑木林」は農家の願いが入ってなりたつものだということを知識でなく感じるようになった。

 さらにまた、その雑木林の林床に生えるニリンソウ、カタクリ、タチツボスミレなどは、冬から春先にかけて陽がさし込む場所にのみ生え、春先にいっせいに芽を吹き出し、開花したのち、日光を精一杯吸収して、五月には地上から姿を消す植物である。人の生産、生活には直接には関わりをもたないが、「山野草ブーム」とかの今日でなくとも、その姿に親しみや慰めを感じてきた人は多いはずである(ニリンソウは板橋区の「区の花」でもある)。

 これらの自然の、といわれる草花も、農家の手が入らず、クズやネザサが繁殖して地表への日光の到達が邪魔されるようになってしまえば、生きてはいけない。ニリンソウたちの自然もまた、農家の営みのくり返しなしには存続できなかったのである。

市民農園をでなく

 木村さんも、「わたしたちは、都市農家の存在意義を軽んじてはならない」と述べている。

 赤塚地区にある板橋区の区民農園は、そこに入るための競争が都内の市民農園有数の倍率の高さであるという。それは、ここで土に親しむことが、これまでみてきたような武蔵野の原風景の奥深さ、濃い緑の中に身を置くことでもあると感じるからではないだろうか。その区民の気持ちを、安心できる野菜を自分で作る、その野菜をおいしく食べるという喜びだけで判断してはいけないのではないか。行政は、都市の緑を、「点」としての市民農園として残せばよい、ということでなく、その一帯の農地、つまりはその周辺の屋敷林や傾斜地の雑木林の緑も含む「面」として守り続ける方策を考えるのでなければ、市民農園の試みは、単なる安全食品の供給基地を何万分の一人かの市民に提供することで終わってしまう。

土地柄が生み出す暮らし方

 「最後の武蔵野」の中の区民農園がある板橋区は東京の北の端に位置するが、先月号の「主張」でもご紹介した鈴木昇さんが酪農を営んでいる八王子市は、西の端の多摩丘陵にあり、その丘陵の間の谷地田で稲作が、丘陵を利用しての桑園や酪農が、古くから営まれてきた土地柄だった。

 この多摩丘陵を東京の巨大ベッドタウンに改造することをめざし、「農家は残さない」ことを基本として農地や雑木林三〇〇〇haの買収が始まったのは昭和四十年。現在は人口一四万の「多摩ニュータウン」が出現している。

 計画には、鈴木さんの住む由木地区も含まれ、区域内の山はすでに全面買収されてしまっているが、鈴木さんの農地や牛舎は健在である。夜、鈴木さんの牛舎のあるところから丘陵のニュータウンを見ると、密集した家々の灯りが夜空に浮かぶ空想都市のように見える。そこに農業があるということが嘘のような気分になる。

 しかしいま、鈴木さんの農地や庭や雑木林に出入りするニュータウンの新住民がしだいにふえている。といっても、鈴木さんがそれらの新住民を相手に「市民農園」を始めたわけではない。ニュータウンに住むお母さんや子どもたちが「勝手に」畑の草取りや、庭や雑木林の落ち葉かきを手伝うようになったのだ。ある若いお母さんは、「手伝いだなんて…。ただ畑で遊ばせてもらってるだけで、本当は迷惑かけているのかもしれない」と遠慮がちに話していた。

 そのお母さんたちは、「由木の農業と自然を育てる会」(二五〇人)の人々だ。この会は、地域から農地や農家を締め出してしまう行政のニュータウン開発計画に反対し、「農業を農業として、したがって山(雑木林)も農業とつながりのある山として残すことは、そこに暮らす新住民にとっても必要なことなのだ」という鈴木さんの訴えに共鳴し、「住む環境を作るとは、実は農業と一緒に共存することだ」という思いを強くしてきた人たちの集まりである。

 開発すすむ多摩丘陵とはいえ、鈴木さんたち地区の農家の奮闘により、由木にも、板橋の「最後の武蔵野」のような雑木林や小径、地蔵堂が残り、またここ独特の谷地田の風景もある。そうした農業のつくり出す風景がまだ眼前にあることも、鈴木さんの訴えの説得力を強め、また「住む環境を作るとは、実は農業と一緒に共存すること」という新しい住民の思いを強くすることにつながったのだろう。

 それだけではない。「育てる会」の人々は、鈴木さんや奥さん、土地の農家から、蚕の上蔟や機織り、雑木林の木を使った炭焼き、谷地田の田植えや稲刈り、精米、もちつきなどを体験させてもらうなかで、土地柄が生み出した暮らし方、土地柄にふさわしい暮らし方とでも言うべき生活文化を体得し、農家と共有しようとしている。なかには『現代農業』を読んで話題の木酢づくりに挑戦したり、炭焼きの講習会に参加して「花炭」づくりの方法を持ち帰るお母さん、草木染めを教えてくれるお母さんもいて、伝統的な生活文化ばかりでなく、将来この土地に根づくかもしれない生活文化もこの集まりの中で育まれている。

 鈴木さんたち由木の農家と、「育てる会」の新住民の交流は、「市民農園」の形をとったものではない。だがこの交流からも、「市民農園ブーム」の底流にある、都市住民が「市民農園」に求めているものが、何なのかがわかるのではないだろうか。

都市から遠く離れたところでも

 ここまで見てきた二つの「市民農園」は、東京の二三区内、あるいは東京近郊都市のものだった。しかし、「市民農園」は大都市から遠く離れたところにもある。

 その一つの例は、昨年七月号の主張「東京発・大規模リゾートの時代から地元発・ふるさとリゾートの時代へ」や、同年九月増刊号「手づくりリゾートふるさとづくり」でも紹介した、福島県南会津郡只見町の、只見木材加工協同組合による「入会権の販売」や「緑のオーナー」の制度である。

 これらの制度もまた、形としては「市民農園」ではない。また「緑のオーナー」というと、各地の営林署や森林組合が力を入れている、スギやヒノキの植林地を三〇〇坪五〇万円程度で売って、二〇年後、三〇年後に地主と折半するタイプを思い浮かべがちだが、只見のものはそれとも異なっている。

 まず、入会権の販売ということについて。

 いま、その村を訪れた都会の人が、山菜やキノコを採るために山に入ろうとすれば、五〇〇円とか一〇〇〇円の入山料を山の持ち主に払わなければならない。これでは持ち主に入る金額が少ないわりには、互いに手続きがわずらわしすぎ、山歩きの途中に山菜を見つけた場合には、山の持ち主を探して入山料を払いに行くかどうかという問題になってしまう。

 そこでこの組合では、最初に一〇万円とか二〇万円とかのまとまったお金をもらって、それから五年や一〇年は何の手続きもなく入れる山を提供したらどうかと考え、「株式会社たもかく」という子会社をつくって、都会の人や地元の人に株主になってもらい、現在一五万坪の山林を確保している。その株主になれば誰でも、一五万坪の山に山菜を取りに入ったり、沢で釣りをしたり、立木の間をスノーモービルで走り回ったりの楽しみが自由にできる。

 また緑のオーナー制度は、いまある雑木林を土地ごと都会の人に売って、二〇年間の管理を請け負うというもの。三〇〇坪の土地と立木で二〇万円、二〇年間の管理料が三〇万円、セットで五〇万円。他の「緑のオーナー」と異なっているのは、「土地を持っている」という満足感を与え、その土地の立木がすべて買ったものになるということ。そして、先に述べた一五万坪の山林への入会権が二〇年間ついているので、そこでも自由にキノコ狩りや山菜狩りが楽しめるということである。

 「入会権の販売」と「緑のオーナー」と、この二つの制度の会員になるための金額は、「市民農園」を手に入れる金額としては高すぎるようにも思えるが、ふるさとのない都会の人、ふるさとはあってもそこでは「お客さん」的にしか行動できない人々に受け入れられ、会員は急激にふえている。

 この組合の専務理事、吉津耕一さんは、この制度の発想のもとには「雑木林と村の人のつき合い」があったと言う。「このあたりの山のほとんどは、元々は山菜やキノコや薪炭材料を採るための暮らしの山。雑木林ばかりなので、用材としての価値は低かったが、キノコや山菜の生産力は高い。先行き不安の多いスギ、ヒノキへの転換を図るより、雑木のまま、かつての山全体とのつき合いを都会の人にも楽しんでもらおうと考えたんです」

 また大都市から遠い只見の山は、泊まりがけで来なければ楽しめない。この組合ではそのために古くからの民宿との提携を強めるだけでなく、住む人のいなくなったこの地方独特のカヤぶきの農家を都会の人にあっせんし、その要望を聞いて手を入れたり、県の文化財指定を受けている旧代官所の建て物をその指定の枠内で改造し、会員制の別荘として提供したりしている。

 それらのこともまた、自分たちの祖先がこの只見に生きる中でつくり出してきた、土地に根ざした「住まい方」という文化を守り続けることにつながっており、リゾート地にありがちな、ペンションやリゾート・マンションなどの薄っぺらな建て物はここにはない。

 「市民農園法」をもたらした、市民農園ブームの底流には、もちろん、土に親しみ、自分の手で草花や野菜を育ててみたいという欲求があるだろう。だが今日ではそれ以上に、これまでその地に住み続けてきた農家が作り出してきた、暮らし方、住まい方の知恵のようなものに触れたい学びたいという欲求があるのではないかと思う。

 性急に市民農園ブームをつかまえようとする前に、もう一度このことを考えてみてはどうだろうか。

(農文協論説委員会)

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