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農文協トップ主張 1989年09月

選挙に向けて「食管改革」撤回の要求を!

目次

◆参院選での成果「米価据置き」
◆次の標的は農政審「食管改革」だ
◆食管邪魔もの論の誤り
◆米の国内自由化が輸入自由化を招く
◆国際化時代にこそ食管の再評価を
◆世界にひらかれた農家の政治運動

 参院選は、「農政」に対する批判の嵐が吹きまくり、政府・自民党にかつてない打撃を与えて終わった。選挙前の米価決定=据置きという与党の人気回復策にもかかわらず、全国の農家は厳しい批判票を投じた。

 それほどに、国のすすめる農政――農産物の輸入拡大、それを前提にした価格引下げ、構造政策――のもつ問題は大きく、間違った方向であることを宣言したわけである。では、この批判をベースに、どのような農政を要求し、農政を変えていくか。とりわけ、近々行なわれることが予想されている衆院選に向けて、何を政治目標に立てて、運動をくり広げていくか。政局の流動はしばらく続く。農家の力で農政を変えるまたとないチャンスである。

参院選での成果「米価据置き」

 そこでまず、参院選をめぐっての運動の成果をふり返っておこう。七月四日、米審が二・五五%の引下げを答申したのに対し、自民党と政府との政治折衝によって、現行価格を据え置くことが決まった。同時に、米価算定基準を一・五ha以上層の生産費におくとする「新算定方式」は、来年以降見直すこととされ、事実上「お蔵入り」となった。

 これは、農協系統の要求をほぼ全国的に認めたかっこうであり、農協青年部を中心とする一連の行動や決議、地方選・参院補選を通じての農家の態度表明に、与党と政府が屈せざるを得なかったということだ。

「納得できぬ米価の政治加算」(毎日新聞、七月五日)「改革に逆行する米価の決定」(朝日新聞、七月六日)と、大マスコミは一斉に批判の大合唱を行なった。しかし、「米価で票を売りわたす」(朝日)などといった皮相的な問題ではない。

 三年連続の引下げで米価は昭和五十一年に逆もどりした。このうえ引下げられたら経営は立ちゆかない。しかも「新算定方式」が導入されたら、今後毎年の大幅引下げを認めることになる。「新算定方式」は一・五ha以上層を対象、というが、平均規模は二・六ha、これだけの稲作面積がなければ生産費はつぐなえない。二・六ha以上の農家は全国の農家のわずか二、三%にすぎない。そして、近い将来、五ha以上層を対象にして米価を決めることが目論まれているのだから、生産費をつぐなえる農家はごくごくわずかにさせられていく。

 この路線の出発点となる「新算定方式」を「お蔵入り」させたのだから、大きな成果である。それでは、この参院選での成果をベースに、衆院選に向けては何を運動の目標としていくか――それは、農政審が出した「食管改革」と米の国内自由化路線を撤回させること、である。

次の標的は農政審「食管改革」だ

 農政審は二年余りにわたって、米政策・米管理のあり方を検討し、五月に「今後の米政策及び米管理の方向」として報告した。その内容は、米の民間管理の色彩を強めて「国内自由化」に踏み出すもので、「食管の民営化」であり、「食管解体」を推しすすめるものだ。われわれは、この動きを阻止しなければならない。

 まず農政審答申の骨子をみておこう。

 (1)米流通は「民間流通米」(自主流通米に自由米を吸収したもの)を中心とし、流通規制を大幅にゆるめること。

 (2)自主流通米の価格に品質(銘柄・産地)や需給動向がこれまで以上に徹底して反映するように、価格形成の場「取引所」を設けること。

 (3)政府米は需給安定のための最低必要量(流通量の四割くらい)に抑え、生産調整協力者だけから買い上げる。その価格は低コストの大規模農家を対象として決定するが、一定量以上の買入れは行なわないこと。

 (4)生産調整は生産者団体の自主性において行ない、面積配分では米の市場評価(品質・価格)に応じて地域差をつけること、などである。

 これをひと言でいえば、「米の商品的性格」を決定的に強める方向での米管理である。価格も「市場評価」で決まり、生産調整の面積もその地域の米の「市場評価」で決められ、流通過程にはさまざまな資本がメリットを求めて入り込んでくる。国は、「主食」としての米管理をギリギリまで後退させる。

 実は、さきの米価据置きの政治決定のさいに、政府・自民党は、自主流通米の価格形成の場(取引所)づくりの早期実施という項目を政策推進課題として確認している。これはまさに農政審報告の路線であり、政府・自民党は、米価というを捨てて、「国内自由化」というをとった、といえないこともない。それだけに、この国内自由化についての誤解をとき、危険性を明らかにしなければならない。

 国内自由化をめぐる誤解とは何か。

 一つには、国内自由化で、産地銘柄確立など生産努力が報われ、消費者の要望に応えられる、食管はむしろ邪魔ものだ、という誤解である。

 二つには、国内自由化をすすめても、米輸入自由化がなされなければいい(あるいは、米輸入阻止のために国内自由化が必要)という誤解である。

 三つには、国際化時代に対応するのは、低コスト生産であり国内自由化の方向だ、という誤解だ。

食管邪魔もの論の誤り

 まず第一点目である。国内自由化こそが産地努力が報われる道か。いま全国的に、「商品」としての評価の高い米生産への転換がすすめられている。今年のコシヒカリの作付け(見込み)は、昨年に比べ四万haという大幅増加で、四五万四五〇〇haに達した。ササニシキ地帯にもコシヒカリが広がり、暖地では早期コシが急増している。また、コシ・ササの次の座をねらうものとして、あきたこまち、はなの舞、上育三九七号といった良食味品種の生産拡大が各地ではかられている。そして、有機米、はさかけ米……「市場評価」に向けて懸命な努力がつづけられている。

 しかし、自由化をにらんだ生産・販売努力がどこまで地域稲作、より多くの農家の稲作を支え切れるか、が問題だ。コシヒカリの本場(新潟大学)から、低コスト米の本場(北海道大学)に移られた臼井晋先生は、次のような事実を報告されている。(『北方農業』一九八九年五月号より、要約)――一般に新潟は食管が邪魔になって自由に売った方が高く売れる地域ではないかと見られているが、そういうことはなく、八〇万t以上の米生産量をもっており、質と量の相克を宿命的に抱えている。というのはコシヒカリはいまも増えているが、作期幅が限られることなどから、全体の五〇%台で、あとは二、三類米がかなりある。

 したがって、米価への対応をみても、どうしても基本米価の維持自主流通米価格のアップという二面追求の戦略が将来に向けての基本方向となる。

 コシヒカリの新潟でさえ、銘柄米だけに頼るのではなく、基本米価の維持=食管(政府米)による米価の下支えがないと、稲作は成り立たない、ということである。食管があり政府米が機能しているから自主流通米のメリットがあるのである。このことは産直米についても同様だし(本誌七月号、小沢健二氏「米の産直にとって食管は邪魔ものか」)、おそらく特別栽培米についてもあてはまるところがあるだろう。

 農政審報告の方向だとどうなるか。政府米は圧縮され、その価格は大規模な担い手層を対象に決められ、米価の下支え機能はなくなる。自主流通米は市場原理にまかされる。つまり、「生産者の再生産を補償する」という食管の根幹の一つが、見るかげもなく消えていることを問題にしなければならない。

 それに加えて問題にすべきは商業資本への流通過程への参入である。いま、大手資本が米穀卸を合併・系列化するなど米の大量流通の体制を整えたり、宅配便や信販会社といった異業種資本が参入してくるなど米流通に向けて活発な動きが起こっている。これはどう影響するか。

 自主流通米が導入されて以来、生産者米価(あるいは政府売渡価格)と消費者購入価格との差は開く一方である。これはもちろん国の財政支出の削減も原因しているが、流通過程での商業資本の取り分の増加も大きいのである。今度、もし農政審報告の方向で国内自由化がすすめば、一段と商業資本の取り分は拡大することになる。自主流通米の取引所での価格形成(一俵三万円から一万五〇〇〇円までという多様な米価をつくるという)は、商業資本の利益追求にとって格好の場を提供するものだ。

 農政審報告の方向は国による米の全量管理という食管の根幹をつきくずすもので、商業資本のための国内自由化であり、長い眼でみたら生産者・消費者の利益につながるものではない。

 以上要するに、農政審報告がねらっているのは食管の安楽死である。報告では、食管改革の前提として、主食である米の需給を安定させるため国内自給と一元的な輸出入管理をする食管の堅持をうたっている。堅持をうたいながら安楽死をねらう、というまやかしに対して、断じてノーといわねばならない。

米の国内自由化が輸入自由化を招く

 それが第二の誤解と深くかかわってくるからだ。国内自給・輸入制限を続ければ食管はないほうがいい、と考える人はかなり多い。しかし、右にみたような食管の安楽死路線こそが、米輸入に道を開くのである。

 まず第一に、全量管理の放棄、流通の民営化のもとでは、米不足の事態に敏速に対処できない。不足の状況がつかみにくいうえに、政府の持ちゴマ(政府米)を減らしているのだから国として適切な対応ができない。

 第二に、国による全量管理、生産調整が行なわれていなければ、国際社会で輸入を拒否する根拠の一つを失うことになるし、国内は自由化していながら輸入をしない、というのでは、海外の圧力に対抗できるものではない。米流通に参入した商業資本は、外圧の高まりに呼応し、あるいは米不足の事態に乗じて、米輸入の内圧を高めるように動くだろう。

 いま農家に最低限の要求としてある米の国内自給。これを守るためと称してすすめる「食管改革」が、実米は輸入自由化を準備するものにほかならないことを、しかと見すえなければならない。いま、農政審報告が示す「食管改革」を阻止しなければならない理由は、ここにある。

国際化時代にこそ食管の再評価を

 そして、その運動こそが、真の国際化につながる運動なのである。第三の誤解をめぐる問題だ。

 米輸入圧力が国際化を促す象徴であるかのごとくいわれるが、これは甚だしい誤解だ。というのは、本誌でくり返し指摘してきているように、アメリカの米市場開放要求はアメリカ農民の要望にもとづくものではない。そうではなく一部の精米・流通業者の要求であり、日本の自動車メーカーなどが盛んにロビー活動を行なって、その要求をあおっていることもすでに明らかにした。精米・流通業者は米を動かせば、利益があがる。動かす量が多いほど利益はふえる。だからねらいは、日本に市場開放をさせ、国際的に割高なアメリカの米を日本に運ぶのと同時に、日本が市場開放したのを口実にアメリカ自身にコメ輸入の自由化を迫り、タイの安い米をアメリカに運ぶことにある。

 すでに、日本で自由化の路線が敷かれた牛肉では、このような事態が急速にすすんでいるのである。アメリカ産牛肉の日本向け輸出をふやすと同時に、南米で大規模に森林を切り拓いて牛の飼育を拡大し、その牛肉をアメリカに輸入する。アメリカは牛肉の輸出国でもあり、大輸入国でもある。こうしたしくみは、大食品産業を利するものではあっても、日本、アメリカ、そして南米の、どこの農家をも利することなく暮らし向きを悪化させる。そればかりでなく各国の農地・自然を荒廃に導いていく。食糧輸出入の拡大が、輸出入国の生産者の暮らしを傷めつけ、その人々が守っている農地・自然を荒れさせる。

 米についても全く同様のことが起こるのは火をみるよりも明らかだ。いま、農政審報告の「食管改革」を拒否し、国内自由化=輸入自由化を阻止することは、優れて現代的・世界的意味をもっているのである。

世界にひらかれた農家の政治運動

 日本のような先進工業国にあって、食管が機能しつづけ、米の自給を守り、農家の激減を防いできたことは、世界的にみても奇跡だといわれる。この奇跡的な現象があったから、日本経済は高度成長の中でも、急速にバランスを失って不安定な体質になることなくやってこれた。

 その奇跡を可能にしたのは、農家が米価で闘い、食管堅持で闘ってきたからだ。その食管が根本的にこわされつつあるいま、さらに強力に闘い守らなければならない。そして、日本の農家が率先して守ることを通じて、先進国にも後進国にも、同じような運動を巻き起こしていく。これが、真の国際化時代の運動といえるだろう。

 そして、いっぽうで、まずは地域において、商業資本の手による米流通とは全く異なる生産・流通・消費のしくみをつくっていくことが大切だ。これも食管のワクをはみ出した「自由化」と考えられるかも知れないが、いままで述べてきた国内自由化とは全く異なるものである。基本的には米の地域自給(地域の米による食生活づくり)がこわれることが、流通資本による自由化、輸入自由化を呼び込むからだ。

 本誌で紹介しつづけているような滅農薬稲作による生産者と消費者とのつながりや、地域性にかなった多様な品種の地域ブレンド・地域内消費――など、地域の米生産と食生活のつながりの強化がまずべースに座わり、その良さが都市にも流れる。このようなしくみを、より多くの生産者が参加でき、低所得の消費者も享受できるものにする。それを可能にする米政策を要求し、食管の中身をさらに充実させていきたい。

 衆院選に向けて、農家の力で農政の根本的誤りを正す運動を、もう一つ積み重ねていただきたい。

(農文協論説委員会)

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