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農文協トップ主張 1989年07月

政治の腐敗を農業が救う
暮らしの場から政治の公共性の創造を

目次

◆リクルートを機に何を変えるか
◆失われた政治の公共性
◆ヨーロッパの政治の高い公共性−農業への態度で差がわかる
◆暮らしの歪みをただす活動で政治を変える

リクルートを機に何を変えるか

 夏の参議院選が間近に迫ってきた。流動的な政局の行方しだいでは衆参同時選挙になるかもしれないこの季節は、近年になく政治というものを根本から考えさせてくれるまたとない機会になりそうだ。

 この際自民党はお灸をすえられたほうがいいとか、与野党逆転があるのでは、などといった類いのことではない。選ぶときだけの主人公、反対するときだけの政治参加の時代に別れを告げ、民衆一人ひとりが政治の主体になるとはどういうことなのかを考えさせてくれる、またとない機会がいま訪れている、ということなのである。

 政治が民衆のものになっていないということは、政治がほんらい持つべき公共性が、この国ではほとんど失われているに等しいということだ。事件発覚以来一年余、ようやく「全貌」をあらわしつつあるリクルート疑惑は、そのことを小学生にもわかる形でみせつけてくれた(真の全貌が闇の中にほうむりさられようとしているにもかかわらず!)。形式的には値下がりするかもしれないリスクを背負った株の譲渡。だから「純粋の経済行為」だと言い逃れの道を用意していた手口の巧妙さもさることながら、――ヨッシャヨッシャといってダンボール箱で札束を授受したとされるロッキード事件の“陽気さ”が、今となってはほほえましくさえみえてくる――その規模の大きさ、底の深さは戦後幾多の疑獄事件をはるかにしのぐものだろう。

 ロッキード事件に長年かかわった安原美穂元検事総長は雑誌『文芸春秋』五月号で次のように述べている。「少々のことは捨象して類型的に申しますと、ロッキード事件やグラマン事件のようなケースは、いわば田中角栄といった人達の個人プレーだったといえるのではないだろうか。対照的に今回のリクルート事件の場合は、未公開株が政・財・官界の裾野広く、すこぶる広範にバラ撒《ま》かれておって、これはやはり『構造的』という言い方ができるかもしれない。」(「自民党を法で縛れ」、傍点引用者)

 ロッキード事件が個人プレーで構造的なものでは必ずしもなかったとする見方には異論もあるかもしれない。しかし、リクルートのほうがはるかに裾野が広く奥ゆきの深い疑獄事件であるとの感想は、多くの国民が抱く印象と一致するところだろう。

 口を開けば、きれいごとではいかない、政治には金がかかると言いながら、金のかかる政治稼業が赤字になり廃業したという話はついぞ聞いたことがない。江副浩正氏がバラ撒いたおカネの大きさは、そのまま政治から受けとれるであろう見返りの大きさを正直に物語っている。リクルートが工作の対象にすえたその裾野の広さは、政・財・官というわが国指導者層の精神の退嬰がかつてないほど深刻に進んでいることを如実に示している。

失われた政治の公共性

 政治の公共性とは何だろうか。それは、国家ないしは政治権力が弱者の立場に立つということだ。弱者とは社会的、経済的、身体的等いろいろな意味があり得るが、強い者はますます強く、弱い者はますます弱くなっていくのがこの社会の成りゆきだ。この成りゆきの社会に国家が立ちはだかり、弱者の立場に立って公的権力を発揮することによってはじめて、政治の公共性が保たれるのである。弱者と強者の中間に立つことでもなければ、いわんや強者の立場に立ってリベートをもらうことではさらにない。

 政治権力は最低、時の強者による政治の私物化を拒否し、独立した立場に立たねばならない。

 逆説的なようだが、あの戦前の日本には、そのような政治の独立性がまだ失われてはいなかった。否、こんにちの日本に比べると政治ないしは国家のもっていた独立性や公共的性格は数段上だったといってよい。

 戦前の日本の問題といえばつまるところ農業問題といっても過言ではないが、この“弱者”の問題に当時の官僚はいかに立ち向かったか。“農政の神様”と讃えられた石黒忠篤の言葉を聞いてみよう。

「おれたちは、将来実行したり、実現したりしようとするいろいろの政策の案をもっている。そのあるものにはAの政客が好んで食いつくし、他のものにはBの党員がよろこんで取りあげたがるものだ。そこでA党が政権をにぎると、その好む政策案を提出してAの内閣の銘を打った政策としてこれを成立させ、次に反対にB党の内閣が交代すると、その気に向いた別の政策案を出してモノにし、その手柄にさせる。政党政治の時代では政治家が威張り、官僚はコキ使われるようだが、なあにこちらにはいろいろの腹案があって、そのうちA、B等の政権がかわるがわる政権をにぎるにつれて、あれもこれも実現させ、結局農村のために役立てるんだ。いろいろの餌をパクつかせるんだよ」(橋本伝左衛門『農業経済の思い出』より)

 石黒はこのような“役人の狡智”に長けただけの官僚ではない。その根底に確固とした行政観、官吏観というものをもっていた。

 官吏には、ひとつの官吏精神ともいうべきものがなければならないが、「夫れは現在其の国民の儀表(手本、模範―引用者)を以て自任する意気であり、武士的伝統精神である。」「仮令《たとえ》内閣更迭は頻々であっても、国の行政は永続性を保持し得て、其の運行に支障なきを期せねばならないと考える」「就中《なかんずく》農林行政に関して特に然るのであって、如何なる政党が政権に就こうが、夫れとは殆ど没交渉に、行政自体は其の独自の建前を持って居る。否、日本農業に於ける其の歴史性を貫く基調こそ如何なる政党をも否応なしに夫れを納得せしめ、其の上に立つ政務のみ之を行うを得しめて居るのである」(石黒『農林行政』、以上引用は大竹啓介編著『石黒忠篤の農政思想』農文協刊より)

 政治の公共的性格とは、別な面から言えば行政の持続性のことである。それは民の歴史性・持続性(この場合日本農業の)とかかわる行政の持続性だ。だから、行政(官僚)が、時の強者(こんにちの日本では大企業など)や政治権力(内閣)からどれだけ相対的独自性を確保できているかが政治の(行政の)公共的性格をはかるモノサシでもある。

ヨーロッパの政治の高い公共性―農業への態度で差がわかる――農業への態度で差がわかる

 戦前に、政治の公共性がかかわる根本問題が農業の問題であった、と述べた。そして、このことは、こんにちにも通用する。それは、農業・農家が社会的弱者であるというばかりではなく、農業の問題は、いま危機にさらされている地球の自然をどうするかという環境問題でもあり(本号七二頁)、また身体自然の健康問題にもかかわる。いまや、人びとの生存基盤と生命のゆくえを左右する根本問題である。

 この根本問題に対して政治・行政がいかなる立場に立つかで、深刻な意味での政治の公共性の程度が明らかになる。まさにリトマス試験紙なわけだが、ヨーロッパの政治は、いま非常に高い公共性を示し始めている。しかも、そうした政治の公共性に、財界すらも同調している。

 今村奈良臣東京大学教授は「農業の“非効率”に財界を含めて国民的合意」と題して最近の西ドイツ農政の様子を大要次のように紹介している(『現代農業』七月増刊号『世界の農政は今――食糧・環境問題への挑戦』農文協刊)。

 ――西ドイツは先進諸国の中では日本と非常によく似た経済・貿易構造をもっている。その西ドイツが日本と異なり、なぜ農業・農村を重視するのか、かねがね疑問に思っていた。西独農政審議会の会長でもあるヘンリックスマイヤー博士にたずねたら、博士はまず、西ドイツ農政の基本路線は三点に集約できると述べた。

 (1)基本食糧については将来とも自給率を八〇〜九〇%に維持する。

 (2)農業の効率化は図るものの農民的家族経営の所得維持を重視する。

 (3)農業のもつ外部効果(国土保全、水や緑資源の維持、景観の保全、地域経済の活性化など)を重視する。

 そこで私は次の質問を出した。そういう農政の路線には財界や納税者から批判や反対は出ないのか、と。博士はにこりとして次のように答えた。

 西ドイツでは、国民経済に占める農業の地位は、現在では国内純生産(GDP)の二%程度でしかない。そういう中で、農産物の過剰問題などの農業の非効率が例えば二〇%あったとしても、それはGDP全体からみれば、わずかに〇.四%にすぎない。これを許容するかどうかということが西ドイツ農業の維持存続にかかわるが、西ドイツの財界や産業界は許容すべきである、という方針をとっている。――

 このような例は西ドイツばかりではない。

「新たな展望与えられる山地農業――農業の多面的機能との関連で位置づける試み」(フランス)、「美しい農村景観をもつ先進工業国」(ルクセンブルグ)、「家族農業の育成を軸にした“緑のヨーロッパ”めざすEC共通農業政策」(EC)、そしてパキスタンのような途上国でも「ハイコストの自給めざすパキスタン農政」なのである(いずれも前記『現代農業』七月増刊号『世界の農政は今』から)。

 このように、先進国の多くは、農業を単に農家・農村の問題としてでなく、人類生存の糧の問題、生きる場(自然)の健全さの問題、心を育む教育の問題として位置づけている。これを国づくりの基本に据えることによって、政治の現代的な公共性を発展させているのである。

 ひるがえって日本の政界はどうか。財界の要求するままに、相もかわらぬ貿易摩擦解消のための国際化路線、国内農業つぶしの段階にとどまっている。公共性において、一〇歩も一〇〇歩も遅れをとっているといわねばならない。

 かかる状況にあるとすれば、今や政治の公共性を創りだすのは、私たち民衆の一人ひとりの肩にかかっているといわざるを得ないのではないだろうか。

暮らしの歪みをただす活動で政治を変える

 民衆が政治の公共性を創り出す?――そんな大上段なことができるのか、と思われるかも知れない。しかし、政治というものは、つまるところ(お上の言葉でいえば)民生の安定、(庶民の側からいえば)暮らしの充実をもたらすための手段であるはずだ。そう考えれば政治の公共性を創っていく契機は身近なところに取り上げ切れないくらいたくさんある。医(健康)、食、農、教育、今の日本には「豊かさ」ゆえの暮らしの歪みが至るところにあふれている。歪みをただす多彩な活動を地域の隅ずみから起こしていく。その蓄積がやがて政治の大きさ枠組みにぶつかり、それを変える力に育っていく。

 一例を食の問題でみてみよう。

「安くておいしくて安全なおコメを食べたい」――そんな組合員の願いに応えて名古屋勤労者生協が取り組んだのは、自県産米の自主流通米と政府米を組み合わせたブレンド米(混米)を販売するということだった。この独自ブレンド米「愛知の米」は自主流通米七〇%、政府米三〇%という混米だが、発売後大いに人気を呼び、わずか一年で同生協のコメ取扱量の二六%を占めるに至った。人気の秘密はブレンドされるコメが(自)(自主流通米)も(政)(政府米)もすべて県内産という”身元確かなコメ”であることと、そのきめ細かなブレンド技術にある。

 愛知県では、(自)はコシヒカリもつくられてはいるが、それ以外に各地域の気象・土壌条件に合った、つくりやすくかつおいしい(自)が早生から晩生までたくさんある。名勤生協の独自ブレンド米は、その多種類の個性と穫れ時の違いを生かし、年じゅうおいしく食べられるようにつないでいく。これに組み合わされる(政)もやはり自県産の日本晴。日本晴は県内で広範に栽培され、味もまずまずの品種である。

 主婦連の調査によると今消費者がいちばん多く買っているコメは、一〇kg五六〇〇円のものだそうだが、名勤生協の独自ブレンド米は年間おいしく食べられる“人気商品”でありながら四四六〇円。その差一一四〇円はじつに二〇%「消費者米価値下げ」である。

 このような自県産ブレンド米、地域ブレンド米は、安全なおコメつくりにも最適だ。今、各地に広がる農家の減農薬稲作は、一般にうまいコメといわれる“全国区銘柄”より、その地域に適した品種(多くは(政)米)のほうがつくりやすいからだ。地域の適品種を適期につくれば自ずと減農薬のほうに向う。そうした米がブレンドされていくことが同時に消費者の「安くておいしくて安全」の願いに応える道にもなる。

 そして実は、このような道を開いていく活動が、政治の公共性を創りだしていく道にも通じるのである。それは、減農薬稲作が広がり定着していくことは、政治の幅広い転換を促すことにつながるからだ。

 減農薬稲作には、従来のコメつくりより多くの時間と労力がかかる。農薬は、農家がそれまで以上に田んぼの虫を見、あるいは土つくりにかける手間と時間を惜しまねばそう簡単には減らせないからだ。だから、減農薬稲作を定着させ広げていくには銘柄米傾斜の奨励金から減農薬稲作の奨励金への一大政策転換が必要だ。この政策転換は、衣を変えたコメ補助金ではない。内外から非難の的にされる「農業保護」ではない。農家も消費者もない、国民全体の健康を守る現代的保険・衛生事業資金であり、子々孫々まで健全な食糧生産のための農地と自然を守る、環境保全資金である。農薬散布回数の少ないコメつくりや野菜つくりなら体の弱いお年寄りも取り組める。その意味では、たとえば高額な有料老人ホームにお年寄りを集めるよりはるかに生きがいを感じてもらえる、優れた高齢化社会対策事業でもある。

 このように、おいしくて安全な食糧をという消費者の願いと、自らの体にも農薬をあびることの少ない稲作をという農家の願いを実現していく活動は、狭い意味での稲つくりやコメの味の問題にとどまるものではない。より広く、健康や医療、地域と国の自然を守ることに通じるし、老後を生き生きと暮らせる高齢化社会をつくることにも通じていく。

 政治と一見関係がない、暮らしの充実を求める一人一人の活動が、政治の公共性を回復する大きな底流となるのである。それはまた、〇・四%の“非効率”を、食糧自給率の向上や国土の保全、地域経済活性化のためには当然許容されるべきものだとする先の西ドイツ農政の公共精神と脈絡を共にするものでもある。

 政治の公共性を、一枚の投票用紙に託すだけでなく、私たち自信の多様で着実な地域活動によって実現しよう。

(農文協論説委員会)

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