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農文協トップ主張 1988年04月

地域内に農、工、商のネットワークを
遠まわりのようで、じつは近くて確かな道

目次

◆売り方が変われば生産の仕方も変わる
◆食と農のもつ特性を地域の中でつなげる
◆農−工−商のネットワークを地域につくる
◆地域ネットワークは地域情報から

 「朝市を一〇年やってきたけれど、これが面白いんだよなあ」と、佐藤さんは目を輝かして語ってくれた。

 佐藤さんは、近所の母ちゃんたち五人と一緒に町の農協の前で朝市を始め、この一〇年間、毎週一回、地元の消費者を相手に野菜や漬物などを供給し続けてきた。「無農薬」「有機野菜」といった、特別のいわく付きの野菜というわけではない。季節の露地野菜や漬物を地元の人に食べてほしい、という素朴な気持ちで始めた朝市が一〇年も続き、確かな手応えをもち始めたのである。

 今日、農業をめぐる状況は明るくない。なのに、なぜ、目が輝いてしまうのか。

売り方が変われば生産の仕方も変わる

 佐藤さんは言う。

「一〇年もやってくると、週一回のその日に買わないと手に入らないということを消費者がわかってきて、私らを待っていてくれるんだ。そして一週間分買っていく。待っていてくれるということは、農家にとってすごい励みだよ」

 消費者が待っていてくれるほどに好評なのは、新鮮だということはもちろんだが、直売を通して、消費者に「味へのこだわり」が生まれているからだ。その筆頭は、地カブと枝豆である。地カブの需要は急速に伸び、今も大きな比重を占めている。あるいは、「五つ葉豆《いつつつばまめ》」。この地独特の赤毛の豆で、見栄えは悪いが味がよい、ということを地元の者なら皆、知っている。「こういう売り方をしていると、在来種がかならず必要になる」と佐藤さんは言う。そこの風土で育まれた、そこでしか穫れないものに対する味のこだわりが、住民の中につくられ、それが朝市を支えている。

 こうして、売上げはだんだん伸びてきた。乱立する郊外店に客を奪われた隣接する市のデパートからは、週一回、テナント方式で店を出してくれ、と要請がきた。固定客をつくるのに、朝市のメンバーの力が必要だというわけである。町が東京で特産物のフェアを行なうにも、多品目少量生産を行なうこの朝市グループに声がかかる。最近では、このグループに期待を寄せて、学校給食に郷土食を、という動きもでてきた。

 母ちゃんたちは、すばらしい技能をもっている。漬物の漬け方はもちろんのこと、漬物の素材のよしあしを手に持ったとたんに判断できる。朝市を機に、母ちゃんたちは、秘めていたその力を発揮し始めた。すっかり姿を消していた在来種や昔ながらの農産加工品が、「あれはどうだろう」「これはどうだろう」と皆から出され、次々に復活し始める。六人の仲間がつくるものは、一二四種にも増えてしまった。その結果、無駄がなくなり、畑がフルにつかわれる。

 ひとの力にたよるのでなく自分の力で売る。売りたいものを売りたい値段で売る。売りたいものが広がるから生産のしかたも働きかたも変わる。そこに、生産者がリードする形での関係が生まれる。

 消費者のいいなりになる関係でない。生産者と消費者の関係ではなく、地域住民同士の呼応関係ができてくるのだ。

食と農のもつ特質を地域の中でつなげる

 このように、地域内に生産と消費を分け持つ住民同士の呼応関係が築かれていくとき、食と農が本来の姿を取り戻す可能性が開かれてくるだろう。

 農業生産は、もともと自然の力に依拠しており、自然と人間との間で仕事を組んでいかなければならない数少ない仕事の一つである。人間が創意をこらせば、自然は水と土と太陽の力を生かし、作物を育んでくれる。地域ごとに独自の姿をしている自然の力が、地域ごとに生かされて作物が健康に育ち、個性的な味、安全な食べものが生み出される。地域の農家が、このようなかたちで本来的な食べものの生産を取り戻していけば、おのずと地域住民全体の食生活をまともなものに変えていくことができるのである。

 食べるということは、本来、地域の農業生産と結びついて成り立つものだった。それが今日では過度にシステム化され、流通や情報を通じて管理されるようになった。安いという一点で外国から輸入される食べものが供給されるのである。

 地域の農業生産が変わり、地域内での流通が盛んになれば、食生活もシステムの管理から自由になる。地域の生産と消費が結合することによって食生活はかわる。地域の結合をリードするのは消費の側ではなくて生産の側である。日本全体の食料需給から考えるのでなく、一人一人が住む地域の食料需給から考えていけば、最後には必ず、日本人の食料は確実に日本の農業によってまかなわれるようになる。遠い道のようにみえて、じつはこのほうが近く確実な道なのだ。

 今日、産直や宅配便などによる、大都市と農村との直接的な物流が盛んであるが、これについては地域的流通の余りのお裾分けという位置付けが必要ではないだろうか。現在の巨大都市住民の産直は、安全で品物がよいとされる「差別化商品」を、つまみ食いする風もないではない。産直でかえって農家の不自由さが増しているような事例も少なくない。巨大都市の流通業者の言うがままに“ニーズに応えた”ために、かえって依存の状態になって自分の農業ができなくなってしまった例、消費者組織になまなかな知識で生産のあれこれまで指示されている例などを、どう考えたらよいだろうか。

 地域内の流通では、このような一方的な押しつけは起こりえない。そこでは、地域自然をよりよく生かしていくという「農の立場」が優先される。地域には地域の上手な作物の組合わせというものが必ずある。たとえば、米―里いも―米という水田の輪作で、里いもに稲ワラを敷いてやれば、堆肥をつくる手間をはぶきながら地力をつけることができる。里いものあとに米でなく、野菜をつくるときは、無肥料でいける。里いものあとに麦をつくれば、麦の後作の肥料が減らせる。里いも後に草をはやし、春に緑肥としてすき込んでトマトをつくる方法もある。農家は、自然の力を利用して、耕しつつ、作物をつくりつつ、田畑を肥やしていく。豊かな土で作物が健康に育てば、農薬も減らせる。

 こうして、農家が地域の自然とかかわる中で築き上げてきたさまざまの知恵がいかんなく発揮され、その結実が消費者に分かち与えられる。売り方が自由になり、作り方の発想も自由になるとき、そこに安全な食べものや本物の味が生まれるのであって、その逆ではない。

農―工―商のネットワークを地域につくる

 このような生産と消費の地域的な結合は、朝市の例のような直接的なものに限らない。 地域の中には米屋があり、八百屋があり、肉屋がある。あるいは、豆腐屋、味噌屋、漬物屋、製麺・製パン・酒造など、さまざまな業者がいる。これら、食品流通や食品加工に携わる人々の中にも、本物の味にこだわり、まともな食のあり方の実現に心をくだいている人が少なくない。このような地域の業者、職人の力を借りて食をめぐるネットワークを築くことによって、地域の生産と消費を有機的に結合していくこともできる。

 本号でも紹介している山形県の仁藤商店は、地元の農家がつくった大豆をつかい、自然塩ニガリをつかって本物の豆腐をつくり、消費者に届けている(七六頁参照)。

 今、一般に売られている豆腐はどうかというと、歩留まりを高め生産性を上げることばかりに腐心してきた結果、とても豆腐とはいえない代物になってしまった。自然塩ニガリの代わりに硫酸カルシウムを使うと、歩留まりは二倍以上になるが、煮るとスカスカに「す」が入り、お湯の中で浮いてくるようなものになってしまう。

 このような豆腐が大手をふって出回るのを許しているのは、一つは、消費者が豆腐の料理技術を失い本当の味を忘れてしまったからではないか。仁藤さんは、豆腐料理の講習会を精力的に開き、消費者の教育に励んでいる。

 原料の大豆は、国産大豆が六割、輸入ものが四割。国産一〇〇%の豆腐を買う消費者ばかりではないために、国産―外国産の比率の違う豆腐を幾通りかつくって売っているが、原料の六割を占める国産大豆は地元の農家と無農薬栽培の契約をし、仁藤さん独自の奨励金を出して買い上げている。できた大豆は、クズも紫斑病の大豆も虫食いもすべて引き取る。虫食いのなどは、かえって味がよい。紫斑病の色が気になるなら揚げにつかえばよい。素材を見てそれぞれに生かしていくのが、加工のプロというものだ。

 なぜ国産大豆なのか、仁藤さんの答えは明快である。アメリカの大豆は、油にするのを目的にもっぱら増収を追求しているため、小粒で糖度が低いからだという。そのアメリカ大豆からつくられた荒れた豆乳をも固められるのが、先ほどの「ニガリならぬニガリ」=硫酸カルシウムだというから、原料、味、作り方が全部つながっているわけである。

 仁藤商店は、地域の生産者と消費者の間にあって、両者のまともな関係をつくりあげるうえで重要な役割を果たしている。加工なら加工という己の仕事を誇りをもってまともに行なうことが、そのまま消費者を教育し、生産者と密接な関係を築いていくことにつながっていくのである。

 このように、味にこだわり食べものにこだわっている業者は、あらゆる業種に必ずいるはずだ。仁藤さんのような「工業」の分野、朝市にみられるような「商業」の分野で、心ある業者を地域に発掘しあるいは自ら組織する。そのような方向で協同関係を育て上げる。そして、農―工―商間のつながり・ネットワークを地域に築きあげる。

 そのつながりが強まるにつれ、物と金の流れがこれまでと変わってくるだろう。これまでは、物はすべて中央を目指していたのが、まず地域を目指すことになる。そして地域の中で物と金が循環するようになる。これまでの中央指向では、中央で高い値段を実現し「外貨」を中央から地域にもってくる、という発想だった。それがうまくいくうちはそれでも良かったとしても、今や、農産物大量輸入下の「過剰」という状況にあって、発想を逆転しなければならない。地域内に農―工―商の確かな関係を築くこと、それがいま求められているのではないか。

 もちろんそれは、閉ざされた地域の経済をつくろうという意味ではない。地域の需要量に比べて生産量のほうが多いなら、地域の独自性にもとづく個性豊かな食べものを、もっと広い地方段階へ、さらには大都市も含む全国段階に移出すればよいのである。

地域ネットワークは地域情報から

 このような地域ネットワークをつくるうえで必要なことは、自らの力で地域的な情報を集め、蓄えることであろう。

 農―工―商の提携をおし進め地域の食べものの自給度を上げるために、現在どのていどの自給度かを調べようとしても、地域にはそういうデータがない。地域の基礎データは県・地方・国へと吸い上げられて集計され、その集計結果が地域で使われるという形になっているからである。その際の基礎データのとりかたも、異なる業種間のネットワークというような問題意識は初めからないために、種々の統計類を横につなぐことは容易ではない。国の食料自給度は出されていても、地域の自給度は容易に出せない仕組みになっているのである。

 中央から地方に目を向けかえるために、まず取り組むべきことは、地域独自のデータを集めることである。今、この地域に何がどのくらい移入され何がどのくらい移出されているのかを調べ、移入されているものを地元産のものに置き換えていく計画を立てる。さらに、農―工―商のあらゆる分野で心ある人びとを発掘し、横につなぐことである。もちろん、消費者にも働きかける。地域の情報を集め、地域の人びとをつないでいくうえで、自治体や農協は大きな役割をもっているといえよう。

 このような地域情報の集積から、物と金の地域内循環が始まる。生産―消費の確かなつながりと呼応関係のもとで、生産が変わり、消費が変わり、地域独自の暮らしに根差した文化がそこに生まれる。そして、自立した地域と、地域に支えられた都市との有機的関係が展望されるのである。

(農文協論説委員会)

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