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農文協トップ主張 1988年02月

ガット精神を食糧品の輸出入に生かす道

目次

◆何がガットの基本問題か
◆ガットの基本精神と自由貿易
◆農産物自由化はガット精神にそぐわない
◆変りつつある世界の農業政策の基軸
◆食べものは飢えに苦しむ人に届けよ

何がガットの基本問題か

 昨年来、アメリカが提訴した日本の農産物の輸入制限問題がガットでとり上げられ、紛糾している。だが、今ガットでとり上げるべき世界の食糧輸出入上の基本問題が、日米間の問題だといえるだろうか。

 たしかにアメリカは食糧の過剰在庫を大量にかかえ農業恐慌の状態に陥っている。そしてそれに日本の貿易収支の黒字という側圧も加わって、アメリカによるガット提訴と今回の「違反」裁定になったとは言えるだろう。

 しかし、一九八〇年代、アメリカを筆頭に、世界の食糧が過剰時代を迎えたというが、では、本当に世界に食糧があり余っているかと言えば、決してそうではない。アメリカのように農業を輸出産業と位置づけている少数の国の在庫が過剰なのであって、世界全体を見わたせば、食糧は過剰どころか不足しているのである。

 一方に食糧が余って苦しんでいる国があり、他方に食糧の不足と飢えに苦しむ国がある――ここにこそ現代の問題の核心があると思うのである。

 こういう事態を、“世界貿易の拡大を通して人類の平和に寄与する”というガットの基本精神に照らしてみれば、不足と飢えに苦しむ国に、「過剰」に苦しむ国の食糧をどう輸出するかということが、ガットの最も基本的な課題ではないだろうか。論議すべきは、貿易収支の黒字、赤字などという金もうけの次元の話ではないはずだ。食べものは飢えている人々に届けるのが基本であり、“平和実現”の国際機関としてのガットの本来的任務はそこにある。今日の世界の食糧事情とそこでも輸出入のあり方について、ガットの基本精神を生かすにはどうしたらよいのか、この際、しっかり考えねばならない。

ガットの基本精神と自由貿易

 ガットは、自由貿易の原則にのっとり、世界の国々が互いに市場を開放し合うことを促進するという目的で、第二次大戦後、アメリカの主導でつくられた。そのことによって世界の貿易を活発にし人類の平和に寄与する、という基本精神のもとに、自由貿易の旗がかかげられたのである。そこには、戦前、世界恐慌の中でそれぞれの国が保護貿易主義をとり閉鎖的になったことが、海外の資源や市場の争奪戦を誘発し世界大戦を招いた、という反省があった。だから、植民地、市場を奪い合うのでなく、各国がお互いに市場を開放し合うことによって、お互いに経済発展をとげていこう、というわけである。

 その際の、相互の市場開放の考え方は、「比較生産費原理」の上に立っている。つまり、それぞれの国で効率よくつくられる産品に生産を特化して、それを互いに交換し合えば、効率のわるい産品の生産はそれぞれに縮小ないし中止され、そのことによって全体としての生産効率が最も高まり、双方とも一層の経済発展をとげ豊かさを享受できる、という経済学上の原理である。

 早い話が、コンピューターや自動車の生産効率が日米で違っていて、日本でコンピューターをつくれば一〇〇万円の値段になりアメリカの製品は五〇万円だとする。いっぽう自動車のばあいは、日本でつくれば五〇万円ですみアメリカの製品は一〇〇万円だとする。そうすると、日本はコンピューターの生産をやめて、その力をより効率的に生産できる自動車に傾け、コンピューターはアメリカから輸入すれば、従来、国内産のものを一台買った時の支出額一〇〇万円でコンピューターが二台買えることになる。他方、アメリカの方も、自動車の生産をやめてその生産をコンピューターに特化し、自動車を日本から輸入すれば、従来の一台の支出額一〇〇万円で自動車が二台買えるようになる。コンピューターや自動車をつくる生産効率が上がったわけではないのに、日米合わせた生産効率は高まる。そして、今の例ではそれぞれの国民は、従来の所得のままでも二倍モノが買えるようになる。

 こうして貿易と国際分業は全体としての生産効率を高め、国民の暮らしを豊かにする。そのうえ、当然、それぞれの生産の場で技術革新が行なわれてゆくから、両国の経済は二倍、三倍、五倍、と飛躍的に発展することになる。これが「比較生産費原理」であった。

 このような考え方にもとづき、ガットは市場の開放と貿易自由化を推し進め、そのことは第二次大戦後の世界に画期的な好況をもたらした。“各国が豊かになくことによって人類の平和に寄与する”という基本精神は、高く評価されねばならない。

 だが問題は食糧、農産物である。工業製品については自由貿易のメリットは言えても、それを食糧や農業生産に拡張すると、大きな矛盾が出てくるのである。なぜ、食糧については自由貿易主義があてはまらないのか。それは、食べものがもつ、工業製品とは異なる特質が、そうさせているのである。

農産物自由化はガット精神にそぐわない

 食糧がもつ特質を列挙してみよう。

 題一に「人間の胃の腑は一つしかないために、たとえ値段が安くても必要以上に消費ができない。したがって、食糧については自由貿易の有利性が十分に発揮されない」ということがある。

 自由貿易のメリットは、それにより全体としての生産効率が上がり、双方の生産と消費が増大していくところにあった。だが、それは、工業製品にのみ当てはまることである。たとえば自動車の値段が半分になれば、従来の自動車への支払額で自動車を二台買えるようになる。工業製品は、コストが下がり値段が下がれば、それに応じて需要がふえるのである。そういう需要の拡大が、貿易自由化による経済発展の根底にあった。

 ところが食糧は(食糧不足の国は別であるが)安くなっても食糧全体の需要が伸びるということはない。人間の胃の腑は一つしかないために、摂取できる大枠がおのずから決まっているからである。値段が安くても需要が伸びないし、逆に高くても必要な量は消費されるというのが、食べものの特質なのだ。したがって、工業製品のように二倍、三倍と需要がふえ、そのことによって経済が発展するということはありえない。ここに食糧に自由貿易のメリットが生かされない第一の理由がある。

 第二に、「食糧は、それを毎日、食べることによって命をつなぐ“命のかて”である。にもかかわらず、その生産は¥有限の¥土地の生産力に依存しており、工業製品のように、いつでもどこでも思うようにつくれない」という特質がある。

 食糧は人間の生存の根本である。しかし、その食糧の生産は特定の土地を離れてあり得ず、しかも土地は有限である。限界をこえて人口がふえれば、生きられない人間が出る。歴史的に見れば、そこで自動的に人口の調節がされてきた。その点、工業製品は、生産が半分になっても、人が死ぬということはない。

 そういう人間の生存の根本という特質をもった食糧の確保を、人まかせにはできない。世界各国の指導者はそれをよく知っているがゆえに、農業を保護し、食糧自給にとり組んできたのであった。

 第三に「食べものの生産には豊凶がつきまとうために、余るほどつくらなければ不足する。そしてそこに余剰が生まれ、食品加工と貯蔵が必然化する」ということがある。

 食べものの生産は、自然力に依拠して行なわれる以上、天候や病害虫の発生などによって必ず豊凶がある。ということは、食糧の生産においては、余るほどつくらなければ足りなくなるということを意味している。そこに食べものの生産と加工・貯蔵が、これまた¥必ず¥、一体になってくる理由がある。豊作で余ったときに加工して貯蔵し、不作で不足したときにその加工物を食べる、そういう調節があって初めて食糧の自給も支障なく行なわれるからだ。そういう意味で、農業と調理、そして加工・貯蔵は一体のものであった。そしてそこに、個性的・地域的な文化が発生するのである。

 工業製品にこういうことはあり得ない。豊凶など元々あり得ないし、時間と空間から離れて、いつでもどこでもつくられる。そこに生産と加工の有機的連関や、個性的・地域的文化の刻印など見出せない。

 このたび日本が「自由貿易の原則」に反するとされた品目には、野菜、牛乳、肉、その他の加工品がたくさん入っている。この加工品を外国に頼るようになれば、加工の元である農業そのものが崩されることになるだろう。

 そして第四に、食べものの現代的な特質として、「食べものの質、安全性の問題が、人間の生存と直接に結びついている」という点をあげなければならない。

 工業製品と違って、食べものの質は直接目に見えない。放射能汚染や、農薬や添加物による危険も見ただけではわからない。欠陥車ならすぐにわかるが、食べものは判別がつきがたい。そのうえ、毒入りの食べものが三〇年、四〇年先にどのような悪影響を及ぼすかも定かでない。規制のための基準値も、虚弱児にたいしてその基準でよいのいかどうか、毒が複合化したばあいどうなのか、本当のところは誰もわからないのである。

 日本でこの十数年にわたる産直運動から収斂されてきた安全性の保証についての一つの基準は、「顔の見える流通」であった。日本国内ですら安全性を確保するには生産者―消費者の直接的交流が求められているというのに、食べものを外国に依存すればどうなるのか。国際的競争の中で外国に輸出するために、生産コストを安くしなければならない。そこで生産性だけを追っていくと、必然的に食べものの安全性は損われていくのである。日本で許可されていない農薬が散布されたり、長距離輸送のために有害な添加物が加えられたりすることもある。安全性の保証がなくなり、“命のかて”としての意味自体が危くなる、と言ってよいだろう。

  以上、四点にわたって見てきたように、食糧は工業製品と全く異なる特質をもっている。工業の世界においては、自由貿易がそのままガット精神にかない合理性があっても、人間の生存という根源性、食糧=農家がもつ自然性に目を向けたばあい、その合理性は通用しない。工業において合理性があった自由貿易は、農業においては背理に転化するのである。

変りつつある世界の農業政策の基軸

 食糧=食べものというものを工業製品と同じような目で見ることはできない、ということが、今、世界で認識され始めている。そして、その最先端では、農業政策の基軸が大きく変りつつあるのである。

 その典型的な例が、農業を生産性からとらえることを否定し、「過剰生産の防止」「自然の保全」「農産物の安全性の確保」を主眼におく、ECの新共通農業政策である。中村耕三氏)「西欧における有機農業の新展開」)によれば、穀物、ぶどう、牧草の三品目の栽培において減肥・減農薬の栽培を農政として進め、その結果、売上げ高が二〇%以上減った農家にECから「減産補償金」が支払われるのだという。

 思いつきで減肥・減農薬が出てきたのではない。有機農業を信奉しているからでもない。ECの新農業政策は、食糧自給の達成という成果の上に、その課程で生じた問題点を克服し、まともな食と農を実現する方向で策定されているのである。その問題点とは自給の結果としての「過剰」であり、近代的農業技術による安全性の問題であり、将来的に農業生産を危くする農業生態系の悪化であった。

 ここでは、食べものを生産性の観点だけから見る見方が克服されている。人間の生存の根本である食と農が、食の安全性と農の生産基盤の確保という、きわめて本質的・長期的な視点からとらえられ、それが新しい食糧自給政策として具体化されている。そしてそのことが同時に、過剰問題を解決する方策にもなっているのである。

 その際、小農=家族経営というものが、その担い手として、しっかり位置づけられていることにも注目されねばならない。つまりECは、企業的農場はもともと長期的な生産力維持などに無頓着であることを知っており、価格引下げによって小規模家族経営の脱農と企業的農場の規模拡大がすすめば、多肥・多農薬栽培、重量機械の乱用が一層進み、過剰生産と環境破壊がさらに拡大する、と読んでいるのである。こうした洞察にもとづき、アメリカとの裸の競争に身をさらし構造政策で小農の首を切るのでなく、食を守り農を守り、国土を守るには、小農が広範に存在することが必要だという。このような小農の位置づけの上に、過剰対策のために農産物価格を引き下げても、それが農家の脱農につながらないように、ECが補償金を出すというのだ。

 世界の食や農をとらえる目は今、確実に、大きく変わろうとしているのである。

食べ物は飢えに苦しむ人に届けよ

 一方に食糧の過剰に苦しむ国があり、他方で飢餓に苦しむ国がある。という基本矛盾の解決も、このような食べものを見る目と農政の潮流の変化の中でもう一度とらえ直してみることが必要であろう。

 “命のかて”としての食糧はどう売るかでなく、どう分配するかが基本問題なのである。「過剰な」食糧を、カネのある国に無理に売りつけようとするから、さまざまの軋轢が生まれるのだ。今、「過剰の」食糧を日本が全面的に受け入れるならば、世界の食糧はたちまち品薄になり、価格が高騰して、不足に悩む国はますます入手できなくなるだろう。食べものは、飢えている人々に届けるのが基本であり、それを措いて人類の平和も何もない。

 そういった意味から、ECの新農業政策とともに注目すべき動きとして、今、日本で始まった救援米の運動がある。全日農と中央労農会議、マザーランド・アカデミー(子育てに責任を持つ母の会)が手を組み、過剰米を海外に無償援助する運動である。六十一年度は、三四府県から約七〇tの米が集まり、横浜港からアルジェリアに運ばれた。政府も、その米が生産された田を減反田としてカウントするという形で、この運動を支援している。民間、政府が一緒になった画期的な運動と言えないだろうか。

 過剰在庫をかかえるアメリカ、米が過剰な日本は、GNPが自由主義諸国で一位と二位の国である。真の平和のために、その力をもってして食糧を世界的な規模で不足の国に援助することが求められている。アメリカは、食糧の輸出競争力をつけ世界の市場に食い込むために現在つけている膨大な輸出補助金を、それに当てるがよい。そして日本は、もし日本への自由化が決まったら日本農業救済のために様々必要になるであろう自由化対策用のカネを、それに当てればよい。

 日本のせめぎ合いの中でつかわれている(つかわれるであろう)カネを充当し、食べものを本当に必要としている国に援助すれば、食糧過剰国の苦しみはたちどころに解決し、飢えに苦しむ不足の国も救われる。食糧不足に悩む後進国はそれを土台に、食糧自給を進め、経済振興に、取り組むことができる。

 世界の先進国が変われば、後進国もかわる。「過剰」の処理のし方を誤れば、先進国同士の対立はもちろんのこと、先進国と後進国の亀裂は深まる。貿易を土台に世界各国の経済発展をはかり、人類の平和に寄与するというガットの高遇な精神は、こと食糧品貿易に関しては、競争でなく協調の精神で、余剰と不足を相補う貿易(援助)を推進する方向で、生かされねばならぬ。その第一歩は、工業生産物と農業生産物の根本的相違の認識から始められなければならない。

(農文協論説委員会)

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