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農文協トップ主張 1987年09月

消費者教育を農家の手で
まずは地域のなかから始めよう

目次

◆味のバラツキ=個性を嫌う都会人
◆工業の期待に農業は応えつづけた
◆応えたあとにきたものは、味の注文
◆都市の食生活にみられる2つのふしぎ
◆単に「ニーズに応える」だけでなく……

味のバラツキ=個性を嫌う都会人

 これからの農産物は味の時代だというが、どうも事態はもっと複雑で深刻のようだ。

 現在の、都会での食生活は、単なる美味ではなく、一方で味の不変を求め、一方で新しく珍しい味を求めている。

 生鮮食料品の味は、基本的に天候に左右されるものである。雨の多い年のモモは水っぽいし、カラ梅雨の年のモモは味が濃くておいしい。もちろん、鮮度も影響する。トウモロコシの味は、もいで数時間のうちに落ちてしまう。品種による味のちがいもあるし、栽培法によるちがい、地味によるちがいもあろう。

 さまざまな要因によって、農産物の味にバラツキはつきものである。均一性をいのちとする企業製品とはわけがちがう。農産物に均一性・不変性を求めることはできない。それが農産物の本質である。不変でなく可変=個性こそが農産物に備わった基本的な特徴だ。

 それなのに、現在の都会人の舌は、味のバラツキ=個性を嫌い、不変を求める。

 味が一定で変わらない食べものは、加工食品である。ミカンにはすっぱいものもあれば甘いものもある。しかしオレンジジュースは、同じ銘柄ならば、いつも同じ味である。味の不変を求めれば、勢い、加工食品の利用に傾いていくようになる。

 一方、新しい味、珍しい味を求める傾向は、いわゆる食のファッション化として生まれる。中国野菜ブーム、山菜ブーム、そしておふくろの味もまた、珍しい味を求める動きの中でのブームといってよい。この傾向はやがて「差別化食品」への期待を生み出す。「差別」は品種や生産方法によって生まれる。何らかの点で、一般の栽培飼育方法とはちがった方法をとっている(とされる)ものである。完熟トマト、黒ブタ、地鶏、有精卵、有機野菜、その他もろもろ。

 味の不変を実施する加工食品と一味ちがう差別化食品とを、同時に求める現在の都市の食生活は、ずいぶんぜいたくなものだと思う。

 しかし、そのぜいたくさをあげつらうのはこの際やめておこう。ここでは、なぜ、そうなったかを考え、それにどう対処したらいいかを考えてみよう。

 まず、戦後四十余年の食生活の変化、食糧の生産と消費の関係の変化をたどってみる。

工業の期待に農業は応えつづけた

 昭和三十年にわが国の稲作は、戦後十年にして初めての大豊作となった。好天候に恵まれたのもさることながら、農地改革によってスタートを切った小規模自作農民の増産への努力がようやく実ったのだといってよい。この年を境に、戦後数年間の文字通りの飢えの時代と、その後のやや長い不足時代は終わった。

 その後しばらく、生産と消費はよい関係にあった。需要と供給のバランスがとれていたというだけではない。大都市は大都市なりに、小都市は小都市なりに、近郊の農業が栄えて、おのずからの地域経済が成り立っていたのである。そこで、生産者と消費者は、あまり意識しあうことなく、いわば「自然態」で関係できた。つのつきあわせてうまいまずい、高い安いの議論をすることはなかったのである。そして、都市の食生活は貧食でも飽食でもなく、つつましい安定をみせていた。

 だが、この時代は長くみても昭和四十年代の半ばまで、短くみれば昭和三十年代の半ばまでしかつづかない。昭和三十年代の後半になると、生産と消費の関係はしだいにかわってくる。工業の成長によって、農業も、農村も大きな変化を余儀なくされたからである。

 高度経済成長の道を進むために、工業(都市)が農業(農村)に期待したことが三つある。まず、それをはっきりさせておこう。

 第一は、労働力を工業に提供すること。

 第二は、工業生産物を購買すること。

 第三に、急増する都市人口に対して、大量の食糧を不安なく供給すること。

 この三つである。農業は期待にどう応えたか。

 第一点は、当初はいわゆる潜在失業者を吸収する型をとり、それは農村の次・三男問題を一挙に解決した。しかし、都市の吸引力は激しくて、やがて経営主までが季節出稼ぎに出ることになる。そして、後には工場の農村進出によって、多くの農家が兼業化した。

 第二点、農村を工業生産物の市場とするためには、まず農村の購買力を高める必要があった。それまで凍結状態だった生産者米価が年々引き上げられるようになった。その背景には、農村の購買力向上というねらいがあったのである。その効果は、まず、都市の後追いの型でテレビ、洗たく機、掃除機、冷蔵庫などの耐久消費財の購買となって現われ、やがて、それは生産財に及んでいく。わが国の耕地の実情に合った田植機や収穫機が四十年代当初にほぼ実用化されると、圃場自体の整備事業とあいまって、農業近代化政策が本格的に展開していく。農村は、機械・土木・建設産業の一大市場となった。

 第三点、急増する都市人口に対する食糧供給を不安なく行なうという期待についていえば、これは高度成長の初期には、かなり無理なことだった。農村から人が減り、残った労働力だけで旧来の農法(手植え・手刈り)をつづけることはできない。各種農業機械が実用化するまで、人手不足が全国の農村を覆って、安定供給はかなりむずかしくなってきた。昭和四十年前後には米は不足ぎみで、年間一〇〇万t前後が緊急輸入されている。そして各県で増産運動がくりひろげられた。また、このころの青果物の高値の背景には、都市の膨張による都市近郊農地の潰廃があった。野菜供給の安定のために、大量生産・遠隔輸送システムの早い完成が望まれた。そのために、主産地形成の政策がとられる。

 工業の、農業に対する三つの期待――それが、農業近代化政策をとらせ、近代化は、その限りで成功し、昭和四十年代半ばには、第三の期待もかなえられる。米についていえば、不足基調は過剰基調に代わり生産調整(減反)の政策がはじまった。

 こういうわけで、昭和三十年の豊作を契機に成り立った、地域単位の生産と消費の「自然態」の関係は、三十年代半ばからくずれはじめ、四十年代半ばには、まったく成り立たなくなったのである。

応えたあとにきたものは、味の注文

 主産地形成とは、単一の作物、または家畜を大量に栽培飼育する地域(産地)をつくるということだ。主産地形成をすすめるにあたって、適地適作という言葉がつかわれたが、この言葉の本来の意味は、谷一筋、田畑一枚の違いで微妙に変わる土地柄にきめこまかに気配りをして、つくるものをいろいろに組み合わせるということである。

 ところが、主産地形成の政策では、適地はブロック単位で発想された。「農業生産の地域分担」といい、北海道は畜産、東北は米というような具合である。だから「地域分担」とは、国際分業論に見合う、国内分業論だったのである。

 国内分業による主産地形成は、食べものの生産と消費の地域性をこわした。大量に生産してより遠くへ大量に運ぶ。そうしたなかで大都市の食生活はバラエティに富むものとなり、一見豊かな飽食の時代がやってくる。

 もはや、都市の食糧不足への怖れは、まったくなくなった。そして消費の側の、生産の側への注文は、もっぱら味の問題になってくる。

 味についての注文は昭和四十年代から始まり、五十年代前半までつづく。注文が最も厳しかったのは米である。昭和四十四年に自主流通米制度が発足した。消費者米価の値上がりに対する反対の声もあったが、高い自主流通米がよく売れ、安い標準価格米が売れないことで、消費者は価格より味を求めることが証明された。おいしいものは高くてもよい、という時代がやってきたのである。

 それは別にふしぎなことではない。潤沢に食べものがあれば、よりおいしいものを求めるのは当然だし、多少高くてもそうするというのならば、それだけ生活に余裕もできたということだろう。生産の側が、消費の側の品質へのニーズに応えるというのは、それなりに筋の通ったことではある。

都市の食生活にみられる二つのふしぎ

 しかし、昭和五十年代も半ばになると、都市の食生活には、ふしぎな現象が起こってきた。“おいしいもの”とは何かが、はっきりしなくなってきたのである。街に食品が豊かにあふれて、都会人の舌がくるってきたのかもしれない。昔ながらのものがおいしいというわけにはいかなくなった。

 赤いトマトより青いトマト、固いトマトのほうがおいしいと感じる人たちがいる。納豆にチーズを刻んで食べるとおいしいと感じる人たちがいる。イチゴ大福という、大福の中にイチゴが丸ごと一個入っている和菓子が流行する。

 食習慣というものはかなり保守的なものだと考えられていたのだが、そうでなくなってきた。単においしいものを求めるのでなく、風変わりなものが求められだした。食の世界にもファッションのような流行が生まれる。新しいもの、珍しいものへの期待である。

 そして、もう一つのふしぎは、書き出しに記したように、味が一定で変わらないこと――味の不変――が求められるようになったことだ。地域単位に農産物の生産と消費が結びついていれば、雨の多い梅雨だから、ことしのモモはほどほどの味でもガマンしなくては、ということが消費する側にも納得がいく。不作だから高いのはしかたがないということも、とりたてて説明がなくても納得がいく。もぎたてのトウモロコシを賞味して、農産物の品質というものの微妙な成り立ちを知ることもできる。

 だが、大都市での生活は、農産物と工業製品とのちがいをわからなくする。農産物が生き物である以上、個体差があるのは当然ということが意識にのぼらなくなってきて、食べものに対して、たとえば石けんやトイレット・ペーパーに対するのと同じように、品質の均一性・不変性を求めだした。加工食品が隆盛する背景の一つがそこにあった。飽食時代の消費の側には、味覚のうえで、加工食品に対する心理的・生理的な受け入れ体制が整っていたのである。

 大都市の消費者が単に美味を求めるだけでなくなったことは、いわゆる「健康食品」の異常なブームによってもわかる。

単に“ニーズに応える”だけでなく…

 農業は、高度経済成長期からゼロ成長時代といわれる今日まで、消費の側からの期待や要求に、よく応えてきた。無理を重ねて応えてきた。高度成長の初期には安定供給、後期には生産調整、ゼロ成長時代には品質の向上。そして今、味の不変と差別化食品が求められている。

 これに応えられるだろうか。

 今度という今度は応えられない。無理な注文というほかない。

 味の不変に応えることは、農産物の本質から言って無理だし、差別化食品は、それが他とちがうから差別化されるので、すべてが差別化されれば、それは差別化食品ではなくなってしまう。珍しい味も大量流通されれば珍しくなくなってしまうし、新しい味も、一巡すれば旧い味になってしまう。

 どうするか。

 いまや、ただやみくもに、“消費者のニーズに応える”のではなくて、生産の側から“消費者教育”をしなくてはならない時代になった。そうしないと、不変の味を求めてますます加工食品が隆盛し、珍しい味を求めて輸入農産物が隆盛することになる。

 では“消費者教育”の糸口はどこにあるのだろうか。まずは大都市にではなく、地域の中・小都市に目を向けよう。

 地域の自然と人間の結びつきは、具体的で個性的である。そこから生まれる食べものは不変でなく可変のもので個性あふれている。地方での食生活は、まだ、大都市のようなふしぎさは持っていない。だから、地域の個性的な食べもののよさが伝わりやすい。地域の農産物を地域の人たちに食べてもらう。加工までも農家が受けもって、全国一律の、大企業による不変の味を排除する。農産物の消費者教育は、なによりも実物教育である。地域ごとの可変の味、味の個性が、食べものを消費する人々の心の奥底をゆり動かす。

 たとえば、本号の特集「コメは高値で売れる」で紹介した長野県臼田町の「ながのほまれ」は、ササニシキやコシヒカリのように全国的に名前のとおったいわゆる銘柄品種ではない。臼田の冷涼な気候風土でつくりやすく、低農薬で栽培できる品種である。そのことと、高原の町臼田の太陽のもとで自然乾燥させたコメであること、粒が大きく明らかに臼田のコメであると識別可能なこと、これらが消費者を強くひきつけている。臼田のコメには「地域医療活動が盛んな町」というイメージもともなう。そうした地域的個性を鮮明にして届けることが、消費者の食べもの観の転換をもたらしていくのだ。

 宅配便の発達で、生産者と大都市の消費者が、直接つながることもできるようになった。生協や消費者グループが、農協や生産者グループとつながることも盛んである。結構なことだ。ただ、そうした動きは、いまのところ、多くの場合、消費者の差別化食品への期待の範囲内でのことである。

 農産物と工業製品との本質的なちがいについて、消費者にわかってもらいたい。まず地域単位で生産と消費が結合することで、そのちがいが確認されれば、大都市での消費と生産の結びつきも変わってくる。宅配便を命綱《いのちづな》とするような、また差別化食品だけをほんものとするような結びつきでなく、日常の食生活全般が農産物の特性を納得したうえでくりひろげられるようになる。かつての昭和三十年代のように“自然態”で生産と消費が結びつくために、まず地域の中で農産物を循環させよう。

(農文協論説委員会)

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