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農文協トップ主張 1987年04月

減反強化の悪政を住みよい地域づくりに転ずる道
農協の力のみせどころ

目次

◆減反 どこまで続くぬかるみぞ
◆コメだけの自給を問題にする限り減反は永久に続く
◆転作作物も輸入でつぶされる
◆生産性重視では「食事」が「エサ」になる
◆「地域型食生活」のほうが食事全体のコストは安い
◆いまこそ農協の力量発揮を

減反 どこまで続くぬかるみぞ

 農家の減反協力は、すでに一七年間にわたる。その間にイネの作付面積は、四十四年の三一七万haから今年の二一〇万haへと、実に一〇〇万haも減った。

 日本の農家は、国のコメ減らし政策に一貫して協力してきたのである。度重なる減反面積の拡大に対しても、これを受け入れ、とくに五十三年からの減反強化のもとでは、常に毎年減反を超過達成してきた。

 それにもかかわらず、今年からは、さらに減反面積を一七万haもふやして、七七万ha、全水田面積の二七%、四分の一強にも及ぶ減反をしろという。いったい、「どこまで続くぬかるみ」なのか。

 このまま減反を続けていって果たして、国がいう、「コメの需給のバランスがとれることがあるのか。減反面積を、もうこれ以上ふやさなくてもいいというときがくるのか。

 答はノーである。減反を続けるかぎり減反面積は永久にふえていく。

 なぜか。そもそもコメの生産量を減らして需要と供給のバランスをとる、という考え方が誤っているからだ。減反の根本的発想自体に誤りがあるからだ。誤りは二つある。

コメだけの自給を問題にする限り減反は永久に続く

 誤りの一つは、減反を続けるいっぽうで、食料輸入をふやしていることだ。これがあるかぎり、減反は永久につづく。

 人間の胃袋は一つである。輸入小麦のパンを食えばコメは食わなくなる。菓子などの外国穀物の加工品、半加工品がふえれば、コメの消費は減る。実際、農家が減反に協力し、その面積をふやし、コメ生産量を減らしつづけてきたこの一七年間に、食料輸入が急速にふやされてきているのだ。

 減反が始まる前の四十年代初め、コムギ輸入量は四〇〇万tほどだった。それが減反開始のころには五〇〇万tに急増、その後もじわじわと上昇をつづけ、五十三年の減反強化のころからは六〇〇万tに手が届くところまでふえてきた。

 コムギばかりではない。あられやせんべいなど米菓の輸入が始まったのも減反と期を同じくする四十六年のことである。米菓にビスケットやクッキーなども含めたいわゆる「ベーカリー製品」の菓子類の輸入が急増し、六十年には一万一〇〇〇tにまで達している。ケーキなどのさまざまな食品に使われる穀物調製品も、五十八年には四五〇〇tの輸入だったものが、六十年には一万一〇〇〇tという急増ぶりである。

 減反開始の四十五年、国民一人当たりの年間コメ消費量は九五・一kgだった。それが五十四年には七九・八kg、五十九年には七五・九kgへと減少した。輸入食品による日本人の胃袋の中身のおきかえである。減反とは、結果的に日本人の胃袋からコメを追い出し、輸入ものにおきかえるための政策になっているのだ。

 コメのことだけ考えて、「コメだけは自給します。コメの需給バランスをとります」という発想そのものに誤りがある。誤りというよりそれは全く不可能なことである。コメだけの自給をうたい、他の農産物の輸入を野放しにするかぎり、コメの需給バランスがとれることはない。やがて、コムギ・米菓・どころか外国のコメそのもので胃袋の一部が占領されるようになる。減反は日本のコメ生産が消えるまでつづくのだ。

転作作物も輸入でつぶされる

 誤りの二つは転作である。今年からの減反・転作には「水田農業確立対策」という名称がつけられた。単にコメを減らすための減反ではなく、転作作物とイネからなる水田農業全体の生産性を高めることを目標とし、そのために「地域輪作農法の確立」を大きな柱としている。だから「水田農業確立対策」なのである。

 しかし、水田輪作が確立する条件は整備されていくのか。否である。これまた、食糧輸入によって圧迫されるからだ。

 転作助成金(奨励金)は、今年からあらゆる転作作物について削減された。転作の有力作物、ひいては食糧自給力向上の戦略的作物とされたムギ、ダイズ、飼料作物は、「特定作物」から「一般作物」へと格下げ、助成金はこれまでの半額に引き下げられた。

 農産物輸入路線がドンと居すわっているからである。コムギの場合、ようやくにして自給率わずか一〇%を確保したと思ったら、国内産はもういらないという方向に転じた。背景にはアメリカの圧力がある。飼料生産もまたしかりだ。

 野菜も同様である。今年の転作から、野菜は需給緩和がなされたものとして、もう栽培をふやさなくてもいい「特例作物」に位置づけられた。野菜の需給緩和、こ

れこそ輸入拡大の結果である。野菜の輸入量は、昭和四十五年には一〇万tだったものが、五十九年には九三万tと、異常なまでにふえつづけた。フレンチフライなどに使う冷凍ジャガイモの輸入量は六十年には一一万二〇〇〇t(原料イモ換算)にものぼり、同年の国内産出荷量九万九〇〇〇tを大きく上まわるほどだ。トマトピューレなどトマト加工品の輸入量は三〇万t(原料トマト換算)に達する。スイートコーン、エダマメなど野菜加工品の輸入はうなぎのぼりだ。野菜需給は、緩和さらには過剰にならないはずがないのである。

 減反政策の二つの誤りを指摘した。しかし、「コメだけは自給、コメの需給調整をはかる」という政策は、誤りなどというなまやさしいものではない。着々とコメ消費・生産を減らし、同時に農産物全体の自給率を定価させていくためのかくれみの、欺瞞的方便にほかならない。

 コメだけでなく、食糧全体を自給するという政策に立たぬかぎり、コメの需給バランスがとれることはない。

生産性重視では「食事」が「エサ」になる

 コメだけでなく食糧全体の自給を、などといえば、必ず、「高いものを食えというのか!!」という反論が出るにちがいない。コメだけ自給している今でさえ高すぎる食生活になっているのだ、そのコメも安上がりですむ外国米を入れようというときに何を時代錯誤な、と猛反撃があるにちがいない。

 自給の必要性を考える人でも、国内農業の生産性を高めて、輸入農産物と価格でたちうちできるようにすべきだ、そうでないものは輸入やむなし、と主張するはずである。

 しかし、これらの反論、主張はいずれも、まちがっている。「食事」というものについての考え方が基本的に狂っている。生産性の高い所から安い農産物をかき集めてくるのでは、「エサ」はできても、「食事」は成り立たないのである。「食事」とは、その地域でとれる産物を、よりおいしく豊かに食べようと、料理・加工の工夫をこらすところに初めて成り立つものである。コメが多くあれば多いなりに、徹底してコメを価値ある食べものに料理・加工して食べる。先月号で紹介した、秋田県上小阿仁村の農協婦人部のお母さんは、おコメをご飯用、米粉料理用、味噌・飯ずし・三五八漬のこうじ用、キリタンポ用と多様に使い、三人家族で九〇〇kg近く食べている。こうじはサバ・アユ・イワナ・ハタハタなどの魚、柿やグミなどの果実、豊富な野菜類といっしょになって、多彩な飯ずしになる。また納豆や山菜、キノコと一体になって、最高級のふりかけナッツになる。おコメはむしろ足りないくらいだ。

 土地にあるものを多様に料理・加工する、他の種類と組み合わせる――このことを、家族の年齢や好みを考えて、また季節感あふれる自然の恵みを豊かに取り込みながら続ける営みが「人間の食事」なのだ。

 安いものをかき集めてきたのでは、このような営みが衰退するのは誰の目にも明らかだ。

 そうした営みの衰えによる食事の貧困を補い、おおい隠すのが、大企業が生産する加工食品である。見た目、味つけ、栄養、豊かさのイメージで売り込み、エサ的な食事に満足感を与えようとする。しかし、そんな手を施すほどに、加工食品の内容は自然から離れ、有害物で満たされる。安いものをかき集めたエサの段階から、エサ全体の質の大幅低下である。

 生産性にもとづく食生活が浸透しきっているのがアメリカの食事だ。カリフォルニアや、企業が進出して農場を開いたメキシコには野菜・果物が豊富にあっても、他の州では地元野菜や果物がきわめて貧困で、農家でさえ自給畑はなく、遠距離輸送のものを買って食べているところが多いという。

 日本からアメリカに行っている主婦三枝恭子さんが一七〇頁で報告しているように、肉とジャガイモ、パンのほかに、野菜は一〜二品ばかりをごく単純な調理法で食べるのみだ。そして加工食品が幅をきかす。心ある人びとは、こうした食生活を大いに反省し、日本に学ぼうという運動さえも高まっている。「エサから食事へ」の回復運動である。

 かたや、いま日本では、財界・政府・一部労働者組織・マスコミが、農産物輸入、国内農業生産性向上という生産性重視の食料供給を声高に主張する。その路線は、限りなく「食事のエサ化」を進める方向にほかならない。

「地域型食生活」のほうが食事全体のコストは安い

 食事のエサ化をすすめる「生産性重視の食生活」の方向をとるか、「人間の食事」すなわち地域地域で得られる産物を豊かにしながら、それを多様に料理・加工して質的に高い食卓を実現する「地域型食生活」の方向を目指すか、いまの日本は重大な岐路に立たされている。そして、多くの国民・消費者は、本当のところ後者をこそ求めている。

 消費者が求めているのは、「よい食べものを安く」である。よい食べものとは、まさに「地域型食生活」の食べものである。

 そこで重要なのは、料理・加工まで含めた食事全体として考えれば、「地域型食生活」のほうが、安くの要望にも応えられるということである。

 個々バラバラの食品としてみれば、すなわち生産性で比べれば、日本の農産物はアメリカの農産物と競い合うまでもない。一〇〇haのアメリカの農場と一haの日本の農家とでは勝負にならない。国内農業の規模を拡大して、いくら生産性を上げたとしてもかなわない。

 しかし、食事全体となると事情はかなり異なってくる。いま国民の食生活の相当部分は加工食品が占めている。すでに指摘したように、その内容は自然から離れ有害物も含む加工食品である。安い原料をかき集めてつくる加工食品だから、宣伝で食べさせなければならない。宣伝費、そして流通経費でコストはあがる。むしろいま消費者が食べる食品で、家計を圧迫しているのは加工食品である。

(加工食品中心の食生活で子どもは歯、骨が弱くなり、消化器病その他の成人病がふえ、ストレス症候群まで出る。この治療や手当てにかかる金や時間を食生活コストに入れたら、その額は莫大なものになる)

 それはともかく、地域の産物をより豊かに食べるために行なわれる農産加工では、大企業のそれと全く質的に異なる自然の恵みを結集した加工食品ができる。あらゆる食べものの流通経費・マージンは縮小される。宣伝費を使うかわりに、よりよく食べる食べ方・料理を教えてやればいい。同じ値段なら、内容的に数段優れた食品群を供給できるはずだ。「地域型食生活」は、「よいものを安く」という要望に対して、より確実に応えられる道なのである。

「コメだけは自給する」といい、そのために水田農業の生産性を高めよ、といういまの政策には、農業および国民の食生活の将来を託せない。具体的には、今回の「水田農業確立対策」には未来はない。

 この政策の方向ではなく、地域でとれるコメとコメ以外のすべての農産物で豊かな食生活を形成する、つまり加工も含めた「地域型食生活」をつくる、そのための地域農業を考える、この方向に進むべき時期がきている。

いまこそ農協の力量発揮を

 地域の風土によって作物もちがえば品種も異なる。自然を反映した独自な農産物ができる。これに独自な加工と料理の手法を駆使して、他所ではまねのできない食生活をつくり出す。外国の農産物でおきかえようとしても、それは不可能である。

 こうした状態をつくり出していく最大の担い手は農協である。今回の減反・転作では、農協は実質的な実施責任者にさせられた。減反割当てをこなしていかなければならない立場に立たされた。

 しかし、面積配分や種々の「生産性」向上を目指す加算金の獲得に汲々としていたのでは地域の未来はない。逆の道をいかねばならない。

 転作の実施責任者だから、政策の目指すところとは全く別の流れを形成していくこともできる。水田転作を含めて地域農業総体を、豊かな「地域型食生活」形成に向けて再編していくのである。

 いまの農協には、それを行なう力は十二分にある。販売・購買の機能をもっているから、食べものの流通を「地域型食生活」にそったものに変えていくことは造作もない。資金力を生かして、大企業の加工食品よりも質的に優れた地域農産物の加工を行なうこともできる。自ら加工を行なえないものについては、先月号で紹介した福島県熱塩加納村農協の例のように、造り酒屋と提携して、純米酒を生み出すこともできる。

 農協婦人部の母ちゃんたちは、地域の伝統的食生活に学び、それに近代的な技術も加えて豊かな料理・加工の技術を身につけている。自給運動・一村一品運動の中で、「地域型食生活」を充実させ、そのよさを地域住民に説得するだけの力を、確実にそなえてきている。

 いま農協の総力を結集すれば、購買事業から、輸入食品、大企業の加工食品を完全にシャットアウトできるほどに魅力と内実のある、農業生産―加工―食生活の形成は十分に可能だ。

 これをやることによって、食べものの流れは全く変わる。いま食べものは都市から農村への流通である。野菜さえもそのコースをとる部分が多い。それが、全く逆転する。都市、大企業からの加工食品はストップする。豊かな「地域型食生活」の食品が、地域を満たし、さらには地域周辺の中小都市へと広がる。食と農を軸に住みよい地域ができる。そのうえで、やがて大都市の食生活もまともになっていく。

 これが、食糧自給の現実的な目標である。これで初めて農産物輸入も阻止できる。

 農協が食糧自給を本当に考えるなら、「コメ自給だけは死守しよう」と叫ぶのでなく(これではコメ自給も守れない)、地域の豊かな食生活づくりに向けての活動を強力に押しすすめなければならない。農協にはそれだけの力量があるし、農家も消費者もその力量の発揮を求めている。

(農文協論説委員会)

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