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農文協トップ主張 1986年12月

「住みよい地域づくり」こそ農協の役割

目次

◆強まる農協批判に根拠はない
◆日本の農産物の「高価格」は当然
◆大規模借地農化は進まない
◆日本の農協は「地域協同組合」だ
◆農協は住みよい地域づくりの中核に

強まる農協批判に根拠はない

 いま農協に対してきびしい批判があびせられている。「農政見直し」元年になるはずだった今年の米価決定に農協が圧力をかけたため、米価引下げではなく据置きになったのがけしからん、というわけである。

「農政の見直し」とは何か。それは「国際化時代」にむけて、農産物の値段を引き下げることによってコストが高いといわれる小規模農家の農業が成り立たないようにし、安い輸入農産物が大量に入ってきてもやっていける生産性の高い大規模借地農を育てよう、ということのようである。こうした「見直し」の立場からすると、食管制度や価格支持制度は、お金ばかりかかって農家の生産性向上の意欲をそぐ非効率きわまりない制度ということになる。

 そして価格引下げに反対する農協は、さしずめ、農業を国際競争力のある産業として育てる政策をさまたげる国民経済の敵ということにでもなるのだろう。

 こうした、にわかに声高になってきた農協批判は、工業立国に目のくらんだ資本の意志と、それに乗ったマスコミの無思慮によるものである。農協が堂々とこの批判に反論することを期待し、同時に農協存立の根本原理に立って、大も小も、兼業も専業も共に生きる道を模索することを期待する。

日本の農産物の「高価格」は当然

 なぜ日本の農産物は高いのだろうか。日本の農家が生産性の向上をさぼっているからだろうか。

 農産物の国際比価というものは為替レートの変動でたちまち変わるもので、比べる意味の少ないものではあるが、日本の農業は欧米に比べて生産性が低く農産物価格が高いと、一応は言ってよいだろう。だがそれは、農家の責任によるものではない。日本の農業だって、たとえば稲作の労働時間はこの二〇年間に半分以下に減り、時間当たりの収量は二・七倍にもなっている。

 これ以上の生産性の差は、日本と欧米の自然の差異、農地―人間の比率の差にもとづいているのである。アメリカ農業の高い生産性は、先住者インディアンを追いはらって拓いた広大な農地によっている。資本主義的農業の先駆であるイギリスの農業は、産業革命時の囲込み運動で大量の農民を暴力的に都市に追い出したあとの農地で行なわれている。それにくらべ日本は――少なくとも北海道以外では――、狭い土地に人間がひしめき合いながらも、そのような暴力的な人間の追出しもなく、その変化に富んだ地域の自然を上手にとり込みながら暮らしてきたのである。農地は狭くても、そこには豊かな四季と、世界に比類のない集約的な農法と、高い収量があった。

 アメリカの農家一戸当たりの農地規模は一八二ha、イギリスは六五ha。それにくらべ日本は一戸当たり一・二haでしかない。日本と欧米の生産性の差は、こうした人間の歴史を含んだ自然の差によっているのであって、これを真に平等な条件で競争させようというのであれば、農地を輸入するか人口を輸出するしかない。

 農水省は欧米と日本の農業の土台の違いに目をつぶり、借地による大規模化をしゃにむに進めて、大量の輸入農産物の中でもやっていける産業としての農業を確立するのだという。しかしこのような生産性の競争にゴールはない。アメリカの農家の農地規模と同じくらいになるまで農家を減らし、規模拡大競争をつづけるというのだろうか。そのようなことが不可能なことは、当の農水省がよく知っているのではないかと思う。

大規模借地農化は進まない

 借地による無限の規模拡大は、はたして可能か。米価が三〇%下がったばあい、借地専業農家の稲作所得は六〇%減る、という試算もあるとおり、農外収入をもつII兼農家のほうが米価値下げに対する耐久力が強いということにならないだろうか。どだい、農産物価格を下げればII兼農家が農業をあきらめ、農地を貸しに出すだろうという想定自体が見当違いというものである。

 日本の農業をEC並みにするのが当面の目標などといわれるが、たとえば西ドイツ並みの九ha規模にするとしても、約五〇〇万人もの農民が農業から足を洗い他産業だけで家計を成り立たせなければならない。そんなに多くの人々を吸収する安定したつとめ口がどこにあるのか。兼業農家は、賃金が低く雇用が不安定である限り、いかに小規模でも、農業を手放すわけにはいかない。

 資本の論理にのっとった農産物価格のこれ以上の引下げは、産業としての農業の確立どころか、総II兼化と辺境での過疎化を招くだけに終わるだろう。日本の農業を資本の論理で、経済効率だけで考えることが間違いなのである。

日本の農協は〈地域協同組合〉だ

 「大も小も、専も兼も、共に生きる」という暮らしの論理は、もともと日本の農協組織の大前提ではなかったか。

 日本の農協は、決してバラバラの経済人としての「個」が契約してつくった機能的組織ではない。日本の農協は、むらを母体として生まれた全戸加入の〈地域協同組合〉であった。

 個の契約ではなく、非契約的社会であるむらを母体に地域協同組合として日本の農協(その前身たる産業組合)が発足したことは、農協が経済合理だけでつっ走ることに歯止めをかける。むらがもつ平等主義、大も小も共に生きるという暮らしの論理がそうさせるのである。日本の農協の事業のあり方は、むら的平等主義の原則によっている。その性格は、戦後改革による断絶、その後の幾多の合併にもかかわらず、基本的に変わっていない。ここに日本の農協の欧米にみられない特色がある。

 むらは、農家をとりまく山・川・田畑のうえになり立っている。むらはその地域自然をもって、農家の生産や生活を背後からささえる。そのばあい、むらは各戸に平等である。水路・道路・山林原野での共同作業への出役も平等、自然力の生産・生活へのとり込みも平等。むらは平等主義で貫かれている。

 その際のむらの平等性は、家の永続性を前提にしているといってよい。たまたま主人を亡くしむらの共同作業に婦人しか出てこれない家があっても、いつか一人前の男が出役できる日が来ることをむら人は知っている。農家の没落と再興についても、むら人は世代をこえる長い目で見守り、ときには手助けをする。むら人同士、いえ同士の関係は、作物とのつき合いにおける「待ち」の時間と同様に、「待ち」の関係を含んでいる。むらは息の長い世界である。

 具体的な山・川・田畑として、そのむら固有の自然がある。そこに個性をもった老・若・男・女がいえの単位で関係する。個性と個性はむらという場において交流し、その総体として自然が生き人が生きる。こういう時間―空間を共にする人々の関係し合う「場」がむらなのである。

 むらは、共存の原理の一方で、競争の原理も合わせもっている。大と小が競いながらも、共に暮しとして農業を営んでいるのが、むらである。大は大なりに生き、小は小なりに生きる。大の存在を否定はしないが、他の人を蹴落としたり、一部の人が突出することには強く抵抗する。そして、その突出した農家も、長い時間の経過の中で、何かをきっかけに没落するかもしれないのである。全会一致のむら民主主義は、このようなむらの構造と共にあった。

 こういうむらの平等主義に規定され、経済合理主義の生の持込みを防ぐものとして日本の農協はある。

 契約社会で育った欧米の人間にとって、地域の農家がまるごと加入する日本の農協は、不可思議な組織にみえるようだ。アメリカには専門農協しかなく、イギリスには消費組合のようなものしかないと聞く。目的とする機能が明快なのだ。それに対し、日本の農協は全戸加入の総合農協である。ここに契約社会である欧米と、非契約社会である日本の精神的風土の違いがある。

 日本の農協の独自性は恥ずべきことではない。個の確立、自己主張というものを先に立て、そののちに、弱肉強食のエゴイズム闘争を防ぐための契約を結ぶ、という契約社会のやり方は、社会形成の一つのやり方であるにしろ、最も進んだ方式というわけではない。

 農協は自らの生いたちとその独自性を見直し、小を切り捨てる資本の論理に抗して、大も小も、専も兼も共に生きる道を模索しなければならない。

農協は住みよい地域づくりの中核に

 日本の農家の約七割はII兼農家である。しかし、専兼の区別はお金の入り方による区別であって、人間そのものによる区別ではない。II兼化が進んだということは、多様な能力と個性をもった人々が地II域に厚く形成されつつあるということでもある。そしてかつてのような絶対的貧困はなくなり、昔以上に個性を発揮できる条件が整っている。

 農協がいまやるべきことは、地域に広範に存在する個性豊かな人材を暮らしの論理で組織し、「住みよい地域」の実現をめざして運動を推し進めることであろう。経済合理主義の支配のもと無視されてきた暮らしであるが、暮らしを取り戻す運動を、意識化された〈地域協同組合〉主義によって新しい段階で展開することだ。それには非農家の力すら結集させて然るべきだろう。地域全住民が、そのやり方はどうあれ、共に豊かに暮らしていく中心の組織として農協を再生させる。むらの力が弱まっていればいるほど、農協への期待は大きい。そして、この取組みは農協への信頼を呼びおこし、結果として農協の経営基盤の強化にもつながるに違いない。

 われわれの暮らしは、医・食・農・想と、きわめて広い領域にわたっている。人々の欲求が多様化したなどといわれるが、「健康に暮らしたい」「まともな食物を食べたい」「農業を充実させたい」「子どもをすこやかに育てたい」というのは、万人共通の願いである。

 その際注目すべきは、婦人や老人の力であろう。婦人は子どもを産み、育てる。家族の健康に心を配り、料理をつくる。そして稲つくりに励み、食卓を豊かにすべく自給野菜をつくる。すべてをお金で考えるこの社会に目を曇らされることなく、暮らしというものを体で考えることができるのが婦人である。しかも自給野菜や料理の交換を通して、語り合い考え合う術《すべ》ももっている。

 老人もまた好きでゲートボールをやっているわけではない。経済効率だけが基準のこの<青壮年型の社会>によって「用済み」とされているのであって、暮らしの倫理に立てば高い能力者としてその位置は逆転する。老人は、暮らしの知恵をたくさんもっている。その知恵がわれわれに引きつがれずに消えてゆくことは、大きな社会的損失にほかならない。

 長野県飯田中央農協の婦人たちは、この一〇年来、古老から昔の暮らしを聞きとって『ふるさとを見直す絵本』(全10巻)をつくる運動を展開してきた。その聞き取りの過程は、驚きと発見の連続だったという。一〇年にもわたる本づくりの過程自体が運動であった。むらの歴史を鮮やかに映し出したこの絵本を、老人が孫に読んで聞かせる。小学校から高校まで、この絵本によって地域を学ぶ濃密な授業をつくりだした。農協が地域を再編成したのである。

 地域には老若男女がいる。多様な能力と個性をもった人々がいる。農協の役割はこれらの人々の力を引き出し、住みよい地域をつくる運動の中核になることである。それは同時に、国内ではもうけの薄い産業を押しつぶし国外では摩擦の種を無数につっくていく経済合理主義の社会を変革することでもある。農産物の輸入促進や農政の安上がり化を狙いとする今回の「農政見直し」も、経済合理主義に根ざしていた。大も小も、専も兼も、そして老人も婦人も共に生きる「住みよい地域社会」をつくること。そこから日本の未来は始まる。

(農文協論説委員会

 農文協で刊行をはじめた「食糧・農業問題全集」(全20巻)の第一回配本は、『明日の農協―理念と事業をつなぐもの』である。農協をはじめ、地域づくりにかかわる方は、ぜひご覧いただきたい。また『ふるさとを見直す絵本』は農文協で発売中。

(農文協論説委員会)

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