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農文協トップ主張 1986年08月

故郷のきれいな水をどう守るか
規制も大切だが、水とつきあう農の暮らしを守れ

目次

◆この水が出るかぎりは孫は帰ってくる
◆村の水は健在ですか
◆水は回して使うもの
◆「1回かぎりの水利用」が水の枯渇と汚染を生む
◆多様な水の流れをつくろう
◆水とつき合う地域の営みを守ることが基本

この水が出るかぎり孫は帰ってくる

 「この水が出ているかぎり、孫だって帰ってくる」

 富山県高岡市の茅原義平治さん(68歳)は、わが家の井戸水についてこう語る。高岡市は砺波《となみ》平野の海よりにあるが、はるか岐阜県境の五箇山周辺に降った雨が何本かの河川となって流れながら、豊かな地下水を養い、その水が市内のいたるところに噴出している。深さ二〇メートルくらいに掘り抜いた自噴井戸である。

「ここの水はただの水ではない。五箇山の落葉を通った水が地下にもぐったりしていろいろなものを含んでいる」

 たまに都会に出たときなど、とても水道の水なんか生水では飲めないというくらい、人びとはこの自噴井戸の水に馴れ親しんでいる。子どもの頃に覚えた水の味は決して忘れない。だから、せがれたちも、孫たちも、水にひかれて帰ってくるのだ。

「この水で冷やした野菜は、トマトもキュウリもうまいに決まっとる。ビールだって冷えかげんは最高だ。客が来るときなど、座敷の前の池に投げ込んでおいて、ヨッコイショとそこから上げて飲む。冷蔵庫で冷やしたものなど比べものにならんよ」

 うまい水は人をひき寄せる。うまい水の湧く故郷は誰しも忘れがたい。とくに今の時代のように、川が汚れ、湖が汚れ、科学的処理で浄化された薬くさい水道水ばかり飲まされていると、うまい水はこのうえなく貴重な存在だ。

 しかし、義平治さんが、「孫が帰ってくる、家から離れない」というのは、単に水がうまいからではない。それだけではなく、わが家わが村の自噴井戸の水は、人びとの体のしんまでしみ込んでいるからだ。

 例えば、この地域では、お嫁さんがきたとき、“水あわせ”の儀式を行なう。お嫁さん側は、小さな竹筒に生家の水を入れて持参する。新郎側は玄関先でオトソの入れものに家の水を汲む。盃に両家の水をあわせてお嫁さんに飲んでもらい、その盃を割って、はじめて敷居をまたいで先祖におまいりするのである。生家の水から嫁ぎ先の水に馴染んでもらうこと、これが、その家に入る第一歩である。第一歩であるばかりでなく、これからその家の人として生きていく暮らし方の象徴でもある。

 お嫁さんは、水の味に親しみ、台所仕事にも、そのほかの家事にも、農作業にも、また、遊びにも、この家この村の水とのつき合い方を身につけ、そして、子どもに、孫に伝えていく。

 水の味が体にしみ込むばかりでなく、その土地で暮らす、暮らしの技や心の持ち方までもが、体に頭にしみ込み、受けつがれていくのだ。だから、「この水が出ているかぎり」と、お年寄りは思う。

村の水は健在ですか

 さて、あなたの村の水は、いませがれや孫たちを呼び寄せる味わいをもっているだろうか。どこの村にも、清水、沢水、井戸水など、形は変わっても、その村を感じさせる水は確実にあった。そうした村の水は、いま健在だろうか。

 実は、右に紹介した高岡市でも、二〇年ほど前から、自噴井戸の水の出が悪くなりだした。井戸を前より深く掘らなければならなくなり、ポンプを使う必要も出てきた。村の名水が枯れ始めたのだ。

 事態を重視した高岡市農協の婦人部や青年部の調査によると、とくに進出してきた工場が地下水を使う平日に自噴量が少ないということがわかった。工業による村の名水の吸い上げである。また、同時に、井戸水の枯渇ばかりでなく、農業用水の汚染の実態も改めて認識されてきた。魚の住めない川になっている。自噴井戸も農業用水も、村の水は危機的な状態になっていたのだ(高岡市農協婦人部・青年部などによる水の調査と、きれいな水の取り戻しの活動については、五二ページの記事をお読みいただきたい)。

 高岡市にかぎらず、湧水や地下水の枯渇と、川や湖の汚染は、どこでも重要な問題となっている。都市の川が汚れて魚もすめなくなってから久しいが、農村地帯であっても、水洗便所の普及や生活雑排水の流入が有機物汚染など水質汚濁をひきおこしている。さらには工場の排水が、有機物汚染、あるいは生命に直接害のある重金属や化学物質による汚染を一段と激しくする。地域の産業と生活のあり方が、川を、湖を汚している。

 川の上流での汚染がすすむと、さらに大量の生活・産業排水が流れ込む下流はいっそう汚染が激しくなる。そして、この汚染は海まで及び、海の生物の生息をも危機に追い込む。かつて一本の河川には上流・中流・下流それぞれの場所に特有の動物・植物が生息し、それらを利用しての人びとの多様な生産、生活活動が営まれた。一本の川は一つの文化圏をなしていた。その川がいまや汚染物質を運ぶ通路と化してしまった。

 川が、水が、そこに住む人びとにもたらす恩恵ははかり知れないものがある。この豊かな恵みをどう取り戻せるか。

 水質検査などにもとづく工業排水の規制、さらには粉せっけん使用運動などにみられるような生活雑排水による汚染の防止、あるいは農業生産では農薬や化学肥料の使用の縮小。これらは、水質保全のうえで、欠かせない取り組みである。そして、こうした努力がかなりの成果をあげている地域も少なくない。

 だが、これらの努力とともに、いやそれ以上に、水というものとのつき合い方を正していくことの重要性を考えたい。義平治さんが「孫が帰ってる」という場合の水とは、決して、水質基準にかなった水があるとか、いまではデパートでも売られ出した、“○○の名水”があるとか、それだけのことではないはずだ。

水は回して使うもの

 水を守り、人をつなぐ水とのつき合い方。岩手の奥羽山系よりの沢内村に住む高橋ヒメさん(69歳)は、「水は回して使うものだなす」といっている。沢内村は、その名のとおり沢水の豊かなところだ。家の中まで水が流れ込んでいるところが多かった。ヒメさんの家は、今も小さな沢から水をひき、台所には常に水が流れている。そこで夏はスイカも冷やすし、干した山菜をもどすのにも使う。そして、炊事に使った水は、家の近くの池に流れ込む。この池では、コイやフナなどの魚を飼う。魚を飼いながら、水があたたまる。あたたまった水が田んぼに流れ込む。

 炊事、池(養魚、温水)、そして田んぼ。これがヒメさんの言う「回して使う水利用」である。炊事など生活に使うことによって、ある程度の“汚染”はおこる。この”汚染物質”は、池でプランクトンや魚に食われて“浄化”される。あるいは田んぼで微生物に分解されてイネに吸われる。その間に水はあたたまって、イネを冷害から守る。

 回して使う間に、それぞれの場所で意味をもちながら“浄化”されていき、汚れを下流に流すことはない。浄化のためだけの浄化ではなく、農家の生活や生産にとっての別の意味ある作用をしつつの浄化である。

 このような「回して使う水利用」が絶ち切られ、「一回かぎりの水利用」になってきているところに、現在の地下水枯渇、川や湖・海の汚染の根本原因がある。「一回かぎりの水利用」とは、一見“合理的”な水利用のし方である。

 その最たるものは、工業用水だ。工業では製造過程で発生する高熱をさますために、また廃物を洗浄するために、大量に水を消費する。そして、廃熱や廃棄物を水にのせて流し去る。水を汚染させるだけの「一回かぎりの水利用」である。

 そして、こうした“合理的”水利用は、都市生活には徹底的に浸みわたっている。飲み水は上水道にあおぎ、生活排水やし尿は下水として流し去る。使う水捨てる水とを一回かぎりの使用で区別した、再生なき水利用である。だから、使う水に対しては、一定の基準値にかなった水質を要求しても、捨てる水に対しては、配慮が少ない。「汚れた水は眼につかないようにしよう、下水道を完備しよう」といった、“くさいものにはフタを”的な処理が求められることになる。下水道完備とは、一回かぎりの水利用、使ったあとは捨てるだけという水利用の象徴である。

「一回かぎりの水利用」が水の枯渇と汚染を生む

 下水道完備で、一見街は清潔になったかに見える。しかし、汚れた水は、太いパイプを通って一気に川へ、海へと流れ込む。そこでは、一定の基準に従って汚水処理が施されるが、しかしいくら科学を駆使した処理を行なっても、なお限度がある。

 例えば、現在汚水処理法として最も多く採用されている活性汚泥法には、次のような限界があると、国学院大学教授の大崎正治教授は指摘している。一つには、チッソやリンについては活性法では取り除くことができないこと。次に、下水処理のあと汚泥が多く出て、この処理には苦労が伴いコストもかかり、ときには川・海に排出されて汚染源となる危険性があること。さらには、大腸菌の減少は充分でないため塩素殺菌が必要となり、これがガン誘発性物質をつくる危険があること、などである(『水と人間の共生』農文協・人間選書)。

 科学的処理を施すほどに、次々と新たな矛盾が発生し、汚染がなくなることはない。そればかりか、現代の“合理的”な水へのかかわりは、さらに大きな水問題を生む。例えば現在、より効率的に下水を管理することを目的として、一つの河川流域のいくつかの市町村の下水を大量集中的に処理する“流域下水道”という方式が広まっている。この流域下水道は、一見合理的である。

 ところが、大崎教授によれば、この方式だと、工場排水と家庭排水とがいっしょくたになるから、工場排水に含まれている重金属などのために汚水の微生物処理がスムーズにいかないこと、また未処理のままの重金属が川や海に放出されること、混合した汚水は大量放出だから検査しても一つ一つの重金属の濃度数値は低く出て、水質は改善したとみなされること、以上のようなことから工場排水の公害隠しにもつながる、などの問題があるという(前出書)。

 近代的な排水パイプと処理施設が完備する裏で、汚染が野放しになるしくみができあがってしまうのである。

 さらには、このように大量の水が消費されて汚水として一気にパイプを流れると、自然の河川の水が枯れてくることも問題だ。こうして、その地域の地下水の涵養力もきわめて小さくなっていく。水が地表から姿を消し、地下の水も枯渇し、汚水パイプだけがごうごうと流れているといった状況にもなりかねない。地下水や川の水が減れば、気温の変化も激しくなり、また、地盤沈下もおこる。地域は、ますます人も他の生物も住みにくい場所になる。

 「一回かぎりの使用で汚れた水は使い捨て」という、現代人の水とのかかわり方は、水を汚染するばかりでなく、確実に地域の環境そのものを、生物が生きる場としてふさわしくないものに変えてしまうのである。

多様な水の流れをつくろう

 いまや、そのような水とのつき合い方をこそ改めねばならない時代に入った。転換の方向は、「回して使う水利用」である。使う中で水がよくなる、流れる中で水がよくなる、そういう水とのつき合いを取り戻していかなければならない。

 この転換の拠点は、農村とその周辺である。「回して使う水利用」は当面は、農の営みにおいてのみ可能である。そして、まずは、農家が、地域の水から最大の恩恵を受けられるような、水とのかかわりをつくりだすことだ。農家・農村の人びとが第一に恩恵をうける水利用でなければ、水は、自然は守れないからである。

「回して使う水利用」とは、多様な水の流れ、動きをつくることである。かつて用水路は、地形にそって迂回して分水しながら流れていた。流れる間に水はあたたまり、また周りの土から多くの養分を受けとった。今のコンクリートの用水路のように、ただ水を流すための水路ではなかったのだ。

 さらには、流れには、瀬があり渕があった。その流れの速さと周囲の土の状態によって、それぞれの場所を好む植物が居ついていた。ヨシのところもあれば、セリのところもある。これら植物が、自分の周辺に魚や水生昆虫、微生物をあつめ、この生物群が、水の浄化などに大きな役割を果たす。

 水質悪化が深刻な問題となっている琵琶湖での調査によると、水辺のヨシ地帯は、きわめて多種類の小動物や魚貝などを呼び寄せていること、これらヨシ地帯の生物群は水質保全にとって非常に大きな働きをしていることなどが報告されている(『日本の科学者』’86年7月号、吉岡龍馬氏、鈴木紀雄氏の論文)。開発や湖岸堤建設は、これらの生物群を減らして、水質汚濁に拍車をかけている。

 水の流れに、地形に沿って緩急があり、水と土が織りなす微妙な風土がさまざまにでき、それぞれにふさわしい生物群をつくる。その生物群はまた、地域の人びとの生活に有効に使われる。「回して使う水利用」とは、水を中心にそうした多様な風土をつくり、そこに生きる生物群の一部を利用しつつ、生物群の助けをかりて、水をよくしていくことである。

水とつき合う地域の営みを守ることが基本

 水は、高いところから低いところへ流れるだけではない。土の中では、下から上への移動もある。さきに紹介した大崎正治先生は、汚水処理技術として、小規模な土壌浄化法を推しょうしているが、この方式は、汚水を地中に入れ、汚水が毛管現象で上にあがる過程を利用して浄化する。汚水の上昇と地表からの酸素の供給によって土壌微生物の働きが活発になる。その微生物の働きを利用して、浄化が行なわれ、同時に、地上の作物には養分が供給されるというしくみである。これなどは、昔農家が行なっていた糞尿の施用と原理は同じだが、やはり、水の動きを中心に、微生物や植物がよりよく生きる風土づくりである。水の動くところには、生物が育つ風土(環境)ができ、生物は水を育む。

 水は、天と地の間を循環しているが、水の動きはこれまでみてきたようにきわめて多様である。それを一気に流す水だけにしてしまっては、そこには生物の営みは生まれない。山にも川にも田にも畑にも、多様な水の動きがあって、それぞれ活発な生命活動が行なわれること。これなくして、水質のよさは保てないし、水源は守れない。

 こうした水の動きと生命活動を演出していくのが、山に川に田畑に働きかける農業の営みであり、農家の暮らしである。

 水を守る基本は、水質基準を厳しくしたり、たれ流しを規制したりすることにあるのではない。ましてや、名水保存運動で可能になるのではない。農村に暮らす人びとが、山で川で田で畑で、多様な水の動きをつくりだし、活発な生命活動の場をつくりだしていけることが第一条件である。山や田や畑を暮らしの場として活用しつづけられることが、もっとも基本的な条件である。

「この水が出ているかぎり孫は帰ってくる」という義平治さんの言葉には、自噴井戸の水に対する自信とともに、右のような意味が込められている。

 おわびと訂正

 七月号の主張「いまこそ米価値上げをするときだ」の中の、七九ページ下段四行目「農協側が例年通りの引げ要求を出してくれれば」は、「農協側が例年通りの引げ要求を出してくれれば」の誤りでした。おわびして訂正します。

(農文協論説委員会)

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