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農文協トップ主張 1986年01月

増資材路線から減資材路線へ農政の転換を

目次

◆先進国アメリカで国が肥料、農薬減らしの政策
◆多肥、多農薬にしばられる農家
◆消費者から盛り上がった有機農業運動
◆いまこそ農政が減資材に動くときだ
◆農協の「自給運動」を「減資材農業運動」に
◆減資材―自給を地域、都会に広げる

先進国アメリカで国が肥料・農薬減らしの政策

 農業の生産性を高める。といえば、機械化(施設化)し、大規模化し、化学化(肥料・農薬をたくさん使う)することと心得ておられるだろう。これは一昔前の古い考え方である。

 アメリカでは農業の生産性の向上は、肥料や農薬に頼らない方向、つまり、減資材の方向と考えるようになりつつある。

 アメリカの議会で、農業の生産性を高めるための「八五年農業生産性法案」の成立が確実視されている(レーガン政府は反対なのだが)。その法案のなかみは、何と、肥料や農薬に頼らない農業の確立なのである(くわしくは一八八ページの記事を参照)。

 法案の内容を一言でいえば、肥料や農薬などに頼らない農業の研究開発と普及を農務省(日本の農水省)に義務づける。国や州の研究機関(農業試験場)や実際農家の圃場で三六カ所の試験圃をつくり、五年から一五年かけて、肥料や農薬などに頼らない農業生産システムを研究する。そのために五年間で約一八億円の予算を計上する。これが法案のなかみである。

 おそらく、日本の農林議員や日本の農業・農民団体などは思いも及ばない法案であろう。そんなことは日本有機農業研究会(代表幹事・一楽照雄)などにやらせておけばよい、農林議員や農業団体幹部の農政活動とは農業に対する補助金をとる活動だと心得ているように見える。

 しかし、アメリカよりも日本のほうが「農業生産性法」を緊急に必要としている。なぜなら、アメリカよりも日本のほうが化学化でも機械化でも、連作化でも、ずっとすすんで(?)いるからである。一ha当たりの機械なり、農薬・肥料なりの投入量を、アメリカと比べてみたらよい。

 日本は、窒素質肥料施用量でアメリカの五・五倍、農薬散布量でもアメリカの約五倍なのである。日本農業こそが、「八五年農業生産性法案」が必要なのだ。しかし、日本の農林議員も農業団体も補助金獲得にだけ奮闘している。なぜか。補助金獲得以外は票にならないからである。なぜ票にならないか。減資材の方向こそが、今後の農業生産性向上の基本方法だということについての農家の自覚が弱いからだ。

多肥・多農薬にしばられる農家

 「減資材農政」は、一部自覚的農家以外には支持されない。それに対して「増資材農政」は大メーカー・商社をはじめ、肥料屋・農薬屋にいたる「企業」によって支持される。減資材農政では困るのである。そればかりではない。農家もまた、増資材信仰が強いのである。「一発肥料を張り込んで増収」という具合。いかに多くの肥料をぶち込むかに腐心する。まるで、肥料がそのまま「作物の実」になるとでも思っているのではないかと思わせるくらいの肥料に対しての執着ぶりである。農薬についてもしかり。

 これは日本農業の「伝統」に根ざす。「多肥多収」こそ日本農業技術進歩の根本であった。

耐肥性品種」なんとも日本的な名称の品種である。化学肥料に耐える品種。つまり、思いきり肥料をふり込める品種がよい品種だというわけだ。肥料を少なく入れても収量はおちない、という品種は流行しないのである。肥料をやらなくてもとれる品種が一番いい品種だと思うのだが、それは日本の農家の伝統的な心情に合わない。肥料に耐える品種が欲しいのである。

これは、明治以来、急成長した化学工業が吐き出す肥料を、より多く使う方向で農業指導が行なわれ、技術がしくまれてきたことによるものだ。耐肥性品種の使用と、化学肥料と農薬の多投に支えられた、多収技術が伝統的に追い求められてきた。

 「増資材農業」路線は、このように大企業の利益とも、農家の利益とも結びついて、根強く日本農業(自然)を縛りあげているのである。そして、現状は、土の悪化、作物の弱体化など、資材が自然を縛りあげている極限に近づきつつある。だから「減資材農業」によってこの束縛から自然を解放しない限り、自由な農業の発展(生産性の向上)はないのだ。

消費者から盛り上がった有機農業運動

 根強い「増資材農業」に対する「減資材農業」のほうはどうだろう。こちらは歴史が浅い。その起源は「農薬禍」にある。農薬による食べ物の汚染。つまり、消費者サイドから出発しているのである。

 日本有機農業研究会に結集した消費者・生産者・学者・研究者・ジャーナリスト等々の活動によって、有機農業の運動は急速にひろまった。有機農業運動は民衆にとっては「無農薬商品」もしくは「有機肥料商品」の生産運動として理解された。その運動の消費者に対する影響力は絶大で、今日では、「無農薬」を売りものにする商売がなり立つようになったのである。大は西友グループから、小は自然食品店にいたるまで、「無農薬野菜」やら「有機野菜」やらの商品はよく売れている。商品になるくらいなのである。

 しかし、民衆の中に滲透した「無農薬信仰」については信頼できない。生来イジワルな性格に生まれついた私は、こんな実験をくりかえしてみた。たとえば、ミカン農家からクズミカンをもらってきて、「無農薬ミカンだよ」といつわって友人たちに食べてもらう。十人中十人とも「やはり、自然の味はうまい」という反応が帰ってくる。無農薬信仰のなせる技である。

 形がわるいので、あるいは病虫斑があるのでクズミカンは売れない。だからみかけをよくするために過剰に農薬をかける。みかけのよいミカンをつくるために「過剰農薬ミカン」をつくらされ、あげくの果てに、「無農薬ミカン」を要求される。しかも、「クズミカン」をいつわって「無農薬ミカン」とレッテルをはると、「うまいミカン」に早変わりするのである。ここにこそ問題の本質がある。民衆の無農薬信仰の落とし穴がある。消費者はレッテル、記号を食べているのだ。

いまこそ農政が減資材に動くときだ

 一方で生産者は「増資材農業」に執着し、他方で消費者は「減資材農業」を望んでいる。しかし、生産者の「増資材農業」志向は土壌の悪化、収量品質の低下によってゆきづまっており、消費者の「無農薬」信仰は商売に利用される状況にある。日本の農政が、アメリカの「農業生産性法」に学んで、日本版「農業生産性法」の成立をめざす方向にふみきるには、絶好の環境条件が成熟している。

 アメリカの「農業生産性法」案はもともとの名称は「有機農業法」であった。アメリカの有機農業運動の高まりの中での議員立法である。八二年アメリカ下院議会で一八九票対一九八票の少差で否決された。その法案の名称をかえて再提出したのが今回の「農業生産性法」なのである。

 (1)豆類の栽培やその他の作物を組合わせた地力維持を基本にした輪作の実施、

 (2)作物残*、緑肥、有機廃棄物等の有効利用、

 (3)雑草・病害虫に対する非化学的・生物的防除

等々。農業資材で縛りあげられた「土」を解放し、つまり、地力を高めることによって農業の生産性を根本的・長期的に向上させるという、よりまっとうな「農業生産性法」なのである。

 軍事予算が異常に肥大する政治に対して農業予算の削減に反対する農政活動も重要であるに違いないが、農業予算の使い方、そのものを変えることも焦眉の急である。

 農業技術会議をトップに組織されている国および県の試験場が「減資材農業」の技術開発に方向をむけることは決して予算増をともなうことではない。また、全国的に配置されている農業改良普及員を「減資材農業」の確立をめざして活動させることも、特別の予算を必要としない。

 農政が、生産者の「増資材農業」のゆきづまりと、消費者の「減資材農作物」に対しての要求の両方をふまえて、「増資材農政」から「減資材農政」への政策転換を明確にするならば、マスコミはもちろん、国民大衆の支援が集まることは疑いない。予算をふやさず、国民の支持をとりつけられる「妙手」といわねばならぬ。自民党の農林議員を中心に、与野党農林議員を結集し、アメリカの「農業生産性法」の日本版を実現する活動を開始すべきである。

農協の「自給運動」を「減資材農業運動」に

 おもしろいことに、有機農業運動─減資材農業の運動は今、静かに農家に滲透しつつある。農家の「生産部門」ではなく「自給部門」にひろがっているのである。おばあちゃん、お母ちゃんの自給野菜つくりでは、できるだけ農薬をつかわない傾向が顕著にあらわれている。当会の『現代農業』普及部門担当者の活動からの情報によれば、ここ数年、全国的に自給野菜での減農薬志向は極めて顕著なのである。「売るためにつくる」のではなく「食べるためにつくる」野菜は減資材志向に変わりつつある。

 農協婦人部が真剣に、この全国的「減資材農業」の伏流を組織するならば、日本農業の未来はここから切り開かれるであろう。

 農協の系統組織の一つである家の光協会は、今、「特別図書普及運動」(読書運動)を全国的に展開中である。その狙いは「健康を目指して風土に合った食生活を」の農協婦人部運動に対応する読書運動である。普及図書としては、当会の発行している「日本の食生活全集」(各県別編集)がこの運動の推進に最もふさわしい図書であろう。

 農協婦人部を中心にした「自給運動」は全国に広がりつつある。農協婦人部に最も強い影響を与えることのできる雑誌『家の光』がこの「自給運動」を「減資材農業」の方向で有効に組織できる誌面をつくれば、その意味ははかりしれないものがある。「自給運動」と「減資材農業」の確立とは紙一重。指導的雑誌の力の入れ具合一つで大局を動かしてゆける。

 「自給」は必ず「余剰」を生む。足りなくないようにつくれば余るものである。この「余り」をどう売るか。これは農協の販売事業の未来を切り開いていくうえで極めて重要な問題である。

 「減資材農産物」(無農薬野菜・有機野菜など)について消費者の需要は強いのである。そして消費者は農協管内にいる。今、農村は混住社会、むらうちにサラリーマンはいるのである。また、車をちょっと走らせればすぐ近くに町がある。そこにも消費者はいる。

 この「余り」を売る販売活動こそが農協=協同組合の販売活動の未来を切り開くだろう。「無農薬」「有機」「新鮮」「栄養たっぷり」「うまい」。すべてがそろった「商品」が消費者に届けられるのである。大市場出荷の「商品」とはわけが違う。当世はやりの言葉でいえば農家の自給野菜の「余りもの」はことごとくが「わけあり商品」なのである。都会では「わけあり商品」は「普通の商品」より何割かは高い。それを「普通商品」並みの値段で消費者に届けられるのである。こういう活動ができるところに協同組合の協同組合たるゆえんがある。高く売れば(現実にはそうなっていないが)それでいいというものではない。協同組合は意味があるから協同組合なのだ。その今日的意味を協同組合は自ら見つけ出さねばならぬ。

減資材―自給を地域・都会に広げる

 「減資材農産物」を恒常的に届けるとなると、季節性のある、地域性のある農産物が次々と届けられることになる。「自給」というのはそういうものだろう。「農家の自給」が「農協管内の自給」になり、それが「近くの町の自給」に発展する。この発展によって日本人の食事はまともになる。農協婦人部のスローガン「健康を目指して、風土に合った食生活」が地域で新しく創造されるのである。都会の人の食生活が変われば、農業はまともになることができる。都会人の食生活を、「不健康で、風土に合わない食生活」のままにしておいては、まともな農業は成り立たない。

 もし、農協が経営主義一本槍で、なまくらで、「減資材の自給運動」にとりくめないほど堕落している値域にあなたが住んでいるとしたら、それは大変不幸なことである。しかし、不幸をそのまま子孫に伝えるわけにはゆくまい。ふるさとは自由に選べないのだから。

 まず、あなたから始めたらよい。「今、農村は混住社会だ」といったが、今、農家は混住農家。家族の中にサラリーマンがいる。家族の中にサラリーマンがいるとしたら、職場に「自給」の「余り」をおすそわけしたらよい。どんなに喜ばれることか。それが「無農薬」であったり、「自然栽培」であったりすれば、ことのほか喜ばれる。そうでなくても、「とりたて」はうまいのである。職場の人に喜ばれることに気をよくして「自給野菜」をつくっている人人も少なくない。自給作物が漬け物になったり、団子になり、そばになり、色々なものが職場の人に届けられる。もらった人は自慢して知人に食べさせる。お礼はあてにするわけではない。しかし、ある。贈り、贈られる。人と人との関係が売買の関係になっているのは悲しい。心と心がかよう関係へ。商品流通がたとえお金をはさんだとしても、人の心と心とがかよい合う関係に。それをつくるのが協同組合というものであろう。

 「増資材農政」から「減資材農政」へ。「増資材農業」から「減資材農業」へ。「過剰資材商品」から「減資材商品」へ。世の中が、どちらからどちらに向かっているのか。そのことをしかと押さえて、新しい年を迎えたい。

 注.日本有機農業研究会は、東京都千代田区有楽町一-一三農林中金ビル。機関誌『土と健康』を毎月発行している。

(農文協論説委員会)

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