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農文協トップ主張 1985年02月

バイテク品種は農家に役立つか?
品種づくりの真の担い手とは

目次

◆資材が資材を呼ぶ農業の完成
◆生命を遺伝子としてしか見ないバイテク
◆バイテクの「夢物語」
◆生命力の低下を招くバイテク品種
◆品種は農家がつくりだした
◆農家は品種を守り文化を担う

 “バイオテクノロジー(略称バイテク)”をめぐる話題が連日のように、マスコミを賑わしている。コンピュータなどの情報産業とともに、これからの有望産業として国も民間大会社もその研究、技術開発に力を入れている。

 国の研究機関「農業技術研究所」が改組され、バイテク研究を中心とする「農業生物資源研究所」が新しくつくられたり、県の農業試験場でもバイテク研究室を設置する動きがあいつぐなど、あわただしい動きだ。人気が落ち込んでいた大学の農学部もバイテクブームのおかげで人気が急上昇、受験生の数も学生への求人数もグーンとふえているという。

 さて、このバイテク、農家にとって一体何なのか。昭和六十年代、農業の話題はハイテクがらみで論じられることがますます多くなることが予想される。いらぬ期待やとまどいをしないためにも、ここはしかとバイテクブームの本質を見ぬいておきたい。

資材が資材を呼ぶ農業の完成

 農家の経営が苦しくなるときには、必ず資材が資材を呼ぶというしくみが働いている。

 総合的な力をもっている堆肥を、肥効と地力増進といった個別の効力に分けて考えるようになったときから、技術の資材化がはじまる。手間のかかる堆肥づくりをやめて化学肥料にかえる。土が悪くなるにつれて、有機入りとか微量要素が必要になり、生育が変調をおこすと農業や生長調節剤が登場してくる。そして土が狂いだしてくると、土壌改良材や深耕のための機械に頼ることになる。

 このように、当面する課題を一つ一つの要素に分解して解決しようとする限り、つねに新しい資材=技術が必要になってくる。そうした状況のなかで次々に登場してくる新品種。今日の品種はこうした土と作物のイタチごっこのなかで改良がすすめられている。多肥によって塩類濃度障害がおこれば、耐塩性の強い形質を注入して新品種をつくる。それで解決したと思うと、土の狂いが原因の難病・奇病が発生する。そこで抵抗性の血をもつ新々品種がつくられる。この筋道は、生物が生命体としてもっている素質のある部分の形質だけを強調し、人間の一方的な要求にあてはめようとする資材的発想がもたらす無限のドロ沼だ。

 このように土と作物との矛盾を品種によって解決しようとするところまで、今日、農業の混迷が深まっているともいえる。農業の科学化がもたらしたこの混迷時代に、科学の最先端にあるバイテクがどのようにかかわるのか、そこに視点をすえて考えてみたい。

生命を遺伝子としてしか見ないバイテク

 バイテクには、組織培養、受精卵移植、細胞融合、遺伝子組み換えといった手法があって、いろいろな産業に革命的な影響を及ぼすといわれているが、ここでは農業生産にとって身近な種子、品種をめぐる問題に焦点をあてて考えることにする。

 「種子戦争」という言葉が生まれるほどに、今、タネに世界の注目が集まっている。石油を通しての世界支配は早晩ゆきづまる。そのつぎは食糧問題だが、食糧で世界を支配するにはその基本であるタネを握らなければならない。というわけで、アメリカの石油大資本はバイテクによる新品種の育成にやっきになっている。

 バイテクとはバイオ(生物)とテクノロジー(技術)があわさったもので、日本語では生物工学などと訳されている。生物を工学的に扱おうというわけだから、生物を丸ごと生きたものなどと考えてはいない。

 生物の体はひとつひとつの細胞からなっている。さらにひとつの細胞の中には染色体があって、そこには何万、何十万という遺伝子が整然と連なってつめ込まれている。この遺伝子には形質を次代に伝える“情報”が盛り込まれており、それが伝わることによって、作物ではその品種特有の葉ができ、根ができ、花ができ、タネができる。

 この仕組みを利用して、都合のよい情報をもった遺伝子だけを取り出し、それを他の作物の染色体に組み込んだりして、これまでにない能力をもった作物をつくろうというのが、育種分野におけるバイテクの中心課題とされている。

 バイテクは生物という生きものを、目に見えない微細な要素=遺伝子にまで還元し、それを基本に生命を考える。

バイテクの「夢物語」

 作物体→遺伝子情報でなりたつもの→自由な遺伝子の操作→新しい品種の作成というすじ書きでいろんな「夢物語」が語られる。

 たとえば、寒さに強いというジャガイモの遺伝子をトマトに入れれば、冬に露地でトマトをつくれるかも知れない。たとえば、耐病性が強い品種や多収性の品種は味が悪いものが多いが、これにとびきり味のよい品種の遺伝子を入れてやれば、多収性でうまい品種ができる可能性がある。こんな話をきくとつい、バイテクもいいではないか、と思いたくもなる。しかし、そんな期待をゆめゆめもってはならない。かりにそれが可能であったとしても、農家の生産を根こそぎ崩してしまう危険をはらんでいるからだ。

 人間はなかなか欲深いもので、品種にいろいろなことを要求する。多収性、耐病性、そろいがよい、食べてうまい、寒さや干ばつに耐えること……しかし、そうそう万能な品種ができるわけではない。味のよいコシヒカリは倒れやすいし、病気に強いキャベツは硬くてまずい。しかしそれは品種の弱点なのではない。

 作物はその土地、環境の中で生きていくために、さまざまな特徴をそなえているものであり、ムダなものはひとつもない。かりに人間に都合の悪い性質があったとしても、それは作物にとっては生きるために不可欠な性質なのである。作物が実をつけるまでに何十日もかかることをムダだと思う人はおるまい。

 そうした品種の特性を見ぬき、畑の選び方を考えたり、育て方の知恵をしぼったり、食べ方の工夫をこらしたりして、その品種を生かしていくというのが、これまでの農家と品種のつき合い方だった。

 作物と土とは自然環境のもとで深くつながっていて、作物はその土地になじみながら育つと同時に作物は土をつくっていく。人間のつくりだす環境も、形質を変える品種改良も、この作物と環境の互いの関係を基本にして築きあげられてきた。

 バイテクは、こうしたつき合い方を否定するかのような勢いである。遺伝子操作で、これまでの育種方法では不可能だった異種の遺伝子を組み込めば、都合の悪い性質をとり除きすぐれた形質ばかりをそなえた品種ができるということになる。しかしそんな虫がよいことになるだろうか。

生命力の低下を招くバイテク品種

 多収性にしろ、味のよさにしろ、寒さへの強さにしろ、それがある特定の遺伝子だけによって担われているとは考えられない。遺伝子相互間の複雑な関係の中で、さらには環境を通して、全体として多収になったり、寒さに強かったりするのである。同じ品種でも、苗の育て方によって寒さに強くなったり弱くなったりする。このばあい、育て方が多くの遺伝子に作用して寒さに強いという形質が発揮される。どんな作物も、こうして環境に耐えようとする性質をもっている。

 多くの遺伝子間の連携と環境がもたらすさまざまな作物の反応を、特定遺伝子だけの仕業だとみるのはあまりにも単純すぎる。遺伝子は機械の部分品ではない。

 遺伝子を機械の部品のように考え、優良な部品をとりそろえて並べればよいという発想では、ある特定の能力、効率性は高まったとしても、その土地で生きようとする生命力はひ弱になるにちがいない。だから特定能力以外に現れる弱点は、十全な環境をとりそろえることによって人工的にカバーしなければならないということになる。

 たとえばである。今、バイテクによる酒づくりの研究が進められている。遺伝子操作によって、高濃度のアルコールをつくる効率のよい発酵菌を利用しようというものだが、問題も少なくない。天然酵母の場合でも、効率のよい生産力の高い菌ほどそれを維持するのがむずかしいというのが醸造メーカーの相言葉のようにいわれている。天然に存在する菌でさえそうなのだから、人工的につくったバイテク発酵菌はなおさらのこと、その効率性を発揮させるためのきびしい条件が求められる。完璧な衛生管理、空調施設、それらを支えるコンピュータ……といったイメージがわいてくる。

 同様の話は他にもある。たとえばダイズの根につく根粒菌。この菌のうち実験室内の寒天培地で非常によく繁殖するものがあるが、それを実際の土で利用しようとすると、すぐに死んでしまって役立たないという。特定環境で高い能力を発揮するものほど、複雑な環境のもとでは、それに耐えていく力は弱いのである。

 このことは、品種についても同様であろう。

 ある特定の形質においてすぐれる面はあるとしても、総体としては生命力が弱いバイテク品種は、より人工的な環境を求めるにちがいない。それはますます、農家がもうからないしくみをつくりあげていく。

 バイテク品種は、こうした資材が資材を呼ぶ路線のなかでより強力な能力の形質をつくりだしてくるにちがいない。もはやかつて農家が守ってきた田や畑とそれに見合った品種の関係ではない。

 雨、風などの自然環境はたち切られ、さらには土の個性はじゃま物として排除され、その地域固有の農業は失われていく。

 タネが呼び込むさまざまな生産資材、栽培装置、環境調節機器、そして環境制御のためのコンピュータ……もうかるのはだれか。

 これまでのように、肥料や機械を個々バラバラに売るというようなやり方でなく、特定なタネを中心とする栽培方式を一つの装置としてセットで売り込もうという戦略がみえてくる。

 資本は農家を軽視するけれども、農業を軽視することはない。これまでも農村から安い労働力と土地をとり上げ、一方では機械や肥料を売り込むという形で、資本は農業を大事にしてきた。しかしその方向だけでは、資本のもうけにとって先行きが暗い。そこで熱い期待をもって登場してきたのがバイテクなのである。

品種は農家がつくりだした

 タネを守ることによって己れの農業、栽培を守るか、タネが奪われることによって作物栽培を資本にあずけるか、どの道を選ぶかが鋭く問われている。

 品種はもともと農家がつくりだしてきたものである。京都のカブを雪深い長野に根づかせ、野沢菜という品種を、その味を生かす漬け方の技術とともに生みだしたのは農家である。練馬系の秋ダイコンを素材にして、冬あたたかく土が乾燥するという条件のもとで、根が太く甘みのある三浦ダイコン(冬ダイコン)をつくりあげてきたのも、神奈川県三浦半島の農家である。

 だれかがよそからタネをもってきてきっかけをつくったとしても、それを自分の畑にあうようにタネとりをくり返し、三浦ダイコンに仕上げてきたのは農家である。だから「おれが三浦ダイコンの元祖だ」という古老が三浦にはたくさんいるし、同じ三浦ダイコンといっても、その中にはさまざまなタイプの三浦ダイコンがある。

 作物は自分がおかれた環境にそうように自分の姿を変え、変えることによってその地に根づいていく。作物はひとりでに変化する。その変化を見ぬき手助けしてやるのが農家が行なってきた育種の原理である。

 朝ツユをみて作物の気分を感じ、葉のむきかげんで作物の栄養状態を判断する、そうしたつき合いの延長上に育種があった。ハクサイなどの品種を数多くつくりだしてきたある育種家は「作物に接するとき、静かな心と全身で感じるようなとぎすまされた感覚が育種には必要だ」と強調する。そこには栽培する農家とつながる思いがある。

 変化する品種にともなって、その「種の力」が発揮されるように育て方や土づくりも同時に検討していく。そうした条件をどのように整えてやれるか、それによって自らの力で変わろうとする作物への手助けのしかたも変わってくる。作物は農家ぬきには生きていけない。栽培を通して人間と品種(作物)が共存していく、その一環としての育種であった。

 バイテクには「品種がすべて」、さらには「遺伝子がすべて」という根強い発想がある。しかし、作物は人間と大地との総体の中で、自らの可能性を秘めて生きていくものである。品種や遺伝子をそれだけ切り離してみるバイテク的発想は、「エリート大学に入りさえすればそれで人生は決まり」といった世の風潮とどこかでつながっている。

農家は品種を守り文化を担う

 品種をつくりだす農家は、品種の守り手でもある。

 バイテク推進にともなって、今課題となっているのが、遺伝子の集収、保存である。バイテクといえども新しく遺伝子そのものをつくりだすことはできないので、各種の品種、系統を種子として保存しておかなければならない。農水省では、農業生物資源研究所に、一五万点に及ぶ貯蔵能力のある作物種子貯蔵庫の設置を計画している。

 品種の画一化が進み、貴重な地方品種が失われていっている現在、種子を国の責任で保存していくことは大切なことである。しかし、このような機械の部品を保存するような発想では豊かな未来は展望できない。

 生物は、あるいは品種は、本来的に変わろうとする性格をもっている。だからこそ各地に独自の品種が生まれたのであり、そのことは今後も変わりはない。品種はたえず多様化されるなかで、つまり創造の中で全体として保存されるものなのである。とすれば、品種の保存の担い手の中心は農家でなければならない。そのためにやらなければならないことはたくさんある。

 それぞれの地方には、その地域に根ざした独自の品種がたくさんある。それは単に安定増収というねらいだけで選ばれてきたわけではない。その素材を生かした独特な食べ方の手法とともに味の追求のもとで選ばれてきた。そこには日常食としての意味あいもあれば、ハレ食としての楽しみもこめられている。つくることと食べることのこの密接な関係のなかで磨きあげられてきた品種、それこそ守らなければならない文化財だ。

 土地柄の多様さにみあったさまざまな個性の品種が生みだされるということは、それだけ人間と作物のつき合いが深まるということである。どれだけ品種が多様化しているかは、その国の文化の質を示している。

 家族においしいホウレンソウをと、毎年タネをとり続けるおばあちゃんこそ、文化の担い手なのである。

(農文協論説委員会)

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