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農文協トップ主張 1985年01月

昭和60年代をどう生きる
「西欧」民主主義から「むら」民主主義へ

目次

◆50年代防げなかった「悪政治」の波
◆「自立」経営の名でメーカー「依存」経営が
◆日本農家の本当の「自立」は自然を生かす「むら」民主主義
◆大を生かし小を殺す「悪政治」はすべての農家を圧迫する
◆「自給」と「兼業」を失って「依存」農家に
◆大も小も、老人も婦人も生きる「むら」民主主義を
◆60年代の「自立」第一歩は「自給」から
◆食べものの変革が、よき60年代を呼ぶ

 昭和五十年代が終わった。いやな一〇年であった。この一〇年、農家経営は苦しくなる一方だった。この一〇年、先ゆき見通しが明るいと思える年は一年もなかった。じわじわ真綿で首を絞められている感じだった。

 五十年代の最後の年、五十九年は天候が幸いして、稲作では史上最高の反収を記録した。外米輸入が始まった年の豊作。天は農家を見捨ててはいなかった。

 五十九年は台風さえ、日本に寄りつかなかった。最近の三〇年間の台風上陸回数は平均年四回弱である。その台風が一回も上陸しなかった稀有の年が五十九年であった。歴史上まれな天の助けを感謝したい。

五十年代防げなかった「悪政治」の波

 昭和五十年代の一〇年間。四年つづきの不作はあったが、農家を困らせたのは天候ではない。「政治」である。米も牛乳も肉もミカンも養蚕も、ありとあらゆる農産物は過剰、過剰、過剰。この過剰は、自然現象でなく「政治」によるものだ。工業製品の輸出をスムーズにするために、農産物の輸入をふやすという国の「政治」の性格から発している。

 農家にとって「政治」は、天候と同じようなもの。「悪天候」をしのぐように「悪政治」をしのいでゆかねばならぬ。ところがそのしのぎ方はどうか。「悪天候」についてはその性格を農家は知り抜いて対処するのだが、「悪政治」について農家はその性格を必ずしも充分に知らず、「悪政治」にのせられて経営の悪化を招いている。

 農業基本法以来の「近代化農政」に農家は馴れていなかった。うかうかと「悪政治」にのせられた農家も少なくない。

 昭和五十年代。借金に苦しむ農家がふえた。「近代的農業」をめざして、補助金・制度資金によって経営規模の急激な拡大をはかった農家で、現在、借金皆無の農家は稀れである。借金に苦しんでいる農家の借金の始まりは例外なく制度資金の借入れ。そして固定負債を整理するについても制度資金を上手に利用する以外に道はない。借金は「政治」に始まり、その救済もまた「政治」に依存せざるを得ない状態である。農家にとって「政治」とは、「天候」以上にその性格をよくわきまえて、対処してゆかねばならない相手なのである。

 今日の「政治」の根本的性格は二つある。一つは工業生産物の輸出をスムーズにするために外国農産物の輸入をふやすという性格。もう一つは農産物をつくるにあたって、できるだけ資材などを買うように農家をしむける性格。この二つが現代政治の根本的性格である。

 もちろん、こんなことを素直にいうはずがない。農家をだますためにいろいろ工夫をする。たとえば「自立経営」の育成である。規模を拡大させる。そのためには作目を専門化させる。その結果として、外から買ってすませられるものは肥料であろうと飼料であろうと、できるだけ買うようにさせる。それが「自立経営」を育成する「政治」の指導方針であった。そのために補助金も出せば、低利資金の融資もしてきたのである。

「自立」経営の名でメーカー「依存」経営が

 さて、それで果たして農家は自立できただろうか。肥料でも飼料でもひたすらメーカー・商社に依存する経営になってしまった。つくるものもひたすら市場の要求に合わせてつくらざるを得なくなった。自分が食うものさえ買わねばならなくなった。「自立」経営とは、メーカー・商社「依存」経営であったのである。

 そして、メーカーや商社が農家に供給する製品の原料は外国産である。メーカー・商社に依存するということは外国に依存することである。つまり「自立」経営というのは外国に農家を「依存」させる経営なのである。

 農家の「自立」とは経営の大小の問題ではない。「自立」と「依存」の境目は大小ではなく、「自給」にこそある。「自給」とは、自分のもつ自然(田や畑など)を自分の家族(人間)のために上手に生かしきることである。

 「自立」とは、人間と人間の関係に基本があるのではない。人間と自然の関係に基本があるのである。大きい農家であろうと小さい農家であろうと、自然(田・畑)を生かしきっているかどうかが、農家が「自立」しているかどうかの境目なのである。自然を生かさず、何もかも買っている農家は大きかろうが小さかろうが「依存」農家である。自然を生かしている農家が「自立」農家である。自然を自由に生かせる農家が自由な農家である。メーカー・市場にがんじがらめにされ自然を生かせない農家は、支配されている従属農家なのである。

 「戦後民主主義」は「西欧」民主主義である。「西欧」民主主義は人間と人間の関係でしか自由や平等をみない。自由や平等の根源が自然と人間の関係にあることを知らない。そこから、「自立」経営農家という発想が生まれた。すなわち、「農業を他産業なみに」といった平等主義のスローガンが流行したが、それを大を生かし、小を殺すことによってなしとげようとした。小を殺して「平等」を生みだそうという「政治」が正義になってしまったのである。

日本農家の本当の「自立」は 自然を生かす「むら」民主主義

 日本の伝統的民主主義は「西欧」民主主義とは根本が違う。「むら」民主主義なのである。「むら」民主主義は大きい家は大きいなりに、小さい家は小さいなりに生きてゆけるように、自然(田・畑・山・川など)を生かしてゆく。「大」は「大」なりに、「小」は「小」なりに生きてゆけるように自然を使う。それが「むら」民主主義の基本である。だから「むら」民主主義は多数決制はとらない。「大」も「小」も皆が自然を上手に生かして生きてゆけるような一致点を見出す工夫を凝らす。だから満場一致制なのである。日本の「むら」がどのくらい巧みに、山や水を「大」に対しても「小」に対しても平等に利用できる仕組みをつくりあげてきたか、むらの古老にたずねてみるがよい。「むら」民主主義によって「小」も生きたし、「大」も生きたのである。この先祖が何百年がかりで創りあげた、「むら」民主主義こそ、現代の矛盾をとく鍵なのである。「自立」経営を育成するという「政治」は、「大」を生かし、「小」を殺す政治である。もちろん「大を生かし小を殺す」などとはいわない。もっとスマートに「農地の流動化の促進」とか「農業の担い手の育成」とかいう。その実は、要するに小さい農家は潰《つぶ》れろ、大きい農家をつくろうということにすぎない。ところが、オレは大きい農家として残ろう、小さな農家は潰れたほうがいい、などと「悪政治」にのる人々も出てくるのである。

大を生かし小を殺す「悪政治」はすべての農家を圧迫する

 「大」を生かし、「小」を殺す「政治」は「大」を生かすことになるだろうか。「政治」の誘導にのって、補助金をもらい、制度資金を借りて大きくなった農家こそが、今、借金地獄で、一番苦しんでいないか。「大」も決して生かされてはいない。

 「政治」のすすめで借金をした農家は数限りもない。しかし、借金による近代化に早々とみきりをつけて、兼業に転進した農家もまた、数限りもない。考えようによっては兼業に転進した農家は案外、政治の性格を見きわめていたのかもしれない。のりかかった「借金」舟を早めにおりたのだともいえる。

 昭和五十年代に全農家のおよそ九割がたは兼業農家になった。その兼業農家の八割かたは第二種兼業農家、つまり、農外収入のほうが農業収入より多い「賃取り」農家なのである。

 昭和三十年代は、「農業収入が主」の農家が七割で「農外収入が主」の農家は三割しかいなかった。ところが昭和五十年代は、この比率が逆転してしまった。「農業収入が主」は三割で、「農外収入が主」は七割になってしまったのである。農家の大部分は農業収入を主としなくなってしまった。

 農業収入を主とする農家が七割から三割に減ったからといって、農家の経営面積がいくらかでもふえたわけではない。へったわけでもない。昭和三十年代に五反未満の農家は四割。五反から一町の農家三割。一町以上の農家三割。この比率は昭和五十年代もいささかも変わっていないのである。

 例えば、今も昔も変わりなく一町歩の水田を耕作していた農家は二十年代は専業農家であった。これが三十年代は第一種兼業農家になった。そして四十年代は第二種兼業農家に変貌しただけのことである。

 変わったのは農家の意識=考え方である。かつてのように農耕に打ちこめなくなってしまった。かつてのように農家らしい暮らし(貧しいという意味ではない)、「自給」ができなくなってしまったのである。

「自給」と「兼業」を失って「依存」農家に

  しかし、兼業になったから「自給」を失ったわけではない。農家というものは、もともと農耕だけやっていたわけではない。すべての農家は「兼業」であった。

 大百姓でも、米は搗いたし俵も編んだ(これ工業)。炭も焼いたし薪も切った(これエネルギー産業)。道普請もしたし、土地改良もやった(これ土木業)。ドブロクもつくったし農産加工もした(これ食品産業)。堆肥もつくれば、草も刈った(これ肥料製造業、飼料製造業)。ありとあらゆる「兼業」があったのだ。

 今は、専業にしろ、一兼にしろ、二兼にしろ、こと農業については、全くの「専業」。農業にまつわるもろもろの「兼業」を一切やらずすべて買う。メーカーと商社に依存する。兼業農家も農業の面では、メーカーと商社に依存する「依存」経営である点で専業農家と変わりはない。

 今や、大部分の農家が「専」たると「兼」たるとを問わず、「大」たると「小」たるとをとわず、「政治」の網にからめとられて「依存」農家になった。

 「兼業」に転進した農家は、「借金」舟からおりて危険を避けはしたが、メーカー・商社への「依存」農家になった点では専業農家と同じである。

 その結果はどうなったか。この間に日本人の食べ物は日本の農家に依存するのではなく、外国の農家に依存するようになった。もう少し詳しくいうと、外国から輸入した農産物をメーカーや商社が加工して国民に供給することになった。食料を握っているのは農家ではなく、商社とメーカーになってしまったのである。

 これは天候のせいではない。「政治」のせいである。先にあげた現代政治の二つの性格のせいなのである。

大も小も、老人も婦人も生きる「むら」民主主義を

 いやな昭和五十年代は終わった。六十年代が始まる。今後一〇年、政治が大きく変わるとは思えない。「政治」は「悪天候」と同じく、外側から農家に襲いかかってくる。農家は「悪天候」に対処すると同じように「悪政治」に対処するしかない。農家が「天候」の性格をしかとわきまえて「天候」に対処するように、「政治」の性格をしかとわきまえて「政治」に対処するしかない。「家」を守るためには「政治」に対処する知恵が必要だ。「天候」に対処する知恵より一層に大切である。

 「政治」は外国農産物の輸入をふやすことと農家が物をより多く買うことをめざしてすすめられる。すすめ方としては、自立経営農家とか中核農家とか担い手とかを育成するといういい方をする。要するに大を生かし、小を殺すことを目標にすすめられるのである。

 むらうちで大きな農家と小さい農家の利害が対立しているわけではない。おじいさんの代に大きい農家になったが孫の時代に小さな農家にもどった、という具合に、農家は大きくもなれば小さくもなる。いずれにしても、むらうちに土地があって、それは動きはしないのである。大きくなるにしろ小さくなるにしろそれはむらうち順ぐりのことなのだ。それを「政治」の力で「農地の流動化」をはかったり「担い手」を育成してくれたりするなどの、よけいなお節介はやめてもらわねばならぬ。

 日本の民主主義=「むら」民主主義の伝統は、むらうちのことについては支配者の介入を許さぬことであった。自立とは、むらうちのことに支配者の介入をゆるさぬことだ。やれ「違反」だ、やれ「生産組織」だ、はては「むら」つくりまで「政治」の指導でやられるのは迷惑な話である。

 農家を真に「自立」させる「政治」は、その反対でなければならない。「政治」のお節介を断わり、「大」も「小」も仲よく生きていける「政治」をむらうちで実現することだ。

 農家というものは企業と違って、大は大なりに、小は小なりにやってゆけるところにいいところがある。大が小の邪魔をする必要もなければ、小は大の足をひっぱる必要もない。お互いに共存共栄できるところにいいところがある。だから「むら」民主主義は「西欧」民主主義と違って「大」「小」農家の満場一致制なのである。決して「西欧」民主主義のように多数決制ではない。

 また農家というのは、老人経営もあれば、婦人経営もある。息子が東京から帰ってくるとなれば、それなりのやりようがある。「むら」民主主義は、それぞれがそれなりに生きてゆく道をつくり出すことであった。

 三世代打ち揃って農業を営もうと、老人夫婦の農業であろうと、婦人と子供だけの農業であろうと、あれはよくて、これはわるいなどということは、「むら」民主主義では決していわないのである。農家というものは経営面積に変わりはなくても、大きくもなければ小さくもなる。自由自在のものであることを「むら」は知っているのである。

 農業を工業と同じにしようと思うから老人や婦人が邪魔になる。老人経営や婦人経営があるから農業が衰退するのではない。老人経営や婦人経営を否定する「政治」があるから農業は衰退するのだ。原因と結果をとり違えてはならぬ。

六十年代の「自立」の第一歩は「自給」から

 大を生かし、小を殺す「西欧」民主主義の「政治」は今後もつづく。この「悪政治」に対して、大も小も生かす「むら」民主主義の政治を実現する第一歩はどこにあるだろうか。それは農家の自立のベース「自給」にある。「自給」の中でも今日一番大事なのは食べ物の「自給」である。それは農家経営「自立」の第一歩である。

 農家の母ちゃんでありながら、ロクに料理も農産加工もできない。自給野菜もつくれない。そんな農家経営というのは「大」にしろ「小」にしろ何かが狂っている。そういう農家は、現在がよくてもいずれ家運が傾く可能性が高い。

 これまでのむらうちの農家の栄枯盛衰をながめてみるがよい。食べ物の「自給」を守り抜いている家に、家運が傾いた家はない。もちろん「自給」だからといって肉や魚も食うなということではない。一切外からのものをとり入れるな、ということではない。

 人間は動物とは違う。そこにある自然のものだけを食べることが自然だとか、「身土不二」だとかいっているのではない。その土地にもとからあるものを土台にし、外からのものも、その土地の風土に合わせて、貯蔵、加工、調理の工夫をする。外からのものも土地のものにしてしまうのである。それが人間の基本的な営みであり、文化である。土地土地に自然に生えているものだけを食べて生きていくのなら、人間を廃業して猿になったらよい。

 素性の定かでない原料をこねまわして、工業的につくられる加工食品、宣伝によっておいしいと思い込まされ、宣伝によって需要がつくられる食べ物を拒否して、それぞれの土地柄にあった素性の知れたうまい食べ物を創り上げてゆく、それが農家なのである。農家は食品メーカーの原料製造業者ではない(近頃、農業を食品原料製造業とまちがえている農業評論家がふえている)。

 同じ大根でも、これは煮物用、これはタクアン用、これは塩漬け用と区別してつくられるのは農家である。作る人と食べる人とが分離していない。貯蔵・加工・調理する人と食べる人も分離していない。つまり、食べ物の専門家は農家なのである。決して料理屋でもなければ、食品メーカーでもない。農家なのである。

 その農家が食べ物のつくり手から、原料製造業者にかわったことから、日本の食事は乱れた。結果として食べ物が原因の病気がふえ、健康保険は大赤字になったのである。

食べものの変革が、よき六十年代を呼ぶ

 日本人の食意識はアメリカの過剰小麦輸出大戦略によってすっかり壊されてしまった。食意識が変えられたから、その食意識に合わせて農耕までが変えられた。

 食意識の正常化のために、農文協は膨大な企画「日本の食生活全集全五〇巻」の刊行を開始した。第一回配本『岩手の食事』は九月に発売されて十月末で三万部売れた。まじめな本としては異常な売れゆきである。ただし売れ先は主として都会だ。農家や農業指導者にはほとんど読まれていない。

 しかし、農文協がこの本を読んでもらいたいのは農家である。農業指導者である。この全集は「食べ物」という形で、農耕のあり方を考えようとしているのである。日本の農家が、どのくらい、それぞれの土地柄(自然)を生かし、どれほどすぐれた、多様な「食文化」を形成してきたか。そのことを明らかにし、その伝統を受け継ぎ、発展させることを願って刊行した。

 農家が先祖代々、知恵を絞り築き上げた農家の誇るべき文化はそれぞれの地域の独自の食べ物に見事に結実している。この先祖の知恵を引き継ぎ、発展させるところから、農家の自立は生まれるだろう。

 「政治」をあてにするのではなく、まずはわが家の食事を変革すること。それが、経営自立の第一歩である。大きい農家も小さい農家もない。自然を「所有」している農家は、自分の自然を家族のために生かす。その工夫から自立の道を歩み始めるべきである。そして、農村の非農家、さらに、農村を背景にする小都市住民をまきこんでゆく、食を変革する運動。この運動が発展するか否かに、六十年代が、よき時代になるか、五十年代から引き続いてあしき時代になるかのわかれ道がある。

 昭和五十九年大豊作。天は農家を見捨てなかった。しかし、天は自らを助けるものしか、助けてはくれない。

(農文協論説委員会)

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