「総合的な時間」の総合誌
農文協
食農教育  
農文協食農教育2007年7月号
 
水管橋 最上川から取水した送水管が須川を渡るための橋。長さは東京タワーとほぼ同じ330mある。ふだんは人が通れないが、「田んぼの水・探検隊」の日は子どもたちがドキドキしながら渡った

食農教育 No.56 2007年7月号より

田んぼの水・探検隊

山形県天童市・三郷堰土地改良区の実践

文 編集部

●用水と人とのかかわりが薄れていく

 田んぼの水は用水路をとおってやってくる。そしてその用水路はみんなで維持管理しないと保てない。昔はそれが当たり前のことだった。用水路の泥上げや草刈りはむら総出の仕事であり、その共同作業はむらの結束を高める役割も果たしていた。

 時代は変わり、田んぼや用水と地域の人々との関係は疎遠になってきた。農業用水を保持し、水利を調整するのは土地改良区の役割だが、土地改良区事務所には、いま地域の人から「水がこないからなんとかしてくれ」という電話ならまだしも、「水路にごみがあるからとってくれないか」という電話までかかるようになってきた。

 そんななか、土地改良区(水土里ネット)が中心になって、地域の人々と水のつながりを再構築しようという動きが全国で生まれている。山形県天童市の三郷堰土地改良区もそのひとつだ。

●すべて揚水に頼る地域

 三郷堰土地改良区は村山盆地の中央部、最上川と須川の合流点に開けた平坦な水田地帯である。現在水田面積は約五〇〇ha、組合員数は約一〇〇〇名である。

 最上川という大河のほとりにある田んぼなら水には困らないようなものだが、水田が川より高いところにあるため、大正時代のはじめまでは近くの川から水をとることができなかった。そこで約一〇km東の立谷川から取水する山寺堰を利用していたが、堰の一番下流にあるため、しばしば水不足に悩まされてきた。大正六年から八年にかけての旱魃を経て、大正九年に旧高擶村、蔵増村、寺津村の三郷が共同して、最上川からの揚水と耕地整理を目的にした三郷堰耕地整理組合を設立。戦後は土地改良法により土地改良区に改組された。現在では最上川に大規模な頭首工がつくられ、圃場整備事業も完了して、土地改良区は維持・管理の段階に入っている。

 こうした歴史から、三郷堰には大規模な水利施設が多く、農業用水はすべて揚水で自然水はまったくない。
 関係する六集落の人口は約一九〇〇名で高齢化と混住化がすすんでいる。組合員のなかでも、集落外からの入り作が四分の一を占めるうえに、集落内には果樹専業農家や兼業農家などで水田にかかわらない家もある。
 そもそもこの地区は集村で、居住区である集落と田んぼがくっきり分かれている。田んぼと地域住民の関係が疎遠になりがちなのである。

 高齢化、混住化がすすみ、農家でも世代交代がすすむなかで、若い世代では草刈機を使ったことのない人、草刈鎌を手にしたことのない人もでてきた。身の回りの水路、道路は自分たちで手を入れる。自分たちでできることは自分たちでやる。用水は地域住民の共有財産であることを理解してもらうために、土地改良区がアクションを起こす必要が出てきたのである。

 「山形弁で『……さんない』っていったら『……できない』って意味。これと数字の三をかけて言えば、土地改良区の『さんない』(三無い)は金がない、人が居ない、技術がない。三郷堰の未来のためにはこの三つを何とかしなければいけないんですね」と話すのは、三郷堰土地改良区事務局長の佐藤功さん。

 三つのなかで基本になるのは「人」の問題。そこで、地域住民・市民のなかに三郷堰のサポーターを育てようと考えた。なかでも次代を担う子どもたちに水の大切さを伝えることは活動の要になると考えた。

中山揚水機場 頭首工で取水した水を吸水槽にためて、三郷堰地区までの長い区間(3km)をポンプで送る施設。500mm口径のポンプが2台あり、毎秒1.135tの水を送水する。三郷堰の水利施設のいわば心臓部にあたる。「あっ、水の音が聞こえる!」
頭首工 最上川をせき止めて、川の水を農業用水として取り入れる施設。川の水をせき止めるための2つのゲートがある。除塵機や魚道も設けられている

●茶わん一杯の米に必要な水の量は?

 三郷堰土地改良区が「21世紀土地改良区創造運動」で地元の小学校と「田んぼの水・探検隊」に取り組んだのは平成十五年のこと。佐藤さんは、「小学四年生に田んぼの水の話をしてくれないか」ともちかけられた。ちょうどこの年、自分の娘さんが通う蔵増小学校のPTA役員を務めていたことから、単に「子どもたちに頭首工の案内をすればいい」と軽く引き受けたが、そう簡単でないことに気づいた。相手は自分の娘と同じ小学四年生である。「お父さん、私は小さいときから頭首工やポンプを見て知ってるけど、みんなは言葉も知らないよ」という娘の言葉に不安を感じた。専門用語は使えない。どうやって田んぼの水に関心をもってもらうか。

 佐藤さんは一・五リットルのペットボトルを手にして、人間が一日に飲む水は二〜三リットル(食物として摂取する量もすべて含む)、ペットボトル二本分。それでは「茶わん一杯分の米を育てるにはどれだけの水が必要か」と聞いた。「茶わん一杯約六〇グラム、三〇〇〇粒のお米を育てるには約一八リットル、ペットボトル一二本分の水が必要とする」と話すと、子どもたちは「そんなにたくさんの水が要るのか」と驚く。そこで「田んぼの水がどこからくるか探検しようね」と出発した。「田んぼの水・探検隊」のスタートである。

●米づくりから「水のルーツ」へ

蔵田から収穫し、天日で干した「蔵米」を文化祭で販売

 翌年の平成十六年には「探検隊」の活動が蔵増小学校五年生のお米の総合学習とつながった。蔵増小学校には約八・五aの学校田があり、毎年五年生が米づくりに取り組んでいる。担任の東海林仁先生は漠然と田植え、稲刈りをする学習にはしたくない、と考え、「田んぼがあるから『田んぼをする』でいいの?」という問いかけから学習をスタートした。子どもたちは自ら総合学習を田んぼですすめることを決め、それまで名前のなかった学校田に『蔵田(くらでん)』と名付け、児童会総会に提案した。田植え前にはスコップや三本鍬で耕してみたが、歯が立たず、機械の仕事力を実感した。さて、ではどうやって水に関心をもたせるか。

 六月中旬、蔵田の水の出口に置いていた石が動かされ、水位が下がる事件が発生した。稲の葉にも薄茶色のポツポツが発生。稲の成長にとって水管理がいかに大切かを子どもたちは再認識することになった。

 そこで子どもたちは佐藤さんとともに『蔵田の水のルーツをさがしに』でかけた。子どもたちははじめ、近くを流れる倉津川の水が源ではないかと予想していた。しかし、蔵田の水の本当のルーツは小学校から一〇キロ先の最上川の頭首工だった。通学の途中に目にしていたポンプ小屋(第三揚水機場)や用水路が、蔵田やこの地域の田んぼに水を安定的に供給するうえで大きな役割を果たしていたことがわかった。水管橋から須川と最上川の合流点付近をながめたときに、ごみや家庭排水を見たことから、水をきれいに保つことの大切さも学んだ。

 この年、蔵田は史上第二位の五九六・一キロの米を収穫、文化祭では販売もした。さらに収穫までの歩みを「私たちの蔵田物語」という二幕七場の劇にまとめた。稲わらは「わらない名人」に習ってない、土俵たわらもつくった。
 「田んぼの水・探検隊」の活動は地元のもうひとつの小学校である寺津小学校でも、総合的な学習の時間の活動として定着している。

●効率化のなかで失われた原風景を求めて

多くの市民が参加する「ふれ愛農園」は水管橋のそばにある

 三郷堰土地改良区を中心とした水と人のかかわりを見直す活動は、地区住民や市民を巻き込んだ活動に広がっている。

 水利施設をめぐる「三郷堰・水の駅スタンプラリー」、関係者が一堂に会して頭首工周辺のごみ拾いや環境美化を行なう「ふれんどしっぷ水辺の郷サミット」。平成十六年には「水土里の郷・さんごうぜき地域振興研究会」を立ち上げ、一般市民が参加する「ふれ愛農園」での野菜づくりや「花いっぱい運動」など。

 「考えてみると、大正時代の耕地整理で先人が残したものを、昭和五十年代の圃場整備では稲作生産の効率が悪いからという理由でみんななくしてきた。一本杉、桜の木、祠、地蔵様、魚とりができる石積みの水路とか……。それがここに住んでいる人たちにとって、田んぼや水利施設がいまひとつ自分たちのものと思えない『見えない壁』をつくっていたのですね。いま地域の人々と用水をともに守っていこうという活動のなかで、田んぼの中の道でそぞろ歩きができるようにしたい。それが私たちの夢ですね」(佐藤さん)

 それは、子どもたちの総合学習から親世代の人々が学んだ、地域づくりの手法であり、それこそが「21世紀土地改良区創造運動」や今年から始まった「農地・水・環境保全向上運動」の本質なのかもしれない。

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