食農教育 No.53 2007年3月号より
稲荷の祠。人とキツネがなかよしだったころの象徴だ作品の背景となる農村空間と心象世界
「ごんぎつね」がいたころ
東京農業大学客員教授 守山弘
新美南吉の「ごんぎつね」は小学校四年国語の定番教材。この作品の舞台となった農村はどんな景観でどんな生活が営まれていたのか。農村環境の研究者である守山弘さんに教えていただいた。【編集部】
ごんがいたころの村のようす
ごんぎつねは村はずれに一匹で棲む子ギツネです。きっと前の年に生まれたおすなのでしょう。キツネの子どもは大きくなったあと、めすの子どもは母親のもとに残り、つぎの年に母親が生んだ子どもの世話をします。こうしたキツネをヘルパーと呼びます。そしておすの子どもは秋に親もとを離れ、一匹で生活します。
キツネは開けた草地が好きです。ごんが棲んでいる場所のまわりがそんな草地であることは、中山さまのおしろの下を通って、少し行ったあたりで、マツムシが鳴いていることからわかります(※注)。マツムシはススキがまばらに生えた草地に棲む虫です。
※「ごんぎつね」のさまざまな場面がどこになるか、子どもたちと想像してみよう イラスト・立花千栄子ごんが棲んでいる村はずれは人があまり行かない場所です。日本は雨が多いので、人があまり行かない場所はすぐに森になってしまいます。それなのに村はずれの場所が草地になっていたのは、そこが牛や馬の餌となる草を刈り取る場所だったからです。
昔は田畑をたがやしたり、荷物をはこんだりするはたらきを牛や馬にさせていたので、どの村にも牛や馬がたくさん飼われていました。牛や馬を一頭飼うには約一ヘクタールの草地が必要です。また昔はススキで屋根を葺いていたので、そのためのススキ草地も必要でした。牛馬に食べさせるまぐさや屋根葺用のススキを取るため、草地は毎年春先に野焼きをします。そのときに家が火事にならないよう、草地は村はずれにつくったのです。
牛や馬は小屋で飼い、毎日草を刈ってきて与えます。食べ残しの草は踏みつけられて糞と混ざるので、とてもよいこやしになります。このこやしを秋まで積んでおき、麦や菜種の肥料にしました。兵十の村でも麦や菜種を作っていたことは、兵十が麦をといでいたことや菜種がらがほしてあることからわかります。
菜種がらは種子が熟したアブラナから種子(菜種)をはたき落としたあとの茎の部分で、燃えやすいので、かまどに火をおこすときのたきつけにしました。菜種は町に売られ、菜種から絞った油は行灯のあかりにされました。
ごんが棲む村の墓地の近くにはヒガンバナが赤いきれのように咲き続いています。きっとこの場所は田んぼの土手で、ヒガンバナはネズミに穴を掘らせないよう植えたものでしょう。
土手に穴を掘るネズミはハタネズミです。ハタネズミは畑にも穴を掘り、いもなどを食べる悪さをしますが、田んぼの土手に穴を開け、田んぼの水を空っぽにしてしまうことが一番の悪さです。そこで昔はハタネズミが穴を開けないように田んぼの土手にヒガンバナを植えました。
ハタネズミは歯でかじって穴を掘ります。そのとき土手にヒガンバナが植えられていたら、ハタネズミはその球根をかじってしまいます。ヒガンバナの球根には毒があるので、それをかじったネズミは死んでしまうこともあるのです。
田んぼは水を必要としますから、そのわきには水路があります。兵十がはりきりあみをかけた小川はそんな水路です。水路は川から水を引いていたり出口が川とつながったりしているので、はや(ウグイ)やウナギなど、いろいろな魚が川から入ってきます。水路は、水をできるだけ多くの田んぼに入れられるよう、等高線にそって掘られていますので、流れはゆるやかです。そこで三日もの雨で水がどっとましているようなときでも、はりきりあみをかけることができるのです。
村や田んぼのまわりにはクヌギやコナラ、クリなどが生えた林もあります。木の若葉を枝ごと刈り取ってきて、田植え前の田んぼにこやしとして敷込むためです。昔話の桃太郎のおじいさんは山へしば刈りに行きますね。これはそのようすをえがいたものです。このこやしを刈敷といい、刈敷を取るためには田んぼの数倍の面積の林が必要でした。
人とキツネがなかよしだったころ
ごんはいたずらギツネです。畑に入っていもを掘り散らかすのは、いも畑に穴を開けたハタネズミを掘り出すためでしょう。キツネは魚も大好きです。きっとごんも魚の入ったびくを見つけ、それをひっくりかえしてウナギをつかまえ、食べるために山に持ちかえったのでしょう。そしてそのとき、びくからこぼれ落ちた魚たちは、とびはねてもとの小川にもどったのでしょう。
キツネはいまでも悪さをします。メロンやトウモロコシを畑から盗み、山に運んでいって食べるのです。林の中にメロンやトウモロコシの食べかすがちらばっていたら、それはキツネが食べた跡です。
でも昔はキツネを大切にしていました。それはキツネが稲荷神の使いとして里に降りてきて、ネズミを捕ってくれるからです。キツネが捕ってくれるのは、畑でいもを掘り田んぼの土手に穴を開けるハタネズミです。キツネはまた家のなかに入ってくるネズミ(ハツカネズミなど)も捕ってくれます。カイコを飼っていた時代、家のなかに入るネズミは、カイコを食べるので、きらわれ者でした。そこでこのネズミの害をさけるため、人びとはキツネの力を借りました。
稲荷の祠に陶器のキツネがたくさんお供えしてあるのを見たことがありませんか。それらは昔、カイコを飼っていた時代のネズミよけの名残です。そのころはこのキツネの焼き物を稲荷祠から借りてきてカイコを飼う部屋の四隅に置き、カイコを飼い終わったとき倍にして返していました。また富山県の山のほうの村では、カイコを飼うとき、稲荷祠のまわりに置いてある小石を借りてきてネズミよけにしていました。そしてここでもカイコを飼い終わったとき、小石を倍にして返していました。だから稲荷祠のキツネの焼き物は、稲荷祠のまわりに置いてある小石が後の時代に変化したものと考えられます。
ではどうして稲荷祠のまわりに置いてある小石やキツネの焼き物がネズミよけになるのでしょう。その理由はキツネのおすが自分のなわばりを示すため、おす犬のように尿でにおいづけをするからです。おす犬は電柱のように目立つものに尿をかけます。キツネのおすも稲荷祠など、目立つものに尿をかけます。そこで稲荷祠のまわりにある小石にはいつもキツネの尿がかかっていることになります。この小石を置くと、ネズミはそのにおいをかいで、キツネがいると思ってカイコを飼う部屋に入ってこないのです。
ネズミのなかにはキツネのこわさを知らないものもいます。そんなネズミはキツネのにおいをこわがらないので、稲荷祠のまわりにある小石はねずみよけにはならないはずです。でも心配いりません。村の人たちは稲荷祠にあぶらあげをお供えします。キツネはあぶらあげが大好きなので、それを食べに村のなかを歩き回ります。その結果、キツネのにおいをこわがらないネズミが出たときはすぐにキツネに食べられ、キツネのにおいをこわがるネズミだけが生き残ることになるからです。
「ごんぎつね」はそんな時代、人とキツネがなかよしだったころのお話です。
(※注)ごんのすみかについて、「ごんぎつね」の原文では「しだのしげった森の中に、あなを掘って住んでいました」と記されています。生態的に言えば、シダのしげるような湿ったところにキツネがすみかをつくるとは考えにくいのですが、このシダがコシダということも考えられます。コシダはアカマツ林の林縁などや開けた林など、乾燥地でもよく群生するからです。
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